20230826

日記193

(1/2)月が出た*2=月が出た

2023/08/25 昨日
丸の内盆踊り大会は記憶の中ほど面白いものではなかった。ただ当時の東京音頭も炭坑節も頭の中に入っていないなかで踊るのにはちょうどよかったんだと思う。噴水を中心とした緩やかな回転、見ているだけの人も飛び入り参加しやすい雰囲気があったから、盆踊りをやってみようと思ったのだった。初心者フレンドリーというか自然に身体を動かしてみようという動線があったからか、盆踊りをやったことがないであろう若い友人たちが見様見真似で踊っていて楽しそうだった。未経験からやってみるときの、踊りのパターンを見極めながらなんとなくで踊ってみるというフェーズにも楽しさがあるから盆踊りは愛されるんだろう。都会ど真ん中の公園にふわっと集まって、盆踊りを踊って、終わったら大人しく三々五々電車に乗って帰るというのは、都会生活とちょっとした伝統行事とがさらっと和えられたような趣でやっぱり良かった。そこらじゅうに着流しの粋と都会的洗練の両方があって、当世かたぎのいなせなクールボーイ・クールガールの雰囲気を味わえたのもよかった。こういう雰囲気のなか盆踊りを踊っていると、なんとなくそれらを代表する一人になれる気もした。
千代田線で下北に戻ってから、寿司と鳥焼きをつまんで、駅前で終電間際まで駄弁って解散。しかし晩ごはんをしっかり食べていない感じがして帰りがけに松屋で牛めしを食べたのは余計だった。久しぶりに牛丼屋使ったのもあって、おいしかったのはおいしかったんだけど。

2023/08/26 今日
昨日の夜更かしの代償として10時前までねむる。本当は9時前に目が覚めていたのだが、ポケモンたちを休ませたい気持ちがあるから、何をするでもなくぼーっと見た夢の断片をしがんで思い出そうとしたり、なんとなくその続きのことを考えているうちに10時前になった。
起きてからはトーストをかじりながら3茶1青の動画を見る。久しぶりに紅茶をいれて、『V.』を読む。誰もが新聞をもとに自分バージョンの歴史をめいめいの脳裏に構築するという話の流れから、主要人物の科学者モンダウゲンを登場させ、ステンシルに彼の話を聞かせた上で、大きく膨らんだ「ステンシルバージョン」の話を語り始めるという流れが、何の手本か、見事なお手本だった。日記を書く。すると12時。今日は何をしようか。黒いリュックを探しにいこう。ストリート観察で見つけた気になるブランドの旗艦店に出かける予定。
結局、黒リュックを買うというプランそのものに疑問符がつき、買い物は取り止めになった。もう少し長い期間を黒リュック探しにあてる決意を固めたということも言えば言えるので、そういうことにしておく。これまでのところ、F/CE、エンダースキーマ、マーガレット・ハウエルを見て、どれも決め手にはならなかった。吉田カバンというのも芸が無いし、MET24にするのはただでさえスニーカーもNB付いているのにこれ以上行くと危険水域という感じだし悩みどころ。ちなみに吉田カバンではMOTIONというシリーズが良さそうに感じた。
昼飯のために14時頃外出。行列、行列で第三候補まで流れてのすぱじろうだったが、Lサイズはボリューム的にも満足感があったのと、真イカとトマトとほうれん草のペペロンチーノ美味しかったのでまあ満足だった。
スタバに来てちゃんとした席に座れず、昼飯直後というのもあって眠く、コンディションがわるかったが、漱石の『三山居士』『写生文』『自然を写す文章』を青空文庫で読む。席があいたタイミングで移動しMACを広げて作業できる体勢が整ってからは調子がよく、小説にも多少進捗があった。こういう形の小説にしたい、こういう形にしたくないという規範意識、どちらにしても十分に内的なものとして表れず、意識の光を当てると外的なものに左右されていることがはっきりする。登場人物をできるかぎり増やす、人の気持ちを直接描写することを避けるというのは、少なくとも現状では、手指の先まで浸透している考え方というわけにはいかない。しかし、だからといって内的な要求がすべてだと考え、我を通すのは違う気がする。借り物の規範意識であったり願望や方向づけだったとしても、ありがたく借りているうちに、いつの間にかしれっとその所有権を主張し始めるというのがもっとも得策だという気がする。タイガーフォックス(虎の威を借る狐)。関係ないけどそういえば、自分が生まれて初めて認識した犬のかたちはシェットランドシープドッグだった。牧羊犬だからシープドックなのだろうが、文字面シープドックだけで見ると、なんとなくキマイラ感を感じさせて不気味だ。そこまで考えないでも面白い名前だ。羊なの犬なの? という疑問を生み出すという点で。
俺がシェットランドシープドッグのことを思い出さないとあの犬はもう生きてはいないだろうし、あの犬を飼っていた家もいつの間にかなくなっていた気がするし、かつてあった世界の一角が消滅してしまうような気になる。そこには石碑として残らない生活があったというこの記憶。保存する方法はないものかと、いつもの方向につい考えが向かう。
ところで、今どうなっているのかが気になったのでGoogle earthを使って通っていた小学校の通学路を確認してみると、犬がいた家は残っていた。犬がいなくなったことで勝手にその犬がいた家まで無くなったことにする記憶の改竄が起こったようだ。こういうのはよくあることだろうと思う。とくに自分の記憶がすべてだと考えるタイプの人間の脳内では。べつに自分のことだから甘いことを言うわけじゃないが、それでいいとは思わないけど仕方ないことだとは思う。

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