20231001

日記217

ウルトラの街

2023/09/30 昨日
起きてすぐ9時すぎにスタバにいく。読書をする。13時頃に外に出て昼食とどうしようかと考えつつ彷徨い、結局チーズナンを食べることにする。お腹いっぱいになってLUUPで帰宅。昼寝をしてスタバに行くつもりだったが、友人から今下北にいると連絡を受けて街歩きに出かけることにする。LUUPで三茶に出て、世田谷線沿いを歩き若林経由で下北に戻ってくるという短経路の街歩きのあと、夕方の時間を日が沈むまで公園で過ごす。近くにある「月」を見に行ったあと、腹が減ったのでいつもの地下中華居酒屋で飲み食いする。スーパーでアイスを買って駅前の階段に座って食べる。21時半過ぎに解散。
話している中では、俺たちはこの自分のことを持ち上げられるだけ持ち上げきったという台詞が印象的だった。自分自身でも同じことを感じていたからだ。ふたりはこれまでよくやってくれた。折角ここまで来たからにはべつの燃料を見つけてさらに上へと進んでいかないと、そいつらにもわるいと思う。彼らはべつにわるいと思わないだろうし、それを知っているからこちらも本当にはわるいと思っていないが、感謝しつつ次に進むときにはそういうふうにするほうが体裁が良いし、决まりが良い。書けたものを見てもらうというのではなく、書けないときの気晴らしに付き合ってもらうというのが、やってほしいことだ。だから書こうとしているときにはそうばんばん会っているわけにもいかない。
帰宅してすぐのタイミングでべつの友人から暇だったら飲みに行かないかとの誘いがある。もう5分早く誘ってもらえたら行く気になったかもしれないが、帰宅して椅子にどっかと座ったタイミングで酒も十分飲んでいたので出かけるのは難しかった。たまにしか会わない友人にはたまにしか会わないことで発生する価値がある。ちょっとピクミンをやってからねむる。全クリしたと思ったらまだもうちょっと続くのじゃコースに入ってちょっと熱くなった。

2023/10/01 今日
朝はパンケーキを焼いてもらったのを食べる。ふんわりしていてかつ温かくておいしい。
天気は晴れだが半袖で出かけないといけないぐらい暑く、10月なのに情けないと思いつつ昼過ぎにスタバに出かける。読書をして16時前に出る。タートルズの映画を見るために日比谷に行く。
タートルズが想像よりずっと良かった。NYCのアンダーグラウンドシーンの描き方がアニメ的なデフォルメによって戯画化されていながらも結構容赦なく、それがネガティブ方向のメトロポリタン的魅力を伝えていた。都市が好きというのはお洒落なのが好きということなのだが、その足元さらに下に広がる下水スペースの上にそれらが成り立っているという事実を避けられない。清濁併せ呑むではないが(濁部分を呑むつもりは毛頭ない)、清濁混淆の中にあって衛生的に管理されている生活を享受していること(何食わぬ顔で誰かに汚濁を押し付けながらクリーンライフを享受しているということ)に対して、潜在的な意識の中に罪悪感があるので、それを見やすい形で表現してくれていて助かるという側面があった。『V.』でプロフェインが、読者である自分たちに変わって地下に潜ってくれているというのをありがたがって読んで爆笑しているというのに近い。悪だとは言わないが、汚いとは思う。アンダーグラウンドが格好よく思えるとしたらやっぱり幾分かは汚さを平気で受け入れているように見えるところにあるのだと思う。きれいな環境で一秒生活するごとに汚濁に対する抵抗力が低減する。自分は連続何秒間クリーンできれいな環境で暮らしているだろうか。地下生活などはもうとっくに無理だろう。自分が海外に行くことに対して持つ心理的障害の一部にはこれが絡んできている。きれいで安全であるということを所与のものとしすぎている。
ミュータント・タートルズで描かれる汚い液体のイメージは、それが汚い液体だということをスムーズに伝えてくれる。その意味できれいな汚い液体のイメージだといえる。あとは匂いがしないということも大きい。似たようなものに小説のなかで表現される汚い液体があるが、それは読む人の内面にあるものを手がかりに汚いということを表そうとする割合も大きい。どちらもイメージの問題ではあるが、小説が喚起する汚いイメージのほうでは人によって汚いの閾値が違うこともあり、それについてきれいなイメージということはむずかしいが、アニメという視覚表現になると、それがどの程度きれいな汚いイメージなのかというのを客観的に表すことができる。汚いということには不快感と結びつく要素が多くあるが、それをうまくコントロールして、明らかに汚いが不快感は大きくならないという視覚イメージを作り上げているのは、現実感というものを現実を無視して作り上げようとしていることの表れでもあるし、そのリアルを無視したリアリティの構築に成功し、見ているときにはそのままリアルであるかのようにさえ感じさせる難度の高い技工だ。リアリティを離れたリアルがあるわけではないというものの見方にとっては馴染みのある景色というか、不自然なところのあまりない見え方かもしれないが、リアリティにはリアルが必要だと普通に考えている人にとっても違和感の少ない映像だった。NYCという固有名に依るところも大きいのだろうが。ブルックリンブリッジに繋がれているのだったらそれはNYだという無反省意識というか思い込みというか観念的な領域がその場所にはつよく働くのだろう。自分がNYのことを好きなのは、世界的に見てそういう効果がもっとも高い場所のように思えるからだ。ローカルにということであれば、今やそれは東京がかなりの部分引き受けてくれる。
しかし、『V.』でプロフェインが地下に潜って駆除するのはワニだというのがまた良くて、これは東京には出せないスケール感だという気がする。荒唐無稽なイメージの奔流ということについては好き勝手をさせてくれない。パンクチュアルでデジタルな、システムのクリーンさでは右に出るものはないだろうから、そこを押したいところでもあるが、それを押すと結果的にすぐ観念的になったり、必要以上に概念的になったりする。だからもっと地面に近いところを感じているようにしてバランスをとるのが良いのかもと思ったりするが、それだとつい微細な心情に注目が行って、繊細なパートを云々してしまう。

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