20231129

映画『首』を見た

普段と違うことをしてみようと思ったら、スタバに入っていつものように日記を書くのではなく、映画の感想を書き始めればいい。最近の自分はアフターファイブのルーチンが確立されてきていて、スタバに行っていつものようにミルク入りのドリップコーヒーを注文し、読んでいる本を広げるか、このようにマックブックを広げて日記を書くかに相場が決まっている。
ある程度長いスパンで考えれば日記を書くのだって決まりきった行動というよりは突発的な思いつきに類するものだが、この半年はほとんど毎日ぐらいのペースで日記を書いているために、昨日・今日・明日というタイムスパンで捉えれば、これはもう立派なルーチンに属するものだったりする。
あとはこの二、三年で飲酒量がめっきり増えた、と思い返してみたが、よく考えればそんなことはなく、週に六、七日の飲酒を東京に出てきてからずっと、かれこれ七年ほど続けているのだった。途中筋肉トレーニングにハマっている時期があったからその短い半年間を除いてはほぼ上の頻度で酒を飲み続けている計算になる。
そんななかで久しぶりに二日続けて酒を飲まなかった。だからその余勢を借りて、普段の日記とはちがい映画の感想を書こうとしたわけだ。
しかし、昨日の夜にしらふでスタバから自宅に帰る道の途中で思っていたのは、読み終わった『サルトル哲学序説』の感想、できれば読書メモのようなものを書こうということだった。今朝の通勤電車のなかでもその気分は持続していて、それがために重い荷物になるのを承知で業務用の端末に重ねて自前のマックブックをリュックに入れてきたのだ。
だが慌ただしい昼間の業務を終えて、電車を乗り換え渋谷経由で下北沢につく頃には、何をしようという目的が失われ、ただただいつもと違うことをしようという気分だけが残った。だからいつもは辻井伸行のショパンの演奏が流れているノイズキャンセリング機能付きのイヤホンからはカネコアヤノの歌が流れているし、駅を出てスタバの店内まで歩くうちに、漫才の台本でも考えついてやろうかという気分にもなった。
腕まくりまでして席に座ったところまではよかったが、いつものようにマックブックを開いた頃には無謀なネタ作りも断念し、週末に見た映画の感想を書くためのタイトルを打ち込んでいた。
ただし、ここまで書かれた文章が代表するように、タイトルをそれらしいものに決めただけで、なにも映画の感想を書くことに決まったわけではない。タイトルに反してぜんぜん違うことを書いて一行だけ映画について触れて終わるのも、一切触れずにそのままこの文章を閉じるのも、すべて私の自由だ。
自由といえば、サルトルは存在について考える際に自由ということを重んじた。しかしそれは手に入れるべく目指される何かではなく、生きている以上どんな存在にも原理的についてまわるあらかじめ定められた条件のようなものであるという。自由から身をもぎはなすことができないというのはやや奇態に響く逆説表現だが、それでもサルトルの声をもうすこし長く聞こうと望むときには自ずから納得される意見だったように思う。彼は存在には自由がついてまわると言った。だから何をしようが、あるいは何をしまいが、存在は自らをとりまく環境に対してつねに責任がついてまわるということを言おうとしているのだった。少なくともその意見を聞くものに自然そう感じさせるような考え方を自由という概念に仮託しているようだった。
そしてまた、他人の中に自分という存在があるという条件を逃れ去ることはできないとも言っていた。他人などないとあえて言うことは自己欺瞞に陥るとしてそれを批難した。自己欺瞞がわるいことであるというのは、彼が明晰さに価値をおくからだ。たしかに、明晰さに価値をおくものは自己欺瞞を避けようとするだろう。だが、欺瞞には意図する欺瞞と、意図せざる欺瞞とがある。意図せざる欺瞞がさらに自己欺瞞でもあるような場合、明晰さによってそれをべつの場所に移動させることは困難であるだろう。それでもいいと決めたものに、その決定を覆させるのは困難であるだろう。おそらくサルトルはその困難を意識にのぼせたうえでいくつかの戯曲を書き上げもした。彼の哲学について書かれた本を読んだものが考えつくようなことはあらかじめ検討の俎上にあげられたにちがいない。それでも、すべてがどうでもいいと考える自由について、べつの方向へと転換させることはできなかった。ただ、その自由をもつ者をとりまく状況によって「直接的に」それを否定することしかできない。そしてもしそれで充分だと考えるとすれば、それは実践者として真っ当な考え方であることを意味すると同時に、自由について考えることの意味を失う実践的な行動を支持することでもある。それについてもっとも良い捉え方をするとすれば、考えうるかぎり一番遠い限界に到達するということだ。そんなに遠いところまで行って、ほらだからこれが限界なんだと言うことができたとして、一体それが何だというのだ。もちろん遠いところに行くということには他には換えられない価値がある。しかし、何から離れて、どの場所から遠いかということについては、所定のものに決められている必要はまったくないし、そもそも本来決まっていないはずだ。ただ実際にこの環境にあっては、この状況を見渡せば、その離れるべき場所というのはすでに完全に決まっているように見える。決まっているとしか思えなかったりする。
だから虚構のうえで、そういった条件を一秒も感じさせず、最初から最後まで連続して、決まっているとされるもの(それが美であれ善であれ)から目を背け続けているものを見れたときに、(それは往々にして最低最悪の景色だったりするのだが、)その凄惨な風景に反して、いや反してというよりは無関係に、何物にも換えられない晴れやかな気分が私を襲うのだ。そのとき、当の表現が虚構であるということにはほとんど無際限の価値がある。それは絶対にそこから離れてはならないもののように私には思える。加瀬亮が織田信長を演じるということ、そこに真正の価値がある。現実の織田信長が果たした役をはるかに超えて、質的に異なる純粋な素晴らしさがある。質的に異なるふたつのものを指して前者が後者を超えるというのは明晰とは言いがたい表現だが、明晰さ(私の言葉遣いでは「賢さ」)をこのとおり大切なものと捉えつつ、それを犠牲に供してもあえてそう言いたくなる何かがフィクションにはある。

ところで、私にもできる自由の素描は以下のとおりだ。


越えてはいけない一線
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