蓮實重彦の書く文章は面白くてつい読んでしまう。何が面白いかといえば、彼に特有の放言スタイルが面白い。とくに最近インターネット上でも掲載されている「些事にこだわり」というエッセイでは、彼自身何度もそう言うように、本当にどうでもいいことを仰々しい言い回しでねちねち批判するということばっかりやっている。おじいさんの文芸というジャンルでこれにまさる読み物はないのではないか。
私は蓮實重彦の著作をちょこちょこ読んでいるので、まあファンだと言っても良いだろうと思うが、ファンになった理由をごく単純に言ってしまえば、彼の書くものには知性が感じられるということがある。知性を感じられる場合というのは、知性とはかくかくしかじかの条件で発揮されるものである、などと書かれてあるわけではない。知性について書かれてあるから知性を感じられるというのは、ものを読むという習慣がまったくない人間の言いそうなことだ。読書のたぐいを一切しない人が実際にそんなことを言うはずはないだろうから、こんなのはただの偏見で勝手なイメージの押しつけにすぎない。ただ、一切何も読まない人がこの文章にアクセスする可能性はかぎりなくゼロなのでこの場での汚名は引き受けてもらおう。ものを読まない人というのは、本人の知らないところでそういう損な役回りをあてがわれたりするものだ。
蓮實重彦の知性はどこにあるか。答えをすっと出せたら良いのだが、できない。ただ、少なくとも、世の中で知性的だとされる言動があって、そのポイントをおさえているから知性的だというのではないということはできる。むしろ、世の中に背を向けている言語活動全般が知性的だともてはやされることが多い。世の中にしっかりと背中を向けていないかぎり言えない種類の言説というのはある。いろんなことに忖度しないと社会生活が満足に送れないというのは、特権的な人物以外のすべての人間にあてはまる、社会の暗黙のルールだ。
自分は知性とか賢いということに昔から興味がある。それで思うのだが、知性というのは簡単に定義することができない。たとえば、知性について「ここからここまでの範囲で自由に好きなことを言うことが知性的なことだ」と定義されたとする。それに従って物事を自由に言うことが知性的な営みだといえるだろうか。誰それのことを知性的な人物だというときに、それをただ小器用であるにすぎないと言って済ませてしまうのでは、自身の物差しを不安視しないだけの知性を備えているとはいえ、ただそれだけのことだ。
一方、知性というのは定量的にその多寡をはかれるものでもある。AよりもBのほうがより知性的だということが、知性という物差しにおいては可能だ。
書かれてあるものを読むときに読者は自分と著者とを比べることができる。たとえばこの文章の著者はひどい人間で、自分のほうが何倍も優しいまともな人間だと考えつつ文章を読むことができる。同じように、自分のほうが何倍も賢い人間だと考えつつ書かれたものを読むことも可能だ。著者は(というより著作は)、そういった容赦ない評価にさらされるという意味で一歩踏み込んでおり、その時点で読者と著者とのあいだに明確な差が生じていると考えられる。が、その差はたったの一歩に過ぎない。自分のほうが二歩分進んでいることが明らかだといえるのであれば、差し引きの結果、著者よりも読者たる自分のほうが知性的だということができる。
ところで、先ほどものを一切読まない人というのを仮定したが、当然のことながら彼らもこの社会に参画している。そして、誰が知性的で誰が知性的とは言えないかという話し合いにも参加し、いち視聴者となって一票を投じたり、場合によっては元気に発言したりしている。ものを読む人というのはなぜだかすぐに勘違いするが、ものを読まない人というのはものを読む人よりも数多く存在している。何をもって知性とするかというのを、より多くの意見が集まったからという決め方で決めるのであれば、話は勘違いした人が予想するよりずっと難しくなる。だからといって、ものを読まない人から発言を取り上げるということにすれば、何をもって「ものを読んでいる」と判断するのかということが問題になる。ものを読んでいるとはとても思えない「読書好き」というのに見覚え・心当たりはないだろうか。
知性をめぐるポジション争いにおいて、ものを読む人の中だけで活躍し名を挙げようとするのは間違いだ。知性とはこういうものだと規定し、それに従って知性的に振る舞おうとする人間がちっとも知性的に見えないのは、前提のところで躓いているからだ。断定調で話すと自信満々に見えるというのは立派なハウトゥ知識だが、それに知性というものを当てはめて、断定調で話すと知性的に見えるというと途端に馬鹿らしく思えることだろう。それと似たようなことが知性的という尺度について考えるときによく起こる。これをすれば知性的だと見なされるという枠があるとすれば、その枠を超えた思考を展開できないかぎり、著者が読者にとって読者自身よりも知性的な人間だと受け取られることはない。
読者は、新知識を吸収する過程で、既存の枠を超える体験をするから、そこに導いてくれた著者のことを知性的だとみなすことがある。しかし、読者がまともに読書し、その結果として新知識を吸収してしまった暁には霧消してしまう一時的な印象にすぎない。
一方、蓮實重彦の著作に触れて、それを知性的ではないとすることはできない。意見には社会的に見て正・不正のちがいが生じうるから、先の社会から見て間違った意見とされる意見を主張することもあるのかもしれない。しかし、それを理由にして、その表現が知性的ではないということはできない。まず、間違った結論にいたる美しい道というのは成立する。そして、特権的な位置にいて趣味的な言動に終止する個人というのは無敵である。ものの見方があり、その見方によって何かが美しく感じられるとすれば、その見方を間違っているとして修正させようとするのはほとんど不可能事だ。もし接触があれば、修正どころかただちに取り込まれるにちがいない。特異なものの見方からくる優美な言説にかかれば、つねに、他者は誘惑されることになる。
それに抗するためには、自らものを読まない人になって社会に参画し、元気に発言していくしかない。しかしそんなことはご免こうむる。そんなふうになるにしては、私は知性的であるということに肩入れし過ぎているようだ。
知性的であるということに興味があるというのは、冷静になって考えてみたらとても馬鹿馬鹿しいことだ。第一、それはちっとも知性的な姿勢ではない。第二に、よくわからない要素を曖昧なまま持ってきて、きちんと整理されていない枠組みでものを考えようとするのは、ただただ混乱をきたすのみで益が少ない。ただ、言っておくが、私は自分が知性的だと考える当のものを賛美したいわけではない。知性については、わからないなりにそれについて考えてみてそれが何かを掴めないかと望んでいるし、自分が知性的だと思うものについては、いつかそれを踏み台にしてその上に行きたいと考えている。優美な言説に誘惑されることを避けるためには、ものを読まない以外にもうひとつの方法が考えられる。もし間違っていると考えられる意見があれば、それについてそのままにするのではなく、その過ちを指摘することだ。
最近の渋谷について書かれた蓮實の言説は陳腐のきわみだ。渋谷をノスタルジーの対象として懐古するというのは、東京育ちの人間が犯しがちな典型的誤りで、特異なところはほとんどない。強いて言うならフランス女の喋るフランス語が自分には「わかる」というやや得意なところが垣間見られるぐらいのものだ。
今日の渋谷が好きだし、明日の渋谷が好きだ。いつか渋谷に興味がなくなったら昨日の渋谷は良かったということは言わないでただ渋谷から去るつもりだ。それが渋谷に対する知性的な姿勢だと私は思う。パリもニューヨークも行ったことはないが、それでもこれぐらいのことはわかる。街をくだらないと感じるようになったならその街には行かない、それが都市生活者の常識というものだ。
ただし、知性的な言説というのを離れて、おじいさん言説を全うするという観点から見れば、今の渋谷は見ていられないという発言についても、キレがあるとは言えないにせよ味わいがある。蓮實重彦が、何を手本にしてか自身で構築してきた「知性的な言説」という枠組みを完全に無視して(それどころかフリにして)、おじいさん芸人というジャンルのパイオニアになっているのを見るにつけ、彼こそが知性的な人間だと感心させられずにはいられない。老いの境涯について、自らレポートするようにして文章を書くのはごく限られたおじいさん芸人にしかできないことで、その著作は著者の特権的地位の賜物だ。これは人間の寿命が伸びて良かったことのひとつに挙げて良い。たとえば、誰かの祖父・曽祖父であるという、関係性に依拠した、単純であり月並みであると同時に特権的でもある、しかし孫・ひ孫以外にとってはとくに面白くもないもののほかに目立った効験が挙げられない情けない社会状況のなか、ひとり気を吐く老人がいる。波を読み、自分がぶつかるべき大波を待っている高齢者の後ろ姿には未来の希望がある。一般に、心の底から長生きしてほしいというのに付け足して、個人的であるとともに社会的な意見として、元気で長生きしてほしいといえる稀有な存在だ。