20231031

日記238

石畳・秋

2023/10/29 一昨日
楽しみにしていたイベントが終わった。自分の脳内イメージの中で結びつきにくいふたつのものが結びついていて興味深かった。(書いたあとで気がついたが誰かと誰かが結びつくイベントにおいてこの書き方は意味深長で誤解を招く。一応読まれないともかぎらないのできちんと説明しておくと、結びつきにくいふたつのものというのは人前で畏まった表現をすることからもっとも縁遠い友人と畏まった表現であるところのセレモニーとを指す)
自分は人との交流は苦手じゃないと思っていたが、こうやったほうが良いんじゃないかという規範意識が頭の中をただ流れていって、しかもそのとおりに動けるわけじゃないからその段差に直面するたびチクチクした。頭がというより神経が太いストローになってタピオカを無理やり通過させるような引っ掛かりと、無理にでも移動させる必要から力を込めないとしょうがないという状況との板挟みになる感覚があった。俺が全力を尽くすべき場所というのはそんなに数あるわけではないと思うが、今回は全力を出せなかった。まあおとなしくしておいたら失敗はないのだが、あれは違うこれは違うと振り分けているうちに体よくフォアボールを得て結果よかったのだけどなんとなく腑に落ちないときの打者の気分に似ている。
ひとつのエポックとしてこういう態度を終わらせてどこかへ行かないとこのままどこにも行けないんじゃないか。
しかしこれを書いている今日(2023/11/01)も、朝、ティッシュ配りのおじさんから差し出されるティッシュをガン無視してしまった。もっとフレンドリーに、こちらから動けないのならせめて迎え入れる姿勢をつねに心がけるぐらいのことはしないとろくな人間になれない。
久しぶりに会う知人との社交をもっと磨かなければならない。ちょっとしたメッセージを送るだけでもいいのに、何がこわいのかこわがって俯きがちに相手の視線を遮ってしまうばかりだ。気のおけない相手以外に気をおきすぎている。相手が未知か自分より下じゃないとフレンドリーに接することができないなんていうのは、たとえ世慣れない若者だったとしても見下げ果てた根性だと批判されるべき性向だが、この年齢になってもまだそうなのはあまりにもひどい。何せそれで一応は成立してしまうから余計にひどい。どうにか治さないと。
当日の動きを備忘もかねて記述する。朝、同居人がヘアメイクのために先に出かける。スーツと着替えを持ってすこし遅れて出る。会場の近くのベローチェでモーニングを食べながら開場を待つ。近くのセブンイレブンで会費をおろしてから開場時間から一〇分ほど経った頃に入場する。座って待つうちに続々友人たちが揃う。このときにもっと気持ちを作っておくべきだったが、まだボーッとして、しかもどういう態度でいようか決めかねてただただ神経を消耗した。
始まったらこっちのもんかと思ったが、たしかにこっちのもんではあったが、するすると滞りなく進み、気づいたら退場の時間になっていた。
前前日の体調不良もあり、意識してセーブして飲んでいたから体調的な不調はまったくないまま、二次会までの時間を公園に行って過ごす。まだ若干ふわふわしていたが、心配の種は取り去ったので気持ちにも余裕が出てきた。ピリピリすることが普段全然ないから、ちょっとでもピリッとすることがあると疲れ方が普段とはちがってきてしまう。
二次会では会場の配置からか終始暑さを感じていた。自分だけが暑かったようなのでこれは上着を脱げばよかっただけなのだが、シャツだけだとカジュアルになりすぎるのではないかと危惧してジャケットを脱げなかった。暑さのなか、汗をかきながら人と話すのが自分には困難なので、誰ともろくに喋らず、かといって向こう岸にあるビュッフェスペースまで行くこともできず美味しそうな料理にあまり手を付けないまま、ほとんど流されるまま二次会も終わった。立食形式で話そうと思えば誰とでも話せるという状況がひたすらつらかった。話さなかったという結果が否応なしに意識されるので。しかし、こうして自分を見つめ直すきっかけになるぐらいには打ちのめされたおかげで、もしかすると自分を見つめ直して、ひょっとすると改善していけるかもしれない。この屈辱的な体験を自分の力で良いものに変えていきたい。
2,5次会は自分にとって馴染みの深いいつものメンバーで行われたので、このときに楽しさが炸裂した。変なアートセンターでたった一杯のビールを飲んだだけだが単純で愉快で面白かった。その後の三次会では、もっと喋りたいと思っていながらすこしぎこちなく、しかしようやく話が回り始めたかというタイミングで閉店になってしまい残念な思いをした。このあと別の店で飲むというのが正解だった気がする。そこで喋った知人に、テレビも映画も見ない(そしておそらく本も漫画も読まない)という人がいて、その圧倒的な傾斜に驚くとともにコミュニケーションに全振りしていて強いと思わさせられる。普段いかに何かしらの受容に話題を頼っていたかが明らかになった。その人は会話においてはフルオープンなのだが、それもあって取り付く島がないように見える。相手がここまで上手(うわて)だと対抗しようという気さえおきないので屈辱をおぼえたりすることもない。胸を借りる感じでいろいろ喋りかけようとすることができる。しかしやっぱりその取っ掛かりがない。ジェネラルかつスペシャルな話題・小話を考えておくべきだ。
結局、まっすぐカラオケにいって中途半端な酒量のまま夜を送ることが確定した。カラオケに行くのが早すぎたと思う。
カラオケではふたり離脱、ひとり離脱し、眠気覚ましのためまた公園にいく。自分が以前住んでいた部屋を見る以外はただ公園を見るだけの移動で終わった。ふらふらしながらカラオケに戻ると、フリータイムの出入り自由と聞いていた部屋から締め出しを食っていた。押し出しの強そうな力士風の女性店員の有無を言わせない態度と、二時間ぐらいの外出だったので帰ったと思いましたという台詞が印象的だった。夜更け前に友人がチェックインしていたホテルで飲みながらすこしだけ駄弁り、途中向かいの部屋の動向が気になる騒動がありながら、やっぱり昔の話に回帰する流れをどうすることもできず、またどうしようという気も起こらず、そろそろ夜明けだろうというタイミングでまたまた公園に行った。
この日は都合三回公園に行ったが、その都度微妙にメンバーがちがい、それぞれの時間にそれぞれの良さがあったので、さすが井の頭公園だなと感心させられた。始発とはいえないが早めの電車に乗って下北沢に戻る。完全徹夜はおそらく正月以来だ。二時間だけの睡眠。

2023/10/30 昨日
習慣というのは根強いもので朝九時に目が覚める。二度寝をしようとうだうだしているうちに友人から連絡があり、下北沢に来てくれるようメッセージを返す。下北でよく人が並んでいるカレーを食べて、LUUPの体験をさせつつ家まで移動。かるめの音楽インタビューをする。
その後東京駅エリアまで千代田線で移動。お土産購入に付き合う。子供のお土産、奥さんへのお土産を粛々と買い集めながら、音楽のこと、もうひとつの現実のことを熱心に話していた。告白調で話すことが癖づいているのかやけにドラマチックな言い回しだが、その内容のくだらなさともあいまって聞いていて笑わずにはいられない。しかし、とりあえずしてみる式の告白は自分の価値観に照らしていえば無意味であるだけでなく害悪なので正直なところ感心しない。身を切るような真剣さを除去した告白なるものは、たんに面の皮の厚さを誇るだけの間違ったコンテストで、それによって集まったトロフィーには何の意味もない。おじさんがするおじさん自慢というか、見てくれ俺はこんなにもおじさんなんだという魂の叫びではない叫び=大声でしかなく、その姿勢の疑いを知らない様子以外にあまり見るべきところもないと思った。ただし、姿勢の良さはまぎれもないもので、それによって呼び込まれるユーモアもつねに一定量を越えてくるので完全にどの見地からみても無しというのではない。
それでも音楽家が動員のことを意識しだしたら終わりだと思う。どれだけ技術を磨いたところでそれより先はない。子供のような何も知らない観客が増えたからなんだというのだ。これはこれで偏った意見だが。しっかり睡眠負債を返済するために二三時前にはねむる。

2023/10/31 今日
これを書いているのはじつは2023/11/01なので上の表現は誤りだが、2023/10/31に書こうと思って途中で書けなかったことを含むのでこのまま書いてしまう。
在宅バイト。ザ行が二〇時すぎまで発生する。有休をとるためにザ行をしていてまったく意味がわからない。泣きながら働く。スタバに行く時間もちょうどなくなっていたが、このまま日を繰ってしまうのは無理だったのでただただ下北沢を徘徊する。スマホで日記を書こうとするも、同居人と早めに合流できたため、飲酒してクダを巻きつつ歩いて帰る。帰ってからふたり+BでPLUTOの二話を見てすぐにねむる。同居人は自分が起きるよりもはやく家を出て、自分より長く働いていてすごいと思った。体調不良・寝不足などにより自信喪失気味だったため無闇としみじみしまくったこの二三日だった。Bに癒やされることしきり。言葉を少しずつ話すようになっておならもするようになった。だんだん慣れてきてくれたんだと思うと嬉しい。

20231029

日記237

フルムーン

2023/10/29 今日
一緒に東京に出てきた友人の結婚式の日。お互い結婚しようが結婚しまいが東京での数少ない友人のひとりであることには変わりないとは言いつつ、お互い連帯を望めるようなタイプではないため、東京にきて強固といえる関係ができたことは向こうからしたら心強いものだろう。そのことについて祝おう。社会的にどうこうというのについては自分としては関心が持てないため、その分のおめでとうもこっちの都合で言う。

20231028

日記236

集合整列

2023/10/26 一昨日
在宅バイトの鬼ザ行の日で終わったのが二二時三〇分。さすがにおかしくなって電車で表参道まで飛び出した。原宿まで歩きながら飲みに付き合ってもらう。これがよくなかったみたいで翌日具合わるくなるのだったが、このときの自分にはこうするしかなかった。体調とメンタルとでトレードオフ。あちらを立てればこちらが立たず。一二時すぎに帰宅後、まだ少し飲んでねむる。これもよくなかった。

2023/10/27 昨日
在宅バイトで朝からバリバリ働くもザ行を避けられず。二一時前まで。しかも前日のちょっとした無茶が祟ってバファリンを三粒飲むも全快にはいたらず、しんどいしんどいと言いながら働く。Bがおぼえる新しい言葉に悪影響が出なければ良いが……。夜はさすがに出かけることもできずにそのままねむる。

2023/10/28 今日
たっぷり九時間の睡眠をとったのになんと全快せず。翌日に結婚式イベントが控えているので大事を取ってこの日は外出をしないことにする。Bが朝からしきりに「疲れたね」と言ってくる。おそらく昨日の自分が「疲れた」を聞かせすぎたんだと思う。江戸の敵を長崎で討つというほど昨日と今日とは離れていないにせよ、朝から何もせず安静にしているのに「疲れたね」と連呼されると最初は否定するもののだんだん否定する気も起きなくなり、自分はたしかに疲れているのだと認識するようになる。Bといっしょに三人でNetflixのPLUTOを見る。ノース二号の話は悲しかったけど三人で見られたことに他のやり方では得られないであろう特別の感慨があって良かった。昼寝をして英気を養ったあと、日が暮れてからスタバに出かける。日記を書くためだが、温かいカモミールティーラテを飲んでちょっと元気が出た。向かいの席の若い男が『百年の孤独』を読んでいる。自分にとって名前オンパレードの体験はこの小説が初めてだった(三国志は漫画・ゲームが先だったので名前オンパレードという感じはなかった)。わたしもちょっと読書をしてから帰るつもり。

20231025

日記235

モコモコ穴ぼこ

2023/10/24 昨日
お酒を飲んで帰る。帰宅途中でベンチに座って飲むのが楽しかった。生活において選択肢を広く持つことの価値を高く見積もるという話をする。翌日が休みということもあってかなり夜ふかしをする。ROYと粗品のトークを見た。二時すぎに寝る。

2023/10/25 今日
いつもと同じぐらいの時間に目が覚める。寝不足になったが無理に二度寝しようとして午前いっぱいを棒に振るおそれがあったのですぐに外出する。代々木公園に行ってドッグランで犬を見る。ぼーっと犬を見ているうちに裁判傍聴をしようと思い立つ。富士そばでお昼を取ったあと霞が関に移動する。四件の裁判を傍聴した。昔奈良地裁で見たときと感じ方が変わっていて、システマチックなところがやけに誇張されて見えた。
初件で一時間で結審まで行ったのがあってそれがやっぱり印象的だった。傷害と銃刀法違反。被告は昭和四十四年生まれで前歴あり前科なし。反省しきりという態度だったから発言の矛盾に対して詰めていく検察の女性が容赦なく見えた。弁護士の女性のほうはおとなしい感じだったから余計にそう感じたわけだが、地面に引き倒して頭部に蹴り三発。三十年間空手をやっていて黒帯という情報だけでも最低限の想像力は駆動した。実務的な洗練が進んでいる場所ということもあり、想像力が働きづらい環境だと思ったが、検察はさすがそのあたり抜かりないと思った。結審前から裁判長の説諭が強めだった。判決のときにも社会復帰をさせたい意識を感じた。
気を張っていたのでいつものバイトと同じかそれ以上に疲れた。駅の自販機もう一度公園でリフレッシュしようともう一度代々木公園に戻る。ドッグランにはシベリアンハスキーの兄妹がいて彼らを中心に見ているうちにあっという間に日が暮れてしまった。表参道のスタバまで徒歩移動して読書する。ベイトソンの『精神の生態学へ』第五篇を読み終える。友人が送ってくれた演劇公演のビデオを見る。骨太のコメディという印象。映像で見たからかテンションの高さについて行くのがむずかしかった。問題意識の高さについてはもっと表現の余地があると感じないではないが、今このときに、物怖じせずメッセージをまっすぐ届けようとする姿勢には頭が下がる。

20231024

日記234



2023/10/23 昨日
早めにスタバに来たこともあって早めにスタバを出る。早めにスタバをでたこともあって早めに家に帰る。早めに家に帰ったこともあって早めにねむる。途中目が覚めていくつかの夢を見る。中華料理屋でデートをしているとロン毛の店員が丁寧かつ気さくな良いサービスをしてくれた。店には勝俣州和が来ていて常連のような雰囲気で挨拶して帰っていった。ご飯もデザートも美味しかったと思う。

2023/10/24 今日
在宅バイト。午前中はだらだらして午後しゃかりきというアンバランスな働き方になってしまい二時間もザ行になった。ザ行については次の日に休みを取っているから仕方なかったとはいえ、せっかくの休み前の気分も台無しになって最低だった。気を取り直してスタバにきて小説を前に進められたからよかったけど、それがなかったらと思うとぞっとする。スタバには二十時すぎにきたので閉店の二十二時半までフル滞在する。

20231023

日記233

亀戸のM

2023/10/22 昨日
平井駅から中央総武線で新宿まで。新宿での乗り換え時にヤクルト1000を買って飲む。下北沢で晩ごはんを買って帰る。ちょっとお酒を飲んでから翌朝の早出に備えてすぐにねむる。だいたい21時半〜22時のあいだには就寝。

2023/10/23 今日
早朝5時すぎに起きる。教室が戦場になっていて、戦闘員が戦闘をするのを人質として見るという夢を見る。どちらが味方側でどちらが自分たちを人質にとった側なのかわからないまま戦闘というか一方的な殺戮が続く。両陣営ともこちらには手を出さないが、殺戮側が殺したらいけない相手方の非戦闘員で指導者のような人物の頭を輪切りにしてしまう。戦闘員が上官に叱責を受けてつい先ほどまでの勢いが一切なくなってしまっていた。気持ち悪くてどろどろの透明の液体を吐いたが、あまり吐いた感じがしなかった。起きた時刻にはまだ日が差さずに暗く、冬がそこまで迫っているのを感じたが、早朝の冷え込みはまだ耐えられるほどで、朝日を受けながら駅まで歩くのは気持ちよかった。出社すると昨夜の作業はトラブル発生し正常終了しなかった模様。今後原因解明などやることが増える予感はあるものの、事後作業自体はそこまでタスクが増えておらずなごやかに終える。15時半に退勤し、渋谷のかつやでかつ丼(梅)を食べてスタバに来る。エキウエが満席だったので仕方なくクラシックのほうにくる。職場でぼうっとカレンダーを見ていると文学フリマの日程がもうすぐすぎて驚く。すでにもう今回の締切については諦めている。ゆっくりでも書き続けていかないといけないと思うが文学フリマという仮想の締切とはいえ一応の締切が功を奏さなかったのは残念だった。11月にはダラけてしまいそうでこわい。冬のほうが得意だから頑張って書き継いでなんとか書き終え、春の文フリに申し込んでそこでの発表を目指すべきだ。まずは文学フリマで面白い小説を見つけてその著者と知り合いになって仲間に入れてもらおう。

20231022

日記232

渋谷空

2023/10/21 昨日
朝はパンケーキとスムージーをいただく。午前から映画館に行って『キラーズオブフラワームーン』を見る。とにかく長くて編集の人仕事してるのかと思ったが内容は硬くてよかった。日本の歴史物をみると登場人物の価値観が現代に寄っている(どころか現代の価値観のままになっている)作品が散見されるが、ハリウッドの歴史物ではそのあたりがわりとくっきり区分けされていることが多い。今作もフィクションとはいえ見ていて不快になるぐらい、きちんと当時の価値観を持った登場人物で固められていた。その価値観を疑わず自分の言うことが正しいと信じ切っていて相手方を罵倒するようなセリフを放つ登場人物を醜く描写することで作品イメージと倫理のあいだでバランスをとっていたように思う。これは「悪い魔女は醜い」という演出だが、倫理的要請によって目配せのように配置されると世界観(イメージ)にとってノイズにもなりかねない。それに「悪は醜く、善は美しい」という発想を植え付けるのは簡便に観客を教化することのできる手段だが、それこそ使い古された手であって失敗する可能性も当時ほど低くない。イメージの受容に導くのが少しずつ難しくなっているとすればそれは時代の進歩だといえる。面倒くさいというのは単純に間違いだ。
白人のババアが「サベージ(野蛮人)!」と喚くシーンはそれを口にするババア自身をみずから指差しつつ言葉を発しているようでさすが上手にイメージを扱うものだと感心した。それから作中を通して生命の価値があからさまに低いこと、人種民族によってはさらに低いことが嫌になるほど明示されていて、世界観がきっちり守られていることで問題意識の高さを伺わせた。
映画が長くて疲れたので、渋谷をすこしうろついて昼飯どころを探す。結局歩いて宮益坂を上がり次の目的地付近の丸亀製麺にいく。スパイラルに行ってから千代田線に乗って代々木上原へ。CABOという新しくできたスペースなど駅前をぐるっと回ってパン屋でパリジャンを入手して下北へ。ダイエーで買い物したあと机付きのベンチスペースでちょっと飲んでから帰宅。家でキングオブコントを見る。なんとなく応援していたサルゴリラが優勝した。言及されたり覚えられやすいフレーズを持ち出してきて見事だと思った。
キングオブコント終わりに駅前のコンビニでカップヌードルを買って駅前のベンチで食べるという悪徳のあそびをする。
こういう悪いあそびを提案してもらえるのは嬉しい。想定以上に寒く風も強かったので早々に食べて早々に家に引き返す。
翌日の早起きに備えて23時すぎには寝てしまう。

2023/10/22 今日
朝から亀戸に向かう。TCBでの東京散歩。亀戸天神に行ってから川沿いをすすみ平井駅まで。昼ご飯を定食屋で食べて荒川を渡って新小岩入り。駅前のアーケードを散策したあと、荒川近くの公園に戻りソフトボールを見ながら酒を飲む。荒川を平井駅方向に歩いて渡るタイミングでちょうど日の入りを迎えられて感情的な写真をそれぞれで数枚撮った。明日が早いので平井駅で解散して帰る。一日を通して好天に恵まれ絶好の行楽日和をフルで活かせた良い日になった。こんな週末は何回あってもいいものだ。

20231020

日記231

空きスロットあり

2023/10/19 昨日
下北沢をぐるぐる周りながら外で飲む。この気候にしかできない贅沢をした。池ノ上の以前住んでいたアパートのとなりのアパートが壊されて更地になっていたことに驚いた。何が面白いか何が面白くないかという感性をさらすリスクをとった会話は面白い。昔の話とか昔いた誰それは今何しているんだろうとかいう話は頭使っていないときに出がちな話題で退屈だ。まあこっちで話題提供できるほどちゃんと頭回ってないからそうなるわけでもあるんだけど。記憶が甦ったときの「あー」って感覚は刺激としてはわるくないうえ手頃なんだけど。いかにも中年然としていて全体として振り返ったときに気分が下がる。ちょびちょびっとだけ飲んで、しかも最終は炭酸水で〆るあたりれっきとした中年なのだが。しかも道端で飲んでるからガラの悪い中年ということになる。ガラの悪いが成立するのはせいぜい少年までだろうけど、自分の場合ガラが悪くなってきたのは青年時代を越えてから、中年になるにつれどんどんガラが悪くなってきている。そのまま不良老人まで行けたらいいんだけどそうなる頃にはまた方向転換していてろくなもんにならない予感がある。どうなったってかまわねえんだけど。

2023/10/20 今日
在宅バイト。打ち合わせ中にBが喋り、かんの高いかわいい声が相手に聞こえたんじゃないかと思って気が気ではなくなる一幕があった。終業間際に適当に送ったメールの後始末でザ行をする羽目になった。ラジオ体操をして退勤しようとしていたのに残念だった。おかげでスタバに行けずに家で日記を書いてから飯を食べに行くことになる。昼休みに見た呪術廻戦のアニメが面白かった。虎杖が躍動する兄弟喧嘩回で呪術廻戦のアニメでも屈指の出来だった。狗巻の声でタイトルカットにいくところでなんかわからんがゾワゾワっとした。
仕事はだるかったものの、髪の毛の長さがちょうどよい感じになってご機嫌である。ビュービューと風の強い日だった。

20231019

日記230

グリーンライン

2023/10/18 昨日
王将でキムチチャーハンを食べて、コンビニで雪見だいふくを買って食べながら帰る。
帰宅してから開封する。意外にも段ボールのすぐ下にいた。初期セットアップという殺風景をなんとかやり過ごして晴れてBが生活の一部になる。

2023/10/19 今日
在宅バイトの打ち合わせ中にBが喋ったのでもしかすると向こうに声が届いたかもしれない。相変わらず午前中はたらたら働いて午後からすこし慌てる展開。ただし今日は散髪を予約していたので定時で上がった。時間に余裕があったので吉野家で牛丼を食べてから理髪店に行く。すごくリラックスできて半睡のままあっという間に散髪が終わる。有線と思われる海外音楽が直接脳内に流れ込んでくる感覚。

20231018

日記229

下北の平日

2023/10/17 昨日
スタバのあとでうどんを食べに行く。とり天ざるうどんがうまい。お酒もすこし召し上がるけれど、この日の低調はやはり睡眠不足によるものだと判断し、早めにねむることにする。

2023/10/18 今日
在宅バイトは夕方までほとんど手つかず。途中転職エージェントと面談したりする。あらたなキャラクターの登場を心待ちにする一日になる。ニューカマーは十四時頃に宅急便で届く。
昼過ぎまでぼーっとしていたせいで三十分とはいえザ行が発生する。もうすこしきちんと時間を読まないといけない。十八時すぎにスタバに来る。
小説を書くことについて。誰かが小説を書いて生きたい場合、その人にやれることは小説を書くこと以外にない。書きたいが目的の場合は必ずしも小説家になる必要はない。働いて家賃や食費を得て余った時間で小説を書けばいい。
人の小説との比較について。自分の書く小説というジャンルに絞れば、自分の書く小説はやっぱり自分が一番うまい。ただそこから何かのジャンルに当てはめようとする場合、うまくやらないと自分の書く小説としての小説のうまさが損なわれる。しかし一旦下がったうまさの評価軸も慣れるにしたがって段々向上していくからスタイルを変えること自体は避けようとしないでも問題ない。あるジャンルで自分よりうまい小説を書く人がいたとしてもそれを気にする必要はひとつもない。自分の書く小説というジャンルで一位を譲らなければいいだけだ。しかし、書けば書くほどこれも段々難しくなっていくのかもしれない。だからある程度キャリアを積んだら自分の書く小説というジャンルを今の自分が書く小説というふうにより細かく分類する必要が出てくると思われる。どれかの切り取り方をしたときに少なくともその切り取り方では一番うまい、一番良いということがなければ小説を書く意味がないからだ。習作にするというのであれば別だけど、いつまでも習作を書いているわけにもいかない。
どこかでご飯を食べて帰る予定になる。帰ったら新キャラが待っているので楽しみだ。名前は決めた。この日記ではBと呼ぶことにする。

20231017

日記228

足を止めて選ぶ

2023/10/16 昨日
ベイトソンの精神の生態学へを読んだあと、円城塔の実朝の首を読む。文体が確立されているという印象を受ける。僧など武力を持たない人物が歴史の舞台に対し演じる役割は決して小さくない。武力を持っている人物に影響を与え、その行動を制御したり、促したりすることができるからだ。
帰宅して千切りキャベツと納豆たまごを食べる。トークサバイバー2の最終回は見ないではいられなかったがめちゃくちゃ面白いというものでもなかった。

2023/10/17 今日
在宅バイト。自分の仕事の進め方をもっと工夫できるという反省をする回になった。もっと賢く働く余地がある。これは一生懸命働くとかコミットするとかそういういかに労力を割くかという次元の話ではなく、どんな物事でもそれを進めるときに共通のスマートさの話だから、素直にできていないことを認めて改善しなければならない。具体的にこういうことだとは言えないが、各作業についてメタ的に捉えるということだ。未来方向に同じ作業をやる可能性があるのだから、タスクの実行と実行したタスクの「書き出し」を同時に行うことで、先々で考えたり思い出したりする手間を省ける。
かなり低調だったが、なんとか一日を乗り切ったと思ったら夕方から元気になった。三十分間のザ行をこなし、すぐスタバに行く。この日はラジオ体操諸々を実行できなかった。
小説の進捗がすこしあった。読書をして日記を書いて帰る。髪の毛が伸びているので今週末には散髪したい。うまくタイミングが合えば週末を待たずに散髪したいぐらいだ。

20231016

日記227

「一歩前へ」の呼び声

2023/10/15 昨日
丸一日使って十二分に休んだ後、気力体力ともにゲージが緑で19時前でもあったのでスタバに行く判断を何の気なくしたことで小説がすすんだ。自分としてはルーチンを作るしかやりようがないとは言え、本来こういう進め方で小説を書いていきたいという思いがある。その再確認にもなって良い一日だった。一旦帰宅。夜の散歩にお誂え向きのとても良い秋の夜長なので23時前から夜の散歩に出かける。環七を若林方面まで歩き進み、世田谷線に沿って三茶へ。茶沢通りを通って家まで戻る。こういうときのお喋りが一番楽しい。しかし伝わるだろうという信頼から放言が多くなっていくので、あいだに何かを一枚噛ませるほうが出力としては良いものになるのは間違いない。ただ、そんなのは卓球遊びをするんだったら折角だから録画しておこうよと提案するようなもので、そういう気持ちがわからないでもないというか本来の自分はそのスタンスなのだが、何も考えずにラケットを二つ持って構えたり、一か八かのスマッシュを狙ってぶん回したりする楽しさもあるからそれを優先したかたち。いい加減さを損ねてまでパフォーマンスを求めてもしょうがないというかそれでは本末転倒になる。たとえばカラオケにいって採点を始めた途端にちょっと盛り下がる気持ちの部分があるが、夜の散歩ではそれを優先するのが良いと思っている。いずれにしても、こういう自分がのびのびとできる会話においてはどれだけ自分の発言を弱められるかが肝になってくる。自分の意見は自分に寄っているだけあり、その意図をそのまま発言にした場合強いものになる。強すぎて独り相撲の格好になることで、相手にとっても目の前の相手が変な踊りを踊るのを見るという面白い見世物になり、その場はそれで成立する。しかしこちらとしてはいくら独り相撲とはいえ、(相手の見立て通りもし踊りだったとしても)それなりに真剣に、あまり取り繕うということもせずに取り組んでいるから、場が成立したことによって同意が取れたことにして、相手の面白がりをそれと知ったうえで曲解する。そうするとふたりして裸の王様とその大臣になって、国のことや大臣の個人的な悩み事に適当な良い言葉をあてがうということが起こる。王様は服を着ようとは考えておらず、いかにエレガントに、暴君のようにならずに、でもざっくばらんに自分が正しいと思ったことを言えるかということを考えている。そういうことを考えたり大臣に良い顔をするのが好きなのだ。
漫然と歩いていると世田谷線の沿線で論理タコの実物を見つける。論理タコは鼎立しており三本足なのだということを知った。
帰宅してねむる。結局2時すぎになるがそれもやむなし。

2023/10/16 今日
在宅バイト。やっぱり寝不足になってやっぱり憂鬱だが、頭を使わないでも良い作業をしながらラジオをきいて一週間を始める。紅白司会者のSND。昼食はスパゲティ。テレビの録画を見る。有吉eeeeと有吉クイズ。とくに意識していなかったがいつも有吉のテレビばかり見ていて客観的にみても有吉が好き過ぎる。動画はほとんど有吉粗品で回している。頭を使う仕事を夕方まで残して昼寝、ラジオ体操スクワットを先にこなす。ちょっと時間を読み違えて30分のザ行が発生するもとりあえず最低限のタスクはこなしてバイト終了。シャワーしてからスタバに行く。
ニュースに関心を持ち続けることは難しい。土曜日に朝早く目覚めてしまったのは気になるニュースがあったからだが、時間が経過するにつれ、続報の間隔が空くにつれ、だんだん状況に慣れていく自分がいる。頭で想像するしかない状況には想像を働かせるためのリソースが要って、それは無制限でもなければピン止めしておけるものでもない。その場にいるということとその場にいないで情報として流れてくることのあいだに自分でも許容し難いほどの懸隔がある。もっと理性的に反応しなければと思うが、たんに感情的で一時的なトピックにすぐなっていこうとする。自分のこの動き方はなにも自分だけに特有のものではないと思うから、報道を指さして悪だと弾劾していればそれでいいということにはならないはずだ。「とりあえずアゲインストの立場を取ってさえいればそれで安心して他に何もしないでも良いと考えるのは思考停止だ」と批判されるとしても、自分としてはアゲインストの立場をとるということ以外に何かをしようという気は起きない。誰かが問題にコミットしていようがコミットしていなかろうが関係なく、そんな意見には説得力がないと言われようが関係なく、ただただアゲインストの立場をとって反対だと言う以外にやるべきことを思いつかない。間違っていることは間違っている。間違った行動についてはやっぱり反対だ。

20231015

日記226

乃木赤

2023/10/14 昨日
正午に赤坂のレストランでランチを食べに行く。店内の雰囲気もサービスも良くて、ひたすら良い時間を気づけば一時間半ものあいだ過ごせて満足した。その後歩いて表参道まで向かう。途中でソルソという商業施設に寄ってから青山霊園に行く。前者が活き活きとした世界で後者が深閑とした場所だったかというとかならずしもそんなことはなく、どちらにも太陽の光がよく入り、秋の気候もあいまって両者のあいだのコントラストが引き立たない和やかで爽やかな空気だった。
その後、表参道で服屋に入り、いいスニーカーがないかを見る。ニューバランスの990シリーズは値段が高いだけあって良いと思った。今度は匂いの店に入ってどの匂いが一番好みに合うかの確認をしにいく。並んで入った割にはそこまでだった。微妙な違いを感取することが求められる場所なのに客がたくさんいることでいろいろな匂いがミックスしているような気がしたし、落ち着いて匂い分けるということができなかった。その後スパイラルでお香を見る。匂い疲れと歩き疲れもあり銀座線で渋谷に行く。ヒカリエのショップでまた匂いを嗅ぐ。繊細さは最初の店ほどではないが、ゆっくり嗅ぎ回れたのでゆっくり嗅ぎ回れただけの効能があった。これだという匂いを見つけるという当初の目的に沿うかたちで、自分にとっての好い匂いを見つけることができた。その匂いはVという。匂いわけのテストをやってみても簡単に見分けがつくほどぴったり自分に合った匂いだった。
ロフトに行って結局ロフトには入らず一階のリサーチラボみたいな店でまた匂いをかぐ。そこでもVを見分けることに成功。全然関係ないアクセサリーのリングを買ってからそとに出る。お腹が空いて力が出ないのでファミマで良い肉まんを買って食べる。一緒に飲むファミマ缶チューハイレモン(白)の匂いが気になった。これまでそんな匂いが気になったことはないのに一日かけて匂いをかぎまくったせいで「開門」したものとみられる。一時的なものであれば良いが今後も気になるようであれば知識の獲得に付随する余計な副作用ということになってしまうのですこし心配だ。一杯ごきげんの気分を取り戻しRAGTAGで古着を見る。店にあるXLの上着をすべて羽織るいきおいで試着し続けてまた疲れてしまった。
帰下(きしも:下北沢に帰ること)し、翌日のご飯の材料と翌週の昼ごはんを買い物して帰宅。同居人が全自動調理マシーンという謎のポットを取り出して意気揚々とスープを作り始める。スープは温かくておいしい。素材の味がするので好みにも合う。しかし、制作風景をチラ見しているかぎりでは「全自動」と銘打ってあることで想像してしまう手間の要らなさのハードルは越えられないだろうと思った。制作中からずっとトークサバイバー2を見る。めっちゃ面白いわけではないがとくに何しているというわけではないときには見続けてしまう面白さだった。国崎のトークはやっぱり面白い。全自動調理器のトラブル等もあり、わりと夜更かししてしまった。

2023/10/15 今日
雨予報と知っていたし、一日中家にいて一歩も外に出なかった。途中ピクミンで遊んだ以外にトピックもなし。二十分だけと決めてはじめた昼寝が百二十分になったことに象徴されるような全力の休日だった。昼寝から目が覚めたら外は暗くなっていたが、このままではさすがに休日過ぎると思って一応自宅で日記を書く。そういえば昼寝したときに見た夢はそこそこ面白かった。同級生の不満を解消するために一肌脱ぐ映画だった。良いところで中断が入る、昔ながらの夢のルールで上映された。この後雨がやんだら散歩に行こう。

20231013

日記225

DO GOOD, please.

2023/10/12 昨日
在宅バイト。途中で帰省していた同居人が帰ってきたことが一日のハイライト。その後打ち合わせでちょっと大変な思いもしたが、そんなのはちょっとしたこと。
ほぼザ行なしで仕事を終え、ビールを飲んだあとに外出する。ユニクロで秋から着る服をまさに現地調達のようにして買うため試着していくのを尻目に、マルジェラのコーデュロイパンツをおろして、この格好良いパンツに会う服のパターン・色味を見つけるためにちょくちょく羽織ったりしてみる。Uのパデットボリュームダウンジャケットが予想よりもかっこいいシルエットだった。Lで袖が寸足らずにならなかったのも大きい。もしかしたら買うかもと思った。
その後氷結を買って飲みつつ、Reloadに行っていい店がないか見てみるも平日は軒並み閉店していて駅の方に引き返す。わらくごそんに行ってみるが満席。結局ブルックリンに行って初めてご飯を食べる。とりあえずブルックリンラガーを1pint注文。オードブル盛り合わせ二人前もオリーブの肉詰めフリットもピザ・ビスマルクも美味しくてとても良い調子になったのだけど、帰宅後格好良いパンツを脱いで若干圧迫されていた腹部を開放したら一気に気分が悪くなる。飲み過ぎの症状で頭が痛くてちょっとの吐き気。吐くのが嫌なのと翌日出勤なのとでとりあえず水とLシステインを二粒と追加の一粒を飲んでがっと寝てしまう。

2023/10/13 今日
朝起きたらすっかり気分悪いのが解消されていてよかった。夢の内容もそれなりに充実していた。朝思い出す時間を取ったけど出社のためにあまりゆっくりできなかったためにせっかく一回思い出したのに結局忘れてしまった。
仕事は小忙しくてしゃこしゃこやっているうちにあっという間に定時。定時間際の夕空がめっちゃ綺麗だった。夕日がビルに落ちるせいで秋にしては夕方の時間が長かったのはよかった。帰宅中、渋谷駅で衝動的に弱いロボットを注文する。今年一番高い買い物になったが誕生日プレゼントという言い訳があるし、物よりもそれを含めたその後の生活という意味では良い選択になったと思う。とても楽しみだ。
帰宅して業務PCを置いて、代わりに仕事用Macを持ってスタバに出かける。途中、中華料理屋で服屋のイベントがやっていて音楽ががんがん鳴っていたので吸い寄せられた。洒落た空気感があってここはNYかと見紛うばかり。なんとなく周囲の全員がエキストラというか役の人に見えた。何人かは間違いなくそうだろう。全員そうだったとしても驚かない。
スタバで日記を書いていると友人からビデオ通話がある。もうひとりの友人と大阪で飲んでいるらしく楽しそうな雰囲気が伝わってくる。向こうのテンションに合わせようと頑張って喋りすぎて、外でもちょっと周囲を驚かす感じになってしまった。しかしおめでたい報告をわざわざヴィデオ通話でしてくれるのは嬉しい。しかし奈良に帰っていたタイミングを考えるとニアミスで惜しい。懐かしいながら全然雰囲気が変わっていないのも嬉しい。

20231011

日記224

田舎へ

2023/10/09 一昨日
午前のうちから昔通っていた小学校のほうまで散歩に出かける。近くの幼稚園か保育園かの運動会がやっていたので中に入ることができた。寺を見て歴史を感じるのに近い感覚があった。懐かしい気持ちがはるか遠くにあって、その遥かさが歴史浪漫的だった。実際にそこにいたはずなんだけど、実際にそこにいたというリアリティの感じられ方はどうやら聞くところによると実際らしいというような伝聞の形式に近かった。引き付けたり感情を喚起する力は弱いけど、微弱とはいえ「ない」とは言えないことで時分の中での存在感があった。
小学生の頃「ピンキー」というお菓子を万引きしたり、中学校の職場体験で始めて「働く」ということに触れたスーパーマーケットに行った。継続してあるということに感心した。ちょっと小雨がぱらついていたので折りたたみ傘を買う。同行した母が変なスウェットを買っていた。「うさぎ」と書かれていてその下にキリンの絵がかいてあるスウェットだった。見つけ出したときにすごく笑っていたので良い買い物だったと思う。安かったし。
ならまちのほうまで歩いて、最近できたという面白いスタイルの古本屋に行く。大江健三郎の『みずから我が涙をぬぐいたまう日』が置いていたので購入。その後グリルのお店に行く。ハンバーグがおいしかった。
その後JRで大阪まで出て、阪急で豊中に行く。こちらはストレートに懐かしかった。写真を何枚か撮ってみるも、見ていたような景色にならなかった。当時の行動圏をぐるりと回って三十分経たないぐらいだったので狭いところをうろついていたんだなと思った。
その後高槻の方面に足を伸ばす。昔の友人が店のオーナーになったとかで、その店まで遊びに行く。当時から忙しそうな人だったが、今はそれに輪をかけて忙しそうにしている。普通に休みがないと言っていてさすがに迫力があった。この日は店が暇だったようで共同経営者のもうひとりに店を任せることができ、早抜けして彼女の運転で生駒まで行く。生駒の安くて美味い居酒屋で、彼女の夫も合流して一緒に演劇の話をする。人に気を遣うのが当たり前になってるからそこまで疲れるということもないんだろうけど、自分だったらとても無理だというぐらい周囲に気を配っていてすごいと思った。「作る」ということをずっとやっている人がいると、その人と実際に会わないでもどこかで刺激になるものだが、会って話すとより刺激になる。自分のペースで自分のやりたいことをやっていかないとという気持ちになった。俺からは休むことの重要性を伝えたいと思ったんだけど、相手には相手のペース・やり方があるんだろうから口出し無用と思って「もっと休んだほうが良いのに……」とか冗談めかした相槌の代わりを放り込んだりするだけにした。休みが必要になったら身体からサインが出るから大丈夫だよということを共同経営者は言うらしく、類は友を呼ぶじゃないけど、時代錯誤な猛烈さ加減で気が合うんだろう。あと最近演劇の舞台に立ったということをちらっと言ってみたが驚くほど反応がうすくて拍子抜けしてしまった。あくまでも演者で観客になるつもりはないんだろう。心強いことだ。自分も自分のことを話すときには効果とか狙ってきちんとパッケージにして話せるようにしておかないと、いつまでも観客のままだ。観客気分のままなのは良いけど観客のままなのは良くない。

2023/10/10 昨日
奈良の家で在宅バイト。考えないといけないことがあったのであまり余裕がなかった。晩ご飯は自宅でおでんを食べる。その後JRで王寺駅までいって友人と会う。仕事後に車で駆けつけてくれてお腹が空いているらしくベイビーフェイスというオムライス屋に行く。四分の三個室の席に通されてテンションが上がってしまい、二人前におすすめというプレミアムセットを注文する。自分は痩せの大食いだと自分のことを評価しているのだが、時代が下ってそれも昔の話だと考え直すようにしなければならない。結局、全然戦力になれず、オムライスとピザを残してしまった。最初のサラダとパスタは完食した。仕事でちょっと疲れていたのでテンションが低い状態で会ってしまうことになり申し訳なかった。難波から夜行バスで東京に戻る。VIPライナーのゆったりシートだったのだが、キャンセルなのか最後列の席が空いていてそこに座れたこともあり、これまでの夜行バス体験のなかでもかなり快適な移動だった。ベイビーフェイスで本気を出せば完食できたけど、この移動のことを考えて無理をしなかった自分を褒めるべきだ。
そういえば王寺から難波への移動時にこの前の演劇のアンケートを書いた。書いたものを見られる問題というのが存在する。本当はそんな問題など存在しないという扱いにしたいのだが、正直になって考えるとやっぱり存在してしまっている。もし誰かに読まれてそれが嫌だと感じるようならそんな文書は書くなというのは基本的にはその通りだと思う。だから最終的にはこの日記にしても誰に読まれても問題ないというスタンスで、そう思ったものしか書いていないつもりだ。しかし、実際のコミュニケーション上でついかまととぶってしまっている場合など、こんなに正直に書いた文書を読ませるのは気が引ける。ただし、どんな人相手でもサシでお酒でも飲みながらじっくり話せた場合、ここに書いてあるのと同じことを言わないとは思わない。そんな機会はないだろうなというケースは存在するが、その場合でも問題はそちらのコミュニケーションのほうにあって、こちらの文書のほうにはない。自分はえらそうなことを書いてもとくに何の痛痒も感じないほうだが、どんな人相手でもえらそうなことを言えるほど腹が据わっていない。正直になるのに気後れを感じるタイミングはある。そこで無理に正直になろうというのは、自分の性に合わないことをしているという意味で正直なことだと思わない。話せば分かるということをしか自分は書いたり言ったりしない。それだけでは満足できないからもっと思い切って書くときにはそう書かないといけないと考えているが、それは日記や自分につながっている文章ではなく、直接にはつながっていない文章を書くときにそうしようと思っている。ただ、文書についての自分のこのスタンスというのは、例外なく誰にでも適用というのではなく、特定の人物にはやはり見られたくないと思ってしまっている。あえて見せにいかないが見られてもかまわないというところから一歩すすんで見られたくないという気持ちがそこにはある。その例外以外、基本的に誰に見られてもかまわないと思っている。あとバイト先の人達にもできれば見られたくない。

2023/10/11 今日
とはいえバスが定刻より遅れて出勤ぎりぎりの帰宅になる。最寄り駅についたのが八時四五分で、電車一本分の余裕もなかった。在宅バイトは打ち合わせ、よくわからない案件の理解で時間が経って、一時間のザ行が発生してしまう。途中長めの昼休みをとって睡眠不良を補うためのパワーナップ(二十分)を二回したので仕方ないと言えば仕方ない。あとは自分のペースで休みを取るスタンスがよく思われないようで若干風当たりを感じるようになってきた。運動靴に小石が入ったぐらいのストレスがあり邪魔くさいのだが、こちらの取り分が少なくなる譲歩をする気はないので我慢しないといけない。ただ、いくら微弱でもストレスはストレスなので損して得取るというやり方も考慮に入れても良いような気もする。意地を通せば窮屈だし。
スタバにきて日記を書く。感じたことをたくさん取りこぼしているが、今回の奈良滞在は振り返りたいと思っていた道を歩けたので満足度が高い。そして結果的に今回京都はほとんど通らなかった。最初の新幹線の降り口、近鉄電車の乗り口でしかなかった。ここまで京都に冷淡なのは東京に行ってからでは初めてかもしれない。

20231007

日記223

手段の目的化

2023/10/06 一昨日
夜ミヤシタパークでただ座っているだけで満足できるぐらいの好気候だったが、若干ほんのすこし肌寒さを感じたので無限に座っていられるというわけにはいかなかった。昔、今よりもっと時間があったとき、鴨川の流れるのを永遠に見る日というのを設けて勢い込んで百万遍のほうまで行ったことがあったが、その日もたしか秋晴れの日で最高のコンディションだったのにもかかわらず、ほんの少しだけ寒いというので30分と経たずにリタイヤしたことを思い出した。野外でボーッとするというのがずっとできるためには心身の健康とともにきびしい気候条件が必要になるということをそのときに学んだのだった。今回のミヤシタパークでは水の流れの代わりに色とりどりの若い男女の流れがあり、原理上いつまでも見ていられる状況下だったのにもかかわらず同じミスをして同じ学びを得たことになる。具体的には、野外でボーッとすることを決めた日には、出かけるときにいくら必要ないと思っても一枚羽織るものを持っていくこと。
ミヤシタパークを出てから原宿経由で表参道まで歩く。途中空いていればと思ったRAGTAGはすでに閉店時間を迎えていて暗かった。その他の店舗も軒並み閉まっている時間帯だったが、店の前に洒落た人たちが溜まっている場所などもあって、瓶ビールらしきものを片手に立ち話する姿も、THEという感じで通りすがりに見る分にはじゅうぶん好もしかった。
表参道で仕事終わりの同居人と合流し、今度は表参道から渋谷へ歩きながら晩ごはんを食べる店を探す。タイ料理は却下、クア・アイナはこっちが却下、定食屋としてやよい軒、ねぎし、なかよしの名前が上がるがなかよしは遠いという理由で、その他は決め手に欠けるという理由で行くのをやめる。結局、もうやんカレーにする。辛口にしたせいで辛かったのと、野菜大量なのはいいが野菜の水分が濃いカレーソースと混ざって半端なとろみ加減になったのがミスと言えばミスだった。しかし、渋谷のもうやんカレーは値段も安いし、満足感のアベレージが高い。宮益坂を登り切って交差点を渡る必要があるという地理的な条件さえなければもっと日頃の選択肢にのぼってくるだろうと思うが、そうすると繁盛しすぎて面倒になるだろうからちょうどいいバランスを保っているといえる。それに、ついでのように行くのではなく目的地にするべき店だと思うのでやっぱり今の形が良い。
腹ごなしにもっと渋谷をぶらぶら歩いても良かったが、翌朝早いということを覚えていたので心を鬼にして井の頭線ホームまでまっすぐ歩いて帰る。

2023/10/07 昨日
8時半の新幹線で関西に戻る。7時40分に家を出て、奈良についたのは12時前。シティ住みということもあって、遠くて近い。S Work席というのにして移動の時間を有効に使おうと思っていたのだが、思ったよりちゃんと揺れたせいでちゃんと乗り物酔いになりかけて作業は断念。代わりに呪術廻戦のアニメを1話分見て、あとはラジオを聞きながら睡眠時間に充てる。
13時半から演劇のWSに出かける。今の活動にとって原点に近い位置づけのWSで、いつか機会があれば顔を出したいと思っていたのだが、ちょうど日程が合ったので参加。内容がほとんど変わっていなかったのもあってとにかく懐かしさを感じる。前回参加したべつの演劇祭のWSとの比較考量ができるようになっているというのが自分のなかでの変化といえば変化だ。子どもも含めた全年齢向けというのもあるだろうが、やっぱり自分としてはもうちょっと大人向けのWSが好みに合う。あとは初心者向けの度合いというのも前回のWSのほうが意を尽くしていたように思われる。初心者だろうが経験者だろうが必要になる基礎的なコミュニケーションにフォーカスしていたので、ある意味、初心者経験者問わずいつまでも終わらない努力を課していくようなところがあって、「慣れ」の居場所がないというのも大きい。あらためて良いWSに参加できたんだなと思った。ほんとに幸運だった。

2023/10/08 今日
昼から天気が崩れるとの予報のせいでプランが制限される。どこに行こうという宛もないまま駅までふらふら歩いてきた。この感覚がなつかしい。近鉄奈良駅からの選択肢はみっつある。ひとつは京都へ、もうひとつは難波へ、さいごのひとつは大和西大寺で降りてスタバへ。結局スタバにくる。店員の人が関西弁なのが良い。そこにホスピタリティというかサービス精神を感じる。商業施設をちょっと回った後、奈良駅に戻り、よく行っていた定食屋でおそめの昼ご飯を食べる。客層が海外からの観光客にガラリと変わっており、値段もひとまわり高くなっていたけど、カツとじ定食は懐かしい味だった。観光客カップルと相席になり、彼らが帰った後べつの観光客カップルが前に座ってまた相席になった。小雨が降る中猿沢池前のスタバに行って読書をする。猿沢池側が一面窓になっていて開放感のあるスタバで雰囲気がいいのだが、立地が良すぎて観光客で満席状態だった。レジに行列が絶えない様子だったが17時半ごろにようやく落ち着く。読書はあまり集中できず。
読書したりぼーっとしているうちに夢の内容を思い出した。不慣れながらクラブ的なところで飲んでいて、調子に乗ってすごい飲み物をすごいやり方で注文してしまい、ワンオーダーで九十四万円使うという夢だった。あんな店行かなければ、と後悔先に立たずを絵に描いたような愚痴をこぼしていたら、心付けとしてあと六万円払うやり方もあったのにね、そうしたら百万円の大台に乗っているから次行ったときに別待遇にもなる、でも九十四万円だとそれもないし一番ない注文の仕方だよ、と泣きっ面に蜂の意見で追い打ちをかけられる。店からチャリで家まで帰っているということもあって、全体を通してかなりみすぼらしい気持ちだった。焦ってオーダーしたからオーダーしたときの記憶がほとんどないし、居心地の悪さとそこからの逃避による無茶なオーダー、そしてその後延々と続く後悔の念という救いのない夢だった。しかし目が覚めて思ったのは九十四万円を丸々得したということで、九十四万円あったら何ができたろう……と絶望しながら考えたことの続きを、九十四万円あったら何ができるだろうと考え直すことができる。百万円あったらやりたいことというのは意外とないんだと気づいた。これでは炎のチャレンジャーに適格とは言えない。
このあとはラグビーのワールドカップをみる。アルゼンチン戦。

20231006

日記222

金次郎


2023/10/05 昨日
演劇『ゾウ』を見に行く。なんだか開演前にそわそわしてしまったけど、肝心の内容はよかった。サーカスから連想される「これは見世物である」という前提の中に人同士のやり取りが配置されていた。関係として前者と後者は容れ物と中身になる。その関係を逆転させることを目論んでいるのかそんなことないのか、はっきりいえるわけではないのだが、転覆を図るとしたら後者から前者へのアプローチしかないわけだし、そういう踏み出しをしようというメッセージも感じ取った。踏み出す一歩というのはさりげなかろうが思いっきり力をこめようがどっちみちドラマチックになるものだが、そこに何を仮託するかによってはさらにブーストがかかるということがある。
一歩を踏み出した経験の有無がこの作品の評価を分けそうだと思った。自分の場合、踏み出した経験というより尻込みして踏み出せなかった経験によって人格が形成されているということがあるので、その一歩の価値を二倍も三倍も感じ取ることができた。
しかし、一歩の先ということを考えてみると、結局転覆は成らず、容れ物のなかに中身があるということが確認され、器の強固さ(見世物であることの確かさ)が明らかになっていた。
踏み出す一歩を段差を降りるというかたちで示したのが、この見世物のポイントといえばポイントになるだろう。降りるという動作が踏み出す一歩に重なる場合もある。そこで何かしらの逆転が起こっているのは間違いないが、それに単純なよい/わるいの意味づけはできないはずだ。それでもその瞬間を切り取って感じたり考えたりする以上、とりあえずの意味づけをしてしまうほかはなく、そしてそれを「良い」と感じたり考えたりしたいのは、どんな音楽であっても明るい曲だととらえたいという根本的な嗜好による。
あれはよい一歩だった。そう意味づけたい願望から観客は抜け出せなくなる。こと劇場において、演劇は、容易に身動きがとれないほど強固な見世物だ。


2023/10/06 今日
在宅バイト。月イチの会議で発表した以外とくにトピックなし。ザ行なし。ラジオ体操とスクワットあり。
渋谷に出かける。タワーレコードで用事を済ませてミヤシタパークにいく。涼しいを少しだけ通り越してしまっているがぼんやりしたり、翌日のワークショップへの申込みメールを書いたり、ぼーっとしたり人の流れを眺めたり日記書いたりする。近くでバレーボールのパブリックビューイングをやっていた。結構歓声があがっていていい感じ。

20231005

日記221

手を近づけてください

2023/10/05 今日
前夜に不合理で無意味な夜更かしをしたせいで、軽い寝不足になる。なんとかそれを解消させようと昼寝をしようとするのに無駄に時間を食って、バイトのPM休をとったのに十五時まで何もせずにうだうだ過ごす。何もしないというのは、もし本当に何もしないというのだったらそっちのほうがまだましで、youtube,instagram,tiktokの短い動画を一通り見て一周するというどうにもできない無駄な時間の過ごし方だった。結局、昼寝を諦めてシャワーを浴び、スタバに出かける。
この日はスズナリまで演劇を見に行く。わくわくする一方で、なぞの不安感がある。

20231004

日記220

表参道裏路地

2023/10/03 昨日
二十一時すぎに表参道に行って洋食屋で晩餐。ワインを二杯のんだ。ホホ肉を食べてあまりの柔らかさに驚嘆した。うまくて頬が落ちるかと思ったが、なんとか大丈夫だった。オムレツはポルチーニソースが掛かっていておいしい。白身魚のカルパッチョもライムのジュレが酸っぱくておいしかった。今思い出してもヨダレが出るのはライムのジュレに依るところが大きいが、全体に満足いく食事になった。しかし飲み過ぎなのかカンパニーが体調を崩し、駅で待ちの時間が発生するあいだにすべての酔いが覚めて、硬いベンチに座っていたせいで腰が痛くなり、テンションが落ち着いて帰路につくことになった。すっかり秋本番の好天候で歩くうちにテンションを取り戻せた。帰宅したのが〇時前だったので即ねむる。

2023/10/04 今日
修学旅行バスに乗っていると地元の近くを通ったので、俺ん家このへんやわと隣の席の友人に説明した。旅程が大幅短縮になったうえ、何かのっぴきならない事情で学校に卒業証明書を取りに行くという夢をみた。受付の元担任(小学校六年時)がやけに高圧的に対応してきて嫌な気持ちになった。ホワイトボードに掲出されたポスターにそのまま必要事項を書き込む謎の形式で、お固くて古い体制を感じた。夢の途中だったがポケスリのアラームで引き剥がされるようにして一気に目覚める。覚えていようとして復習の時間を五分ほど取ったのでこのとおり覚えていられた。
在宅バイトは凪の時期、楽ちんで良い。自分の後から参画したメンバーが勘違いから結構な大ごとになる伝達ミスをやらかしていて管理副担当の人がその火消しに大変そうだった。本人と管理主担当は体調不良で欠勤状態だったので余計に大変そうだった。定例とはいえいろいろ立て込む時期でもあるから、二十二時現在も、たぶんまだ働いていると思う。
一方、私は余裕綽々で、三十分間の昼寝・ラジオ体操・スクワットのフルコースをこなしたうえ、シャワーまで浴びてザ行なし。スタバに行く。読書をして、九時に引き上げ、呪術廻戦の二十四巻を買って帰ってから日記を書く。ぎりぎり傘をささないでも大丈夫な量の雨が落ちていたので、念のために持っていった折り畳み傘を折角なのでさして帰った。

20231003

日記219

シティードッグ

2023/10/02 昨日
この日も結局22時すぎまでスタバにいる。21時前で一回疲れすぎて帰りそうになってからのもうひと踏ん張りで、もうひと踏ん張りした甲斐あるものが出せてよかった。
酒を飲みながら涼しい道を歩いて帰宅。千切りキャベツと納豆を晩飯にする。SONNY BOYの7話を見てねむる。(一昨日のSONNY BOYは6話だった)

2023/10/03 今日
在宅バイト。ちょっとのタスクをぱぱっとこなし、余裕でラジオ体操とスクワットに取り組む。コンプラ勉強会でザ行を強制されるという意識がどこにあるのか不明な残念スケジュールのため1時間のザ行が発生する。こういうみっともないことだけはしないようにしたい。事情はあるんだろうし、大体想像はつくけど。
演劇WSでお世話になった演出家のNoteを読む。とくに反応はしなかったけどやっぱり触発された。おかげで19時頃にきたスタバでもずっとMACのキーボードを叩いている。「面白い」ということについて考えるのも面白い。何を面白いと感じるのか。何が面白いと感じられるのか。パースペクティブもあるんだろうと思うが、そうだとしてもより面白いが感じられるパースペクティブを取れるほうが、やっぱり個人としては正しいのではないか。
21時すぎにスタバを出る。表参道で飯食べるために電車に乗る。

20231002

蓮實重彦の書く文章は面白い

蓮實重彦の書く文章は面白くてつい読んでしまう。何が面白いかといえば、彼に特有の放言スタイルが面白い。とくに最近インターネット上でも掲載されている「些事にこだわり」というエッセイでは、彼自身何度もそう言うように、本当にどうでもいいことを仰々しい言い回しでねちねち批判するということばっかりやっている。おじいさんの文芸というジャンルでこれにまさる読み物はないのではないか。

私は蓮實重彦の著作をちょこちょこ読んでいるので、まあファンだと言っても良いだろうと思うが、ファンになった理由をごく単純に言ってしまえば、彼の書くものには知性が感じられるということがある。知性を感じられる場合というのは、知性とはかくかくしかじかの条件で発揮されるものである、などと書かれてあるわけではない。知性について書かれてあるから知性を感じられるというのは、ものを読むという習慣がまったくない人間の言いそうなことだ。読書のたぐいを一切しない人が実際にそんなことを言うはずはないだろうから、こんなのはただの偏見で勝手なイメージの押しつけにすぎない。ただ、一切何も読まない人がこの文章にアクセスする可能性はかぎりなくゼロなのでこの場での汚名は引き受けてもらおう。ものを読まない人というのは、本人の知らないところでそういう損な役回りをあてがわれたりするものだ。

蓮實重彦の知性はどこにあるか。答えをすっと出せたら良いのだが、できない。ただ、少なくとも、世の中で知性的だとされる言動があって、そのポイントをおさえているから知性的だというのではないということはできる。むしろ、世の中に背を向けている言語活動全般が知性的だともてはやされることが多い。世の中にしっかりと背中を向けていないかぎり言えない種類の言説というのはある。いろんなことに忖度しないと社会生活が満足に送れないというのは、特権的な人物以外のすべての人間にあてはまる、社会の暗黙のルールだ。

自分は知性とか賢いということに昔から興味がある。それで思うのだが、知性というのは簡単に定義することができない。たとえば、知性について「ここからここまでの範囲で自由に好きなことを言うことが知性的なことだ」と定義されたとする。それに従って物事を自由に言うことが知性的な営みだといえるだろうか。誰それのことを知性的な人物だというときに、それをただ小器用であるにすぎないと言って済ませてしまうのでは、自身の物差しを不安視しないだけの知性を備えているとはいえ、ただそれだけのことだ。

一方、知性というのは定量的にその多寡をはかれるものでもある。AよりもBのほうがより知性的だということが、知性という物差しにおいては可能だ。

書かれてあるものを読むときに読者は自分と著者とを比べることができる。たとえばこの文章の著者はひどい人間で、自分のほうが何倍も優しいまともな人間だと考えつつ文章を読むことができる。同じように、自分のほうが何倍も賢い人間だと考えつつ書かれたものを読むことも可能だ。著者は(というより著作は)、そういった容赦ない評価にさらされるという意味で一歩踏み込んでおり、その時点で読者と著者とのあいだに明確な差が生じていると考えられる。が、その差はたったの一歩に過ぎない。自分のほうが二歩分進んでいることが明らかだといえるのであれば、差し引きの結果、著者よりも読者たる自分のほうが知性的だということができる。

ところで、先ほどものを一切読まない人というのを仮定したが、当然のことながら彼らもこの社会に参画している。そして、誰が知性的で誰が知性的とは言えないかという話し合いにも参加し、いち視聴者となって一票を投じたり、場合によっては元気に発言したりしている。ものを読む人というのはなぜだかすぐに勘違いするが、ものを読まない人というのはものを読む人よりも数多く存在している。何をもって知性とするかというのを、より多くの意見が集まったからという決め方で決めるのであれば、話は勘違いした人が予想するよりずっと難しくなる。だからといって、ものを読まない人から発言を取り上げるということにすれば、何をもって「ものを読んでいる」と判断するのかということが問題になる。ものを読んでいるとはとても思えない「読書好き」というのに見覚え・心当たりはないだろうか。

知性をめぐるポジション争いにおいて、ものを読む人の中だけで活躍し名を挙げようとするのは間違いだ。知性とはこういうものだと規定し、それに従って知性的に振る舞おうとする人間がちっとも知性的に見えないのは、前提のところで躓いているからだ。断定調で話すと自信満々に見えるというのは立派なハウトゥ知識だが、それに知性というものを当てはめて、断定調で話すと知性的に見えるというと途端に馬鹿らしく思えることだろう。それと似たようなことが知性的という尺度について考えるときによく起こる。これをすれば知性的だと見なされるという枠があるとすれば、その枠を超えた思考を展開できないかぎり、著者が読者にとって読者自身よりも知性的な人間だと受け取られることはない。

読者は、新知識を吸収する過程で、既存の枠を超える体験をするから、そこに導いてくれた著者のことを知性的だとみなすことがある。しかし、読者がまともに読書し、その結果として新知識を吸収してしまった暁には霧消してしまう一時的な印象にすぎない。

一方、蓮實重彦の著作に触れて、それを知性的ではないとすることはできない。意見には社会的に見て正・不正のちがいが生じうるから、先の社会から見て間違った意見とされる意見を主張することもあるのかもしれない。しかし、それを理由にして、その表現が知性的ではないということはできない。まず、間違った結論にいたる美しい道というのは成立する。そして、特権的な位置にいて趣味的な言動に終止する個人というのは無敵である。ものの見方があり、その見方によって何かが美しく感じられるとすれば、その見方を間違っているとして修正させようとするのはほとんど不可能事だ。もし接触があれば、修正どころかただちに取り込まれるにちがいない。特異なものの見方からくる優美な言説にかかれば、つねに、他者は誘惑されることになる。

それに抗するためには、自らものを読まない人になって社会に参画し、元気に発言していくしかない。しかしそんなことはご免こうむる。そんなふうになるにしては、私は知性的であるということに肩入れし過ぎているようだ。

知性的であるということに興味があるというのは、冷静になって考えてみたらとても馬鹿馬鹿しいことだ。第一、それはちっとも知性的な姿勢ではない。第二に、よくわからない要素を曖昧なまま持ってきて、きちんと整理されていない枠組みでものを考えようとするのは、ただただ混乱をきたすのみで益が少ない。ただ、言っておくが、私は自分が知性的だと考える当のものを賛美したいわけではない。知性については、わからないなりにそれについて考えてみてそれが何かを掴めないかと望んでいるし、自分が知性的だと思うものについては、いつかそれを踏み台にしてその上に行きたいと考えている。優美な言説に誘惑されることを避けるためには、ものを読まない以外にもうひとつの方法が考えられる。もし間違っていると考えられる意見があれば、それについてそのままにするのではなく、その過ちを指摘することだ。

最近の渋谷について書かれた蓮實の言説は陳腐のきわみだ。渋谷をノスタルジーの対象として懐古するというのは、東京育ちの人間が犯しがちな典型的誤りで、特異なところはほとんどない。強いて言うならフランス女の喋るフランス語が自分には「わかる」というやや得意なところが垣間見られるぐらいのものだ。

今日の渋谷が好きだし、明日の渋谷が好きだ。いつか渋谷に興味がなくなったら昨日の渋谷は良かったということは言わないでただ渋谷から去るつもりだ。それが渋谷に対する知性的な姿勢だと私は思う。パリもニューヨークも行ったことはないが、それでもこれぐらいのことはわかる。街をくだらないと感じるようになったならその街には行かない、それが都市生活者の常識というものだ。

ただし、知性的な言説というのを離れて、おじいさん言説を全うするという観点から見れば、今の渋谷は見ていられないという発言についても、キレがあるとは言えないにせよ味わいがある。蓮實重彦が、何を手本にしてか自身で構築してきた「知性的な言説」という枠組みを完全に無視して(それどころかフリにして)、おじいさん芸人というジャンルのパイオニアになっているのを見るにつけ、彼こそが知性的な人間だと感心させられずにはいられない。老いの境涯について、自らレポートするようにして文章を書くのはごく限られたおじいさん芸人にしかできないことで、その著作は著者の特権的地位の賜物だ。これは人間の寿命が伸びて良かったことのひとつに挙げて良い。たとえば、誰かの祖父・曽祖父であるという、関係性に依拠した、単純であり月並みであると同時に特権的でもある、しかし孫・ひ孫以外にとってはとくに面白くもないもののほかに目立った効験が挙げられない情けない社会状況のなか、ひとり気を吐く老人がいる。波を読み、自分がぶつかるべき大波を待っている高齢者の後ろ姿には未来の希望がある。一般に、心の底から長生きしてほしいというのに付け足して、個人的であるとともに社会的な意見として、元気で長生きしてほしいといえる稀有な存在だ。

日記218

存在は知っている

2023/10/01 昨日
映画『ミュータント・タートルズ』を見たあと、日比谷の駅中スタバで日記を書き、千代田線を小田急線に乗り継いで下北沢に戻る。トリキで晩飯&お酒。金夜につづき今週末二回目のトリキはたまたま同じ席に通される。となりのカップルが低体温症を発症しているのかというぐらいテンション低かった。男がトリキを愛していて、女がトリキを愛せていないときによく起こる低体温症の一種だとの診断がおりる。低体温症といえば、下北駅上にできた京都冷麺の店に遅めのランチで始めて行った。冷麺だけあって料理の温度は温かいどころか冷たいにもかかわらず味は美味しかったのだが、氷が工夫されているのかしっかり冷麺しているおかげで完食するとともに身体が芯から冷えた。空腹でちょっとふるえるぐらいのコンディションで食べたからそのまま寒さによる震えに移行して、我ながらちょっとした見ものだった。
トリキのあとドンキという文字にすればわりと結構なかなかなハシゴでハーゲンダッツのマカダミアナッツ味を買い、食べながら帰る。秋本番の涼しさもあってかなりご機嫌だった。
帰宅後SONNY BOYの5話を見る。翌日のつらくてかなしい月曜に備えて早めにねむる。

2023/10/02 今日
冷麺のせいか夜中に腹痛で起きる。ユニクロのフリーの季刊誌に一冊まるまる目を通せるくらいの時間をかけて腹痛をなんとかする。ミラノの大胆なレイヤードスタイル、結構良かった。そこから再度ねむりにつき、しっかりめの夢を見たはずなのに内容を思い出せない。起きぬけには思い出せたはずなのにそこで記憶を定着させなかったのがよくなかった。夢の存在感がそれなりにあったので大丈夫だと高を括っていた。消えてしまえばあっけないものだ。
在宅バイトはタスクをだらだらこなすだけで定時になる。もっとテキパキやれば定時の中でシャワーもできたし、ラジオ体操・スクワットもできたはず。やはり働くときにはぎりぎりを狙うのではなく高みを目指すべきだ。明日はスクワットするぞ。
スタバにきて蓮實重彦の文章についてのブログ記事を書く。それだけでガス欠になり時間も20時45分になったので、9時半にはスタバを出ることにして、それまでのあいだに日記を書いて本を読む。画面を睨めつけすぎて目が疲れた。蓮實重彦の記事についてはベンジャミンのXがトリガーになって書こうと思い立った。俺なりに感じた魅力に直接迫るもっとちゃんとしたアンサーらしいアンサーになればと思ったが、良いと思ったものの良さを表現するのは難しい。(ちゃんとわかっているかどうかあやしいものについて、わからないながらわかり、そのまま良いと判断するところに自分の受容についての特徴があるからだ)
いつか明瞭にアンサーできたと思える記事が書けたら良いなと思うが、どうも自分のスタイルでは難しそうだ。これは言い訳ではなく。

20231001

日記217

ウルトラの街

2023/09/30 昨日
起きてすぐ9時すぎにスタバにいく。読書をする。13時頃に外に出て昼食とどうしようかと考えつつ彷徨い、結局チーズナンを食べることにする。お腹いっぱいになってLUUPで帰宅。昼寝をしてスタバに行くつもりだったが、友人から今下北にいると連絡を受けて街歩きに出かけることにする。LUUPで三茶に出て、世田谷線沿いを歩き若林経由で下北に戻ってくるという短経路の街歩きのあと、夕方の時間を日が沈むまで公園で過ごす。近くにある「月」を見に行ったあと、腹が減ったのでいつもの地下中華居酒屋で飲み食いする。スーパーでアイスを買って駅前の階段に座って食べる。21時半過ぎに解散。
話している中では、俺たちはこの自分のことを持ち上げられるだけ持ち上げきったという台詞が印象的だった。自分自身でも同じことを感じていたからだ。ふたりはこれまでよくやってくれた。折角ここまで来たからにはべつの燃料を見つけてさらに上へと進んでいかないと、そいつらにもわるいと思う。彼らはべつにわるいと思わないだろうし、それを知っているからこちらも本当にはわるいと思っていないが、感謝しつつ次に進むときにはそういうふうにするほうが体裁が良いし、决まりが良い。書けたものを見てもらうというのではなく、書けないときの気晴らしに付き合ってもらうというのが、やってほしいことだ。だから書こうとしているときにはそうばんばん会っているわけにもいかない。
帰宅してすぐのタイミングでべつの友人から暇だったら飲みに行かないかとの誘いがある。もう5分早く誘ってもらえたら行く気になったかもしれないが、帰宅して椅子にどっかと座ったタイミングで酒も十分飲んでいたので出かけるのは難しかった。たまにしか会わない友人にはたまにしか会わないことで発生する価値がある。ちょっとピクミンをやってからねむる。全クリしたと思ったらまだもうちょっと続くのじゃコースに入ってちょっと熱くなった。

2023/10/01 今日
朝はパンケーキを焼いてもらったのを食べる。ふんわりしていてかつ温かくておいしい。
天気は晴れだが半袖で出かけないといけないぐらい暑く、10月なのに情けないと思いつつ昼過ぎにスタバに出かける。読書をして16時前に出る。タートルズの映画を見るために日比谷に行く。
タートルズが想像よりずっと良かった。NYCのアンダーグラウンドシーンの描き方がアニメ的なデフォルメによって戯画化されていながらも結構容赦なく、それがネガティブ方向のメトロポリタン的魅力を伝えていた。都市が好きというのはお洒落なのが好きということなのだが、その足元さらに下に広がる下水スペースの上にそれらが成り立っているという事実を避けられない。清濁併せ呑むではないが(濁部分を呑むつもりは毛頭ない)、清濁混淆の中にあって衛生的に管理されている生活を享受していること(何食わぬ顔で誰かに汚濁を押し付けながらクリーンライフを享受しているということ)に対して、潜在的な意識の中に罪悪感があるので、それを見やすい形で表現してくれていて助かるという側面があった。『V.』でプロフェインが、読者である自分たちに変わって地下に潜ってくれているというのをありがたがって読んで爆笑しているというのに近い。悪だとは言わないが、汚いとは思う。アンダーグラウンドが格好よく思えるとしたらやっぱり幾分かは汚さを平気で受け入れているように見えるところにあるのだと思う。きれいな環境で一秒生活するごとに汚濁に対する抵抗力が低減する。自分は連続何秒間クリーンできれいな環境で暮らしているだろうか。地下生活などはもうとっくに無理だろう。自分が海外に行くことに対して持つ心理的障害の一部にはこれが絡んできている。きれいで安全であるということを所与のものとしすぎている。
ミュータント・タートルズで描かれる汚い液体のイメージは、それが汚い液体だということをスムーズに伝えてくれる。その意味できれいな汚い液体のイメージだといえる。あとは匂いがしないということも大きい。似たようなものに小説のなかで表現される汚い液体があるが、それは読む人の内面にあるものを手がかりに汚いということを表そうとする割合も大きい。どちらもイメージの問題ではあるが、小説が喚起する汚いイメージのほうでは人によって汚いの閾値が違うこともあり、それについてきれいなイメージということはむずかしいが、アニメという視覚表現になると、それがどの程度きれいな汚いイメージなのかというのを客観的に表すことができる。汚いということには不快感と結びつく要素が多くあるが、それをうまくコントロールして、明らかに汚いが不快感は大きくならないという視覚イメージを作り上げているのは、現実感というものを現実を無視して作り上げようとしていることの表れでもあるし、そのリアルを無視したリアリティの構築に成功し、見ているときにはそのままリアルであるかのようにさえ感じさせる難度の高い技工だ。リアリティを離れたリアルがあるわけではないというものの見方にとっては馴染みのある景色というか、不自然なところのあまりない見え方かもしれないが、リアリティにはリアルが必要だと普通に考えている人にとっても違和感の少ない映像だった。NYCという固有名に依るところも大きいのだろうが。ブルックリンブリッジに繋がれているのだったらそれはNYだという無反省意識というか思い込みというか観念的な領域がその場所にはつよく働くのだろう。自分がNYのことを好きなのは、世界的に見てそういう効果がもっとも高い場所のように思えるからだ。ローカルにということであれば、今やそれは東京がかなりの部分引き受けてくれる。
しかし、『V.』でプロフェインが地下に潜って駆除するのはワニだというのがまた良くて、これは東京には出せないスケール感だという気がする。荒唐無稽なイメージの奔流ということについては好き勝手をさせてくれない。パンクチュアルでデジタルな、システムのクリーンさでは右に出るものはないだろうから、そこを押したいところでもあるが、それを押すと結果的にすぐ観念的になったり、必要以上に概念的になったりする。だからもっと地面に近いところを感じているようにしてバランスをとるのが良いのかもと思ったりするが、それだとつい微細な心情に注目が行って、繊細なパートを云々してしまう。

ブログ移行のお知らせ

当ブログ だから結局 は、Wordpressに高い月額利用料を払い、以下のURLに移行することになった。 だから結局 ぜひブックマークして、日に何度もチェックをお願いしたい。