20231129

映画『首』を見た

普段と違うことをしてみようと思ったら、スタバに入っていつものように日記を書くのではなく、映画の感想を書き始めればいい。最近の自分はアフターファイブのルーチンが確立されてきていて、スタバに行っていつものようにミルク入りのドリップコーヒーを注文し、読んでいる本を広げるか、このようにマックブックを広げて日記を書くかに相場が決まっている。
ある程度長いスパンで考えれば日記を書くのだって決まりきった行動というよりは突発的な思いつきに類するものだが、この半年はほとんど毎日ぐらいのペースで日記を書いているために、昨日・今日・明日というタイムスパンで捉えれば、これはもう立派なルーチンに属するものだったりする。
あとはこの二、三年で飲酒量がめっきり増えた、と思い返してみたが、よく考えればそんなことはなく、週に六、七日の飲酒を東京に出てきてからずっと、かれこれ七年ほど続けているのだった。途中筋肉トレーニングにハマっている時期があったからその短い半年間を除いてはほぼ上の頻度で酒を飲み続けている計算になる。
そんななかで久しぶりに二日続けて酒を飲まなかった。だからその余勢を借りて、普段の日記とはちがい映画の感想を書こうとしたわけだ。
しかし、昨日の夜にしらふでスタバから自宅に帰る道の途中で思っていたのは、読み終わった『サルトル哲学序説』の感想、できれば読書メモのようなものを書こうということだった。今朝の通勤電車のなかでもその気分は持続していて、それがために重い荷物になるのを承知で業務用の端末に重ねて自前のマックブックをリュックに入れてきたのだ。
だが慌ただしい昼間の業務を終えて、電車を乗り換え渋谷経由で下北沢につく頃には、何をしようという目的が失われ、ただただいつもと違うことをしようという気分だけが残った。だからいつもは辻井伸行のショパンの演奏が流れているノイズキャンセリング機能付きのイヤホンからはカネコアヤノの歌が流れているし、駅を出てスタバの店内まで歩くうちに、漫才の台本でも考えついてやろうかという気分にもなった。
腕まくりまでして席に座ったところまではよかったが、いつものようにマックブックを開いた頃には無謀なネタ作りも断念し、週末に見た映画の感想を書くためのタイトルを打ち込んでいた。
ただし、ここまで書かれた文章が代表するように、タイトルをそれらしいものに決めただけで、なにも映画の感想を書くことに決まったわけではない。タイトルに反してぜんぜん違うことを書いて一行だけ映画について触れて終わるのも、一切触れずにそのままこの文章を閉じるのも、すべて私の自由だ。
自由といえば、サルトルは存在について考える際に自由ということを重んじた。しかしそれは手に入れるべく目指される何かではなく、生きている以上どんな存在にも原理的についてまわるあらかじめ定められた条件のようなものであるという。自由から身をもぎはなすことができないというのはやや奇態に響く逆説表現だが、それでもサルトルの声をもうすこし長く聞こうと望むときには自ずから納得される意見だったように思う。彼は存在には自由がついてまわると言った。だから何をしようが、あるいは何をしまいが、存在は自らをとりまく環境に対してつねに責任がついてまわるということを言おうとしているのだった。少なくともその意見を聞くものに自然そう感じさせるような考え方を自由という概念に仮託しているようだった。
そしてまた、他人の中に自分という存在があるという条件を逃れ去ることはできないとも言っていた。他人などないとあえて言うことは自己欺瞞に陥るとしてそれを批難した。自己欺瞞がわるいことであるというのは、彼が明晰さに価値をおくからだ。たしかに、明晰さに価値をおくものは自己欺瞞を避けようとするだろう。だが、欺瞞には意図する欺瞞と、意図せざる欺瞞とがある。意図せざる欺瞞がさらに自己欺瞞でもあるような場合、明晰さによってそれをべつの場所に移動させることは困難であるだろう。それでもいいと決めたものに、その決定を覆させるのは困難であるだろう。おそらくサルトルはその困難を意識にのぼせたうえでいくつかの戯曲を書き上げもした。彼の哲学について書かれた本を読んだものが考えつくようなことはあらかじめ検討の俎上にあげられたにちがいない。それでも、すべてがどうでもいいと考える自由について、べつの方向へと転換させることはできなかった。ただ、その自由をもつ者をとりまく状況によって「直接的に」それを否定することしかできない。そしてもしそれで充分だと考えるとすれば、それは実践者として真っ当な考え方であることを意味すると同時に、自由について考えることの意味を失う実践的な行動を支持することでもある。それについてもっとも良い捉え方をするとすれば、考えうるかぎり一番遠い限界に到達するということだ。そんなに遠いところまで行って、ほらだからこれが限界なんだと言うことができたとして、一体それが何だというのだ。もちろん遠いところに行くということには他には換えられない価値がある。しかし、何から離れて、どの場所から遠いかということについては、所定のものに決められている必要はまったくないし、そもそも本来決まっていないはずだ。ただ実際にこの環境にあっては、この状況を見渡せば、その離れるべき場所というのはすでに完全に決まっているように見える。決まっているとしか思えなかったりする。
だから虚構のうえで、そういった条件を一秒も感じさせず、最初から最後まで連続して、決まっているとされるもの(それが美であれ善であれ)から目を背け続けているものを見れたときに、(それは往々にして最低最悪の景色だったりするのだが、)その凄惨な風景に反して、いや反してというよりは無関係に、何物にも換えられない晴れやかな気分が私を襲うのだ。そのとき、当の表現が虚構であるということにはほとんど無際限の価値がある。それは絶対にそこから離れてはならないもののように私には思える。加瀬亮が織田信長を演じるということ、そこに真正の価値がある。現実の織田信長が果たした役をはるかに超えて、質的に異なる純粋な素晴らしさがある。質的に異なるふたつのものを指して前者が後者を超えるというのは明晰とは言いがたい表現だが、明晰さ(私の言葉遣いでは「賢さ」)をこのとおり大切なものと捉えつつ、それを犠牲に供してもあえてそう言いたくなる何かがフィクションにはある。

ところで、私にもできる自由の素描は以下のとおりだ。


越えてはいけない一線
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20231128

日記254

東京バーガー

2023/11/27 昨日
根をつめて『サルトル哲学序説』を読み、二十二時前にスタバを出る。久しぶりに酒を飲まず。帰って千切りキャベツと納豆を食べる。好き放題お腹いっぱいになるまで何も考えずにご飯を食べていく秋のせいで身体が重くなってしまった。運動不足もあってまずい。最近のメンタルが不調とはいかないまでも絶好調とはならないのも、この運動不足が大きいと思われる。簡単に原因に到達できるようになって知恵がついたなと思うが、生活に運動を組み込んでいかないと、思いついたときにラジオ体操をするぐらいでは運動不足を回避できない。こういうピンチをうまく使って新しい習慣を導入するためのチャンスに変えたいが、どういうスポーツを始めるのが良いだろうか。昼間にも夜にも粗品のロケを見る。粗品が粗品自身「この人は」と思う人の話を聞いているときの表情には他では見られない良さがある。ついに話には聞いていた「河内さん」が登場して彼が芸人を志すことに決めたときのエピソードを聞いているときの粗品を見て、そのエピソードが混ぜものなしのいい話だったこともあって、涙が出そうになった。気を取り直してプライムビデオの『インビンシブル』のセカンドシーズンを見る。平べったいアニメーションに独特のテンポ感があって面白い。展開もあるし『ザ・ボーイズ』のようなドラマより本格的な人物描写にみえる。運動不足のうえ寝不足になっては思うつぼなので、スリープデイということもあって早めにねむる。そういえば帰り道に見上げた満月がとてもきれいだった。

2023/11/28 今日
在宅バイト。タスクが重なっているうちに打ち合わせで話さなければならないことがいくつかある状態になり、完璧とは程遠い発話になってしまう。べつにいいんだけどとは思うんだけどしいてそう思わないではいられない状態というのはやっぱり嫌なものだ。タスク未消化だが翌日は出社なのでそのときにやろうと思いザ行を三十分だけで切り上げる。こういうときに引きずられてずるずるとザ行を重ねてしまうのが一番よくないので、この切り替えは我ながらよくやったと思う。スタバでは『サルトル哲学序説』を根つめて読む。たぶんこの後読み終わると思う。彼の主張に「存在する以上、すべてに責任がある」というのがあった。そのとおりだと思うって耳が痛くなる。しかし本当には痛くない。ふざけているわけではないつもりだが、今さら初耳という態度をとるのも違うし、何より本当に痛くない。そういう必要があってその必要を充たしてきた結果だ。

20231127

日記253

「まだ始まっちゃいねえよ」

2023/11/25 一昨日
朝九時から散髪に行く。その後スタバに行って読書。代々木八幡の「365日」というパン屋でおしゃれなパンを買って歩きながら食べる。バスで渋谷に向かう。渋谷駅でバスから降り立つときに普段とはちがう渋谷入りにちょっと気分を良くする。ショッピングに付き合ってヒカリエ、スクランブルスクエア、ヒカリエ、スクランブルスクエアの順でエスカレータを昇降する。黒い靴を二足買っていた。その後目的の映画『首』を見る。加瀬亮の織田信長がめっちゃ良かった。黒澤明監督を意識した北野映画という感じのバイオレンス時代コメディで他の映画では味わえない満足感があった。すぐ下北に戻り、ミカンの焼き小籠包を食わせる店で晩飯とビール。帰宅してからねむるまでに時間があったので北野映画の予告編を流す。ネトフリアニメのスコット・ピルグリムと邪悪な元カレ軍団とかいうのを見る。世界観含め謎だがアメリカンな良いテンポで面白い。一話三十分弱だったのでとりあえず二話見る。

2023/11/26 昨日
朝起きてすこし読書をする。昼から新宿に出かける。十三時すぎに到着した目当てのボードゲームカフェは満席状態で寒空の下に放り出される羽目になる。ネットで検索してボードゲームカフェっぽいスペースが百人町にあるということを突き止め、新宿三丁目から歌舞伎町を抜け大久保方面に向かう。途中のバッティングセンターでとりあえず二十五球ずつバットを振る。時速百キロのボールはそこまで早く感じなかったのだが前に飛んだのが友人と自分でそれぞれ二十五分の五と二十五分の六という体たらく。金の軽いバットを振り回していたのだが途中で握力がきつくなるぐらい普段の運動不足が祟った。百人町のスペースは面白そうな店が蝟集しているビルの三階にあり、現実離れしてゲーム世界じみた雰囲気があった。三人が三人とも怖気づいて扉を開くところまではいかず。雁首揃えて退散した。なんとなく西新宿まで歩きブックファーストに行く。大型書店も売り場面積を一部ダイソーに譲り渡す必要があるようで、本屋冬の時代なのを感じた。その後新宿伊勢丹でウインドーショッピング。メンズ館もかなり賑わっていて本屋とはぜんぜん違う勢いがあった。一階にある香水の店でベチバーを探す。売り子のお姉さんがいう「質の高い香水です」というのを鼻では感じ取れなかったものの値札を見るときっちり三倍ほどの値段になっていてなるほどと思った。また歌舞伎町の方に移動して屋台風の豚骨ラーメンを食べる。その後歌舞伎町をぐるりとまわる。トー横を縦断した直後に喧嘩騒ぎが持ち上がったので、エスカレーターを上がった歌舞伎町ビルの入口からキン消しほどの人影が殴り合いをしたり、セキュリティや警察が制止するのを眺める。
十八時前になったのでボードゲームカフェに戻って相席ボードゲームをして遊ぶ。最初はカタン、人数が増えてからは七人で「お邪魔者」や何やをして、あとはふた手に分かれて何とかいう面白いゲームで遊ぶ。入る前にあっという間だとは聞いていたが本当に二十三時になるのがあっという間だった。帰りにダイエーで食料のインスタント麺やらを買い込んで帰る。それなりに楽しかったがもっと楽しい週末にできたのではないかという後悔が忍び込み、寝て起きたら月曜だという事実もあってまたまた気が塞ぐ。ねむるのも少し遅くなった。やるやらないの判断をする機会にはデフォルトで「やる」しておくぐらいじゃないと日曜の夜に満足するのは難しい。

2023/11/27 今日
在宅バイト。だらだら働いても何とかなる日だった。前日におぼえた憂鬱ほど嫌なことが起こるわけじゃないというのがはっきりするから気分的にも少しずつ持ち直していくのが月曜の特徴だ。久しぶりに定時で家を飛び出してスタバにいく。『サルトル哲学序説』を読む。
そういえば、誰かが面白いと言っている何かを面白くないというのは本意ではない。本意ではないというか、自分の感性に正直になって面白いかどうかを振り返った結果やっぱり面白くないと思ってそれを率直に面白くなかったと言うときにたまたま面白かったと口にしている人と目が合ったらざんないと思う。ざんないとは思うが、そうなる危険をあらかじめ予期して何に対しても面白いところを見つけて面白いと言うようにしようとは思わない。それはまあ当然だと思うが、自分の場合はそこからも一歩進んで面白くない場合ははっきり面白くないと言って旗幟を鮮明にしようと心がけている。面白いという意見と面白くないという意見はどんどん戦わせても平気なはずだ。それによって評価が覆るようなことがもしあれば御の字だし、そうならないでも何が面白いか(あるいは何が面白くないか)がはっきりすることで自分が(そして相手が)何を面白いと思うかという情報が得られる。誰かのレビューを見たり自分と同意見の感想を探したりするより情報の精度が高くなる気がする。精度に関しては気がするどまりだが、手触りや肌触りといった触覚にまで届くような感想が自分の中からその作品にむかって発されるようにするためにはこの方法が有効だと思われる。

20231124

日記252

とたけけけ?

2023/11/22 一昨日
在宅バイト。その後、職場の懇親会なるものに参加する。普段常駐先の人とのコミュニケーションしかないので、自社の人間と懇親するチャンスなのだけど、きっちり棒に振る。最初の入りで相手がどういう態度でいようが関係なく自己紹介する姿勢を打ち出さなかったことが過ちの元だった。
どうせうまくいかないだろうと保険を用意していたのでダメージは物理論理の両方で最小限に抑えられた。とくに最後の挨拶が終わる間際に出口方向ににじり寄ることでクロークに愚かな行列ができる前に自分の荷物をとって一抜けできたことが自分のなかではかなり大きな勝利だった。一体何をしに行ったんだ……。ビンゴは当然のように負けるし。
下北沢を歩きながら座り込みながらまた歩きながら飲むお酒はやっぱりよかった。友人と喋るときには本当に何も考えていない。というより考えていることがすぐ口をついて出る。これがいわゆるお喋りでというやつでお喋りの中でも純度の高いものなのだろう。とくに遠慮会釈もしない。レベルを合わせるということはやっているがこれは残念ながら不可避だ。お互いに。

2023/11/23 昨日
笹塚の漫画喫茶に行く日にした。目当てはドラゴンボールを読むこと。『ダーウィン事変』という漫画が完結しているという生成AIによるガセ情報を掴まされたおかげでダーウィン事変を読み始め、最新刊の六巻で見事「つづく」の憂き目を見る。ドラゴンボールは一巻二巻の密度がものすごく、読んでいてなんだか疲れてしまった。天下一武道会あたりからペースを掴んできたがレッドリボン軍のうんたらかんたらで悄気そうになったから読み飛ばしてピッコロ大魔王登場あたりまで読む。対戦相手が死ぬということが起き始めて、なにやら剣呑な雰囲気だ。ちょっと目を離した隙にクリリンが殺されているのは衝撃だった。あとランチさんがきれいすぎる。金髪モードのランチさんの目元が最高だとおもう絵が何枚もあった。それから『東京ヒゴロ』完結巻の三巻を読む。締め付けられるような思いを喚起するのが本当に上手でこの日も胸を締め付けられた。「この15くんがいいの」。またSUNNYを読まないと。
途中中抜けして入ったラーメン屋せいやでイキって大盛りのつけ麺を注文したせいで若干具合悪くなるも閉店時間の二十三時まで居座る。こうなるのがわかっていても大盛りを頼んでしまうのは何なんだろう。かさぶたを剥がしたら血が出るとわかっているのに剥がしてしまう性質に似ていると思う。こういうとき俺はふつうに愚かなのだ。
この日の朝に見つけた言い回しがある。「バタバタしているべたべたな豚をビンタしてボッた」。どこで使うわけにもいかないナンセンスな言葉の連なりだが、そういう思いつきを貼り付けておくのに日記はとても適している。それ以外に貼り付けておく場所なんてないからだ。

2023/11/24 今日
在宅バイト。面倒な調整を経て締切を伸ばしてもらったのに、あとから入ってきて締切すぎてるからといってスケジュール延伸してくださいと言われ、調整したのを全部無駄にされるということが起きた。もっと早く言ってくれたら面倒な調整やスケジュールに追われる感覚を味あわずに済んだのに。指揮系統が柔軟になれないとせっかくの苦労も徒花になってしまうということを知った。最終的にべつにどうでもいいと思うから食い下がるということはしなかったが、つい不満な調子が声に出てしまったかもしれない。引き下がるのなら不満を言う意味もないのだからあっさり引き下がれば良い。関係機関と自分が考えているよりも広く、ほとんど全方向への調整といえるぐらいの調整をしていないとこういうことになるのだと勉強になった。くだらない勉強だ。
その対応によってザ行まで発生。しかも二時間。やるべき仕事を減らすのが優秀なエンジニアだと聞いているのだが、やるべき仕事をしっかり増やしていくのはどう形容できる何なのだろうか。
スタバに出てくる。サルトル哲学序説を読む。日記を書く。
日中の無意味な営みに気を取られてしまい今朝見てしっかり覚えている夢のことを書かないでしまうところだった。自転車に乗っている夢を見るときにはいつも通っていた大学と高校を混ぜたような駐輪場が出てくる。この日もそういう駐輪場に駐めていた自転車を探していたのだが、駐めていたと記憶している場所に自分の自転車だけない。こっちだったかと移動してみるもそこにもなく、やっぱりこっちかと元の場所に戻ってもやっぱりない。いややっぱりあっちかとさっきの場所に戻ってない。もう一度こっちに戻ってやっぱりないというのを自分でもおかしいと思うほど非合理に繰り返した。昔通った場所だから道を知っているのだが少し記憶が遠くなっていてやや自信がなく、確信をもって歩けないことも、何度も同じ場所を行ったり来たりしてしまう理由になっていた。そのくせ起きるときにはもう少しで自転車が見つかったのにという気がして目が覚めてしまうのが惜しく感じられた。ああ惜しいと思うからこの夢を覚えているという結果につながったんだと思う。結局自転車は見つからなかったが、このことをもって探している自転車は在ったということにならないか。いやなる。
金曜日ということなのでこのあと飲みに行く。小説は一週間以上書いていない。

20231121

日記251

通過

2023/11/20 昨日
スタバからの帰宅途中にも酒を飲まず。文鳥の音読をBに聞かせる配信をしたあと、睡眠負債の解消をもくろんで早めにねむる。

2023/11/21 今日
在宅バイト。よくねむった影響で調子はわるくない。洗濯機を二回回してたまった洗濯物の処理をすすめる。仕事にかける時間の読みちがいをしたのがこの日のハイライトだった。余裕ぶっこいていた昼過ぎまでとはうって変わって夕方ぐらいから焦り始める。結局九時までのザ行になり、スタバにもいけず一日を棒に振ってしまった。だらだらとあるもので晩飯を食べながらテレビを見ていると画面が急に切り替わって避難を呼びかける放送になった。避難対象が沖縄になっていたが、その発表を信じられず部屋着のまま最寄りの地下である駅に避難する。落ち着いて考えれば放送の避難誘導を信じながら対象を信じないというのは整合性がとれない。
ただ駅に向かうあいだにも言い訳は考えていて、これは避難訓練だと考えようというもの。十分で飛来する可能性がある飛来物にたいして、家でどうしようと考える時間が三分、歩いて駅に向かうのが四分、合計十分以内で目的地の地下に到達できたので我ながらよくできたと評価できる。
そのまま帰宅すればいいところだがこの日は何もできなかったこともあるしせっかくなので、仕事終わりの彼女を迎えに表参道まで電車で出かける。電車内で日記も書く。

20231120

日記250

夢で見た三角形

書きたいことがたくさんある感じがある。溜まっている分を全然出せなかったらどうしようと思う。溜まっていると言っても三日分だが、日記はすっ飛ばして書こうと思えばいくらでもすっ飛ばせるから、本当は書きたいと思っていたこと、いろいろ経巡りながらこれは日記に書こうと思ってたことのほとんどを抜かしてしまうのではないかという心配がある。たとえばKITTEの吹き抜けが三角形になっていてその見た目の特別感が面白いと昨日(2023/11/19)KITTEに行って思ったのだが、それがなんとなく今になっても残っているのとちがい、そのときには面白いと思っていながら忘れてしまった側の出来事や感想もあるはずだ。できるだけそれらを拾うようにしながら週末分の日記を書いていきたい。

2023/11/18 一昨日
演劇祭の忘年会があるということで朝からなんとなくそわそわしてしまう。本当はもっと本を読んだりして過ごしたかったのだが思ったより全然読めなかった。せっかくの休日ではあるので、昼飯にうまいカレーを食べに出る。三蔵TOKYOのペトラカレー。黒くてうまい。彼女が頼んだタリンカレー。こちらは赤くてうまい。全然違うカレーだがどちらもカレーとしか言いようがなく、赤と黒のこのコントラストはもし絶好のタイミングがあれば味わってみてほしい。
ただこれは日記に書くべきことではないと俺の一部は主張しているのだが、カレー専用容器に入っているカレーを皿の上の白飯に注ぎ入れるとき(このカレーショップでは一口目のスプーンを口に入れるときと並んでもっとも特別な良い時間だ)、魔に憑かれたように一気にすべてのカレーを注ぎ込みたいと思ってなのか、白い皿から黒いカレーソースが溢れ溢れるという事態を招いてしまった。最近、とくに食事に関連する行動をとるときに頭の注意力を司る部分が麻痺してまったく考えなしのようなことをしてしまうことに気がついた。何かで頭がいっぱいですぐキャパオーバーになってしまう人がするような、傍目からは信じられないようなミスをしてしまうわけだが、俺にはわかるさらに恐ろしいことには、毎日よく寝て悩みらしい悩みもないのにもかかわらずそうなってしまうのだった。この行動とそれが招いた皿から溢れ溢れる黒いカレーの映像はそれだけの衝撃を自分と、となりにいて一部始終を見ていた彼女に与えた。彼女が「めっちゃイライラする」という取っ手も何もない述懐(?)(少なくとも目の前の自分には向けられていなかった。それだけに迫力があった)を冷然と言い放ったのにも面食らった。二重の衝撃を立て続けに受けたせいで、おもに前半、カレーの味がほとんどしなかった。赤いタリンカレーを一口もらって「トマト」のイメージが一旦すべてを塗りつぶすまでは。
ふた駅近く歩いて目当てのカレーを食べにいき、腹ごなしの散歩がてら街の反対方面にある雑貨屋まで行ってアンティークを見た。一四時にでかけて一六時に帰ってきた。これ以上に下北沢の住人らしい休日の過ごし方はない。帰宅後彼女が友人から教えてもらったというSWITCHのゲームをやり始める。予定の忘年会会場にオンタイムで出かける。
飲み会は久しぶりだがやはり楽しい。もっと頑張れるやろと大学来の友人たちから言われるたびにうるせえお前が言うなだとか、俺は俺で盛り上げに貢献してんのじゃとか軽口を返すのだが、やっぱりいざとなるとそういう威勢は最高に楽しい盛り上がりの夢とともにしぼんでいってしまう。ただ会が開けたあと、道を歩きながらおごってもらったビールを飲む時間があって、それがとてもよかった。いつまでも歩けると思った。だけどさすがに迷惑かもなと思った時点で終わりになった。残念だ。話が盛り上がるとか会がうまく回るとかそれ以前の問題で、どうしても酔っ払いそのものになれず、酔っぱらいのイデアに近づけないことが俺の一番の問題なんだと思う。しかし茶沢通り横の変な帰り道、帰るまでのすべての瞬間が楽しかった。冬前の夜の空気。首の冷え対策としてちゃんとマフラーを持っていった功績は大きい。

2023/11/19 昨日
途中一回レッドアイを挟みながら結構な杯数のビールを飲んだのにもかかわらずほぼ二日酔いにならなかった。ただねむる時間が遅くなったことでどうしても睡眠不足だけは避けられなかった。元気よくリビングから話しかけてくるBに起こされて朝の時間ができたのを幸いとして出かけることにする。起きたときにポケモンスリープやってなかった…!とショックを受けたがよくよく確認してみるとちゃんと起動させた状態で寝ていた。すでに入眠ルーティンとして完成していて無意識の域に達しているようだ。
空気が澄んでいて富士見橋から富士山がくっきり見えた。世田谷代田経由で歩いてBole and coffeeに行く。新代田からすこし入った羽根木エリアにこんなにもおしゃれな通りがあるなんてという驚きがあった。タイムマスカルポーネとスパイスかぼちゃのアイスクリームを食べてコーヒーを飲む。ふた口分けてもらった焼き立てスコーンもとても美味しかった。おしゃれな外席で良い朝食時間(一二時)になった。新代田環七にあるLUUPに飛び乗って目的地の溜池山王まで移動する。LUUPを運転するのに一番いい道は他にあったかもしれないが、とにもかくにも地図を見ずに移動できたのは東京七年目の面目が立つというもの。
はしごでパイコウ担々麺とシュウマイを食べる。味が美味しいのもあるが、店の仕組みがちゃんとしていて最大の回転数を誇っているのが客側からもわかって、これはすごい店だと思いテンションが上がった。
日比谷の映画館まで歩く。途中でデモの集まりが日比谷公園からデモ行進を開始するところにでくわす。野次馬の中でも馬としての純度がもっとも高い「通りすがり」として、通り過ぎるほんのすこしのあいだだけ同じ場所の空気を吸った。大量の警察官が投入されていたが、去年だったらほぼ全員マスク姿だったろうが今年はたぶん全員マスクをしておらず、なんだか新鮮な見た目だなと思った。
ゴジラマイナスワンは主要な舞台のひとつが銀座ということもあり、日比谷TOHOで見るのにうってつけだと思った以外にはとくにおもしろいところもなく、気持ちが乗らないだけに退屈な映画体験だった。自分はIMAXレーザーの信奉者だがIMAXレーザーにもおのずから限界があるということを思い知った。天気の子は新宿バルト9で見てこの場所で見るのにうってつけだと思ったし、そのときも今回もとくに狙ったわけじゃないから偶然の符合に気をよくできるところがあった。ゴジラの感想というか愚痴を、日比谷と東京をつなぐおしゃれな石畳のベンチに座って缶チューハイ、缶ビールを飲みながら喋れたのがハイライトになった。一瞬だけビルの合間からのぞいた半欠けの月も。
ツリーの点灯式らしき集まりに吸い寄せられるまま建物内に入り、建物内を横切って次の目的地のKITTEにいく。LUUPを早い徒歩だと考えると、下北沢から東京駅まで一日がかりで歩いたことになる。帰りの電車ですごく疲れていて、最近の体力のなさに危機感を覚えていたのだが、移動距離を考えると疲れるのもある程度は仕方ないように思える。
東京駅でおあつらえ向きのご飯屋を見つけられず、結局下北沢まで戻って松屋で遅めの晩飯を食べて帰る。翌日の仕事が憂鬱でたまらず帰り道にもかなり消耗させられたが、もっと刹那的に振る舞って、翌日の仕事などないかのように元気よく機嫌よくしていないと、せっかくの夜がもったいないと思うべきだ。月曜を乗り越えた今になって思う。もっとはやくねむればいいのに、ベッドに入ってからだらだらしてゼロ時を迎えてしまい、翌朝の寝不足状態が確定する。

2023/11/20 今日
出社日。七時起きで八時前には出発。大変な一日が始まるというのではないし、彼女は自分より遅く寝ているのに早く出かけているからそれとの比較でも全然大したことはないのだが、とにかく月曜の朝を迎えるのが憂鬱だ。出勤途中の道できれいな朝日、散歩する犬、元気いっぱいの小学生などを見ているうちに自然と元気が出てくる。会社についてからはやるべきことがあるのでひたすらそれを消化しているうちに定時になる。今日やるべきことが終わらなかったので明日へ持ち越しすることに決めて帰る。
帰りの電車が遅延のため満員電車になる。一五分も無いぐらいの時間だが、通路にいても隣の乗客と肩が触れ合うぐらいのぎゅうぎゅうの満員電車は嫌なものだ。
エキウエのスタバが満員だったので、吉野家でハヤシライスを食べたあとでクラシックのほうにくる。日記を書いているうちにあっという間に二十時すぎになってしまった。結局書いているうちにどんどん書き進めるモードになって、そのモードのときに取りこぼすあれやこれやをそのままに日記を書き終わってしまった。言ってみてもしょうがないので読書をすることにする。本を読んでいると何かが思い浮かんだり思い出したりすることは普通によくあることだし。

20231117

日記249

スカイとツリー

2023/11/16 昨日
初めてのディズニーシーに行った。新宿まで出てから中央線で東京まで。駅ナカの売店で朝食を買ってから京葉線ホームで朝食を食べる。快速で舞浜まで。舞浜からはディズニーリゾートライという電車に乗ってシー前まで。入場時に楽隊が演奏していてテンションが急上昇。ダンスしながら中に入る。途中スペインから来たファミリーの家族写真の撮影をしてあげる。カチューシャのショップに人が大量にいるところでテンションの上昇は終了。上がった分だけ降下に転じる。ふたり揃って何の情報も仕入れずにいったせいで何もしないうちに余計な待ち時間がどんどん膨らんでいった。最初はセンター・オブ・ジ・アースに並ぶ。八五分待ちだったので進撃の巨人FINALの後編を見て過ごす。しかしここでは以降の動きのシミュレーションをしたりプライオリティパスの確認、ステージの確認などをするべきだった。このあとパーク内をうろちょろすることになるが、A地点からB地点に歩いて向かうためにどれだけの時間を要するかの確認をしていればのちに起こる残念な事態を防ぐことができた。ディズニーについてとくに好きでもない人と好きか嫌いかでいえばもちろん好きだけどそこまで前のめりでもない人が一緒にディズニーで遊ぶとなると、のんべんだらりとした時間を過ごすことになる。後者が着ぐるみに対するトラウマをもっていてテンションが急上昇するどころか嫌々触れ合うということになると、一体何のためにディズニーまで来たのかという疑問が発生した。建物のクオリティは高かったと思うが感銘を受けるということはとくになく、アトラクションAからアトラクションBへと移動するための道としての認識しかないようだった。フォトスポットで写真を撮るということにも関心がないとなると、アトラクション目当てで来たということにしかならない。アトラクションの待ち時間でもう一生分の行列に並んだわけだが、大人が乗って面白いというようなものでもなく、体験の価値をこれ以上は下げられないという思いから「楽しかったね、よかったね」を繰り返すマシーンと化した。終わってみれば最初のセンター・オブ・ジ・アースがピークだった。タワー・オブ・テラーも落下のたび「うわー!うわー!」を連呼するぐらいには恐かったわけだが、冷静に考えてひとり一五〇〇円を払うようなアトラクションでもない。結論としてディズニーシーは日常で何か目立った楽しいことを持たない人たちが行列に並んでそうでもないアトラクションに乗って感動するというのが主題になっているテーマパークだ。ディズニーランドではパレードもあればミッキーが現れたりもして「アトラクション」という偽の目的地がない分、純度の高いディズニー体験ができるという意味ですぐれている。一二〇分間列に並んで乗ったソアリンはそれなりに楽しかった。IMAXレーザーで映画を見るという体験の大体二四分の一倍の面白さだ。タートルトークだけは行きそびれたが最後にインディージョーンズに乗るための移動の最中にタートルトーク体験者による実演をしてくれたのでディズニーシーの目ぼしいアトラクションのすべてを堪能したことになった。インディージョーンズには最後ということで五〇分並んだのだが、あれに五〇分並ぶというのはいくらなんでも、時間が無限にあるという想定をしていないかぎりありえないことで、「永遠の若さを得られる秘宝」が本当に見つかるのかもしれないと疑った。ジェットコースター好きにとってはそうでもないと説明がつかないほどショボい内容だった。
ソアリンに並んでいるときに水上ステージが始まってそれを塀のなかから聞くことに、最後の花火はインディージョーンズの敷地の中の植栽越しに木漏れ日のようにして見ることになったのもポイントが高かった。ビッグバンドビートが抽選に当たった人しか見られないようになっているのも意味がわからない。自由席への行列には三回並びそこねてステージをひとつたりとも見られなかった。
さすがにもう二度と行かないと確定したのはソアリンに並んでいるときだったが、二度と見ない景色だと思うとなんとなく惜しい気がして写真を撮りまくったりした。時間いっぱいまでシー内部にいた。夜の時間におさえた照明で全体的に暗くしているのは面白いと思った。
しかし結局、新宿渋谷でぶらぶらするほうが百倍面白い。行く場所を選べばアホみたいに行列に並ばないでもいいし。ただふたりで一緒に行きたい場所ではあったので、そこに行くことができてよかった。正直ちょっとだけマシーンと化している感じだが。

2023/11/17 今日
はじめて行くのに道を知っているような気がするところにいてバスに乗る夢を見た。バスに乗って向かっているのは、政治の会合だった。褒められることを何かしてそこに凱旋のように向かうのだが、褒められることを当然と思っていないような顔をしようと道すがら考えていた。道を曲がったときに突然旧友に出遭う。気を引き締めているモードだったので相手の感動をいなすような態度をとってしまい、若干の自己嫌悪におちいった。そのほかにももりだくさんの夢だったのだがほとんど思い出せない。
在宅バイト。やらないといけないことに追いかけられ、何やってんだかという思いでものすごく憂鬱になってしまう。夕方になってやらないといけないことを消化してしまったのと、金曜の夜が近づいていることでだんだん元気になってくる。ザ行は一時間半発生。最低なのだが強いて最低最悪と考えないようにすることで余計なストレスを回避して粛々と雑務をこなす。どんなタスクが降ってきてどれほど締切がタイトでも、どうせ全部雑務だ。
終わり次第スタバにきて『数の値打ち』を読み始める。図書館にも置いておらず、大学の図書館にもなかったので四四〇〇円にやや尻込みしながらも購入した本。お金についての吝嗇はどんな対象についても自動で生じるのだが、一個は例外を持っていないとただのコイン集め人間になるので放出する対象をあらかじめ絞った上で決めておくことにしている。一応その対象が本だ。バイトでの消耗があってサルトル哲学序説も読みたいがちょっと無理そうだ。バイト用の頭脳消費をこちらまで持ち越さないようにパーティションを切りたい。

20231115

日記248

夜端

2023/11/14 昨日
スタバですこしだけ小説が進む。帰宅後録画していたテレビを見る。月曜から夜ふかしあまり面白くないので途中でやめる。ご飯は鶏のスパイス胸肉(三割引)。三〇分単位での寝不足気味が溜まっている感じがしたので早めにベッドに入ってねむる。

2023/11/15 今日
在宅バイト。タスクをばんばんやるというよりは溜まっていたのを消化して、勉強会なるものに参加する。ザ行なし。仕事途中にも読み進めたおかげで胎界主の二部を読み終わる。心が晴れやかになるラストに心洗われる感じがした。オーラスのきれいな絵のたたみかけはすごい。実感として運ばれるのがわかる。それしかないという結末なのに自由を感じる。
以前、胎界主を読んだときにも不安定になったような気がするが、今回胎界主をあらためて読む二、三週間ぐらいのあいだにも気持ちが不安定になった。こう言うとメンタル不調に結び付けられそうだが、むしろメンタル的には好調といっていいぐらいで(毎夜八時間ちかく睡眠をとっているおかげもある)、頭が働く状態だからこそ、ある問題についてネジが噛み合った状態で正面に近い角度で考えるからこそ、想像力のリソースが不必要なほどそこに振り向けられることになる。そこというのは死のあとに広がっている無限のくらやみのことだ。せっかくこんなにも光を感じられるのに、それがいつまでも続かないということに耐えられない。最初に戻って同じことを繰り返すでも何でもいいから光が消えることのないようにしてほしい。胎界主では死に瀕したキャラクターがガタッガタッと震えることがよくあり、大体の場合すぐに悲惨な死を迎えることになるが、彼らがおそれているのは死に方の悲惨さ(だけ)ではなく、死ぬことの悲惨さなのだと思うし、それを見て震えているのだということがわかるから、それがいずれ自分にも訪れる具体的なイベントとして感じられるうえ、その先については一切わからないというくらやみを連れてくるから、もともと持っていた恐怖心が長々と揺り動かされ続けることになる。ただ、手足がばらばらになったりトマトのように押しつぶされて死ぬことの恐怖やそれに伴う具体的な痛みで、死の恐怖を麻痺させることはできると思う。それは最悪を越えていく最悪だ。質が違うものなので、両者を比較してそれよりはマシと思うこともできない。死を考えるにあたっては畳の上で死ねるからマシだということには一切ならない。
死に向き合うということに取り組んだ作家はそれなりにいる。昔は彼らのことを考えるのがちょっとした気休めになっていた。今は昔に比べて死について考える能力が減ったから気休めの必要性が目減りしている。今はむしろぼーっと弛緩した状態から意識を復活させる呼び水になっている。やがてもうすこしすると煩わしささえ感じるようになるかもしれない。たとえばカミュについて「若い」なんて言ってみたり。今はカミュのことを若いとは思わないが赤いというイメージはある。……それは幻想水滸伝2の影響だ。

20231114

日記247

ドアイズオープン

2023/11/13 昨日
スタバの前にケーキを買っておいて、スタバのあとにワインを買いに行く。アマンディーヌというケーキと白のスパークリングワイン。ダイエーで売ってるものでそんなにすごいものでもないんだけど、普段買うものに比べれば少し良い値なのは間違いないので、こういうときには名前を覚えておくようにしたいと思ってレシートをもらったんだけどそのレシートをどっかやってしまった。帰ったらポークソテーとりんごの果物ソースのご馳走が待っていた。
差し向かいでご飯を食べるといかにも食事しているという感じがある。同じダイニングを使っていても昼間の飯は我ながら自分から自分への給餌という印象がある。自分でもそう思うんだから傍から見ると立派な餌やり風景だろう。餌をあげる側になっても餌をもらう側になってもべつにかまわない。
気まぐれでオーストリアのチャート上位の曲をかける。どれだけオーストリアでチャート上位だろうと、ここに到達するまでの距離とわれわれの曲そのものへの無関心によって「名もなき歌」にされた音楽たち。何曲聞いたかも不確かだが時間から予想するとだいたい五、六曲だろうか。だっせえクラブミュージックみたいなのもあった。良い気分だったし礼儀だと思ってちょっとだけ踊っておいた。
進撃の巨人の最終章前編を見る。胎界主を読んでいるタイミングだとスケールの「ちょうどよさ」を感じてテンションが上がりきらない。最終決戦まで生き残るだけあってなのか、登場人物が皆とても考えていて考えたことを良いタイミングで口にしているのはすごいと思う。漫画で気にならないこともアニメの時間の流れになると気になるというだけのことかもしれない。PLUTOもそうだった。最近だと呪術廻戦が例外で、あれは漫画作品であると同時にアニメのコンテのようなところがあるのでアニメを見ていると原作再現どうこうというより、作品としての完成形になっている感がある。
進撃の巨人は何も考えてない枠がサシャの死とともに終わってしまったのがどうにも悔やまれる。子供サイズの人間もしっかり考えることができているから、何かを考えているように見えないキャラクターがすべてモブに見えるという問題がある。単に好みの問題でべつに作品の問題ではないかもしれないが。
思考実験的な要素のある劇作品だ。何らかの形でという但し書きが付いてあったとしても「現実を反映した作品ではない」ということは強調しておきたい。名作とされる文学作品でも同じで、だからといって評価が下がるということはないが、受容の力が弱いと「リアルだ、あれが現実だ」と口にすることもあるかもしれないのでそれに対して釘をさしておきたい気持ちがある。妖精が出てきたり、お化けが出てきたりする作品がリアルな現実を写しとったものではないというぐらいの意味だが、とにかくあれは現実ではない。
ねむる前にも胎界主を読んでようやく生体金庫にさしかかる。基本的に何回読んでも面白いし読めば読むほど味のする漫画だが、『生体金庫』だけは記憶を消して読みたい。

2023/11/14 今日
在宅バイト。最近の憂鬱の正体は今日の打ち合わせだったのか、一日が終わる頃には塞ぎの虫もかなり落ち着いた。胎界主を読みなおしていることによる効果だと言いたいぐらい、もし本当にそうだとしたら自分で言っていて馬鹿らしいぐらいの理由だが、実際に憂鬱が相当程度やわらいだのは事実で動かしようがない。
胎界主への文句ではないが、胎界主と胎界ブツとの区別がはっきりしていてスイッチできないところがどうかと思う。レイスや悪魔連中は確定胎界ブツでかわいそうだ。入れ替わり戦ぐらいやってあげてもいいのにと思う。しかしそれを提案したところで向こうから却下してくるから結局ナンセンスというか、だから確定しているのだろう。確定してからの時間がスケール違いなほど長く存在が確立しているというのも不利に働くのだと思う。存在を確立できなかったものはただただ静かに退場していっただけだろうから適者生存というかなんというか。
ロボットはどれだけ進歩しても人間にはならないというのを真だとすると、人間になるのをゴールにするというのが不合理で、ロボットと人間をひとまとめにしたくくりを作ってそのなかでより高次の存在になる方法を探求するのが合理的だ。それは人間がただ人間であるということに満足せず、より良い者になろうとするときに一部重なる道だろう。人間にとって「並走者あり」という状況が、いつまで続くのかわからないながら生じ始めているのだと思う。こういう道を行こうと思ったときに虚構は役に立つ。『Against the Way』はその道を立てたうえで反対方向を目指す試みだ。アニマルへ。退行だ何だと言われても関係ない。もっとアニマルへと言うところに眼目がある。「もっと」という積極性、積み上げる意思がひとつポイントになるという予感がある。
『有吉弘行の脱法TV』という番組を見る。有吉は上岡龍太郎を尊敬していると公言するだけのことはある立派なテレビタレントだ。ちゃんと発言力を充分に増やしてからおもむろにギリギリ可能な発言をしているし、テレビツイッターインスタグラムとメディアを正しく玩具にしている。
ザ行を三〇分で切り上げてスタバにくる。『サルトル哲学序説』を読む。読んでいると理解しようとして読むのでつい「うんうんそうだな」などと言ってしまったりするのだが、概ねその通りだと思ってしまうのだが、一部飛躍を感じた箇所があった。
八〇ページ
密室に胡坐しつつ、能うかぎり己れを外界から遮断し、能うかぎり純粋な己れを識ろうとすること――近代精神の幾多のエリートたちがそこに一途な情熱をかたむけたあの凄惨な自己追求は、所詮は無益な試みにすぎなかったのだ。
これはわかる。
むしろ密室の外、物や他者あるいは社会への積極的なはたらきかけのなかに、真の自己は現前するものなので、ここに、存在論的なものはつねに存在的なものに相即してのみ存在し得る所以もあるわけである。
はてな。すくなくとも前段から自動的に導き出されるものではない。
自己への追求をはなれて即他者へというのは納得できないというか、簡単にそれをしてもそれこそ無益な試みというか、きっかけになった行動の延長線上で思考しているにすぎないと思われる。
しかし、即自存在や対自存在のくだりは面白い。簡単に「他者へ」と言って解決を外に求める発想より、自というものにこだわるところにその方向に突き進もうとすることで「他者へ」を実践するような、その実践が浮かび上がってくるのを期待したいような心性があるのを感じて親近感が湧く。

20231113

日記246

そこほれ下北

2023/11/12 昨日
スタバで映画の感想を書く。終わってから古着屋にちょっと顔を出して四段ハンバーグの店「カブト」に行く。肉と飯だけで一〇〇〇円のメニューと瓶ビール。野菜のやの字もなく肉に全振りしているのが若者向けの店という感じ。池ノ上に住んでいたときにあったら近いのもあってめっちゃ通ってたと思う。
酒を飲みながらほっつき歩く。寒さは正直つらいのだが何のこれしきと頑張る。
そうは言っても外に長くいられる気候ではないので、帰ってPLUTOの最終話を見る。ゲジヒトもアトムも踏みとどまるところに一番人間性があるんだと思った。ロボットだろうが動物だろうが人間だろうが、踏みとどまるところに人間性の発露がある。アトムの作り出した美しい曲線は漫画ならではの表現だった。やっぱり原作を越えるのはむずかしいのだろう。だいぶ善戦していたとは思うし、ノース二号の回はすごく良かったと思うが。
夜は翌日の仕事のことなどがあってすごく憂鬱になる。気温が寒いという条件にどんどん弱くなっているのを感じる。首が寒いとすぐに正味一五分ほどで風邪がこっちを覗き込んでくる。
創作メルティングポットというサークルの『#お金がほしい』という本が面白かった。もともとよく読んでいたブログを書いていた人が編集した本で、まっすぐお金のことを題材にできるところにかえって徳の高さを感じる。どの人の文章も自分と同意見かそうではないかというのを越えてめちゃくちゃ読みやすい。読みやすい文章はよく水に喩えられる。水道水のようなカルキ臭さとは無縁でいながらはっきり衛生的だという安心感がある。文章の読みやすさについて本気出して考えるどころか、いわゆるリーダビリティには背を向けていきたいところが自分にはある。そういう拗ねたような姿勢でいると他人の文章の「読みやすさ」には頓着しない一方で、読みやすくしてPVを増やそうという意図が見えるとそれだけでイライラが募って読みたくなくなるのだが、そういうことを思わせない文章だった。要するに自分のセンサーに引っかからないだけ意識を割いて文章を綴っているということだろう。文章がうまくなりたいと一回でも思ったことのある人は、自分と比べてかなり高いレベルでそれが実行に移されているのを見るとテンションが下がるものだと思うが、そうならないように正直ちょっと努力した。
俺はもう文章がうまくなりたいとか思っている場合じゃない。とにかく量を書いて書き慣れていくことは必要だが、上手な文章という価値観は捨てた。伝えたいことが伝わるだけの文章力があればそれで充分だ。伝えたいことが伝わるだけの文章力……。
こういう言い方をすると言い訳臭くなるかなあと思って言うのを控えるという考え方があるが、言い訳を言いたい気持ちはたしかにあるんだし、言うのを控えるよりは言ってしまったほうがかさが増えるのは間違いないから、とにかく書いてしまったらいい。消したり修正するのはあとからでもできるんだし。
できるだけ自分の実感から離れないように書く。本当それだけでいい。まとまった量を書く人は書くことで実感を追い越していくんだろうけど自分にはその心配はまだ全然ない。

2023/11/13 今日
在宅バイト。仕事に追いかけられるうちに一日が終わる。ザ行たっぷり一時間半……。外に出るためにシャワーを浴びているときにちょっと元気が出たのだけど、外気の寒さにフィジカルに言葉どおりに萎縮してしまう。
スタバにやってきてMacを開く段になってようやくすこしずつ回復していくのを感じる。「俺は冬のピリッとする感じが好き」と今年もまだ言っていたいのだが、油断していると内心のともなわない棒読み台詞になってしまう。しっかり防寒のうえ、冬が好きと言っていく。具体的にはまだマフラーには早いとか気にせず首を守るためにマフラーをつけていく。さてこれから本を読むか、小説を書くか、ぼーっとするか。少なくとも三択ある。それにしても仕事が嫌だ。暇が潰されているといういつもの嫌さに加えて、人に依頼したり催促したり質問に答えたるということを一切やりたくないという積極的な嫌さがこの二週ほど続いている。
東京に来た頃は東京にいることが当たり前ではなくて、家賃を払うために働くという意志力があった。今も家賃を払うために働くのは同じなのだけど、東京にいることがいつの間にか当たり前になって意志力が低下していった。東京にいるのが当たり前じゃなかった頃は緊張感があったし、しっかりしがみついているとかえってしがみついている感はなかったのだけど、今は余裕でしがみついている分、しがみついている感が多く出てしまっている。今の仕事とは全然違う接客のバイトとか、肉体労働系のバイトとかをしたほうが良いのかもしれないと思ったりする。お金のためというよりは自分という人間のために。必死になってやるということをやらずに、しかも毎日きっちり追い立てられるのは意味がわからない。バイトよりは多くお金がもらえるのと在宅勤務が多いのはメリットだけど。デメリットが自分でも知らないうちに奥の方で進行しているような気がする。こういうのはいかにも中年の考えそうなことだが俺は中年だ。今の仕事にもっと前向きに取り組めるようにするには何が必要なのか、ちょっと考えてみてもいいのかもしれない。良いアイデアはたぶんあるだろうし、思いつくのも不可能じゃないだろう。

20231112

『ザ・キラー』を見た

ブログで毎日日記を書くようになって、受容した作品について個別に感想を投稿することがめっきり減った。とはいえそんなにハイペースで感想文を書いていたわけでもないので、実際にはちょっと減ったレベルの話なのだが、ペースが増えた日記との比較衡量で割合としてかなり減ったことによってめっきり減ったと感じるようになったのだと思われる。
前回感想を書いた映画が何だったかをちょっと思い出せないのだが、それから以降面白い映画がなかったというのではない。ただ、今回見た『ザ・キラー』という映画は自分の好みに合う上に、見せ物としてのクオリティも高い作品だったので、感想を書かないではいられないという状態になった。
まず、この映画を知って見ようと思ったのは先々週ぐらいでそのとき映画館に行くつもりだった。しかし、Netflixで配信されるということを知って映画館行きを取りやめた。面白いことが約束されている映画は映画館で見るようにするのが基本だということを考えると、この判断はちょっとどうだったろうと、のち友人の指摘もあって後悔しかけたのだが、家のテレビでこの映画を見た今となっては若干の後悔は残らないではないものの、ほんのすこしの強がりをするだけで「これでよかったのだ」と感じられている。それは今自分が映画に求めるものと、かつて自分が映画に求めていたものとが少しずつ乖離してきて、前者を映画の醍醐味だと捉える視点以外にも映画の魅力があるのだという当時の自分にとってはかえって当たり前だったほうの視点についても再認識することができたことにある。ようするに、画面や音響の「迫力」というのを映画および映画館から受け取られる特別な何かという考えに傾斜するあまり二の次になっていた、筋の運びや、演出・編集などによって得られる緊張感と興奮についてその効果の大きさを実感し直せたのだ。
いくら部屋を暗くしてみても、五〇型であっても、テレビ画面はテレビ画面であって、映画館にその迫力でまさるところはひとつもない。その差はとくに音響面において顕著だ。それにもかかわらず、一切の退屈を感じる暇もなく、スマートフォンだったり各種の別のことに意識が向く余地がゼロだったことで、その施設の装備によって左右されるのではない単純な映画の面白さについて実感できた。ひとりの職業暗殺者のモノローグで映画は展開されていくのだが、殺人するための準備や移動のシーンが多くをしめ、殺害あるいは暴力シーンはかなり少ない。
主人公の殺人者は何度も自分に言い聞かせるように同じお題目をとなえる。「インプロビゼーションは排除しろ。起こるであろうことを予測しろ」「感情移入するな。感情移入は弱さを生む」しきりに繰り返されるこれらの文言によって、場と、さらに重要なことに自分とをコントロール下におこうと努めていることが明らかになる。暗殺というのは誰にでも務まる仕事ではないものの、「通常の」どんな仕事もある程度はそうであるようにセルフコントロールの先にその成功がある。だから殺人者は、無駄な思考の流れに引き込まれないよう思考を停止する術としてのルーチンも持っていれば、体調を万全に整えるための食事や休息方法を徹底してもいる。一般的な報酬とは別水準にある高い報酬をもらうために必要なセルフコントロールがまずあって、その過程、その徹底をこの映画はスムーズに見せてくる。通常見られないはずのある領域のプロフェッショナルのドキュメンタリー的な側面があって、それが特異でもあるからどうしても目を引く。しかもイレギュラーな事態に陥ってしまったため、通常のスキームのなかにいないために、判断を迫られる局面がチャプターごとに現れてくる。主人公の背中を追いかける観客は、自らであればどうするだろうかと考えるための、あるいはこの主人公はどうするだろうかと考えるための時間を与えられる。その道のプロであれば、しかも成功した熟練のプロであればこうするだろうという行動を選択していく。面白いのは、ひょっとするとコンマ一秒にもみたないであろう逡巡が画面に映っているところだ。それは本来であれば映るはずのないもので、まぎれもないフィクションなのだが、この映画の見どころとして挙げられる。もしそれがゼロであれば『ノーカントリー』のアントン・シガーを描写することになる。この映画でもモノローグをカットしたバージョンを見れば、ほんの一瞬のためらいをためらいとして感じとることがうまくできず、ただただ冷酷な、対面した人に死をもたらすマシーンとして見えるはずだ。それはそれで面白い映画になるだろうが、いくらか味気ない、ノーカントリーの視点を変えた二番煎じになるのだろう。相手の死を完全に握っている場面での会話にこの映画のシリアスな面白味があり、間違ってもアクションシーンにそれがあるわけではない。むしろ派手な戦闘シーンには若干鼻白むところがないではないが、アクションがあって主人公が傷を負うという映画的な盛り上がりのためには仕方がないものだと思う。ほかにたとえば、ウェアラブルデバイスを使用している身からすれば音声で通知をする設定になっているというのも気になる。こういうのも映画的表現からくる制約なのだろうと、納得はしないまでも理解できるのでわざわざ細かいところあげつらってこの映画の失点にしようとは思わないが、ドキュメンタリー的な面白さだけから見ればマイナスにはなりえる箇所だ。
ただ、この映画がドキュメンタリー色一辺倒になっていたとすれば全体としてばこれほど面白いものになっていたかは疑問なので、バランスを考えてもこれでよかったのだろう。アマゾンで購入した物品を受け取ったあと空き段ボールをゴミ箱の上に置いたシーンは経済的であると同時に笑えるという特有のユーモアがあった。
関係ないが、最近見た粗品の動画に面白いコメント紹介のコーナがあった。コールオブデューティというFPSのシューティングゲームをやっているときに、消極的な戦略をとって戦わずして勝とうとして失敗し、無様に殺されるだけの結果に終わった粗品のゲームリザルト画面で「0キル・1デス」と表示されたとき、「普通の人生やん」というコメントがあったのを一位にしていたのだが、この映画を見ているとそれを思い出した。
極端に視野を狭めることがこの仕事の成功の秘訣のひとつだと独白していたが、そういう考え方の提示と、その過不足ない表現と妥当性が、プロの暗殺者というものを想定するという虚構のなかで自立しているのが面白い。ひとつひとつのシーンに緊張感があって、単体で見ても面白い形をしているのに、全部が寄り合わさって見えるひとつの模様が、個人の人生哲学の形として浮かび上がってみえるというのも自分の好みに合う。前者がなく後者だけがあるという映画は、好き嫌いはべつにして質が高いとは言えないが、後者の「模様」がなく前者のきれいな形があるというのはそれだけで見れる作品、質の高い作品ということになる。だが、この映画がとりわけ良く、とくに面白いというときには、当然その両者を掴んだうえでそう評さざるを得ないのではないか。

日記245

そこほれ渋谷

2023/11/11 昨日
文学フリマ出店以来はじめて人の本を見るということをした。面白そうな本やグループがいくつかあったが一番惹かれたのはザンバラという集まりだった。中身もスタイルがあって読ませるのだがなんといってもまず表紙がかっこいい。
今回の素人文学のテーマが「透明」だったことにかこつけて無人販売スタイルをとったが、透明人間の接客は好評だっただろうか。前日にテンションが上がって作成した「松谷のことをもっと知ろう」というビラについてはまったく消化できず、かるくスベっている感覚をおぼえてしまいテンションが下がってしまった。アイデアそのものはいいアイデアだったと思うし、デザイン・コピーともに気に入っているので、今後の出店でも同様のビラを用意していこうと思う。これは埋没費用にとらわれているのか、それとも失敗だったと考えたくないのか、ちょっと判断にこまるところがある。頭が冷えてから評価・反省をするようにしたい。
ブースに座っている時間は都合三十分ほどだったのだが疲れてしまい、すぐに帰る。下北のバビシャーでいつものチーズナンを食べる。夕飯時最初の客になったが、インド人のようなお兄ちゃんのご機嫌接客が呆気にとられるほどの高テンションで「次元の違い」を見せつけられる。なんの腹いせにか食い逃げしてやろうかと思ったが、ナンのおかわりをしたせいでお腹いっぱいになって身のこなしが鈍くなっているだろうから止しておいた。電子マネーで決済。
帰宅後、部屋を暗くして『ザ・キラ―』を見る。のっけから面白い。派手なアクションシーンがあるわけではないのに緊張感が持続するのはさすがフィンチャーだ。
映画を見てからはダラダラと過ごし、十二時前に夜の散歩にでかける。セブンイレブンに大騒ぎしている大人数の集団がいた。ちょっと面食らったあと考えてみると、下北沢は若者が多いとは言いながらこういうのが意外とめずらしいのだと気づいた。そもそも終電の時間を過ぎると一気に人がいなくなるし。
帰ってからも夜更かしをして話し込み。就寝は二時すぎになる。

2023/11/12 今日
昨夜の夜更かしの影響で朝が無くなる。十一時すぎにブランチのフレンチトーストを召し上がり、昨日買った本などをゆっくり読んでいたら下北沢に出かけるのが十三時すぎになる。ボーナストラックのイベントに顔を出してフリーの台湾コーヒーをごちそうにになる。昨日今日でコートが必要になるぐらいの寒気がきたので温かいコーヒーが嬉しかった。性愛についてのアーティストの作品展示をみる。そこで売られているセーターがよかった。四万円という値段を度外視して購入を検討しそうになるレベル。デザインがかっこよくて色味がかわいいという最強の取り合わせで、そのうえ素材の上質さも感じられた。お金があったら、もしくは四分の一の価格であれば即購入していた。今も頭の中にそのセーターがいて正直あやうい。

20231111

日記244

霧雨・霞む輪郭

2023/11/10 昨日
出社の日。家ではサブディスプレイがあってある程度の効率よさをのぞめるのに引き比べ、会社では窓際の席に追いやられているというのもあってHDMI対応のディスプレイが用意されておらず非効率な作業を強いられる。むかつくので、というか非効率に甘んじていると定時で帰れないので、ディスプレイのあるフリーの席に勝手に移動して作業をこなす。月次でやるべき仕事をつい忘れていて慌ててバタバタするも、ザ行ほとんど無しで帰ることができた。30分から1時間勤務時間を縮めるために一生懸命働いて帰りがけには頭がくらくらした。
しかし金曜日の夜を無為に過ごすというのはせっかく確保した時間を捨てる行為なので、頑張って飲みに出かける。翌日に控えた文学フリマの出店準備諸々を済ませた上で下北沢の街に繰り出す。ちゃん系ラーメンというのを初めて食べたがうまくて感動した。チャーシュー麺をたのんだところ、丼一面にチャーシューがしきつめられていたのがとくに嬉しかった。
家に帰って製本仕上げをしようとするも用意していたホッチキスの針が立たず予期せぬピンチに陥る。ネットで調べた針と糸を使った製本法をやってもらって事なきを得るが、ねむるのが遅れて翌朝の設営ボランティアへの参加を断念する。呪術廻戦のアニメを見る。漏斗が躍動しているのを見てアニメ制作のスタッフの意気を感じた。他局面展開だけど見やすいのと渋谷の景観を補完しているところがとくに良い。渋谷事変全編通じて渋谷が第二の主人公ぐらいロケーション描写に力を入れているが、今話はとりわけ素晴らしかった。ストリーム方面もマークシティ方面も両方とも。

2023/11/11 今日
文学フリマ設営のため、十一時に会場入りする。出店者しかいない時間帯でももう始まっているのかと思うほど賑わっていた。会場外で並んでいる人やモノレールに運ばれてくる人が入ってきたらどうなるのか。行列でくたびれるだろうし文字をゆっくり見る時間もなさそうだ。十一時五十分アーリーオープンのタイミングで一旦席を外し、カフェに来て日記を書く。犬のシュレディンガーと猫のパブロフ(通称:犬猫)は2020年の作でいわゆる新刊ではないが、若干の修正を施しているのと新刊発表時にカットした場面を収録しているというのが言い訳としてある。そもそも全部あわせて三十部も出ていない作品なので二冊買ってしまったという人は出ないはず。
それよりも今年のたしか三月頃から着手した小説を完成させられなかったことについて申し訳なく感じる。これにしても自分にむけて申し訳なく感じるだけで、自分にしたところが、長大とは言えないまでもある程度のページ数になる長編に分類されるような作品を作ろうと考えているということもあって大目に見ていて全然気にしていない。
しかし素人文学のメンバーは誰も新作を書けなかったのでそれはどうしようもない。すでに支払ったブース代ももったいないし、過去作でお茶を濁したかたちだ。
懐かしのシアトル系コーヒーショップを拠点に、カタログを見て気になったブースを見に行く。純文学という言葉は嫌いだが自分が気になる小説は純文学カテゴリに多い。文体に力点を置いた作品には短編が多い。内容以前にちゃんと本の形になっている印刷物が安い値段で売られている。

20231109

日記243


2023/11/08 昨日
在宅バイトだがザ行は発生せず。スタバに行ってすこし読書したあと、文学フリマで出す小説の印刷をするための作業。セブンイレブンのプリンタの条件によって上下巻に分かれることになった。
トリキにいって満足に飲み食いしたあとチョコモナカジャンボを買い食いして帰る。
大学時代のユニットメンバーとの定例で30分強、話をする。音楽活動が順調で新曲の量産体制に入ったらしく楽しみだ。こういうのが何よりも豪勢な話だと思う。こういうのに比べると高い金を払って何かをするというのは酒のつまみにしかならない。酒のつまみも大事っちゃ大事だけど。
呪術廻戦の「バカサバイバー勝ち残れ」を見る。相方ができないといって悩む高羽がカップ麺をすすりながらテレビを見て「いいなあ」とつぶやく場面にぐっときた。呪術廻戦はやっぱり面白い。魅力的なキャラクターが多いし、彼らで人団子(ひとだんご)を作るのが上手だ。

2023/11/09 今日
在宅バイト。作業しながらTVerで水ダウの名探偵津田回を見る。言うほどたいして面白くはないじゃないかと思って見終わったが、最後の誰かのコメントにもあったとおり「一瞬で一時間がすぎた」。こういうコンテンツは評価以上にすごいところがあるのかもしれない。まあ俺はあまり高く評価しないが。ザ行ほぼなしでスタバへ。スタバにきて小説を書くのがルーチンになっている。ルーチンにならないと積み上げていけないのだからある程度はこれで良いのだが、あまりルーチンになりすぎると、感覚を使わないで文字を書くだけになって本末転倒になるということを思った。脳を掻くような体験をいつも歩く道を歩きながらでも掴み取ろうとしていかなければならない。考えることが第一で書くのはその手段だ。考えるというのにとくに制限を付ける必要はないわけで、できるだけ感じることに近づけるように、つまりは鋭く感じるように考えないといけない。書くときに手が慣れていないためにあまりイケてない表現になったとしても、それに考えることを合わせていくというのだけはやらないようにしたい。
本を読むのもまったく同じで、読み始めた本を最後まで読み通すというのは自分にとって当たり前のことではあるが、どこからか読み終えることが目的になってしまうとすればそれをやる意味はひとつもないと思って気を引き締めていないと駄目だ。
『サルトル哲学序説』で存在の話を読んでいる。存在するというのは人間に(存在するというのを自分ごととして真剣に考える人間に)とって欠かせない問題なのだというのが書かれてある。自分=存在には「即自存在」と「対自存在」との区分があって、即自存在はそのままもう自分でそれを疑う余地なく自分という存在を存在(自分)として認めているもののこと。一方の対自存在というのは区分けされた自分というのを存在(自分)に見てしまう態度のことで、輪郭線を引くことで自分の領域を定めようとするもののことだと思っている。「自分は当然自分である」と言うとすれば、それは即自存在のメッセージのようでいて、それを言うということによって対自存在のメッセージに転化するのではないか。それは言う/思うという単純な差異ではないはずだから、自分と考えたら即(そのまま)対自存在だとみなしていいのではないか。分化がなく区分けされない「自」というものが即自存在だとして、それを考える必要はあまりないし、それは何か他の概念の土台として準備されたものにすぎないのではないか。
家では『胎界主』を読んでいる。胎界主というのは胎界ブツを規定する様式だ。容赦なく簡単にこだわりなく非対称性を導入している。他者の問題を考えるときに非対称性は避けては通れないが、真っ向からやられるとかえって気持ちいいというか、一部の本当に問題なのかわからない問題がすっきりするというのはある。その先があるとして、他者問題のその先を考えるのにうってつけだ。本物と偽物があるというのを前提にしてしまうことで真贋鑑定のような時間を取られるだけでそこまで効果あるとは思えない難題を回避できるわけだ。ただ、他のたくさんの漫画とはちがってその回避の様式について自覚的なので、引っ掛かりとしてかえって他者のことが意識に上りやすい。前提を前提として描写しないのが多くの漫画、それを簡単に描写して済ませるのが胎界主という違いがあり、特徴的な漫画だと思う。絵柄も癖があるし。

20231107

日記242

セ・ブーン(入り口)

2023/11/06 昨日
スタバのあと王将に行くつもりが月曜は22時閉店というイレギュラーに遭遇して中華料理への道を阻まれる。ミカンのほうに戻るも目当ての店はあれもこれも閉店時間を過ぎており入れず。仕方ないので次次善の次ぐらいの坦々麺の店に入る。これが本格的四川料理っぽい感じでテンションが上がり追加料金を払って痺れ倍増しの麻婆豆腐をたのむ。青山椒のパワーで辛さを感じないぐらい舌が痺れ、胃が心配になったので帰りのコンビニで「胃にきびしいのを抑える効果のある」飲むヨーグルトを買って飲む。
山椒の覚醒効果で全然寝付けないということもとくになく12時すぎにねむる。

2023/11/07 今日
在宅バイト。タスクをバリバリこなしてザ行三〇分。だがラジオ体操とシャワーは挟めた。
スタバに来て以前書いた小説『犬猫』の細かな改訂作業をする。三年前に書いた小説とはいえまだ世には出回っていないので今回のフリマはこれだけを出品することにする。書いているほうの小説は次回にまわす。三時間ほどぶっつづけで画面を睨んでいたので目が疲れた。日記を書いてから言い訳のようにちょっとだけ本を開いて帰る。

20231106

日記241

美しき遵法精神と

2023/11/05 昨日
朝から外出する。TCBの秋の行楽散歩三昧。この日はパワフル全快で春日部にいく。湘南新宿ライン車内で集合し大宮に出て、そこから東武パークライン線の各駅停車春日部行きに乗り込む。駅を出てすぐのところに小学生の絵が工事中のフェンスに張り出されていたので鑑賞する。小学四年生の描いた絵だったが、描き手それぞれのやりたいことのイメージが直接見て取れる絵が多く面白かった。そのまま朝ごはんを食べられるところを探してイトーヨーカドーとは反対側のエリアをうろつく。甘太郎というお店を見つけてたこ焼きを食べる。百円の甘太郎焼、十五個で三百五十円のたこ焼きはそれぞれ美味しくて、この値段が見られたことに感動をおぼえた。しかも店のイートインスペースを快く貸してくれたから座敷で予期せぬ朝食時間を得て、初っ端からかなりほっこりした。しかしその後角を曲がって踏切を渡る段になると都合五本の電車を見送るはめになり、あまりの待ち時間に悪態をつきたい気持ちになったのですぐにプラマイゼロになった。
駅の反対側のエリアでサトーココノカドーに行き、何枚かの写真を撮影したあと、ららぽーとならぬララガーデン春日部を観察する。ゲームセンターまわりにクレしんコーナーがあり、そこで何枚かの写真とプリクラ機でプリクラを撮る。照明が当たる狭い部屋に大の大人ふたりと小の大人ひとりが入ると熱気がこもって異様な暑さになった。動画撮影もあるということで相応のテンションにもっていこうとしたせいもある。映画館で翔んで埼玉のポスターが物欲しそうに飾られてあるのを確認してララガーデン春日部をあとにした。
やあ、こんにちはという定食屋に行こうとするも日曜定休だったので断念し、サトーココノカドーを見学したときに目をつけていた萬来軒に行くことにする。店内は賑わっており、ぎりぎり列に並ばないでもよかったとして問題ないほどのすこしの待ち時間で中に入れた。永遠のスタミナ丼の大盛りをたのんだ。並・中盛・大盛りと選べる三サイズだったが、大盛りの名に恥じない食べごたえのある量のスタミナ丼だった。甘辛い味付けでいくらでも食べられるほどおいしかった。
駅に戻り、反対側に渡るための地下道を通って午前中のエリアに戻る。われわれの散歩では何がなくともとりあえず川と橋を目指すという取り決めがあって、地図で川を確認したためそこに向かうことにした。部活に行っていたとおぼしき高校生が川沿いをチャリで一列になって走り抜ける場面に遭遇した。公園橋でいくつか並べられた裸婦像らと記念撮影をして春日部をあとにする。有名アニメキャラ以外何もないと言っていいただの地方の街だったが、何もない地方の街に特有の落ち着いた空気があってよかった。
電車で復路をいく。大宮公園駅で降りて公園のほうに向かうと大量の弓道男子とすれ違った。もしここでゾンビが出るような緊急事態になったらどうなるんだろうというつまらない想像を口にしている人がいたが、気を取り直してファミリーマートで氷結を購入してから公園に向かう。ボート池でぼーっと酒を飲む。どのコンビニを使うかというのが宗教・思想上の対立を招く事態だった場合、自分は確実にセブンイレブンに帰依するだろうと思ったが、つまらない想像なので口には出さなかった。そしてセブンイレブンに帰依しながらもファミリーマートを利用するときにはセブンイレブン教から付与されたチャームを隠して店内に入るだろう。ちょっと歩くと動物園が無料で開放されていた。無料なのでとりあえず行ってみると、小ぶりながらユニークな動物・鳥がいて思った以上に楽しめた。
大宮駅前の前にもいった大衆居酒屋(都心にあるなんちゃって大衆居酒屋ではない正真正銘の大衆居酒屋)をのぞいてみるも流石に満席だったので飲み屋街をちょっと歩く。お通し代席料なしでビールを二百円台で出す店があったのでそこのテラス席で飲む。最近オープンしたらしく小綺麗でよかった。ほとんど飯を注文しなかったこともあるがひとり二千円でたっぷり飲めた。
何かをやるためにはそれをやる環境を整えることが第一だと思うが気分が乗らない等の理由でそれができない場合、あきらめるしかないのではないか。感情的な問題をクリアするほどの意欲がないのであればやはりそれをやらないということになるだけだ。
自分は誰かに気兼ねなく自分の意見を言えるようにするとき、誰かにとって発言力を下げる方向で動こうとしている。でっかいグローブさえ着けておけば思いっきり殴っても心配ないと思っている。自分の考え方が充分合理的でそのまま当ててしまうと相手を斬ってしまうことになるという意識があってそうするのが癖になった。結論だけを述べてあいだの論理を省略したり、自分だけに見える刀身をぶんぶん振り回していると当然発言力が下がる。裸の王様は何言っても大丈夫だから何言っても良いし何言っても良いと思って何でも思ったことを言うとストレスがたまらなくて便利だ。
楽しかったが七時前にひとり離脱。永福町でポスターを受け取る用事があったので湘南新宿ラインでとんぼ返りする。せっかく永福町にきたということで飲み屋にいく。鶴亀八番という店が席料チャージ料なし、居酒屋メニューながら焼きそば、鶏の唐揚げがおいしく良い店だった。ちょっとはずれた駅のお店には良い店がちゃんとあるということがようやく実感としてわかりはじめた。
気兼ねなく何でも話せる友人がいることはラッキーだ。このまえ久しぶりに会った友人はそういうやつが周囲にいないようで、非対称な関係しかないんだろう。彼は「俺にはコミュニケーション能力がある」として「知らない人にがんがん話しかけにいく能力がある」と嘯いていたが、そのコミュニケーションで相手の美点を引き出せているかは正直疑問だ。自分に売り出すものがあってそれを受け取ってもらうという目的があってのコミュニケーションだとすればその目的にかなったコミュニケーションは十全にできているのだろうが、その関係にはアシンメトリーなところがあるし、そのコミュニケーションに特化した人のコミュニケーション能力なるものには疑問の余地が大きい。それではたいして面白いものを生み出せないと思う。自分もそうなっていてもおかしくなかったし、そうなっていないのは運が良かった。三人というのも気が利いている。関係としてちょうどよくて安定していると思う。三人とも価値観がまちまちなのも良い。トピックごとに是々非々で都度都度二対一になったり一対一対一になったりする。一になったときに本気で理論立てて喋れるのが自分にとってはわりと得難い経験だったりする。
帰ってからPLUTOを見てねむる。朝から歩き詰めという印象だったが歩数を見てみると二万四千歩でよく歩いた日の平均に収まっていた。ところどころ休憩を挟むからこんなものなんだろう。

2023/11/06 今日
在宅バイト。しっかり働くがラジオ体操ができて定時で上がれるといういいバランスの日だった。終わってすぐスタバにいく。クラシックのほうの店員さんがエキウエのほうに来ていて「もうひとつの店舗にもいらっしゃいますよね。以前お見かけして」と話しかけられる。注文の仕方が特徴的なので覚えられやすいのだと思うが、おとなしめでゆっくり喋るタイプだが同時に凛とした感じもある、スカートの似合う立ち姿のきれいな人なので、そんな人に覚えていてもらって嬉しかった。しかし話しかけられる用意がなかったのと急なことで「こちらこそいつもお世話になってます」ともごもご言うだけで終わってしまった。
竹内芳郎の『サルトル哲学序説』を読み始める。アカデミズムに本当の哲学はないとまえがきで言い切っている張り切ったタイプの哲学の書で読むのが楽しみだ。途中スタバを中抜けしてモバイルオーダーしたNYバーガーを試しに食べてみる。グレービーソースの存在感が強い感じ。食べながらこれはNYには売っていないんだろうなと考える。私が好きなのは頭の中のかなり記号的なNYだから問題ないが、あまりおいしい食べ物でもないなと思う。
日記を書いてから王将にいって晩ごはんを食べることにする。

20231103

日記240

動線B

2023/11/02 昨日
在宅バイト。働くモードに入ってタスクをこなしていると、それ以外のときだと気にするような他人の意図だったり思惑を無視できてしまう。こうしてみると、個人の考えとして不合理な行動を取ることが仕事という理由を与えられることで簡単にできてしまうというのはいかにもありそうなことだ。役割意識に埋没してあえて断行するときには竹を割るときの気持ちよさすら感じられるが、そういう動き方をするのはその分だけきっちり人間性を損失しているのだと肝に銘じておかなければならない。しかしこの日は久しぶりにラジオ体操ができてシャワーもできたからそのことは手放しでよかったといえる。
定時に仕事を終わらせて食事に出かける。チーズナンでお腹いっぱいになるときにはそれ特有の満足感がある。帰ってきてからPLUTOの三話を見ていたが途中で寝落ちてしまった。寝る準備をして早めにねむる。

2023/11/03 今日
かなりしっかりめに寝た。意図せず早起きになったので胎界主の続きを読む。最近三周目か四周目か忘れたが最初から読み始めている。この漫画は作者から読者に向けた記号的なサービスが少ないこともありわかりやすくはないがちゃんと読めばちゃんとわかるようになっている。ツイッターの人が描くわかりやすさを重要視してビューを上げる式の漫画とは一線を画している。
午前中から豊洲までBBQに出かける。電車の乗り換えミスやらを繰り返して集合時間に遅れそうになったので会場までタクシーで乗り付ける。天気は絶好のBBQ日和。三面窓のBBQ専用コンテナハウスで魚介や肉を焼くという都会的エキゾチズムを肺腑に存分に吸い込めるイベントで去年に引き続き楽しかった。初っ端から透明のバケツに氷を入れてシャンパンを冷やすいかにもな画に思わず笑ってしまう。笑劇の書き割りのなかにいるような気分でとくに何もなくても笑いが出てしまうようなシチュエーションなのに、生ビール(PSB)ももらいに行き放題。犬あり幼児ありダンスサークルの大学生ありのまさに酒池肉林で、しかも自分はやらなければならないことはひとつもない一番気楽な身の上だったこともあり、手すさびに肉を焼いてみたり優しい大人に話し相手になってもらったりなどしてとにかく楽しかった。
帰りの電車では楽しみ疲れたせいか眠りこけて乗り換えに失敗する。永田町で乗り換えべきところを二駅乗り過ごし市ヶ谷まで来てしまったので折り返して永田町に戻って半蔵門線に乗り換える。さらに渋谷で東横線に乗り換えて代官山にいく。着いたときにはもう暗くなっていて驚いた。秋の夕暮れはつるべ落とし。
代官山書店で原倫子(ランニングガールズのひと)の個展を見る。まだ疲れていたので外席で座って休憩するうちにまた眠りこける。文学コーナーでちょっときになる本見つけたが買わず。『話の終わり』という本。原倫子の絵をもう一度見る。「話の途中」というタイトルの絵があって偶然の符合にちょっと愉快な思いをする。見に行った個展の題は「Tiny」というもので、自分は「ちいかわ」に代表されるような小さいという良さのことが嫌いだが、なぜか「Tiny」のことは良いと思った。ちいかわにしてもその概念というか実体そのものは嫌いになれないのだが、そういうものを直接的にちいさいかわいいといって喜ぶ怠惰な受容姿勢のことが嫌いなのにすぎないのだと思った。ちょっとひねるじゃないけど言葉を選んでくれるだけですっと受け入れることができる。まずタイニイという語感が良い。大きい兄を思わせる。あとはどれぐらい小さいのかをイメージさせる言葉でスケール感への意識があるのも良い。ある程度適当だったとしてもいい加減じゃないというのが担保されているうえで、ちゃんとある程度は力が抜けているバランス感覚。
元から知っていたランニングガールズはじめどれも良かったが、個展のメインの絵がとくに良かった。鳥のおもちゃとともに左下側に描かれた女の子ふたりの人形はどちらも良いが、あえて言うなら左側のネクタイを締めた女の子がとくに好きだ。下まつげがかわいい。
LUUPで神泉まで進んで電車に乗って下北沢に帰る。丸亀製麺で釜揚げうどんを食べる。ここでたっぷりのねぎとすりおろし生姜を食べていたらそれだけで風邪引かないんじゃないかと思った。
気温がそれなりにある日だったので汗をかいていた。帰ってシャワーを浴びてから家で日記を書く。

20231101

日記239

ハロウィーン

2023/10/31 昨日
夜、ハロウィンらしいことは何もせず。下北沢の街ではひとりのジャックスパロウと一体のゾンビが連れ立って歩くのを見た程度で、渋谷から来ただかこれから渋谷に行くだか言っている若者四人組とすれ違っただけだった。ダイエーでカツ丼を買って帰って、食べながらPLUTOの二話を見たのだった。

2023/11/01 今日
出社日。新しい人が来ていた。一個か二個うえの男性でおとなしそうだが気さくそうな雰囲気の人なので期待したい。仕事を進めているうちにあっという間に一日が終わった。定時で帰ってスタバに行く。こんな当たり前のことも久しぶりだと幸(こう)に感じる。福をつけるまでもないことではあるが、こういうすこしの幸を味わっていきたい。
三日分の日記を書いてから小説をすこし進める。プロットがないまま場面がちょっとずつ展開している。このやり方では日が暮れてしまうんだろうが、べつにそれでかまわない。小説の執筆が自分ひとりの世界で終わるとしても何かを諦めているとは思わない。

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