人待ち
2023/12/08 昨日
在宅バイト。わりと好調だったが気力と体力をきっちり消費した。ザ行は一時間弱で済んだが妙に疲れてしまって外に出る元気がなかったのでちょっと寝ようと思ったが、結局パワーナップを取ることもできずベッドに寝そべるだけで時間が過ぎ、スタバに行くこともなかった。せっかくの金曜日の夜を完全に無為に過ごしたわけだ。これは仕事の忙しさとか冬の寒さとかいろいろ言おうと思えば言えるが、突き詰めれば体力の無さに起因するものだ。なんとかしないといけない。と言いつつ、前日にはできたラジオ体操さえできていなかった。
家から一歩も出ないで、ダイエーで買ってきてもらった二割引のカツ丼を食べる。こんな一日でもカツ丼がおいしいのはおいしい。スコット・ピルグリムのアニメを最終話まで見る。若いスコット、年老いたスコット、もっと年老いたスコットが出てくる。自分の今の年齢に近いのは年老いたスコットなのだが、そういう見方をしようという気は起こらない。そういう見方というのは若い頃を人生の一時代を振り返るように見るような見方だ。
とはいえこのシリーズにおいても、年老いたスコットが若いスコットに対してそういう見方をしているわけではなかった。このシリーズ全体に通底する良いスタンスだ。年老いたスコットも年老いたスコットなりの「今の問題」を抱えていて、当時の自分を矯正することで遡及的に現在を改良しようとするのに充分なほど若いスコットに構い付けない。若い頃にはいろんな問題がある、年老いてもべつの問題があるってだけの話なんだけど、物語を作ろうとするときにはなぜかそんな当たり前のことが見失われることが多い。分別のある、別人のように成長した「年老いた自分」が未来にいるなんて想像すること自体が、もしそんなことをしていればだが、若い人間が引き寄せられがちな妄想ではないか。
「自分の通ってきた時代のせいにするのは間違っている。黒歴史というのは冗談で言い始められたんだと思うが、口にされるうちにギャグではなく共通言語になってしまっているように思う。あの時代の自分はおかしかった、なんていうのは間違っているうえに失礼なことだ。あの行動は間違っていたと、具体的なひとつひとつの行動について反省する手間を惜しんで「青い時代」のせいにするのは中年のみっともない感受性の鈍磨だ。誰かに迷惑をかけたりそれ以上のことをしたのは、当たり前だが「その年代の自分」なんかではなく自分だ。過去から切り離されて今の自分があるわけではない。こんなのは当然のことだが、それでも、感じることを前面に出すなら過去の自分と今の自分はものすごく切れているように感じられるというのも主観のうえでは明らかなことだ。そんなところに棹さして流されるのを危ぶむというのが分別ある大人のすることであって、やすやすと流されながら「黒歴史おつ」とか、過去の自分自身にとっても意味不明のことをつぶやいている場合ではない。若さとか若い頃を理由にして免責されようとする人間ほど年相応という言葉を使いたがる傾向があるように思われる。昔ほど感覚が鋭敏ではなくなったからその分ラクになったというのは事実なのだろうが、それをまたぞろ行動しない言い訳に使い出すなんていうのは若さのせいでも中年という年代のせいでもない。くだらないお前自身の取るに足らない問題だ」と中指を突き立てるようなスタンスの持つポジティブな側面が爽やかに描かれているアニメで面白かった。
2023/12/09 今日
九時前に起きてトーストを食ったあとスタバに行く。『数の値打ち』を読んで日記を書く。家の近くで日記のWSがあるというのをツイッターで知る。日記のワークショップというのはどういうものなのだろう。日記を書くというのにもノウハウがあってそれを共有するということなのだろうか。
今自分も日記を書いているわけだが、三月頃からほとんど毎日書いていて、たぶん人生のうちでもっとも日記が続いている時期だ。だから日記を書き続けることについては今がもっとも一家言ある時期でもある。
始めるときには配置する場所が大切で、続けるにはフォーマットが大切だ。配置場所についてはインターネットで公開するか、公開しないかという二択が大きい。人に見せる用の文書ではないと自分に言い聞かせながらインターネットで公開していたり、たまにツイッターにも日記書いたよと投稿しているのは、完全に無矛盾とはいえないことだが、第三者にもアクセスできる場所に文章を置くということ自体に、自分が書くことへのちょうどいい緊張感だったり刺激をおよぼす効果があるのでそれを利用している感じだ。じつは文章を書くこと自体に他者性の刺激はあるのだけど、それだけでは弱いから公開している。文章を書くこと自体の刺激で行動できるのであればそうしたほうが良いというのが自分の意見だ。
続けるためのフォーマットについては各自の工夫をこらす部分だと思うが、自分のやってみたことのなかでもっとも良かったのはタイトルに日付を入れず、日記をナンバリングすることだ。これにより日記の数字はカウントアップしていくわけだが、それだけで前回の日記から今回確実に良くなる部分ができるということになる。日記というのは続ければ続けるほど良いものだから、必然大きい数字ほど良いでしょうというわけだ。しかもこのやり方だと、もしかなり日付が空いてしまうようなことがあっても(そんなことはざらにある)、途中の数字からまた続きを積むことができる。それによって再開するのもやりやすいし、再開についても動機づけられやすい気がする。
あとノウハウとは関係ないところだが、日記を続けられるためにもっとも大切なのは平穏無事な毎日だ。三月からの自分の生活を振り返ると、退屈なほどの繰り返しが目につく。もっと日記を書いている暇なんかないほど種々多様なよしなしごとが起こり続ければ良いのにと、とくにそれに対しての方向づけを自分にも周囲にもおこなってもいない状況で棚ぼたを狙い続けている。それでずるずる何も起こらないままほとんど毎日スタバに通い詰めてできたのがこれらの日記だ。あんまりよくないことだと思うが、それでも日記が260を数えられたことだけは、その内容などとは関係ないところでまあ良かったと思っていられる。同じように暮らしながら日記を書かなかったバージョンの自分もいたと思うし、その自分はあまり離れたところにおらず、わりに想像しやすい。そいつよりはマシだったと思える。
ただ、退屈だけが根本的に新しい行動を連れてくるきっかけになるというのも経験として知っているので、日記を書いていることによる安定について、あまり続くようだと単純なカウントアップを喜んでいるわけにもいかない。
それに、小説を書くための助走にするために書いていた日記だったが、バイトが小忙しくなって体力を持っていかれることで、助走部分だけでへたばってしまって肝心の小説まで気が向かないということがここ二ヶ月ぐらい続いている。夏期間よりも冬期間のほうが捗るはずなのにこの体たらくでは来年の完成も危ぶまれる。何か方策を考えないと……。
さいごに続けて日記を書くことの効果をひとつ。
それなりの期間続けて何かを書いていると、いつも同じことを言っているなということが出てくる。もうすこし短く期間を絞った場合でも、このときはこのことについて重点的に考えていたのだなということがわかったりする。書きながらまた同じことを書いている気がすると思うこともしばしばだ。そのぐらい曖昧な感覚で、頭を動かすというよりも指を動かすつもりでばーっと書くのが、やっぱり長く続くやり方なのではないか。そして、どんな形であれ内容であれ、続けて日記を書いていると、日記を書き続けるということがやりやすくなっていく。