覚えているかぎり最初の逆走体験は、テレビゲームからもたらされた。
それは有名なゲーム機の、有名なシリーズのキャラクターが登場するレースゲームだった。幼馴染の友人の家で、もしくはソフトを持ってきてもらって自分の家で、そのゲームで対戦していたときに起こった。相手の妨害アイテムの使用によってか、それとも単純にこちらの操作のミスからか、それもはっきり覚えていないのだが、自分の操作する車体がコースを逆流してしまうということが偶然起きた。コースを逆走していることを示すキャラクターから、回れ右をして順走に戻れとすかさず指示されたのだが、すでに相手とは大きく差を開けられてしまって勝てる見込みはないし、そのまま逆走をしてやれという気分になった。正確な記憶はないのだが、おそらく小学生になったばかりの頃で、それまではこうするんだよという表示を受け取って、そのとおりにすることで褒められたり、機嫌がわるいためにわざとそのとおりにしないことで反意を示そうとしたりしていた。このときも負けそうになったことでやぶれかぶれの気持ちになり、ゲーム自体を壊そうとする気持ちもあったと思う。しかし、子供同士の対等な遊びだったこともあって、その逆走は、単なる反意の表明というより以上の意味合いをもった。コントローラーを置いてボイコットするのではなく、与えられたものとはべつのルールを作って、そのなかで遊び始めるという積極的な面があった。逆走していても、不貞腐れた気持ちのままではなく、より早くコースを一周してやろうという気持ちがあったし、やがて一瞬だけ来る友人との正面衝突を楽しみにするという面白い目的もすぐに見つかった。首尾よくぶつかることができたらこちらの勝ち、ぶつかることができなかったらこちらの負けというルールに変わった。友人もすでにレースの勝利を手にしているから、二重の勝利を目論んですぐに新しいルールに適応した。与えられたルール・枠組みに従うか、それに従わず反抗するかという二択にとらわれない姿勢を、自分はこのときに発見した。そのときにそう考えたというわけではないが、事後的にそれを見つけた。そして、それはその後にもサボりぐせだったり、一般的に言ってあまりよくない特徴としても多く作用した。ただ、それがなければ自分ではないといえるほど、大きな特徴のひとつになった。
今にして思うのは、勝手に変更されたルールに対して文句も言わず、しかもすんなり適応してみせる友人の姿勢と、能力の高さである。子供というのは色々な問題点を抱えた不完全な存在であるようにも思われるが、このことひとつとっても、優れた一面がたしかにある。その後も友人はこちらの勝手なルール変更や、新しい遊びのアイデア(自然と思いついた者が有利なルールになる)に付き合ってくれて、そういう発明が「あり」なんだと自分に教えてくれた。彼とは高校卒業後にパタリと会わなくなってしまったが、こうやって自分なりに自分のだといえる生活を送っているということも、彼や彼のような”子供時代の友人たち”に負うところが大きい。
逆走するときの感覚には特別なものがある。あらかじめ誰かによって決められた目的を壊すときの手応え。目的が終わって新しい目的が始まるまでの待機期間に起こる宙ぶらりんの気持ち。そして、終わりと始まりがあるにもかかわらず、逆走し始める前から途切れずに続いている、自分がコントローラーを握っているという当然の感覚。いずれにせよ、そもそもレースがあって、自分以外のプレーヤーがいてはじめて成立するものだ。
あのときに逆走を始めていなければ、と考える。ひょっとすると自分は、今の自分とは全然ちがう組成の人物として生活を送ることになっていただろうか。そうだとすれば、あの出来事は自分にとっての原点だといえるもので、あのときの逆走は今も続いている。レースゲームの仕組み上、逆走したまま何周しようともゴールが遠ざかることはない。逆走に逆走を重ね、しかも一切動いていないという結果がある。