ドアイズオープン
2023/11/13 昨日
スタバの前にケーキを買っておいて、スタバのあとにワインを買いに行く。アマンディーヌというケーキと白のスパークリングワイン。ダイエーで売ってるものでそんなにすごいものでもないんだけど、普段買うものに比べれば少し良い値なのは間違いないので、こういうときには名前を覚えておくようにしたいと思ってレシートをもらったんだけどそのレシートをどっかやってしまった。帰ったらポークソテーとりんごの果物ソースのご馳走が待っていた。
差し向かいでご飯を食べるといかにも食事しているという感じがある。同じダイニングを使っていても昼間の飯は我ながら自分から自分への給餌という印象がある。自分でもそう思うんだから傍から見ると立派な餌やり風景だろう。餌をあげる側になっても餌をもらう側になってもべつにかまわない。
気まぐれでオーストリアのチャート上位の曲をかける。どれだけオーストリアでチャート上位だろうと、ここに到達するまでの距離とわれわれの曲そのものへの無関心によって「名もなき歌」にされた音楽たち。何曲聞いたかも不確かだが時間から予想するとだいたい五、六曲だろうか。だっせえクラブミュージックみたいなのもあった。良い気分だったし礼儀だと思ってちょっとだけ踊っておいた。
進撃の巨人の最終章前編を見る。胎界主を読んでいるタイミングだとスケールの「ちょうどよさ」を感じてテンションが上がりきらない。最終決戦まで生き残るだけあってなのか、登場人物が皆とても考えていて考えたことを良いタイミングで口にしているのはすごいと思う。漫画で気にならないこともアニメの時間の流れになると気になるというだけのことかもしれない。PLUTOもそうだった。最近だと呪術廻戦が例外で、あれは漫画作品であると同時にアニメのコンテのようなところがあるのでアニメを見ていると原作再現どうこうというより、作品としての完成形になっている感がある。
進撃の巨人は何も考えてない枠がサシャの死とともに終わってしまったのがどうにも悔やまれる。子供サイズの人間もしっかり考えることができているから、何かを考えているように見えないキャラクターがすべてモブに見えるという問題がある。単に好みの問題でべつに作品の問題ではないかもしれないが。
思考実験的な要素のある劇作品だ。何らかの形でという但し書きが付いてあったとしても「現実を反映した作品ではない」ということは強調しておきたい。名作とされる文学作品でも同じで、だからといって評価が下がるということはないが、受容の力が弱いと「リアルだ、あれが現実だ」と口にすることもあるかもしれないのでそれに対して釘をさしておきたい気持ちがある。妖精が出てきたり、お化けが出てきたりする作品がリアルな現実を写しとったものではないというぐらいの意味だが、とにかくあれは現実ではない。
ねむる前にも胎界主を読んでようやく生体金庫にさしかかる。基本的に何回読んでも面白いし読めば読むほど味のする漫画だが、『生体金庫』だけは記憶を消して読みたい。
2023/11/14 今日
在宅バイト。最近の憂鬱の正体は今日の打ち合わせだったのか、一日が終わる頃には塞ぎの虫もかなり落ち着いた。胎界主を読みなおしていることによる効果だと言いたいぐらい、もし本当にそうだとしたら自分で言っていて馬鹿らしいぐらいの理由だが、実際に憂鬱が相当程度やわらいだのは事実で動かしようがない。
胎界主への文句ではないが、胎界主と胎界ブツとの区別がはっきりしていてスイッチできないところがどうかと思う。レイスや悪魔連中は確定胎界ブツでかわいそうだ。入れ替わり戦ぐらいやってあげてもいいのにと思う。しかしそれを提案したところで向こうから却下してくるから結局ナンセンスというか、だから確定しているのだろう。確定してからの時間がスケール違いなほど長く存在が確立しているというのも不利に働くのだと思う。存在を確立できなかったものはただただ静かに退場していっただけだろうから適者生存というかなんというか。
ロボットはどれだけ進歩しても人間にはならないというのを真だとすると、人間になるのをゴールにするというのが不合理で、ロボットと人間をひとまとめにしたくくりを作ってそのなかでより高次の存在になる方法を探求するのが合理的だ。それは人間がただ人間であるということに満足せず、より良い者になろうとするときに一部重なる道だろう。人間にとって「並走者あり」という状況が、いつまで続くのかわからないながら生じ始めているのだと思う。こういう道を行こうと思ったときに虚構は役に立つ。『Against the Way』はその道を立てたうえで反対方向を目指す試みだ。アニマルへ。退行だ何だと言われても関係ない。もっとアニマルへと言うところに眼目がある。「もっと」という積極性、積み上げる意思がひとつポイントになるという予感がある。
『有吉弘行の脱法TV』という番組を見る。有吉は上岡龍太郎を尊敬していると公言するだけのことはある立派なテレビタレントだ。ちゃんと発言力を充分に増やしてからおもむろにギリギリ可能な発言をしているし、テレビツイッターインスタグラムとメディアを正しく玩具にしている。
ザ行を三〇分で切り上げてスタバにくる。『サルトル哲学序説』を読む。読んでいると理解しようとして読むのでつい「うんうんそうだな」などと言ってしまったりするのだが、概ねその通りだと思ってしまうのだが、一部飛躍を感じた箇所があった。
八〇ページ密室に胡坐しつつ、能うかぎり己れを外界から遮断し、能うかぎり純粋な己れを識ろうとすること――近代精神の幾多のエリートたちがそこに一途な情熱をかたむけたあの凄惨な自己追求は、所詮は無益な試みにすぎなかったのだ。
これはわかる。
むしろ密室の外、物や他者あるいは社会への積極的なはたらきかけのなかに、真の自己は現前するものなので、ここに、存在論的なものはつねに存在的なものに相即してのみ存在し得る所以もあるわけである。
はてな。すくなくとも前段から自動的に導き出されるものではない。
自己への追求をはなれて即他者へというのは納得できないというか、簡単にそれをしてもそれこそ無益な試みというか、きっかけになった行動の延長線上で思考しているにすぎないと思われる。
しかし、即自存在や対自存在のくだりは面白い。簡単に「他者へ」と言って解決を外に求める発想より、自というものにこだわるところにその方向に突き進もうとすることで「他者へ」を実践するような、その実践が浮かび上がってくるのを期待したいような心性があるのを感じて親近感が湧く。