20231115

日記248

夜端

2023/11/14 昨日
スタバですこしだけ小説が進む。帰宅後録画していたテレビを見る。月曜から夜ふかしあまり面白くないので途中でやめる。ご飯は鶏のスパイス胸肉(三割引)。三〇分単位での寝不足気味が溜まっている感じがしたので早めにベッドに入ってねむる。

2023/11/15 今日
在宅バイト。タスクをばんばんやるというよりは溜まっていたのを消化して、勉強会なるものに参加する。ザ行なし。仕事途中にも読み進めたおかげで胎界主の二部を読み終わる。心が晴れやかになるラストに心洗われる感じがした。オーラスのきれいな絵のたたみかけはすごい。実感として運ばれるのがわかる。それしかないという結末なのに自由を感じる。
以前、胎界主を読んだときにも不安定になったような気がするが、今回胎界主をあらためて読む二、三週間ぐらいのあいだにも気持ちが不安定になった。こう言うとメンタル不調に結び付けられそうだが、むしろメンタル的には好調といっていいぐらいで(毎夜八時間ちかく睡眠をとっているおかげもある)、頭が働く状態だからこそ、ある問題についてネジが噛み合った状態で正面に近い角度で考えるからこそ、想像力のリソースが不必要なほどそこに振り向けられることになる。そこというのは死のあとに広がっている無限のくらやみのことだ。せっかくこんなにも光を感じられるのに、それがいつまでも続かないということに耐えられない。最初に戻って同じことを繰り返すでも何でもいいから光が消えることのないようにしてほしい。胎界主では死に瀕したキャラクターがガタッガタッと震えることがよくあり、大体の場合すぐに悲惨な死を迎えることになるが、彼らがおそれているのは死に方の悲惨さ(だけ)ではなく、死ぬことの悲惨さなのだと思うし、それを見て震えているのだということがわかるから、それがいずれ自分にも訪れる具体的なイベントとして感じられるうえ、その先については一切わからないというくらやみを連れてくるから、もともと持っていた恐怖心が長々と揺り動かされ続けることになる。ただ、手足がばらばらになったりトマトのように押しつぶされて死ぬことの恐怖やそれに伴う具体的な痛みで、死の恐怖を麻痺させることはできると思う。それは最悪を越えていく最悪だ。質が違うものなので、両者を比較してそれよりはマシと思うこともできない。死を考えるにあたっては畳の上で死ねるからマシだということには一切ならない。
死に向き合うということに取り組んだ作家はそれなりにいる。昔は彼らのことを考えるのがちょっとした気休めになっていた。今は昔に比べて死について考える能力が減ったから気休めの必要性が目減りしている。今はむしろぼーっと弛緩した状態から意識を復活させる呼び水になっている。やがてもうすこしすると煩わしささえ感じるようになるかもしれない。たとえばカミュについて「若い」なんて言ってみたり。今はカミュのことを若いとは思わないが赤いというイメージはある。……それは幻想水滸伝2の影響だ。

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