こんな考えを、五十年もあっちへ動かしこっちへ動かししてるうちに、次第にわかってきたんだが、人間は低能である必要はないらしい。私は長いこと宗教のためには一種の低能さが必要条件だと思っていた。そしてそれが耐えられないほど嫌だったのだが、しかしどうもそうではないらしい。
いいか、彼らは信仰を教え、降伏せよと説教する。しかし私の望みは明晰さにある。もちろん、明晰さのためには信仰と降伏が必要だという論も成り立つだろう。しかし理解の曇った部分を信仰で埋めるなんて、私はご免こうむるよ。終始それだけは避けようと努めてきたつもりだ。
降伏と幸福が同じ音になっているということに気づいた。「こうふく」とタイプし「降伏」に変換しようとして「幸福」と出てきたからだ。音が同じだからというダジャレめいた連想からだが、ふたつは同じものの別の言い方にすぎないというという気がした。
たとえば「幸福にはならないぞ」と決心しているものは、ある立場から見ると手強い相手だといえないだろうか。その人からは「絶対に降伏しないぞ」と宣言しているような手強さ(歯ごたえ)を感じる。
人のアドバイスに、いくら高いカネを払っても一度は泊まったり食べたりして一流を知っておけというものがある。これはそのとおりだと思う。しかし、精神にも同じことが言えるはずで、大体の人が精神を重要なものだと考えてもいるはずなのに、一流の精神に触れよというアドバイスが聞かれることはない。ドストエフスキーを読まないままで閉じるたくさんの人生に対して一番有用だと考えられるアドバイスを誰もしようとしないのはどういうわけか。先のアドバイスがドストエフスキーの言及にまで至らない場合、それが言っているのは一流のサービスや一流の一皿以上に重要なものは人生にはありませんということのように聞こえる。それは間違っている。ドストエフスキーの名を出すまえに出すべき名前があるとか、順番に案内しないとただただ挫折することになって結局その人のためにならないとか、いろいろな言い分があるのは理解できるが、知るためできるのは自分でそれに触れてみることしかない。一流の精神について一切何も知らないで、一流のもてなしだとか一流の一品について知った気になるというのはまったくの無駄でしかない。こういう考えについて、文化それぞれに高低があるとする間違った考え方だという反論があるかもしれない。しかし、一流二流という言い方が示すとおり、何にでも高低はあるというのが自分の考えで、衣食満ち足りたひとりの人間にとって、最高のもてなしを受ける体験が、最高の小説を読む体験に優越することは何ひとつない。これだけは断言してもいい。一流のホテルに泊まった経験はなく、したがって一般的に最高とされるもてなしを受けたことはないが、それでも、あまり強弁する意識もなく、比較的簡単に断言することができる。そういう場合には、断言された内容が間違っていることが多いものだということは踏まえた上でなお、間違っているという気が一切しないまま断言できる。内容の正否にかかわらず、こういうふうに断言できることはそこそこ稀なことではないか。だから正しいはずだというのは自分の立場からは言えないことではあるが、自分が人にアドバイスをするとしたら上記の内容となる。