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2023/08/13 昨日
新宿に行って映画まで2時間ぐらい時間をつぶす。無理かもなと思っていたがスタバはどこも満員で入れず。紀伊国屋で本を見て、伊勢丹で服を見て、もう一度紀伊国屋に戻って本を立ち読みしているうちに時間になる。当てもなく新宿にいるときの心もとない気持ちをまた味わう羽目になった。これは鉄板で座れるカフェを見つけていないせいもあって年に何回かやってしまう。今回はむし暑さと雨のせいで、過去最悪レベルのやるせなさだった。
楽しみにしていた映画はすぐに予約したおかげで一番いい席で見れた。今回は発見がみっつあった。
・パルプ・フィクションは面白すぎる。
・俺は面白い映画を見ると元気になる。
・面白い映画についての時間を経た評価は信頼に値する。
とくにみっつめの発見が印象的で、自分の鑑賞眼だけを信じてきたわけではないおかげで、この映画体験ができているということがあるので、識者には感謝しないといけないということを思った。
つまり、クエンティン・タランティーノの映画を最初に見たとき自分はそこまで感心しなかったというか、面白さがわかっていなかった。面白さは理解できないまでも迫力を感じてはいたから引っ掛かりがゼロだったわけではないのだが、それでもこの作品が映画好きの人たちによって名作扱いされていなかったら、そのまま通り過ぎていた可能性は十分ある。youtubeなどでは、面白い動画も自分がそこにアクセスできない以上それは存在していないのと一緒ということになる。それは現在進行系で起こっている残念なことだが、映画好きの目がもし確かでなかったとすれば、映画でも同じことが起こり得た。海外文学などの小説にしても、面白いとされるものはちゃんと面白い。自分のなかの好き嫌いの壁を越えられない作品もそれなりにあるが、意識してその壁を十分低くするなら、読んで面白くないということは言えないだろう。(読まない場合、存在しないことになるが)
映画の面白さも小説の面白さも、それが個人的な体験に根ざした受容だとする自分の立場にゆずるべきところはないが、そこへのアクセスが可能になったのは社会的な評価のおかげではある。その評価への信頼は揺るがないということはできないにしても、自分の自分にとって個人的だと考えている選好を築いていったのは、まずは社会的な選好からきている作品群だといっていい。作品受容において自分は、名作や権威というものを認めるよう暗に求められるようなある種の教育を受け続けてきた。その結果得たものは大きいから、こういう構造にしても否定し去ることはできないが、ひとつひとつの作品受容においては、過去から連綿と続いてきた文化的蓄積や係留はあえて無視し、面白いかどうかだけの一軸で評価するようにはしたい。それぞれの作品の共通点や文化史的マッピングについてはそういうのが好きな人に任せればある程度はきちんと整理してくれるはずだ。今やハイカルチャーが好きだという明確な選好を持つにいたった自分としては、こういう積み上げや連綿と繋がっていく流れには恩義があるといってもいいし、足を向けてはいられないはずなのだが、自分より年少の人たちにこっちだと道を示すために流れや蓄積を強調するということはやっていられない。自分が手にしている選好について考えると、べつに師匠がいたわけでもなし、具体的な個人に負っていないから、社会的な権威や名作扱いに反発せずに、ただ面白いものを求めていただけで好きに面白いはずだと思って飛び込んだまでで、そういうふうにできるやつは放っておいても勝手にそういうふうにするはずだと思うからだ。面白いものに飛び込もうとするのは、それを求める自分自身によって妨害されたり、流れを面白くない方向に変えられたりもすることだ。信頼できる他人の言葉を探すしかない。それがどこにあるかはわからないし、知っていたら教えてほしいぐらいだが(もちろん半信半疑で聞くが)、それは自分の言いたかったことを代弁してくれるようなレビューの中にはないことだけは確かだ。あとは「実感がこもっている」というのも当てにはならない。猫がかわいい、犬がかわいいというのは実感として思うことだが、それでは面白い未だ見ぬものには到達できない。(ただしその実感を失ってしまっては本末転倒だと思うので、それが不要だと言いたいわけではない)
紀伊國屋書店でいくつかの本を立ち読みすると元気が出た。当然といえば当然なのかも知れないが、出版されて平置きになっている、何とかいう賞を獲ったり獲りそうになった小説にしても、手にとって読んでみると完璧とはほど遠い。出版されるという目的をもちそれが叶った本であるというのが、自分にとってのその本すべてだ。自分が読んできた本、自分が読んで面白いと思ってきた本とは全然ちがう。
ただ、それだけのことでは満足できなかったので、昔面白いと思って特別な作家だと考えている小説家の本も手にとって読んでみた。そうするとびっくりするほど同じ感想だった。完璧とはほど遠く、出版されることがゴールになっているような小説に思えた。先の小説はわからないにせよ、好きだった小説についてはさすがにそんなわけはないので、自分がいま小説を書いていて、何が面白いと思うかということについて昔とはちがった感覚を持っていることが、そう思えてしまった原因だと思う。単純で皮相な考え方のようだが、全部の小説を面白いと感じる人間よりも、全部の小説を面白くないと感じる人間のほうが小説を書くのに向いていると思うので、小説を書いている結果、そちらに寄っていく過程をたどりつつあるように自分自身のことを見られるのは心強い。もちろんバランスをとって言うなら、完成もさせないうちからこんなふうに思い込み(ばかり)が強くなっていくのは常識的に考えて心配ではある。まあここがバランスなんてクソ喰らえという場面なわけだけれども。
2023/08/14 今日
連休明けの在宅バイト。当然やる気など出ない。タスク整理だけしてあとはダラダラする。あとは復帰した人と打ち合わせをして、タスクの一部をきっちり巻き取ってもらう。自分でやろうが人がやろうが何も変わらない、ただ面倒な仕事なので、他人にお願いするというのはイコール働いたということで良いのだ。今日はほとんど何もしなかったが働いた。
定時上がりでクラシックのほうのスタバにいく。LUUP使ったが、踏切で5分ほど待たされたせいで料金が120円かかった。日記の書き終わりが19時半。これから仕事を進める。