公園通り
2023/12/27 昨日
渋谷で『ファースト・カウ』を見る。冒頭から前半にかけて暗い画面が続いたこともあって少しうつらうつらしたが、そこから目が覚めていくにつれ画面の世界に引き込まれていった。劇的なことが起きないわけではないが、誇張された形では表れてこないのでともすると地味な印象にもなりかねないのだが、画面に映る人や物から時間の流れ方まで在りし日のままという感じで、当時のことを見てきたわけでもないのに当時の空気そのままだと言いたくなるような不思議な感覚に陥った。そんなふうに舞台の作り方という土台がきちんとしている映画では、そのほかに上手なセリフや見事な筋立てというのも舞台背景構築の見事さに引けを取らず、これは創作物なんだと思って安心できるということがあるのだが、ファーストカウでは物語としてのセリフや筋立ての妙を抑制することで、ある人物がある時代に生きているということの実在感を最大限汲み上げるよう努めていて、それに成功していた。この映画はウィリアム・ブレイクの「鳥は巣、蜘蛛は網、人は友情」というエピグラフから、冒頭で犬の散歩をしている女性が横並びに並んだ二体の人骨を発見するところから始まる。最初に見せられたものはそれを見る時点では単なる事実であり、それが映されるのはなぜかという謎でしかないのだが、映画が先にすすむにつれ、自然とその意味がつかめるようにできている。そういう演出は冒頭のほかにもところどころにあって、ドーナツを買うための行列に並んでいたのに割り込みにあって自分の順番の直前でラインカットにあう男の心情が、その場面のだいぶあとになってから、それ以外には何も描写されていないのにわかるような気がしたりする。心情を推測したり、先に提示された事実からその後の展開を推し測るという見る側の能力を映画の演出に組み込んでいる。しかも伏線という言われ方をするやり方とは何かが違うように感じられるやり方でそれを提示する。つまり、押し付けるのとは真逆で、それが事実として確定するというところにさえ届かせない力加減で、場合によってはじれったく思われたり、白黒つけてほしいという願望に応えないようなふわふわした手触りになっていて、どこまでいっても見る側で勝手に慮るという域を出ないように、いわば現実の事実に固着させないように固定されている。
この映画は映画らしいパーツの組み合わせでできている映画ではない。
たとえばこの映画には会話するシーンというのもない。何かの作業をしたり、森の中を移動したりするシーンに会話が付属してくるというかたちになっている。ある会話シーンにおける特定の会話が映画全体を意味づけるという設計になっていない。彼らはそのとき会話をしている彼ら自身にとって興味のあるつまらないことしか言わないし、冗談にしても、それがれっきとした冗談で、そのタイミングで言うという以上に面白い内容のものはない。彼らはすごく普通のことをやったり喋ったりしている。それがこの映画の特徴的なところだ。百年以上も前の遠い国の普通を見られるというのはそれが普通らしければ普通らしいほど異常なことだからだ。
そんなふうに迂遠な形で、いわゆる映画らしさを排除しながらすすんでいくのだが、見終わったあと全体の印象としてはこれ以上ないほど映画らしい映画だという感触がある。主にふたりの登場人物を、いわゆる「物語」ではないものを見せられていたはずなのに、ここしかないという地点できっぱり終わることによって、一瞬にして単なる生活が物語に切り替わる。その鮮やかさとエンドクレジットが映画らしさを思わせるのだ。スクリーンに映された世界に入り込む度合いと、そこから現実に引き戻されるスピードが、座ったままでする超高速移動がその体験を映画鑑賞にするといっていい。
また、この映画に直接関係あることなのか不明だが、見ている最中に自分の身体のことを考えた。自分の身体のことを考えると、やがてそれが病みつき、いつかは生命を失うということに考えが及ぶ。今はこうして普通にある身体、が、そこまで遠くない未来には形を保てずに消滅する運命にあるという事実に考えが及ぶ。昨日があって明日がある、今の自分には当然と思えることが当然でも当たり前でもなくなる、しかもそっちが確実だということに、強烈な違和感をおぼえる。これが起こっているとき、かなり最低な気分だ。事実に感覚がついていかない。いくらでも無為に過ごしていたいのに、事実上それが許されていないことに反発するしかない。無意味でもいちいち反発するのはそうすることでしか気を反らせないからだ。
映画のクライマックスで主人公とその友人は追われる立場になり、離れ離れになる。その後、ふたりが再会するようなことがあれば、そのときこそこの映画は最期を迎えることになるという気がなぜかする。だからふたりはこのまま散り散りになって再会しなければいいのにと思ってみていたが、予想通り、ふたりは再会を果たす。これはもうだめだと思う。しかし、冒頭のあの骨はこのふたりとは無関係ということでもいいではないかという気がしてくる。それらを結びつけているのはそれらを見ている自分にすぎない。ふたつの事実をつなげるのも自由だが、それらをつなげないのも同様に自由でこちらの勝手だ。
その儚い自由を握りしめて自分のなかの無理を通したいと念じているまさにその最中に映画が終わってくれた。かなり分のわるい望み薄な希望だが、それにしてもこれは映画だという見方に固執しなければじゅうぶんに逃げ道は続くという意味で、残酷なようでやさしい結末だと自分には感じられた。それは自分が自分を追い詰めないように物事を見ていたいと考える姿勢とセットになっている。現実の事実に固着させないように固定されているあり方というのがこの映画の特徴であり、自分がこの映画のことを好きな理由だ。映画を閉じることで彼らの生活を閉じているようでいて実際には閉じていないというのは無理のある映画の見方だろうか。
自分にはそうは思われない。昨日があって明日があるというのこそが当たり前で、当然いつかはそれが終わりになるというのが今の自分にはそう思われないのと同じことだ。
映画終わりに渋谷のバズストアに行く。かなり久しぶりに来たが閉店時間間際だったのでゆっくり見られず。ファミマの無糖レモンチューハイを買って歩きながら飲み、井の頭線で下北に戻る。鳥貴族に向かう途中で言うべきではないことを口走り不愉快な思いをさせてしまった。何らかの事情で心に余裕のないときによくないことを口走る傾向が自分にはある。親しき仲にも礼儀ありということをきっちり意識していなければならない。鳥貴族で飲むということはつねに楽しいものであらねばならない。
増長した感覚というのは自分にとって大切なものだから扱いに注意して伸ばし増やさなければならない。そのためにはやはり扱いに注意しなければならない。言語感覚やその語彙の少なさについては自信のあるところではあるが、現状で満足ということは言えないから自他の認識の差はおいておいてもいずれにせよ向上させていかなければならない。ならない×4。
2023/12/28 今日
在宅バイト。午前中にデータライフサイクルなどの勉強をする。いよいよSQLとかスプレッドシートとか具体的な操作に関する内容に入る。
昼すぎから降りてきたタスクの消化に入る。ボールを投げたり打ち返したりしているうちに気がつけば定時。しかしさすがにザ行なしで退勤しスタバに行く。