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日記209
こんな考えを、五十年もあっちへ動かしこっちへ動かししてるうちに、次第にわかってきたんだが、人間は低能である必要はないらしい。私は長いこと宗教のためには一種の低能さが必要条件だと思っていた。そしてそれが耐えられないほど嫌だったのだが、しかしどうもそうではないらしい。
いいか、彼らは信仰を教え、降伏せよと説教する。しかし私の望みは明晰さにある。もちろん、明晰さのためには信仰と降伏が必要だという論も成り立つだろう。しかし理解の曇った部分を信仰で埋めるなんて、私はご免こうむるよ。終始それだけは避けようと努めてきたつもりだ。
降伏と幸福が同じ音になっているということに気づいた。「こうふく」とタイプし「降伏」に変換しようとして「幸福」と出てきたからだ。音が同じだからというダジャレめいた連想からだが、ふたつは同じものの別の言い方にすぎないというという気がした。
たとえば「幸福にはならないぞ」と決心しているものは、ある立場から見ると手強い相手だといえないだろうか。その人からは「絶対に降伏しないぞ」と宣言しているような手強さ(歯ごたえ)を感じる。
人のアドバイスに、いくら高いカネを払っても一度は泊まったり食べたりして一流を知っておけというものがある。これはそのとおりだと思う。しかし、精神にも同じことが言えるはずで、大体の人が精神を重要なものだと考えてもいるはずなのに、一流の精神に触れよというアドバイスが聞かれることはない。ドストエフスキーを読まないままで閉じるたくさんの人生に対して一番有用だと考えられるアドバイスを誰もしようとしないのはどういうわけか。先のアドバイスがドストエフスキーの言及にまで至らない場合、それが言っているのは一流のサービスや一流の一皿以上に重要なものは人生にはありませんということのように聞こえる。それは間違っている。ドストエフスキーの名を出すまえに出すべき名前があるとか、順番に案内しないとただただ挫折することになって結局その人のためにならないとか、いろいろな言い分があるのは理解できるが、知るためできるのは自分でそれに触れてみることしかない。一流の精神について一切何も知らないで、一流のもてなしだとか一流の一品について知った気になるというのはまったくの無駄でしかない。こういう考えについて、文化それぞれに高低があるとする間違った考え方だという反論があるかもしれない。しかし、一流二流という言い方が示すとおり、何にでも高低はあるというのが自分の考えで、衣食満ち足りたひとりの人間にとって、最高のもてなしを受ける体験が、最高の小説を読む体験に優越することは何ひとつない。これだけは断言してもいい。一流のホテルに泊まった経験はなく、したがって一般的に最高とされるもてなしを受けたことはないが、それでも、あまり強弁する意識もなく、比較的簡単に断言することができる。そういう場合には、断言された内容が間違っていることが多いものだということは踏まえた上でなお、間違っているという気が一切しないまま断言できる。内容の正否にかかわらず、こういうふうに断言できることはそこそこ稀なことではないか。だから正しいはずだというのは自分の立場からは言えないことではあるが、自分が人にアドバイスをするとしたら上記の内容となる。
20230919
日記208
20230915
逆走のこと
覚えているかぎり最初の逆走体験は、テレビゲームからもたらされた。
それは有名なゲーム機の、有名なシリーズのキャラクターが登場するレースゲームだった。幼馴染の友人の家で、もしくはソフトを持ってきてもらって自分の家で、そのゲームで対戦していたときに起こった。相手の妨害アイテムの使用によってか、それとも単純にこちらの操作のミスからか、それもはっきり覚えていないのだが、自分の操作する車体がコースを逆流してしまうということが偶然起きた。コースを逆走していることを示すキャラクターから、回れ右をして順走に戻れとすかさず指示されたのだが、すでに相手とは大きく差を開けられてしまって勝てる見込みはないし、そのまま逆走をしてやれという気分になった。正確な記憶はないのだが、おそらく小学生になったばかりの頃で、それまではこうするんだよという表示を受け取って、そのとおりにすることで褒められたり、機嫌がわるいためにわざとそのとおりにしないことで反意を示そうとしたりしていた。このときも負けそうになったことでやぶれかぶれの気持ちになり、ゲーム自体を壊そうとする気持ちもあったと思う。しかし、子供同士の対等な遊びだったこともあって、その逆走は、単なる反意の表明というより以上の意味合いをもった。コントローラーを置いてボイコットするのではなく、与えられたものとはべつのルールを作って、そのなかで遊び始めるという積極的な面があった。逆走していても、不貞腐れた気持ちのままではなく、より早くコースを一周してやろうという気持ちがあったし、やがて一瞬だけ来る友人との正面衝突を楽しみにするという面白い目的もすぐに見つかった。首尾よくぶつかることができたらこちらの勝ち、ぶつかることができなかったらこちらの負けというルールに変わった。友人もすでにレースの勝利を手にしているから、二重の勝利を目論んですぐに新しいルールに適応した。与えられたルール・枠組みに従うか、それに従わず反抗するかという二択にとらわれない姿勢を、自分はこのときに発見した。そのときにそう考えたというわけではないが、事後的にそれを見つけた。そして、それはその後にもサボりぐせだったり、一般的に言ってあまりよくない特徴としても多く作用した。ただ、それがなければ自分ではないといえるほど、大きな特徴のひとつになった。
今にして思うのは、勝手に変更されたルールに対して文句も言わず、しかもすんなり適応してみせる友人の姿勢と、能力の高さである。子供というのは色々な問題点を抱えた不完全な存在であるようにも思われるが、このことひとつとっても、優れた一面がたしかにある。その後も友人はこちらの勝手なルール変更や、新しい遊びのアイデア(自然と思いついた者が有利なルールになる)に付き合ってくれて、そういう発明が「あり」なんだと自分に教えてくれた。彼とは高校卒業後にパタリと会わなくなってしまったが、こうやって自分なりに自分のだといえる生活を送っているということも、彼や彼のような”子供時代の友人たち”に負うところが大きい。
逆走するときの感覚には特別なものがある。あらかじめ誰かによって決められた目的を壊すときの手応え。目的が終わって新しい目的が始まるまでの待機期間に起こる宙ぶらりんの気持ち。そして、終わりと始まりがあるにもかかわらず、逆走し始める前から途切れずに続いている、自分がコントローラーを握っているという当然の感覚。いずれにせよ、そもそもレースがあって、自分以外のプレーヤーがいてはじめて成立するものだ。
あのときに逆走を始めていなければ、と考える。ひょっとすると自分は、今の自分とは全然ちがう組成の人物として生活を送ることになっていただろうか。そうだとすれば、あの出来事は自分にとっての原点だといえるもので、あのときの逆走は今も続いている。レースゲームの仕組み上、逆走したまま何周しようともゴールが遠ざかることはない。逆走に逆走を重ね、しかも一切動いていないという結果がある。
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