20231215

日記262

悲喜こもごも

2023/12/14 昨日
スタバからの帰りにファミマで巻きずしセットをふたつ買って帰り、家でもそもそ食べる。納豆巻きはともかく、鉄火巻の方は、これどういう食べ物? と首をひねってしまうような味だった。ファミマの生もの系のクオリティが低いことはもともと知っていたが今や底をついているのではないか。生ハムなんかはとくに何を食べているのかわからない未来食の趣があって食べたことのない人には逆に一回勧めたいレベル。川瀬名人が喋る回の鬼越トマホークチャンネルを見る。あまりの長尺に60分すぎたところで同居人は寝落ちていった。酒も飲まずに23時すぎにはねむる。

2023/12/15 今日
在宅バイト。喉の痛みも大したことなくなり、熱も下がり、やけに動きがのそのそするように感じられることもなくなったのでほぼ完全回復といっていい。ただその回復した状態で何をするかといえば勝手に溜まっていく仕事の消化なんだからやるせない。仕事について一遍どういうことをしているのか日記にでもまとめてみようかとも思うが、いざ取り掛かろうとすると気が重くてやる気にならない。せっかく嫌な労働を終えたのになぜ貴重な夜の時間にそのことを考えなければならないのだという当然の不満が噴出するし、自分はそれを抑えるすべを知らない。まあ、ここを去るときにでもまとめてみよう。誰でもできる仕事だから自分にもできているわけだが、やっていると同じことでも自分よりうまくやる人もまずくやる人もいるんだろうなというのがなんとなくわかる。ただ自分より手短にやる人はいないのではないかという気はする。いや、全然いるか。手短に済ませる人がそれだろう。自分の場合済んでいないのに無理して手短にしている。
それでもザ行一時間。終わってスタバにいく。友人からの誘いを体調のせいにして断っておきながら彼女からの飲みの誘いにOKを出したのはラインで誘われた時間帯の違いにもよる。とりあえずスタバにさえ来ればその一日のやるべきことを終えた気持ちになれるのだ。そこではじめて「飲みに行きたい」という潜在意識を解放することができる。
一日を生きると一日分言いたいことが溜まる。生きるとそれだけで澱のように言いたいことが溜まっていくから、どこかのタイミングでそれを放流しないといけない。スタバに来ていると友人相手のお喋りでそれをしている人を多く見かける。自分の場合はこの日記がある。飲み屋に行くとそこにいる客はすべてそれと同じことをしている。
澱のように言いたいことが溜まっていくというのはいかにも陳腐な言い回しだが、言いたいことというのはそれを素直に取り出すことができればべつに高尚なことではない。ただ、文章を書くうちには、陳腐な言い回しだったり、しっくりくる表現だったりという区別が生まれるものだし、その辺りについて間違いなく言いたいとつい意気込んでしまうものだから、言いたいことがだんだん高みへとズレていく。どれだけ言えたかではなく、どれだけ高くズラせたかに書き手の関心は移り、いつの間にか当初はじめたのとはべつのスポーツで汗を流している。気力・体力・自由時間を所定のやり方で消費することで、満足して今日一日を終えることができるのだ。
言いたいこと、何かを言いたい気分があってそれに沿って何か言うこと、両者に厳密な区別をつける必要はないが、自分がやりたいのは明らかに後者で、そのとき言いたいことというのがもしあったとすればむしろできるだけ遠ざけようとしている。言いたいからすぐ言うというやり方では表現できない迂遠な道筋というのが見えているからだ。その道筋に沿うためにはそこから背を向けてその周囲をぐるぐる回りながら、しかもだんだん中心から離れていくというやり方が効果的ではないかと考えている。螺旋軌道をもって逆に中心を浮かび上がらせるということをやろうとしているのだと思う。それから、観念的にはおそらくただそれだけのことをべつのやり方で表現する方法はないかと考えているところで、それにはさしあたって小説が必要なのだと思っている(だから小説を書いている)。本来であれば優先されるべくもない何かを逆に優先してみたいという思いはどうやっても去らないし、その目的(本来であれば優先されるべくもない何かが逆に優先させること)の達成を願っているわけでもないから、目的がただの目的のまま向こうへ後退していくのを追いかけていることにしている。変わりたい・変えたいという純粋な感情だけがある。変わった先の何かになりたいわけではなく、ただ変わりたい。現状に不満があるからというような明確な動機があるわけではなく、ただ変えたい。それが実際に可能であってほしいとは思っていないが、変われればいいなと思っている。
きれいな模様のことをいくら言葉で説明してみてもきれいだと思えないということはあると思う。言葉では説明できないきれいな模様があるうちはまだ小説を書く余地は残っているはずだ。小説を書くというのは模様を描くということに近く、もっとも直接的なやり方のようで厳密に迂遠なアプローチでそれに迫ることができる数少ない(自分にとっては唯一の)方法なのではないかと思う。
というようなことを水曜日のダウンタウンの「スベり-1グランプリ」を見て考えた。

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