服着るレゾンデートル
2023/08/20 昨日
スタバを出た後、ステーキ松で黒毛和牛のリブロースのステーキを食べる。1900円でサラダバーとご飯お代わり無料がつくので安いと思う。いつもの松ロースよりやわらかく脂身も多いジューシーな肉だった。翌日に早出があるため、帰宅後すぐに寝る準備をして9時半にはねむる。寝る準備にラジオ体操が含まれていたために9時ではなく9時半になったが、これのおかげで入眠がスムーズにいったので結果オーライというか良い判断だった。
2023/08/21 今日
早出で出社のため5時半起き。なぜかわからないがゆったりした気分だったのでゆっくりしていたら遅刻しかけそうになって焦る。それでも10分前にはフロアに着いているのだからパンクチュアルであるためにいかに自分が慎重に行動しているかが知れる。社会人として良いことなんだろうけど良い社会人になろうとすることに同意した覚えはない。午前中の前半は若干立て込んでいたがそれ以降は仕事量も落ち着いた。15時半に退勤する。まだ暑さが厳しいなか駅まで歩かないといけないわけだが、退勤路は足取りも軽く、夏の日差しも爽やかに感じられた。やりたくないことからの開放によって夏の開放的な気分を疑似体験できたようで、怪我の功名と言うか、なんとかのかんとかというか。もう一個ぐらいことわざを思いつきたかったがすぐでない。直線的に下北のスタバに座って、『線形代数のエッセンス』を視聴する。
「計算の目的は数ではなく洞察である」リチャード・ハミング
上の言葉が紹介されており、それに触発されて自分がいまだに小説を読んでいる理由についてなんとなく考えていたことが浮上した。すなわち「読書の目的は獲得ではなく冒険である」
これは読書を人生に代替しても大体あてはまる。最初、獲得を知識の獲得としていたが、アフォリズムのルールに乗っ取り削り取ってしまった。削り取れる部分は削り取るというのが金言主義の規則だ。
暗黙のうちにこの人生をジャーニーと捉えるものの見方を強化するような小説を書きたいと思うが、それより何より、小説そのものがジャーニーであるような小説を書きたい。その過程は充分ジャーニーであるのだが、目的地を設定するほうがジャーニー感が増すものなので「できるかぎりジャーニーな小説を書く」を目的地に据えて歩を重ねようとあらためて思った。これは副次効果なのだと思うが、同行者・同伴者をもとめる気持ちが目的に重なっていくというのも感じられる。小説を書くという行為には、孤独感の緩和というセラピー効果があるのではないか。まあ自分はもともと孤独など感じていないが、それは自分が現在進行系で進めているジャーニーの効果であるといえるかもしれない。そうすると、周囲との比較で自分が持っていない要素や、心構えといったものの説明もつきやすい。大文字のNOVELを漸次読み「進め」ているというのが個々の小説を読むというときにやっていることだ。これは本好きというわけではないある種の小説読みとは共有できる感覚だろう。そいつが運悪く小説読みではなかったとしても、この感覚自体はindividualではなくmultiversalなもののはずだからそこにFocusしていきたい。漫画より小説を読むほうが楽しいという人間のことをすんなりとは信用できない。漫画の方が面白く思いやすいはずだ。しかし、小説でないといけない、漫画や映画にはなり得ない作品というものがあるから、小説は不要だというわけにはいかない。
ひとがあえて楽観的であろうとするときには、どこか真剣な姿勢を前提とするような、努力の賜物というニュアンスが多く入り込む余地がある。しかし、そういった人工甘味料のような、コストに対するパフォーマンスという考え方とは無縁なところに底抜けの楽観はある。自分としてはそれを実装したいと思っているのだが、やっぱり真面目でシリアスな願望がその邪魔をしてくる。今ではそういった邪魔が入るものと想定して、うるせえ、そんなんどうでもええわいと悪態をつきながら、ガハハと笑うような気分で状況を楽観視しようとしている。自分は根が真面目なものだから、現状、それ以外のやりようがないのだ。もっとパフォーマティブでない、自己暗示という毛色の少ない、自然な楽観ができるようになればいいと思うが、その過程にも上のような陥穽があり、どうせ嵌るならより威勢の良いほうを選べという単純な基準に従い、今の方針を択んでいるのだ。これでいいと思って。