20231109

日記243


2023/11/08 昨日
在宅バイトだがザ行は発生せず。スタバに行ってすこし読書したあと、文学フリマで出す小説の印刷をするための作業。セブンイレブンのプリンタの条件によって上下巻に分かれることになった。
トリキにいって満足に飲み食いしたあとチョコモナカジャンボを買い食いして帰る。
大学時代のユニットメンバーとの定例で30分強、話をする。音楽活動が順調で新曲の量産体制に入ったらしく楽しみだ。こういうのが何よりも豪勢な話だと思う。こういうのに比べると高い金を払って何かをするというのは酒のつまみにしかならない。酒のつまみも大事っちゃ大事だけど。
呪術廻戦の「バカサバイバー勝ち残れ」を見る。相方ができないといって悩む高羽がカップ麺をすすりながらテレビを見て「いいなあ」とつぶやく場面にぐっときた。呪術廻戦はやっぱり面白い。魅力的なキャラクターが多いし、彼らで人団子(ひとだんご)を作るのが上手だ。

2023/11/09 今日
在宅バイト。作業しながらTVerで水ダウの名探偵津田回を見る。言うほどたいして面白くはないじゃないかと思って見終わったが、最後の誰かのコメントにもあったとおり「一瞬で一時間がすぎた」。こういうコンテンツは評価以上にすごいところがあるのかもしれない。まあ俺はあまり高く評価しないが。ザ行ほぼなしでスタバへ。スタバにきて小説を書くのがルーチンになっている。ルーチンにならないと積み上げていけないのだからある程度はこれで良いのだが、あまりルーチンになりすぎると、感覚を使わないで文字を書くだけになって本末転倒になるということを思った。脳を掻くような体験をいつも歩く道を歩きながらでも掴み取ろうとしていかなければならない。考えることが第一で書くのはその手段だ。考えるというのにとくに制限を付ける必要はないわけで、できるだけ感じることに近づけるように、つまりは鋭く感じるように考えないといけない。書くときに手が慣れていないためにあまりイケてない表現になったとしても、それに考えることを合わせていくというのだけはやらないようにしたい。
本を読むのもまったく同じで、読み始めた本を最後まで読み通すというのは自分にとって当たり前のことではあるが、どこからか読み終えることが目的になってしまうとすればそれをやる意味はひとつもないと思って気を引き締めていないと駄目だ。
『サルトル哲学序説』で存在の話を読んでいる。存在するというのは人間に(存在するというのを自分ごととして真剣に考える人間に)とって欠かせない問題なのだというのが書かれてある。自分=存在には「即自存在」と「対自存在」との区分があって、即自存在はそのままもう自分でそれを疑う余地なく自分という存在を存在(自分)として認めているもののこと。一方の対自存在というのは区分けされた自分というのを存在(自分)に見てしまう態度のことで、輪郭線を引くことで自分の領域を定めようとするもののことだと思っている。「自分は当然自分である」と言うとすれば、それは即自存在のメッセージのようでいて、それを言うということによって対自存在のメッセージに転化するのではないか。それは言う/思うという単純な差異ではないはずだから、自分と考えたら即(そのまま)対自存在だとみなしていいのではないか。分化がなく区分けされない「自」というものが即自存在だとして、それを考える必要はあまりないし、それは何か他の概念の土台として準備されたものにすぎないのではないか。
家では『胎界主』を読んでいる。胎界主というのは胎界ブツを規定する様式だ。容赦なく簡単にこだわりなく非対称性を導入している。他者の問題を考えるときに非対称性は避けては通れないが、真っ向からやられるとかえって気持ちいいというか、一部の本当に問題なのかわからない問題がすっきりするというのはある。その先があるとして、他者問題のその先を考えるのにうってつけだ。本物と偽物があるというのを前提にしてしまうことで真贋鑑定のような時間を取られるだけでそこまで効果あるとは思えない難題を回避できるわけだ。ただ、他のたくさんの漫画とはちがってその回避の様式について自覚的なので、引っ掛かりとしてかえって他者のことが意識に上りやすい。前提を前提として描写しないのが多くの漫画、それを簡単に描写して済ませるのが胎界主という違いがあり、特徴的な漫画だと思う。絵柄も癖があるし。

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