20230929

日記216

それぞれの方へ

2023/09/28 昨日
ハンバーグを食べに行った。大人のハンバーグというタイトルのハンバーグを食べた。CMで見た「大人のお茶漬け」を食べたくてしょうがない気持ちになったあの頃の俺はすでに遠く、とくに何らの感動もなく大人のハンバーグという題のハンバーグを食べた。ジントニックのグラスはきちんと細長い形状で、大人のというのは「正統の」とか「オーセンティックな」とかいうことも含意しているのだろうなと思った。大人の俺はそういうのをつまらないと感じる。それでも奢ってもらって食べたこともあり、十分おいしかった。
ポケスリのグッドスリープデイだったこともあって23時にはねむる。

2023/09/29 今日
4時、6時、7時に目が覚める。起きたときには掴んでいたはずの夢は最後8時半に起きたときには全部流れてしまっていた。感覚として、何かの考えを前に進めたという手応えのようなものもあったのだが、肝心の考えの中身について覚えていないので、今、微妙に損した気分になった。
在宅バイト。どんな仕事しているのかという確認と挨拶を兼ねたヒアリングが15分開催される。和やかな雰囲気だったのもあってかなり簡単にこなせた。とりあえず15分間であればボロが出ずに保つようになっている。面談担当は15分間で決める必要があるのだから大変だなと思った。能力を見極めるには時間を30分に伸ばすか、あらかじめ必要な情報を文書でもらっておいて質問から入るといった工夫が必要なのだと思う。思えば今まで受けてきた面談は全部そんな感じだった。なるほど。今さらながら。
やりのこした事務仕事の対応がほとんどだったが余裕を持って退勤。しかし昼頃から感じていた眠気が去らなかったのですぐに出かけずに20分間の昼寝タイムを設けて、シャワーで目を覚ましてからスタバに行く。20時から22時20分まで。読書と日記で終わってしまい、昨日の進捗の続きには手を付けなかった。これはあえてで、書けると感じていられる状態を長く続けたいという思惑がある。「待て」を言ってあげているようなものだ。「よし」のために溜めているのだ。中秋の名月だからなのか、ボーナストラックに人が多かった。大きな白いうさぎにもいつもよりたくさんの人が群がって写真を撮ったりしていた。このあとは飲みに行く。中秋の名月なので、というより、金曜日の夜なので。

20230928

日記215

西日(宮益坂)

2023/09/27 昨日
『カモン・カモン』が予想よりずっと面白くて、自分の考えにも馴染んだので興奮してちょっと眠れなくなった。翌日が出社日なのに結局0時近くまで起きていたと思う。

2023/09/28 今日
7時20分頃に起きて出社する。暑い日になったようだが、通勤退勤時の朝と夕方には気温はそれなりに落ち着いていたのでよかった。ヒアリングというか面談があった。勝手に会議ブースを予約してそこでリモート面談をした。それ以外はまあまあ中身のあるビデオ研修とくだらないビデオ研修を受講。打ち合わせに出てメール返して、まあいつものルーチンをこなしているうちに定時になったので帰宅する。渋谷スクランブル交差点経由での帰宅。呪術廻戦のキャラクターがJR渋谷駅の階段にいたので好きなキャラの分の写真を撮る。
下北のスタバにきて読書をする。そしてなんと今日は進捗があった! かなり嬉しいが、このあとは晩ごはんを食べに行く。マインスイーパーでいうところの、スペースがバッと開けた感覚だ。これが起こればあとはちまちま進めていける。行き止まりに行き当たるまでだが、うまくいけば連鎖も起こるかもしれない。今回のブレイクスルーのきっかけになった過去の経験と出会いに感謝。マジ感謝。

20230927

日記214

おぼろ

2023/09/26 昨日
なんだかんだで22時半までスタバにいた。そんなにお腹が減っていなかったので晩ごはんは食べず、夜はスタバに入る前に食べた一本満足バー(プロテイン)だけになった。
早めに寝ることを心がけるも、なんだかんだ0時すぎになる。

2023/09/27 今日
在宅バイト。午前中に打ち合わせ。知らないことがたくさんあるなかで打ち合わせのファシリテーターをやらないといけない羽目になっているのおかしい気がする。ただこの日は午後休を取っているので、あまり仕事のことは考えずに13時前に離脱する。
オオカミのいえという映画を見に行く。映画館の近くのもうやんカレーに行って、おかわり一回のランチを食べる。一皿目でもりもりに盛ったせいで腹がパンパンだったのにもかかわらず、おかわりをしないで終わらせるのはもったいなくて無理だったので野菜中心におかわりをする。バイキングの前に立つとあれもこれもとなって結局一皿分盛ってしまい、必死になって完食する羽目になった。案の定、満腹からくる眠気で映画は半睡状態で見ることになった。生成変化する様を見せるストップモーションアニメなのだが、リズムが遅く感じられるのと音楽と効果音のセンスが合わないのとで最後までのめりこめず、目を開けていることが難しかった。起きていようと頑張るのではなく映像を媒介にしていつもとちがったテイストの夢を見ようという方向づけをしていて、むかし能楽堂で夢幻能を見たときの感覚に近かった。曖昧なまま一応見終わった感想として、鳥は歌えるが歌の言葉は通用しないというメッセージ内容を受け取った。通用しないというのは加虐者、庇護対象のどちらに対してもそうで、声のトーンや歌うときの表情、さしのべる救いの手には反応があるものの、思惑については無反応で終わってしまうという失望が伝わってきた。
映画を見終わったあとはそのまま宮益坂を歩き下る。109の横側から差す西日を思いっきり受けながら歩いた。下北沢に戻ってスタバに入ろうとするも満席だったため、まだ明るい時間帯だったので雨庭公園で読書しながら散歩で通る犬でも眺めようかと絶好のスポットにあるベンチに座ったものの蚊が現れて1分と経たないうちに退散する。
帰宅後、半休なのに何もしなかったという罪悪感をかわそうと配信されている映画を見ることにする。20分近く探して『カモン・カモン』を見る。街のこどもにインタビューするインタビュアーが主人公の、コミュニケーションがテーマの映画だった。昨日の日記との符号にも驚くが、ちょうどそういうことを考えていた時期だから面白いというよりは、わりと継続的に考えている「原理的なコミュニケーション」がテーマになっている。穴を掘ればだいたい地下水が出るわけで、いわゆるセレンディピティというやつだが、最近知った用語で言うところの散乱選択だ。コミュニケーションの原理みたいなことを考えているかぎり、こういう映画には自然と出くわすのだろう。主人公が彼の甥に向かって話す、今のことを忘れたくないという願いに対する答えが素敵だった。甥っ子に話すことを通して、彼自身のなかにおそらくずっとある願いそのものにも答えられているようだった。
なにか楽しいことがあったときにその全部を覚えていたいというのは当然の欲求だと思うが、そういう生の体験について全部は覚えていられなかったとしても「最高のお泊まり会だった」という印象が残るというのは経験からくる知恵なんだろう。
自分も今日、映画館で予告を見ながら、映画はこういった良いシーンや忘れがたいシーンの集積としてあって、そのシーンのひとつひとつが面白い映画という印象を形成しているにもかかわらず、実際にはそういったシーンのほとんどを忘れてしまっている(すぐ思い出せるかたちで引き出しにしまえなくなっている)ということを思った。そういうのはまさに間抜けのなかの間抜けだと思う。込み入った事情に対して、しっかり考えたことに近づけて何かを言おうとすると、かえってペラペラ喋っているような感覚になってしまうこととかもそうだが、そうやると間抜けなことになるとわかっていても間抜けなことをやるしかないというのがもうその時点で間抜けということなんだろう。そして、それが間抜けかどうかはわからないが、もうこれはこれでいい、無茶苦茶でもしょうがないと認めることは大事だ。この映画はコミュニケーションのエッセンスをわかりやすく伝えようとしているし、物事の良い面にフォーカスしようとする良い姿勢があるからどうしても寓話的・おとぎ話みたいになるけれど、それが特徴の良い映画だといえる。

20230926

日記213

there is

2023/09/25 昨日
牛丼と納豆と千切りキャベツを買って帰宅。遅い晩飯を食べながらお笑いバラエティを見る。笑えるし面白いコンテンツ、適度に頭を使うようにできている分タチの悪い動画は無限にある。頭を使っているように感じられるのはそう感じさせるようにパッケージされているからで、ラジオなんかもその典型だが、無反省に見聞きしていると脳の大部分を知らず知らずのうちに侵食される。害は少ないのかもしれないが、自分の頭を使って行う知的活動が本人にも気づかないうちに誰かのミームになるのはよくないと思う。実人生をとにかく受容することで埋め尽くす、受容だけで発信はしないと受け入れている人にとっては、凹に対する凸でひとつも問題ないと思われるが、何か働きかけを起こしたいと思っている人にとっては、圧倒的な受容のしやすさ・ノイズがなくてとにかくスムーズということ自体がひとつの害悪になりうる。しくじり先生のラフレクラン改名回で西村が言っていることはいちいち至極もっともだと思った。「こいつは自分の人生の主人公であるだけでなく、他人の人生にとっても主人公であろうとするんですよ」という西村評が誰かから聞かれてそれが印象に残った。西村はそれを誰かに言わせて自分は静かに頷いていただけだが、こうやって思い返そうとしても、それを言った人間のことを覚えておらず、西村のことだけが記憶に残っている。最近はまっているこたけ正義感にしてもトンツカタン森本にしても、こう考えてこう言ったという経過を隠そうともせず、結果的に賢いを表に出してそのまま売れようとしているのが、時代の変化といえば変化だという気がする。ほんの一昔前でももっと「能ある鷹は爪を隠す」ではないが、「考えてないですよ、ただのリアクションですよ」というのを全面に出すスタイルがよしとされていて、美学的にもそういう姿勢に価値があると見なされていたことを思うと、自分の好みに合う変化だという気がする。だからこそこういうテクニックに気持ちよくさせられることに対する反感が生まれるのだけど、そうやって反感を生む「引っ掛かり」を提供すること自体には正当さを感じる。警告付きで楽しませるという正当な手続きを踏んでいると思うからより信頼できるし、ファンを作ろうという動きではなくむしろその逆を行っているのが、いわゆるインフルエンサーなどとは一線を画するポイントだ。お笑いの好みに関して言うと、もちろん考えていないスタイルが嫌いというわけではない。考えているのに考えていないように見せる一手間には胡散臭さというか煩わしさを感じないではないが、反射神経や一貫性を発揮する芸人は実際に余計なことは考えないのだろうから、そこに特別な明るさが見出されたりはする。

2023/09/26 今日
在宅バイト。いつまでもこの仕事をやっていてはいけないなと思う。そうすると転職をしないといけないのだが、ある程度新しいことがあり、ある程度考えないでもいい状態もあるから、ここから抜け出すのは億劫だという気持ちがある。しかしいつまでも続けられるものではないし、腰を浮かせていないといけない。実際に動く動かないにかかわらずつねに情報を取りに行くようにすることは大切だ。リモートですぐミーティングができるんだから、エージェントと定期的に会うように年間スケジュールを決めておかないと。いざ腰を上げようとするのは気が重いから、年単位でスケジューリングしておいて未来の自分に頑張ってもらうような仕組みを作るのが良い。
ザ行なしでスタバにくる。しかし今日は落とし物回収のため登戸に寄り道。前回行ったのはつい3ヶ月前(もしかすると三ヶ月も経っていない)だと思うので、いくらなんでも簡単に落としすぎ。これも気をつけるようにするじゃどうにもならないから対策をしないと。
読書をしてから日記を書く。睡眠不足の気があってフル集中とはいえないなか、一章をまるまる読み終える。こういう読書の進捗もどれだけ身になっているのか甚だ怪しいものだが、MAXのことは考えないようにして読まないよりは読むほうがいいぐらいでやっていかないと継続できない。「継続は力」を逃げ口上にしているようではだめだが、せめて継続だけはしていないと何にもならない。はっきり言って最低限だが、最低限はキープしていないとその下は普通にある。それに続けているとたまに調子の良い日もあったりするし。
自分はコミュニケーションのやり方を見直さなければならないと思った。初対面のひとには興味がある。しかし、コミュニケーションがうまくいっているとは思えない。考えてみたらそもそも今のやり方は変更後のものだった。どういう考え方をする人なのか、とにかくインタビューをしようとするのが変更前で、そのやり方ではあまりその人自身を引き出せないから、自分をある程度開示したうえで興味を持って相手の話を聞くようにしようというのが改善案だった。しかし実際にはそううまくいくものではなく、自分の話をしようとするもそれが得意ではないために自分の話をすることができず、結果、自分の話で詰まってインタビューもできない(=相手からしたら自分に興味持っていない)という虻蜂取らずというか二兎追う者は一兎も得ずみたいな体たらくに落ち込んでしまった。
初対面の人にする自分の話というのは基本的に自分の来歴の話で、昔の話と自分の話とを結びつけるのがあまり好きではないからモチベーションが保てない。そこは飛ばして無害感を出しつつインタビューするという昔のやり方に戻したほうが良い。それでうまく引き出せなかったとしても、あなたに興味があるというメタメッセージのほうは伝わるはずだ。実際自分と違う考え方をする人の考え方には興味があるんだからこちらのほうはモチベーションの心配をする必要もない。去年の冬に参加した演劇WSでも、新しい会社でも、知り合いの知り合いとの飲み会でも、サシ飲みに行く段階にまで発展しなかった。これは原因を上げようと思えばいろいろ挙げられると思うが、一番は自分のやり方が良くないからだ。自分にとってどうにかできるのも自分のやり方しかない。
同居を始めてからの一年、ほとんど一人の時間がないのも大きい気がする。自分は人より孤独につよく、寂しさを感じにくいタイプだと思っていたが、それは寂しさを感じそうになると、適宜こちらから動いて寂しく感じないようにするというのを無意識的にやっていた結果なのではないか。それが一人暮らしの時期にやっていたことで、今コミュニケーションにおいて一歩前に出ないようになったのは、状況的にその傾斜がほとんどゼロになっている結果なのかもしれない。強化月間を設けて、明示的にそいつと会いまくるという一時期を作るのが良い気がする。今年の文学フリマでそういう仲間を見つけるというのを裏テーマにしよう。そうしたらもし小説が完成しなかったとしても意義はあるということになる……。

20230925

日記212

名前のない天気

2023/09/24 昨日
海に行く。海といえば湘南江の島。それなりに風があったので浜辺で砂を浴びながらサーフィンの講習風景を見る。しかし海を見るのが目的で海に行くのであればひとりで行くのにかぎる。ふたり以上であれば街歩きのほうが楽しい。江ノ電に乗って鎌倉のスポット鶴岡八幡宮を見に行く。穏やかな暖かさがある行楽日和だったのだが、鎌倉を回るには時間が足りなかった。日が落ちるのが早くなっているというのもある。散策についても、相手が目的なく歩くのが楽しいというタイプではない場合、自分のほうが漫然と歩いていて楽しいと感じるにしても、どうしてもそれに付き合ってもらっているという感じになる。自分はスポットを目的地にするような旅行にはあまり興味がない。というより、スポットにも一定の興味は持てるけれど、重要なのは駅の感じとか、道の感じとか、歩く人の様子のほうで、パッケージされた観光スポットに行っても写真撮影タイムがあるから楽しいぐらいのものでとくにそれ以上の意義を感じない。これは世界遺産の間近で生まれ育ったことからくる姿勢のような気がするが、人と旅行や外出をすると、経験というものについて、あるいは旅行ということについての基本姿勢のちがいを感じることがある。
それでいて誰かと外出したり旅行したりということをやりたがるのは、やっぱりそれが楽しいからで、しかしどちらかというと非日常体験としての側面が大きい。その人との思い出を増やすということにフォーカスして、自分の思う旅行というのを控えめにすることがもっとも多くの楽しみを引き出すコツだと思った。やっぱり旅行をしたいのなら、自分はひとり旅をしなければならない。ただ、とくに旅行をしたいと思わないので、というより、できれば東京でおくるすべての生活を旅行のように捉えていたいので、東京ひとり旅をちょっとの合間を見つけてやっていこうと思った。久しぶりに「海を見に行く」ということもやらないと。
下北沢でうどんを食べて〆る。最後のアイスはちょっと余計かとは思ったが雪見だいふくのチョコ味はおいしかった。頭痛がしたけどぎりぎりバファリンを飲まないで済むレベルだったのですぐに寝ることで頭痛を解消してしまう。金曜日から日曜の夜まで、すごくよく寝た。本気出せばいつまでも眠れるんじゃないかというぐらい眠りの調子が良かった。

2023/09/25 今日
在宅バイト。月曜日だから憂鬱だったのだが、よく寝た影響で気分の落ち込みが強制的に解消されるような変なコンディションだった。タスクも積み残したもの含めどんどん消化していき、洗濯機二回まわし、ラジオ体操とスクワット、シャワーをしてザ行なしという定常運転に戻れた。退勤後すぐにスタバにくる。本を読んでからちょっと書く。進捗と呼べるものではないが、それなりに分量のある長いメモ書きのようなものになる。

20230922

日記211

下向きエスカレーター

2023/09/21 昨日
10時半近くまでスタバにいる。しかし進捗らしい進捗はなし。ただ、よくわからない種類の文章ができる。エッセイにも小説にもならない短い文章だ。こういうまとまりも長さもない文章をポンポン書いていると楽チンでいい。書いているときには焦燥感から解放されるし、書くのが難しいような文章を書いているわけでもないから完全な気晴らしになる。

2023/09/22 今日
大阪駅らしき駅から乗り換えて豊中らしきところに行き、いとこに久しぶりに会って、彼が公園で企画をやりにいくのについて行く。ピースの綾部みたいな外見でやる気にも満ち溢れている感じなのだが、だらだらしているうちに17時すぎになってしまい、公園につく頃には日没で撮影できないと泣き言をいっていた。夢のなかではあららと思うだけだったが、起きてトイレにいって小用を足しているときにそのことを思い出して笑ってしまった。大きい口を叩くのとぼんやりだらだらしているのと時計をみたときの困り顔のコラボレーションがたかい効果をあげていた。自然と親しみが湧く。
在宅バイト。打ち合わせ発表は大過なく過ぎ去った。普段つかわない脳の部分を使ったせいか最後のほうはよくわからない感じになってしまい、わけのわからないことを口走ってしまった。そのフォローをしようとするから余計に深みにはまり、蜘蛛の巣でじたばたする虫みたいな格好になってしまった。まあ、散々だったというほどではないし、たとえ客観的に散々だったとしてもとにかくは終わったことだ。その後も、今週中にはやらないといけないがとうとう金曜まで引き伸ばしてしまっていたことを一時間のザ行で全部終わらせる。
退勤後雨の降る中スタバにいく。精神の生態学へ、英文法を哲学するの二冊を読む。日記を書こうかというタイミングで飲みに誘われ、のこのこ北千住まで出かける。同居人の職場の飲み会に途中から参加するという荒業。やめておけと言わんばかり、小田急線が信号トラブルで遅延していたが結局一時間ほどかけて北千住にいく。徒手空拳で、呼ばれたからという理由だけでその場所にただただ足を運ぶというのは自分の特技だと言っていいかもしれない。どうせなら行った先で皆を楽しませるという特技であってほしかったが、運が良ければそうなるかもしれないし、そもそも望みすぎるのはよくない。望みすぎるから動けなくなるんであって、まずは動くのが大事なことだ。失敗したらホストのせいだと考えることのできるゲストでありたい。

20230921

日記210

違法音楽

2023/09/20 昨日
スタバに22時半までいたあと、『ソングの哲学』を読み終わるためにダンダンに行って続きを読む。23時半までいて読み終える。ボブ・ディランでも誰でも、その人にしか書けない文章というのがあって、その「しか」の部分がそれを読む喜びに直接つながっている。内容とは直接関係ないが、映画のことに触れるchapterがあって、そこで何か堰を切ったようにあれもこれもと映画の名前を羅列していくのが面白かった。うたのことについて書くのはやるべきことだけど疲れる、映画のことだったらもっと気楽に楽しく書けるという書き手の表情がみえてよかった。
よけいな言葉が一文字もないのに、言うべきことをひとつも省略していない。力の抜け具合に達意を感じさせる。訳業というのは偉大だと思わされることが稀にあるが、この本にもそれを感じる。
LUUPで秋風を切りながら帰宅。できるかぎり素早くねむりに入ろうとするも、結局1時を回ってしまった。

2023/09/21 今日
漫才さんの役を当てられて舞台上でツッコミをする。自分のツッコミが周囲の空気から切り離されて、やけにくっきりあるのを肌で感じた。ツッコミの極意というのは、ボケの輪郭を切り取りながらしかもその線を不自然なものにしないというところにあるのだと思った。そう考えるとツッコミボケというのは絵で言うところのヘタウマのようなもので、ツッコミするときの違和感・不自然さをそのままボケに転用しているものだ。一口にツッコミボケと言ってもいろんな種類があるのだろうけど、その起こりを考えると、ボケから転身した下手なツッコミから始まったに違いないという確信がある。ツッコミというのは、必ずしも奥が深いというものではないけど間違いなく難しい。夢の中から教訓を得るというのが自分のなかでの流行りになっている気がする。ただの二連続に過ぎないが。
あとはゲームセンター遊んだ。マイクに向かってリコーダーを吹いて音を出すことでキャラクターを動かす格闘ゲーム。多分、きちんとした曲のフレーズを吹くことで技が出るシステムで、フレーズを吹こうと頑張るあまりほとんどまったく画面を見ずにプレイしたので勝っていたのか負けていたのか、CPU相手だからそもそも対戦が終わったのかどうかもわからないまま、でたらめなフレーズを吹き続けた。この夢で自分はまだ高い方のドとかレとかミの吹き方を忘れていないということが明らかになった。フレーズは無理だと悟ってからは低い方のドとかレとかを吹こうと頑張った。音を出す難易度から考えてそっちのほうが強いパンチが出そうな気がしたから。
在宅バイトの打ち合わせでは20分近く喋り詰め。知ってることを喋るのが面白いものではないと思うので低いトーンで喋っていたら喋りながら緊張してきてちょっと具合悪くなった。やっていることは部屋で虚空に向けて喋っているのと変わらないのにバカバカしいと頭では思うんだけど緊張するのは止められない。上ふたつに負けないぐらいやっていることが夢っぽいなと思う。
二日前に適当にこんな感じやろと出した質問への回答が真逆方向に間違っていたので訂正報を出す。いい加減に仕事して仕事増やすというのを地で行っていた。そのせいでラジオ体操もスクワットもやる時間さえ取れず。またもや0.5時間のザ行。その後シャワーを浴びてスタバにくる。とりあえず『精神の生態学へ(中)』を読む。小説はピタリと止まってしまっていて、ふたたび動き出す気配さえない。登場人物が過去の人物になっていく感覚があって危機感をおぼえる。昔の友人への自らの冷淡さを見るにつけ、ちょっとよくない事態だ。
スタバでいつものミルク入りコーヒーを飲んでいると、「グラビティレインボウ」というセンテンスが降りてくる。おっと思うもすぐに重力の虹のことだと気がつく。小説でも何でも文章を書いているときに降ってくるように思える、良い思いつきについて、こういうことが起きているにすぎないのだろうと思って暗い気持ちになった。グラビティレインボウはまだ覚えていやすいから気づくことができただけで、気づかずに、記憶がない状態で思いついていることは多々あるんだろう。もしかするとそれがすべてなのかもしれない。面白いものばかり見聞きするように意識してきたからまだしもだという気はするけど。自分はいろんな手柄を上げることになっても「オリジナリティ」ということだけは一切主張しないようにしよう。

20230920

日記209

自然の一部

2023/09/19 昨日
スタバのあと中華居酒屋でご飯を食べる。10時すぎにお腹いっぱいになった。あまりよくない食生活だが、そういう日がない生活は味気ない。ビールを二杯だけ飲んでご機嫌になった。帰り道に小粋なコンビニアイスを買い食いする。歩いているときは若干涼しいが家についたときにはちょうど汗ばむ天候で、秋といえば秋だがもう少し深いほうが好みに合う。Tシャツ一枚のときに肌寒さを感じさせてくれるぐらいが一番ちょうどいい。

2023/09/20 今日
いい夢を見た気がするのに思い出せない。といっても仕事関係の夢だったから起きている自分がカテゴライズするならわるい夢になるだろう。しかしそれを見ているときの実感としては、リアリティも展開もあって、なかなか面白かったように思う。実際の仕事のことも、つまらない一辺倒で捉えるのも違う気がする。冷静に全体を通して評価するかぎり「つまらない」というのは動かないのだが、そうやって冷静に全体的に評価するというのをわざわざすること自体おかしなことだという気がする。友人にもいろいろいるように、生活のなかにあるいろいろあるピースのひとつとして、若干距離を置いて(できればちょっと割り引いて)捉えるようにしたらいいのではないか、ということを見たはずだけどろくに内容を覚えていない夢から教えてもらった。
在宅バイト。今週ある打ち合わせの資料作成で忙しく、ラジオ体操スクワット大相撲すべてお預けになって、なおかつザ行をたっぷり1時間やる羽目になった。しかし、打ち合わせを自分主導で、内容の説明まで「やらせてもらえる」と考えるとなかなかわるくないのではないかと思っている。話すべきことがある状態で人前で話すというのは、普段人前で話すときのよくない緊張よりはいくぶんマシな緊張だという感触がある。言うべき台詞があって舞台に立つときのそれに縋る(寄って立つ)感覚とでも言おうか。
スタバにきて『精神と自然』を読み終える。最後の章「So What?」がきれいな物語のエンドになっていて美しいと思った。娘と父との会話でみせるパターンのなかに、著者が父親から受け継いだものを感じさせる構造、書きかけの本を書き終わらずに娘に託すかたちになることなどがあって、彼が社会に引き継ぐことと、彼自身がこの世界から受け取ったものとの掛け合わせになっている。終わりというのは忌むべきものだという意見を変えるつもりはないが、そんな自分にさえ、これはわるくない終わりではないのかという錯覚を起こさせそうになった。
読むなかで他人が言ったことと感じさせない箇所がいくつかあったが、とくに宗教についての捉え方は他人事とは思えない。最初反発する、のちに宥和にむけて歩み寄る、というのは宗教と個人が作り出す模様のよくあるパターンだといえばそれまでなのだけど。

こんな考えを、五十年もあっちへ動かしこっちへ動かししてるうちに、次第にわかってきたんだが、人間は低能である必要はないらしい。私は長いこと宗教のためには一種の低能さが必要条件だと思っていた。そしてそれが耐えられないほど嫌だったのだが、しかしどうもそうではないらしい。

 

いいか、彼らは信仰を教え、降伏せよと説教する。しかし私の望みは明晰さにある。もちろん、明晰さのためには信仰と降伏が必要だという論も成り立つだろう。しかし理解の曇った部分を信仰で埋めるなんて、私はご免こうむるよ。終始それだけは避けようと努めてきたつもりだ。 


降伏と幸福が同じ音になっているということに気づいた。「こうふく」とタイプし「降伏」に変換しようとして「幸福」と出てきたからだ。音が同じだからというダジャレめいた連想からだが、ふたつは同じものの別の言い方にすぎないというという気がした。

たとえば「幸福にはならないぞ」と決心しているものは、ある立場から見ると手強い相手だといえないだろうか。その人からは「絶対に降伏しないぞ」と宣言しているような手強さ(歯ごたえ)を感じる。


人のアドバイスに、いくら高いカネを払っても一度は泊まったり食べたりして一流を知っておけというものがある。これはそのとおりだと思う。しかし、精神にも同じことが言えるはずで、大体の人が精神を重要なものだと考えてもいるはずなのに、一流の精神に触れよというアドバイスが聞かれることはない。ドストエフスキーを読まないままで閉じるたくさんの人生に対して一番有用だと考えられるアドバイスを誰もしようとしないのはどういうわけか。先のアドバイスがドストエフスキーの言及にまで至らない場合、それが言っているのは一流のサービスや一流の一皿以上に重要なものは人生にはありませんということのように聞こえる。それは間違っている。ドストエフスキーの名を出すまえに出すべき名前があるとか、順番に案内しないとただただ挫折することになって結局その人のためにならないとか、いろいろな言い分があるのは理解できるが、知るためできるのは自分でそれに触れてみることしかない。一流の精神について一切何も知らないで、一流のもてなしだとか一流の一品について知った気になるというのはまったくの無駄でしかない。こういう考えについて、文化それぞれに高低があるとする間違った考え方だという反論があるかもしれない。しかし、一流二流という言い方が示すとおり、何にでも高低はあるというのが自分の考えで、衣食満ち足りたひとりの人間にとって、最高のもてなしを受ける体験が、最高の小説を読む体験に優越することは何ひとつない。これだけは断言してもいい。一流のホテルに泊まった経験はなく、したがって一般的に最高とされるもてなしを受けたことはないが、それでも、あまり強弁する意識もなく、比較的簡単に断言することができる。そういう場合には、断言された内容が間違っていることが多いものだということは踏まえた上でなお、間違っているという気が一切しないまま断言できる。内容の正否にかかわらず、こういうふうに断言できることはそこそこ稀なことではないか。だから正しいはずだというのは自分の立場からは言えないことではあるが、自分が人にアドバイスをするとしたら上記の内容となる。

20230919

日記208

ホワット・ア・ラビット

2023/09/18 昨日
代官山まで音沙汰のライブを見に行く。開演前に飲み物を飲まないで待っていることで、開演前特有の緊張感を味わった。たぶんいつの時代もそうなんだろうと思うが、今をソングライターとして生きることには、ちょっと言葉にするのも難しいような困難がつきまとうのだろうと想像する。どこかでクッションを挟むのは不可欠なのだろうし、それを小休止として捉えられるのはある程度仕方ないことではあるにせよ、そこまでラクができる姿勢というわけでもないはずだ。むしろ体力を消耗して休憩にはならないのにもかかわらず、クッションという見方をされるなんていう厳しさがある。自分は音楽を信じていないし、どちらかといえば懐疑的な見方をして憚らないのだが、それでも一部のソングライターが引き受けているように見える苦心については同情的なほうだと思う。音楽に通じてもいないし、ストレートな音楽の良さについては(たまに踊ったりするばかりで)ほとんど不感症だといえる自分にとって、音楽ライブに行くのは、そこに垣間見られる苦闘の跡を見に行くためだといえる。
そういう音楽ファンではない自分にとっても、ボブ・ディランの『ソングの哲学』は面白い読み物だった。ひとつひとつの曲についてのノートの寄せ集めというかたちの文集なのだが、youtube musicで曲を聞きながらその文章を読んでいると、ボブ・ディランというひとりの偏屈なアメリカ人を通して、これまで知らなかった音楽のことを知ることができて、知識の収集としても有用だ。ふざけたところが一切なくて、物怖じしてしまいそうになるほどシリアスな語り口なのだが、ほのかに香るか香らないかぐらいの微妙なユーモアが感じられるのも良い。明るい曲というのは、必ずしも白で飛ばした音楽だけをいうわけではなく、暗い中に混じりこむ一粒の砂ほどのわずかな光を宿す曲のことも含まれる。このことは誰と共有する機会がなかったとしても常識だといって間違いないことだと思われるが、『ソングの哲学』を読んでいると、その文体の中にもこの常識が染みついているのを感じるし、それを感じさせるという点で、たんに音楽のことを題材にして書かれているということを越えて音楽的な文章だ。生きているかぎり感じることは避けようがないし、感じる以上は兎に角、そのことに忠実でいなければならないという窮屈さを感じる。こういったスペースにおいて「砂粒のような光」にあたるのは、おそらく「いい加減さ」なのだと思う。これが昔の音楽にはなくて今の音楽にはあるひとつの利点だ。「ケツを蹴り上げる」という行動に出るとき、エネルギーの起こり自体が容赦ないものでありながら、どこか笑える要素を無くさずにいないというのに似ている。

2023/09/19 今日
水族館と美術館が一緒になったような建物内を巡る。海の浜辺に建築されており、窓ガラスを通してみる海の様子そのものが展示品というコンセプトの、周遊型テーマパークだった。
そこでは、こんな小さい穴はとてもじゃないが潜れないという穴の中に入っていくのが目玉のコーナーになっていた。そこには小学校時代のミニバスのメンバーで遊びに来ていたので、誰ともなくやろうという流れになって、ひとりずつ穴に入っていった。実際に入ってみると外からは絶対に無理だという小ささの穴だったのにもかかわらず、上下の木の板がそれぞれ奥に押しこめるようになっていて、問題なく入り込むことができた。木の板はきちんとワックスが塗られていてすべすべした感触で、押し込むときの感触は木の硬さの奥にやわらかさを感じるものだった。匍匐前進の要領で6歩ほど進んだところ、どこに抜けるのかまったく想像もつかないタイミングで、寝室のドアが閉まる音がして目が覚めた。
在宅バイト。小忙しいなかでやることが増えていき、だいたいのタスクを明日に積み残した状態で退勤する。それでもラジオ体操とスクワットだけはこなす。
退勤後シャワーを浴び、19時前にはスタバにくる。外はそこまで暑いわけではないが、Tシャツ一枚でも店にきてしばらくは汗が出るぐらいの暑さはまだある。『ソングの哲学』の続きを読む。
自分のやっていることが小説に集約されるとか、生活で得た面白かったことの集大成になるように小説を書こうとか思っている部分があるのだが、それだけでは足りないということを思った。というかこれは以前の日記でも書いたことだった。前輪と後輪での両輪の話。書いたそばから忘れていくのは、そういうことができるようにと思ってのことだが、いくらなんでもすぐに忘れられていて自分でも驚いた。ただいまでも記憶が曖昧で書いたような気がしているのか、書こうと思って書かなかったのか、実際に書いたのかが不明瞭なままだ。このあと日記を読み返せばはっきりすることなのだが、どちらの可能性も等しく感じられている時点で記憶がおぼつかないことはすでに確定していて見返すのがちょっとこわい。このままなんだっけという状態で置いておきたいような気もする。

20230915

逆走のこと

覚えているかぎり最初の逆走体験は、テレビゲームからもたらされた。

それは有名なゲーム機の、有名なシリーズのキャラクターが登場するレースゲームだった。幼馴染の友人の家で、もしくはソフトを持ってきてもらって自分の家で、そのゲームで対戦していたときに起こった。相手の妨害アイテムの使用によってか、それとも単純にこちらの操作のミスからか、それもはっきり覚えていないのだが、自分の操作する車体がコースを逆流してしまうということが偶然起きた。コースを逆走していることを示すキャラクターから、回れ右をして順走に戻れとすかさず指示されたのだが、すでに相手とは大きく差を開けられてしまって勝てる見込みはないし、そのまま逆走をしてやれという気分になった。正確な記憶はないのだが、おそらく小学生になったばかりの頃で、それまではこうするんだよという表示を受け取って、そのとおりにすることで褒められたり、機嫌がわるいためにわざとそのとおりにしないことで反意を示そうとしたりしていた。このときも負けそうになったことでやぶれかぶれの気持ちになり、ゲーム自体を壊そうとする気持ちもあったと思う。しかし、子供同士の対等な遊びだったこともあって、その逆走は、単なる反意の表明というより以上の意味合いをもった。コントローラーを置いてボイコットするのではなく、与えられたものとはべつのルールを作って、そのなかで遊び始めるという積極的な面があった。逆走していても、不貞腐れた気持ちのままではなく、より早くコースを一周してやろうという気持ちがあったし、やがて一瞬だけ来る友人との正面衝突を楽しみにするという面白い目的もすぐに見つかった。首尾よくぶつかることができたらこちらの勝ち、ぶつかることができなかったらこちらの負けというルールに変わった。友人もすでにレースの勝利を手にしているから、二重の勝利を目論んですぐに新しいルールに適応した。与えられたルール・枠組みに従うか、それに従わず反抗するかという二択にとらわれない姿勢を、自分はこのときに発見した。そのときにそう考えたというわけではないが、事後的にそれを見つけた。そして、それはその後にもサボりぐせだったり、一般的に言ってあまりよくない特徴としても多く作用した。ただ、それがなければ自分ではないといえるほど、大きな特徴のひとつになった。

今にして思うのは、勝手に変更されたルールに対して文句も言わず、しかもすんなり適応してみせる友人の姿勢と、能力の高さである。子供というのは色々な問題点を抱えた不完全な存在であるようにも思われるが、このことひとつとっても、優れた一面がたしかにある。その後も友人はこちらの勝手なルール変更や、新しい遊びのアイデア(自然と思いついた者が有利なルールになる)に付き合ってくれて、そういう発明が「あり」なんだと自分に教えてくれた。彼とは高校卒業後にパタリと会わなくなってしまったが、こうやって自分なりに自分のだといえる生活を送っているということも、彼や彼のような”子供時代の友人たち”に負うところが大きい。

逆走するときの感覚には特別なものがある。あらかじめ誰かによって決められた目的を壊すときの手応え。目的が終わって新しい目的が始まるまでの待機期間に起こる宙ぶらりんの気持ち。そして、終わりと始まりがあるにもかかわらず、逆走し始める前から途切れずに続いている、自分がコントローラーを握っているという当然の感覚。いずれにせよ、そもそもレースがあって、自分以外のプレーヤーがいてはじめて成立するものだ。

あのときに逆走を始めていなければ、と考える。ひょっとすると自分は、今の自分とは全然ちがう組成の人物として生活を送ることになっていただろうか。そうだとすれば、あの出来事は自分にとっての原点だといえるもので、あのときの逆走は今も続いている。レースゲームの仕組み上、逆走したまま何周しようともゴールが遠ざかることはない。逆走に逆走を重ね、しかも一切動いていないという結果がある。

日記207

都会のオーロラ

2023/09/14 昨日
出社日だった。相当マシになったとはいえ通退勤時の暑さはまだある。やるべきことを持っていって暇な時間にやろうと思っていたが、それをやるだけのまとまった時間は作れず。
帰りに「なかじま」という美味いチャーハンを食わせる店に行ってカニレタスチャーハンの大盛りを食べる。すごくお腹いっぱいになった。帰り道の陸橋交差点でモデルの女が何かの撮影をしていた。すごい首を傾けるなあというシーンにすれ違ったので、モデルはすげえ首傾けるんだなあという印象を持った。
そのままどこにも寄らずに帰宅。読書をちょっとだけしてすごく早く寝る。寝る前に大相撲のハイライトを見るのが楽しい。

2023/09/15 今日
在宅バイト。すごくたくさん寝た影響でおもに体調面で調子が良い。しかし途中で頭痛がするなと思っていたらゲリラ豪雨と落雷。落雷の音は本当に空全体で太鼓をぶっ叩いているような音で近くで鳴るとその音の大きさにいつもびっくりする。
大相撲のタイミングで打ち合わせがあったせいで結びの一番しかじっくり見られず。豊昇龍は意地を見せる展開になると魅力を発揮する力士だ。悔しそうだったり闘志をむきだしにするような追い込まれた状況が輝ける場所というのでは身が持たないだろうと思うが、事実そういう状況下で輝いている。力士にはそういうドラマチックなストーリーが求められるものなんだと思うが、怪我が多いのも含めて因果な商売だなと感じる。分厚いご祝儀の束をむんずと片手で掴むシーンにその分胸がすくようなところもあるので、商売というのは俗っぽい露悪的な言い方ではなく、生活の縮図という大きな意味での営みのことを指している。
ほぼザ行なしで退勤し、髪の毛を切りに出かける。指名して髪の毛を切ってもらう体験は
4ヶ月ほど続いている。歴が短い若い男の人で、失敗してもそれはそれで小話になると思って大船に乗ったつもりで頼める、のちょうど逆だ。それはそれで心配やストレスが少ないし、なんとなく相性が良いのを感じる。今のところは失敗どころかこちらの言葉少ななオーダーを汲み取っていつもいい感じにしてくれている。でも自分として大きいのは失敗しないことではなく、その人に任せて失敗してもかまわないと思っていられる人に任せられていることだ。どう転ぼうが自分の選択だと思える。あとはリーズナブルな価格設定も大きい。
髪切り終わって古着屋RAGTAGに行く。マルジェラのコーデュロイパンツを穿いてみたらサイズがピッタリすぎて危うく即買いしそうになった。落ち着いてネットで情報収集すると半分の価格で売りに出されているのを見つける。しかしそっちはサイズが小さくてたぶん入らない。
明日もう一度見に行って買うかもしれない。しかし今のワードローブを頭の中に思い浮かべるとサイズ大きめのスウェットが中心にあって、シルエット的にそれらとの相性がそこまで良くないような気がする。ワイドパンツがラクだし不動の鉄板になっているので、そこに風穴を開けるという意味でもマルジェラが良い挑戦になるのは間違いない。裾がバッと広がってしかもちょっとロールされてたまる感じが格好いいパンツだった。誇張したブーツカットのシルエットというか。うーん、悩む。気まぐれに入るんじゃなかった。そういう服を見つけるために入るんだけど。
スタバにきて日記を書く。このあと読書をするつもり。たぶん進捗は見込めない。というか進め方そのものを巻き戻して、ぐんぐん書き進めていくのではなく、起こるアクション、つながり、新しい登場人物との出会いを考えていくセクションを進めないといけない。めをつむってサイコロを振るみたいにしてとにかく書き進めるフェースがくるのは間違いない。でも今はもう、一旦、そのやり方に限界が来た。作り出した登場人物がまだ透明なので、出番を減らすか、形をくわしく考えるかしないといけない。こういうときにそいつを消滅させて、いなかったことにするというのも小説のことを考えると有効策なのだと思うが、吝嗇な性分からそれはできない。しかし、べつの小説世界に飛ばしてしまうというのは考えられるか……。構想段階の作品に仮に移ってもらうという方策だが、肝心の構想がいまの小説以外にひとつもないから困る。

20230913

日記206

BYE

2023/09/12 昨日
帰宅後、後半戦からサッカーを見る。少なくともこの時期のトルコは完成度が低かったのでテストになるかは微妙なところだった。ちゃんと早めに寝ることに成功する。


2023/09/13 今日
在宅バイト。この日は午後休を取ったのでやる気があった。昨日の積み残しをばりばり終わらして13時前に退勤。昼飯にカレーを食べに出かけてスタバに行く。プリントアウトした原稿をちょっと直して15時すぎに店を出る。その後郵便局で用事を済ませてから代々木公園まで出かける。散歩するには暑すぎたが久しぶりにドッグランに顔を出す。しばらく犬を見てからPARCOまで歩く。『アステロイドシティ』を見る。これが面白かった。昔の自分だったらすぐに監督のファンになっていたと思う。言いたいことを言うために手続きが必要になるという考え方があると思うが、その手続きにこだわり抜いているという偏執狂的な特徴が、目的の設定によって特長になっている例だ。SONNY BOYもそうだが、自分と同じ方向を向いている面白い作品を見たときの反応が微妙なものになっている。これってジェラス? いや、自分の足の置き場がその分減ることの焦りなんだと思う。もともと存在しなかった足場が具現化しているのを見てやばいじゃんと思うのはナンセンスなんだけど、実際イライラするような反応になるし、楽しい面白いとばかり言ってられない、面白いものに触れられたことを手放しで喜べないというよくない反応が見られる。

「僕は、苦痛や悲しみをユーモアとともに描くことにこだわっているわけではありません。それよりも人生で起きることそのものが大事だと思っています。特に歳を取るにつれて、死が目の前に積み重なり始めます。その人の意見を聞きたくても、二度と答えを聞くことはできない。それが喪失の力とでもいうべきものとなっていくんですね。こういった重い話題を、友人や家族と話したりするのだけど、やっぱり答えは永遠に見つけられないように思うのです」

↑はウェス・アンダーソンの言葉だが、『アステロイドシティ』ではこういった感覚をわりとストレートに落とし込めているので、個人個人にとって惹かれるところがあるんだろうと思う。

手直しをはじめた小説について、残せる箇所があったら儲けものぐらいに考えた方がいいと考えた。プリントアウトしたことで一応は形になったけど、これでは全然伝わらない。自分の中にあるイメージに沿ったものではあるのだけど、そのイメージはこのテキストだけでは共有できないと思われる。
直しをするときに、あーあって思ったり、がっかりしてしまったりして削られるので、もっと機械的にこなしていくようにしないといけない。しかし、そもそも直しの段階ではない。プロットをもとに一応できた「骨子」をもとに、清書するつもりで一からの書き直しが必要だ。もっとゴリゴリ進めていくべき。
一度目の書き出しなのだから精度なんていうのはのぞむべくもないことなのだが、それでもひとつのバイオレーションを犯さないために三つ四つのバイオレーションラインを多重に踏んでいて、もう少しなんとかならないものかとつい思ってしまう。しかし、問題は、いくつもあるバイオレーションラインについてすべてを把握して完璧に踏まないようにして足を運んでいくというのが大目的にはなり得ないところだ。問題ないものをいくら書いていってもどうにもならないという大問題と、手直しせずにはいられない問題含みの文章ばかりが量産されていくという小問題が同時に作り出されていて、あとから解決を図ろうとする頭の中をすぐにごちゃごちゃさせてくる。

20230912

日記205

セーフティーファースト

2023/09/11 昨日
結局、それなりに読書ができたものの、仕事の進捗はほとんどなかった。しかしSONNY BOY残り二話まで視聴し、途中で切り上げて早めに寝ることには成功する。


2023/09/12 今日
在宅バイト。午前中にはSONNY BOYを最終回まで見る。現にある問題をきちんと抽象化できているという意味で抽象的なSFアニメだった。こんな作品が制作され、しかも評価までされているのだからアニメ文化も捨てたもんじゃない。シチュエーションは大事だが台詞で進めていくアニメなのでラジオのようにして聞けるかもしれない。台詞が研ぎ澄まされているのでリスニングノベルの側面がつよい。今敏のアニメ作品を思わせるが、それよりももっと抽象度合いを高めることができている。今現在にきっちりチューニングを合わせているからこそ可能なステップなのだと思う。最終回とエピローグは別物ながらともに満足いく。希がいる世界で生きていけるというのが長良にとって最高だ。ラジオ体操とスクワットをこなす。
大相撲は明生が貴景勝に敗れる。北勝富士と霧島の一番は熱かった。霧島の敏捷性についていけるんだと驚かされた。
ちょっとだけ発生したザ行を済ませてからスタバに行く。作った小説の部分を手直ししながら読み直す。その後印刷形式の整備などの事務的な作業に時間が取られて目立った進捗なし。ほとんどボツにしないすべてぶち込みスタイルで55000字。最低20万字は超えるはずなのでそれでもやっと4分の1なのだが、プロット上でも重要なところばかり書き進めた状況でこうなっているので若干不安だ。書きやすいところばかり書き進めてこの量というのは心もとない。
SONNY BOYを見て学生時代のことを考えたが、自分は学校に行きたくないという思いを抱えたことがない。小学4年生のころに一度だけ、クラスメイトの男と折り合いが悪くなってそれだけで学校に行きたくないという騒ぎを起こしたものだったが、それ以降にそういう記憶がない。自分は恵まれている。そのことに胡座をかいて、恵まれない立場を作り出す側に回っていなかったか。中学高校の頃は友達と馬鹿な思いつきばっかりやっているうちに終わった。そんなことばかりしているから(あとは奥手だったから)女っ気なしながら、片思いをしていたおかげで学校に行くことはプラスの意味に塗りつぶされていた。
22時までスタバにいたので帰ってトルコ戦を見ることにする。今日は読書なし。

20230911

日記204

空寿司

2023/09/10 昨日
大相撲初日、ラグビーワールドカップ日本代表初戦、そしてバスケワールドカップ決勝戦と、スポーツばかり見る日になった。バスケを見ながら酒を飲む。シュルーダーがクールで魅了されてしまった。流川楓っぽい、漫画に出てきそうなエースだった。そのままテレビを付けていたら国崎和也七変化がはじまる。どのネタも面白かったが、画面がホワイトアウトするところでとくに笑った。あとは音楽が良かったので曲名を鼻歌検索してみるとtake on meという曲だった。その後酒を入れていたグラスを割ってしまう。呑み口がうすくて100円にしてはいいグラスなんだけど耐久性が低く、オットマンからカーペットに落としただけでパリンと割れてしまった。ものを割るのは今週二回目。不注意が続いているから気をつけるようにしないと。事故をしてもつまらないし。それにしても、ものが割れるときの罪悪感は嫌なものだ。それを感じない爽快感のなかでものを割る体験をして帳尻を合わせたいと思うが、そういう体験はめったにできるものではない。それを狙って割ったとしても、偶然割れたとき特有の感触が得られない。つねにものを割るときの気構えをもっていることが大事だ。割れる瞬間に気持ちを前に向けるつもりでそれに臨まないと。
ねむりの約束をこの日も守れず。ちょっと本格的に睡眠習慣を取り戻さないといけない。

2023/09/11 今日
在宅バイト。寝不足気味があって好きに過ごせるのに調子がわるいという微妙な日になった。『Sonny boy』を一気に六話ほど見る。不調というか憂鬱の原因はこのアニメかもしれない。学校ものの本質SFという感じで面白いのだけど、自らの置かれたシチュエーションのことを鏡ばりに明らかにさせられるから、面白いのがそのまま気分に作用したんだと思われる。最低限のタスクをこなしてから大相撲を見る。明生はこの日霧島に力負け。
ザ行なしでスタバに行く。途中インド料理屋でチーズナンとチキンカレーを食べる。ナンのおかわりもしてかなりの満腹になる。調子がよくないのにこういうことをするから余計によくない。読書をするもあまり身が入らず。
前回の日記で、子供に本をすすめるようなことをしたくないと書いたが、普通に本を読むことが前提のようになっていて、こういう意識できないところに押し付けが発生するんだなと思った。しかし、本を読まないという選択肢は実質ないのではないか。それはもう押し付けても良いことにする、という開き直りが発生しそうになっている。結局、直接か間接的にかという違いしかなさそう。

20230910

日記203

「他人」の広告

2023/09/09 昨日
午前中は家で小説を印刷するための縦書きエディターを探す。ネットで検索するとPagesがその用を足すという情報があり、試してみると普通に使えそうだったのでこれで何とかすることにする。問題は半角数字が横のままになることだが、まあなんとかなるんだろう。
昼からTinder広告ツアー。表参道→渋谷→新宿→六本木→有楽町の順番で回る。ツアーには関係ないけど表参道で脳よだれ展という面白そうなイベントがやっていたので見に行く。昼飯はピッツェリアでパスタとピッツァ。地中海の風吹くような、白塗りの壁紙で明るい店内の雰囲気がよかった。味もまさに本場ナポリの味でおいしかった。
広告は道行く人たちの会話の種になっていたりして、その場で反応があるのが面白かった。もともとイメージが良いものについての広告であれば会話に話題を提供することにもならないのだろうから、是々非々が1:9ぐらいの割合でそれなりに知名度があり、確認しようとすれば現場でのフィードバックがあって確認できるというのも面白くてやりがいのあるポイントなのかなと思った。制作物を誰かに見られてなんぼという仕事で、注目を浴びられるようにいろいろ工夫する(イメージをわるくしない範囲で)というのは、自分のやっていることとは全然ちがうアプローチなので刺激がある。この日記はともかく、小説のほうが完成したらそれを読まれたいという気持ちは出てくるだろうと思うので(まだ完成していない現段階でもすでに出てきている)、どんな宣伝を思いついてやろうかと色々考えたりするのは、どんな名刺を作ろうかという妄想にも似て楽しく、進まない進捗の憂さをごまかす気晴らしになる。
歩きづめだったからか疲れたので夕飯を食べずに帰宅。ちょっと本を読んでからピクミン4をする。ダンドリバトルでの正味もう一周を4連続で喰らい、気づけば1時半過ぎになる。今週のカビゴンの生育は先週に比べてあまり芳しくない。

2023/09/10 今日
昨日か一昨日見た夢を思い出す。そこまで仲良いというわけでもないけれど一緒に活動していた期間があり話したこともある人の突然の訃報に接するという夢だった。LINEグループでそれを知らされる。またみんなで遊びに行こうという発起をしてくれていた人でもあり、また、その会自体は悪天候で流れてしまっていたので、残念な気持ちのなかに後悔が入り混じるような感じがした。悲しくてどうしようもないという感じではなかったが、虚脱感というか何もしたくないという気持ちになって、その日にあった別件の約束をキャンセルするというところまでは覚えている。
夢とは関係ないが、友人のひとりには子供が生まれ、べつの友人は母親を亡くし、自分はそのどちらでもないのだけど、なんとなくあいだに立っているような気になっている。
子供のことを考えると、自分の場合、子供のことを自分の人生の延長として捉えるというのをよくないことだと考えていて、しかもそう捉えてしまいそうになる気がしているからその分の恐れがある。たとえば、他人には気軽に本のおすすめをできるし、面白くて読むべき本というのはきちんと断定できるが、おすすめする相手が自分の子供だったりすると、それが押し付けになってしまうからそういうことをしないでいようと思う。しかし、よほど気をつけないと多分やってしまうと思う。本棚の本をそういう観点で並び替えたり、買う本と借りるで済ませる本との区別を同じ観点でやってしまったり。たとえば今読んでいる『精神の動態学へ』という本が上中下巻なのだが、それを買おうと思っているのは、その観点がひとつの理由になっているからだ。仮定の話だし表向きにはそんなのは関係ないと言えるのは言えるが、蓋を開けてみるとすぐわかるぐらいには明らかなようだ。
子供のことを自分の続きものだと考えたり、考えないまでも感じたりするというのは端的に誤りなので、そういう間違った方向に吸い込まれないでいるためにもっと自分というものに深く錨を下ろすようにしなければならない。というようなことを思った。べつにそういうことを考えないといけない局面に今の今いるわけではないのだが、だからこそ文章にして考えられやすいとも思うので、何の気なくという気分で書いておく。
それから、これはべつに大した問題というわけでもないが、子供の写真を載せるのはよくないことだと思う。たとえば自分の写真をがんがん載せるSNSの運用にしていて、子供の写真も隔てなく載せるというのであれば、(百歩譲れば)可なのだけど、そうではなく子供の写真だけを載せるのは、本人に許可をとったのかと訊きたい。もちろん、この質問に「とった」と答えても駄目だ。子供にそれを適切に判断できるとは思えないし、それを見越して許可をとろうとしている点でより悪質だ。ようするに、自分の子供の写真をあげるというのは、友達や知り合いの誰かに撮られた写真を勝手に上げられてムカッともしない人にとってだけ、自分の能天気さをアリバイにすることでかろうじて可になるような、根本的には誤った習慣だと思う。こういうのはちょっと考えれば明らかなことなのだが、たぶん考えるということをしていないのだと思われる。こちらのほうは控えめに言って不安だ。
11時すぎにスタバに行って16時前に帰る。『精神と自然』『精神の動態学へ』を読んで、日記を書いた。朝食に6枚切りのトーストを入れただけだが、砂糖二袋を入れたドリップコーヒー(牛乳入り)を飲みながらの読書だったせいかお腹が空かなかった。この後は大相撲の初日をみる。ハクオウホウと照ノ富士は今場所を休場するようだ。そして夜はFIBAワールドカップの決勝。ラグビーのほうも気になるし、全部見るとなるとスポーツを見すぎだという気がする。たしかに熱いし面白いんだけど、ずっと見ているとなんだか責任逃れをしているような気になってしまう。傍から見ると意味がわからない感覚だと思うが、そういう感覚になる。自分で熱くなって自分で面白くするべきではないかと、半端ではない熱と面白さに当てられてそう思うのだ。結局、今週も小説は全然進んでいない。種になるかもという文章をちょっと書き進めただけ。
ただし、読書をしながら溜めて、溜まったら書くというやり方は、前輪と後輪があって二輪車になるようなもので一輪車モードのときよりはるかに安定する。この伝でいうと三輪車、四輪車となればより安定感が増すとも考えられるので、二の輪・三の輪も考案・実装していきたい。

20230908

日記202

なんだ柳か

2023/09/07 昨日
スタバを出たあと、千切りキャベツと納豆を買って帰って、袋麺と食べる。その後、ダラダラと起き続けて1時、寝付けずに2時近くになるという体たらく。せっかく酒を飲まないでいるのに自ら寝不足を引き寄せていては世話ない。

2023/09/08 今日
在宅バイト。昨日出した休み希望を突き返される憂き目をみる。しかしもう一度突っこむ。自分は休みの日のために働いているわけで、遠慮している場合ではないのだ。
寝不足だったので仕事が小忙しいのはかえって都合が良かった。寝不足気味のときにそれなりに忙しい仕事があると時間が飛ぶように過ぎる。それでもラジオ体操と筋肉体操(スクワット)はこなし、定時30分すぎで抑える。そのままスタバに行っても眠いだけだろうと思ったので20〜30分の小睡眠をとって、スタバに行く。霧雨が降っているのと気温が22度ぐらいなのとで涼しく、秋だった。小睡眠のおかげで読書が捗々しくすすむ。ベイトソン、知的に満たされる感覚があって何とも言えず嬉しい気持ちになる。以前書いた小説のテーマに近いところにいる気がする。読みながら何度もその小説のことを思い出した。今書いているものは別機軸なのもちょうどいい。そこと近いと引っ張られてよくないので、一応すでに書き終えていてよかった。
もう少しいようと思ったスタバでコーヒーをこぼしてカップを割ってしまったので頭を下げ下げして店を出る。空腹がきていて手が震えてしまった……。
ご飯買って帰宅してテレビ見る。

精神の生態学へ

















ブレイクは寛容な人間ではなかった。寛容でいるのがいいことだとも思っていなかった。それは、一種の「ボケ」だと思ってた。

「賢人は輪郭を見るがゆえに輪郭を描くのである」


生きることの目的は、「生きるゲーム」のルールを発見することにある。いつも変わってしまって、決して捉えることのできないルールをね。

20230907

日記201

狭義の愛、広義の他人

2023/09/06 昨日
スタバを出たあとトリキに行くのをやめて王将に行く。豚バラチャーハンも胡椒が効いていておいしかった。酢豚は酢豚という料理ってこんなだっけ?という疑問があった。まあビールと餃子も含めておいしかった。
帰宅してからはそれなりに時間があったはずなのだが何をしていたかの記憶が曖昧なまま就寝時間になった。本意気で思い出そうとしても思い出せない。しかもねむりにつくまでこの日も時間がかかった。カビゴンを育ててくれるメンバーたちに申し訳が立たない。

2023/09/07 今日
在宅バイト。積み残した仕事を午前中に片付けて午後は悠々自適の読書タイム、と行きたかったが、7時間未満の睡眠時間のため寝不足だったこともあり、短い昼寝を二回やったり、ラジオ体操と筋肉体操をしているうちに定時になった。ここ3ヶ月の休暇申請を出した。午後休多め。昼から秋の行楽ができると思うと今からテンションが上がる。
ザ行無しで抜け出し、LUUPで図書館カウンターまで移動して予約本を回収したあとスタバに来る。『精神の生態学へ』(上)を読む。どんな本でも著者が根本のことを言おうとしているとその野心の高さがまず気に入ってしまう。しかし実際のところ、そうすることが野心が高いことだとは思わない。誰もが、自分なりの「根本のこと」を言おうとするべきだと思うからだ。それが難しいのはわかるが、無駄口を叩くより、どうせ叩くなら壮大な無駄口になるように頑張るべきじゃないのかと思う。以前、広瀬すずが音声の人に放ったらしい「なんでこの仕事をしたいと思ったんだろう」という言葉は、当の音声の人にとっても真理だと思う。そういう大雑把で本質的な部分は誰にでもあるはずだし、広瀬すずは他人だけど、その他人を通して自分のそういう部分を持ち上げ、ライトを当てるためにその仕事をするのだろう。そうじゃなかったら嘘になる。たとえば、すべての物事を平等に見て、抜かりなくすべてに目配せして誰からも嫌われないようにそつなくコメントできる人間を押し上げたいというのか。そうだとすると自分のなかにあるどの部分に照らしてそうしたいのかが理解できない。そういう不合理なのが人間だからというインチキヒューマニストは許さない。偽物であることが許せないというより、被っている仮面のお粗末さが許せない。そんなので自分自身のことを騙せるとしたらあまりにもインスタントでお粗末すぎて嫌だ。そういう他人が他人自身のことを「自分」として認識しているのを想像してさえ嫌になる。まあ実際は想像しないから大丈夫なんだけど。
『V.』マルタ詩人ファウストの回を読み終わる。暗い話だ。暗いだけじゃなく明るさもあるから余計に暗い。それにしても予感させ予感させで進んできてのクライマックスの勢いは不可避だ。必要な部分しかなくて読んでいるあいだ自由がなかった。

20230906

日記200

行け行け行け


2023/09/05 昨日
酒どころか食事も買わずに歩いて帰宅。歩くのも嫌だという季節がちょっとずつ向こうへ行くのを感じる。翌日が出社日のため早めにベッドに入るもここ最近のちょっとした夜更かし習慣のせいで寝付けず、仕方なく漫画を一冊読む。カフェのカフェラテでたっぷりの牛乳を飲んだあと晩飯をプロテインで代用したせいでお腹の調子が不安定になったのも影響した。

2023/09/06 今日
夢の途中でアラームに起こされて目を覚ます。友人の誰かの家で徹夜で遊んだあと(のちの展開からの後付け予想だ)、わけのわからない大通りをいい加減にこっちだろうと歩くうちに二条駅のViViを見つける。思い出補正がつよく働きすぎたのかほとんど巨大な倉庫のように見えた。二条駅の改札を抜けて、ちょうど今きた電車に間に合うか間に合わないかの瀬戸際だったのでダッシュする。ダッシュしながら目的が学校に遅刻せずに行くことだったのを思い出す。前をダッシュする高校生も、うしろに従く自分も閉まるドアに間に合わず。駆け込み乗車阻止にご満悦の表情を浮かべる車掌を全身のポーズつきで睨みつけていると、その様子をジジイにスマホで撮影される。やばいやつを成敗したくてうずうずしているやばいやつというオーラをまとっていたので、目を合わせずに無視して階段を降りようとする(バスか歩きで学校に行くことに決めた、あるいは帰宅することにした)。しかし自販機の前ですれ違おうとするこちらに向かってカバンを押し付けてくるジジイの連れのババアがいて、彼女の思惑通りまんまとカバンに躓いてしまう。途端に金切り声の悲鳴を聞こえよがしにあげるババア。ジジイはさっきの威勢の良さからさらに調子づいてこっちにむかってくる。ジジイとババアの挟み撃ちにあい絶体絶命かと思われたそのとき、アラームが鳴って目が覚めたのだった。書きながら思い出したが、友人の誰かの家だと思っていたのは金属バットの友保(自分の後輩役)だった。夢のなかの夢で、友保と友保の連れの美女がいい雰囲気になっている部屋になぜか自分もいてもっとも利益を受ける第三者の位置にすべり込めたのを覚えていて、これは夢ではないけれど、そういう良いことが起きないかしらと思って友保の家に押しかけたのだった。そこで眠っているうちに事が始まるというのは夢だったようで、結局、ただただ深更の頃となって「わし今からバイトに行くからほな」とひとり部屋のなかに取り残されて、始発が出るタイミングでその場をあとにして、わけのわからない大通りを歩き始めたのだった。思い出したそばから書いているので時系列もめちゃくちゃだが、時系列が一方向ではない夢だったような気がするし、大体この順序で見ていったような気がする。美女の雰囲気だけは思い出せるが顔が思い出せない。たしかショートカットで長身、スポーツが得意そうな人だった。
バイトの出社日、通勤中に、文庫本というのは、電車の中でも読みやすい形状をしていて使い勝手の良い、本として優秀な形式だということを思い出した。早めに着いたので30分ほど読書してから定時に仕事を始める。いろいろ調べる必要のあるタスクがあったのと打ち合わせを主導しなければならない立場での案件が始まったのとで、暇だったら読書してやれと思っていたが思っていたほど読書できなかった。仕事は残っていたが明日やればいいと自分と周囲に言い聞かせて定時で帰る。電車内で文庫。
スタバにきて読書の続き。日記を書く。このあとトリキにいく。小説が完成するまで(もしくは完成せずとも文学フリマまで)「ひとりでは酒を飲まない」というルールを作った。誰かとであれば飲んでよしというのは我ながらいいバランスのルール設定だと思う。普段がちょっとアルコールに寄りすぎているだけのような気もするが。

20230905

日記199

八月の暑さはつづく


2023/09/04 昨日
スタバで電車が見える席に座れて気分転換にもなったのかそれなりの進捗がある。酒を飲まないでコンビニで千切りキャベツと豆腐バーと納豆を買って帰る。それを食べてから漫画「呪術廻戦」を読む。わりと早めにベッドに入ったのについぼんやりして寝るのが1時をすぎる。

2023/09/05 今日
在宅バイト。やるべきことをやってしまったから気がラクな状態で過ごせる。しかしトラブル対応諸々が降ってくる。それなりにこなしながらラジオ体操第一第二、みんなの筋肉体操で運動してご褒美にプロテインを飲む。ほうじ茶味も好きだったけど抹茶味もおいしい。
チャットツールで間違って全体通話ボタンを押してしまってチーム外の人を含めた20人ほどと通話がつながってしまうトラブルがあった。いきなりPCから複数人の声がして正直めちゃくちゃ焦ったけど、「すいません。失礼しました」だけで済ませて通話を切った。その後もとくにフォローせず。こういうときに焦りながらも「まあ大したことじゃないから」と自分で自分に言い聞かせる係がいる。彼は余計なつまらないことを言って二次損害が出るのを防いでくれるので重宝している。問い合わせ内容はよくわからない疎通不可だったのだが、自チーム所掌のシステム要因で起こっているのではなく別チームの要因ではないかと「切り分け」てみせるのがまさにシステムの一員というアクションで面白かった。大規模なシステムを擁していて自システムだけで完結しない場合に起こりがちな、小回りの効かない感じ、不親切な縦割りでの外部への責任転嫁をしっかり踏襲していて、いわゆる「仕事」の本質を体現していた。しかし原因不明でもあるため、五分の確率で転嫁先から返されることが予想されるのですっきりせず、若干の負荷がかかって邪魔くさい。半年ほど働いて身につけたのが「適当にこんな感じでいいだろうという動きをして、間違ってたらすんませんすればいい」というスタンスなので、いつか叱責に結びつきそうではあるが、緻密さ正確さ丁寧さを重視するときのコストを勘案比較したときに、バサバサっと捌けるほうが時間と労力がかからないという判断なので自分としてはこれでいいと思っている。ミスを起こしたときに聞かれることになる理由だけは控えておくと、後手に回ったとしても一応出すカードはあるしな、と気楽でいられるので、自分自身でも明らかに穴がある理由だとわかっていても「適当な理由」を用意しておくのがおすすめ。上の人も大抵の場合、さらに上の人にミスが起こった理由や背景を説明するためのセンテンスがほしいだけなので、それを用意しておいてあげるイメージ。
ザ行なしでスタバに行こうとするも図書館で予約している本がカウンターに届いたので取りに行きがてら別のカフェに入る。今回はピンチョンを読むときにわりと欠かせない要素である翻訳者の佐藤良明にフォーカスした選書。まだ冒頭をすこし読んだだけだが三冊借りて三冊とも面白そう。とくに『精神と自然』は、現代的ないまの考え方(自分の考え方)を感覚的に引き継いだまま理論づけてくれそうな予感があって期待できる。
しかし夢中になるのはやっぱり『V.』だ。マルタ詩人ファウストの巻を読んでいるが、最初に読んでいるときには流し読んでうっすらとしか理解できなかった内容が今回はしっかり入ってくる。人が変わるということ、記憶は期待するほど留まってはくれないということを、こうまで他人にわかりやすいかたちで表現されている読み物をほかに知らない。自分が自分に対して内心で情けないと思い、できれば傷(記念)にしたいと思う「気持ち」が他人に分かるかたちで表現されている。時系列があるということ。複数の「現在」を連ねて積み上げていく手法。より過去にあるものについて、郷愁の甘さに落ち込まず、反省すると称していまの現在に良い顔をせず、それぞれの現在を対立するのであれば対立するまま、協調するのであれば協調するまま、等しく距離をおいて並べていくのが、単なる過去と現在の乖離や分裂によって可能になるやり方ではなく、そこからさらに一歩踏み込んでいる。そしてそれがあるからこそ、当時あきらかに際立った環境にあったということをそれにふさわしい美しい映像として写すことができる。それが目的にはなっておらず、目的となるものを追いかける途上に配置されているのも良い。これは必ずしも結論を必要としない、ある種類の小説にだけ許される方法だ。美しい景色をそれにふさわしい美しさをもって描くというのは、それ以外に目的などあってはならないほど重要でもあり、目的になるべきことなのだが、それでもそこに飛びつかないで迂回するというのが、目的にしないでべつの目的を立てるというのが、何より美しい景色にとって必要なことになるのだ。

20230904

日記198

夢中だった過去とすれ違う


2023/09/03 昨日
何もしない一日だった。呪術廻戦のOP映像と曲にノックアウトされてしまい、そればっかり繰り返し見ていた。何がそんなにタッチしたのか考えてみると、曲調とややテンポを抑えたリズム、最初の歩く映像、渋谷、とはじめの18秒ほどで引き込まれた。赤と影を基調にしているのも、ありきたりではあるが全体の統一感があると効果的だった。二期前篇のテーマカラーでもあるスカイブルーの記憶がまだ新しいなかで、それとのコントラストが心中に形成されるのも小気味いい。ある程度そっちの頭のなかで操作してくださいよという、任せてくれる演出に昔から弱い。
あまりにも打たれたのと、気分が弱っていて何かをする気が起きないのとで、家のなかで寝転びながら呪術廻戦の漫画を読み直す。どこもアニメにし甲斐がありそうな場面ばかりで楽しみになった。原作の戦闘シーンはアニメ作品のラフみたいな箇所も多いので、いい意味で丸投げになっているのもアニメと相性が良い。
関係ないがアニメを実写にしたいという願望がいまだにあるのが解せない。とくにアクション中心の漫画なんていうのは実写ではその実現が不可能なことが多いうえ、アニメーションには表現の幅や演出効果の面で遠く及ばないにもかかわらず、実写化されることの意味がわからない。漫画の実写映画化というのはアクションがないジャンルでないかぎり、見る前から失敗と考えて問題ないはずなのに、いまだに頑張ろうとしていることの理由がよくわからない。しかも10年以上前からその答えが出ていて、ここ数年でさらに水をあけられる作品がいくつも出てくるのに、ちゃんと映画を見ていない人たちが企画を出していて、何もわかっていない人がそれを通しているとしか思えない。実写化の夢という蜃気楼を見ているのであればまあ共感できないでもない。しかし見る側はそんな繰り返しに飽きないのか。まあ飽きてるだろう。

2023/09/04 今日
在宅バイトは凪。だらだらしすぎ故のザ行30分発生。しかしやることをすべてクリアしたら心が晴れやかになった。昨日からラジオ体操に加えてスクワットを再開して腿がパンパンになっているのも好調を取り戻した要因。気が晴れなかったり心が重かったりするときには、精神をどうにかしようとするのではなく、よく寝て食べた上でフィジカル的にアプローチするのが良いという昔からの叡智をもって実践したら効果てきめん。あまりの覿面ぶりにでいつもおどろく。気分が晴れないときにはそれを思い出す回路も弱ってしまうので、前日のように何もやらない一日を作ってそれを思い出すのが重要。小説のことはしばらく忘れられた。書きたくて書いてるのにいつの間にか書かねばと自分がやることに取り込まれてやるべきことにしてしまうのはありきたりでつまらないうえにうまくない。
図書館で小説ではない読み物を予約した。読書に逃げるのも「あり」。今読んでる『V.』は面白い小説すぎてまったく気晴らしにならない。むしろ気晴らしとしては完全に逆効果だ。面白いんだけど、目的がある場合は、目的のためにも面白いのがベストとはかぎらない。面白さを犠牲にする目的なんか本来ないはずなんだけど、そういう目的ができてしまっている。

20230901

日記197

この囲いで十分

2023/08/31 昨日
『V.』を読んで受けた印象とその気分そのままに若干の進捗がある。こんなふうに『V.』を読めたことでもう用は足りているようなものだ。しかし、自分の小説を書こうというときに一番やってはいけないことをやっている。そもそもやぶれかぶれな気分で手に取ったのだったが、自分と比較してこれを読むとまた、想像を絶して面白い小説だということがこれ以上ないほどはっきりする。鞭で打つという行為について、自分のやることだと感じさせるためにモンダウゲンと並走させる記述方式に、文体というだけでは説明のつかない技術を感じる。拒絶の反応を示す頃にはもう手遅れという外堀の埋め方は見事なほどに意地悪で、素直で率直という立ち合いでは引き起こせないものだ。
スタバを出てバスケの試合がどうなったかチェックすると第3Qが終わった直後だった。10分では帰宅するのにもぎりぎりになるから諦めようと思ったのだが、酒を買って飲みながらよく考えたら最終Qにはタイムアウトが多用されるから十分間に合うということに気づいた。急ぎ足で帰宅しテレビをつけるとちょうど逆転の場面。逆転が起こるときの勢いはすごくて、逆転したと思ったら一気に点差が開く。拮抗した展開のなかで逆転が起こるというのはあまりないことなのだろうから、バスケの逆転のかたちはこういうものなのだと思った。
酒を飲んでの散歩も中途半端に切り上げたし、試合を見た時間も3分ほどだったから消化不良にもなったので、荷物をおいてもう一度駅前まで散歩をしに行く。帰り道に千切りキャベツと納豆と生ハムを買って、酒を飲んでねむる。グッドスリープデイでねむけパワーが2倍。

2023/09/01 今日
あっという間に夏が終わって秋がきた。といっても暦の上ではとの但し書きがいる。日中の部屋のクーラーの出す音は苦しそうでちょっと気の毒になるぐらいだ。ザ行なしでスタバにくる。クッキーアンドクリームドーナッツを食べて『V.』を読み、日記を書く。
部屋は少しずつ進化する。モンステラ(観葉植物)の成長に合わせて、部屋そのものも大きく、植物が大きくなるスピードと同じようにさりげなくいつの間にか成長する。日々の生活に追われているために、家族の訃報に接しても、葬儀のために出かけることもできない。仕組みの一部分にいつの間にか組み込まれて、おかしいと思いながらも成長する部屋を守れなければならない。そのうちに友人たちが遊びに来ると、成長した部屋を口々に褒められる。自分は何もしておらず、部屋が勝手に成長しただけだとモンステラが部屋一面を熱帯林のように変えてしまった景色をホストとしてお客たちに紹介する。トピックはそれに尽きている。ゲストの中には家族の顔もあって、なるほどあれは夢だったのか、それとも死別したと思ったのは気のせいかと、半ば安心して目を覚ました。起きてしばらくのあいだ、夢だったのか夢ではなかったのか、喜べばいいのか悲しんだほうがいいのか、不安になった方がいいのか安心していいのかがわからなかった。しかし、そんななか、朝の憂鬱で低調な気分が不安を和らげてくれた。目が覚めていくにつれて、ゆっくり、あれは夢でこれが現実だと考えるようになった。部屋の細部についてはそのときに忘れた。

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