裏路地
2023/08/29 昨日
ザ行とバスケの試合観戦の組み合わせでスタバに行かなかった。しかしまったく出かけないのも嫌だったのでチーズナンを食べに行く。
バスケのオーストラリア戦は強豪に力の差を見せられる結果に終わる。難しいだろうとは思いつつも奇跡が見られるかもしれないと思うとそれを見逃すことはできなかった。ホーキンソンが気を吐いていたのと、渡邉、富樫がフィンランド戦好調組が続けて好調とはいかないなかチームを引っ張っていたのが印象的だった。バスケの後ピクミンをちょっと進めてダンドリバトルをしてからねむる。
2023/08/30 今日
よくねむれて体調は良いのだけどバイトのことが引っかかって万全とは言えない。バイトで受けるストレスは最小限にするように心がけないといけないのに、売り言葉に買い言葉みたいに反抗的な態度を怒りに任せて表出したのは愚かだったと思う。図に乗らせてタスクをどんどん回されるのも避けたいと思うが、結局やらされることになるのであればあまり嫌がらず受けようと思った。無理な場合にだけ無理ですといって断ることにする。できるけどやりたくないというのは感情面では大きいのだが通らないのだし、イライラするだけ無駄なことだ。
在宅バイト。余裕がありそうでいてなんだかんだ時間が取られる。明日からバイト中の1時間をきっちり勉強の時間に当てようと思った。
昼頃に郵便局まで用事を済ませに来る。フラフラになりながらたどり着くも住所確認書類が必要だと言われて取りに帰る羽目になる。その指摘を受けたときには一瞬気が遠くなった。LUUPを駆使して暑さを最小限に抑えながら郵便局と家との往復をする。
バイト後、ザ行なしでスタバに来る。LUUPで行こうかと思ったが、夕方の時間になると少しは過ごしやすくなって歩くのも気持ちいいぐらいなので歩いていく。
『V.』の上巻を読み終わる。ピンチョンが歴史を手中に置くことができるのはどうしてなのだろう。ある人物のズームインとズームアウトにおいて、それが成功しているかどうかというのは一旦置いておいても、インは比較的行われやすくアウトはそれよりも数が少ない。そのうえ、アウトの際にグッと離れて社会・歴史・文明というところまで一気に離れてみせられるのは、小説という形式に可能な表現で、他のフィクションにくらべてアドバンテージが有る利点だといえる。人物にひたりついて一生懸命その内面に到達しようとするのはすべての小説書きがやることだが、そこから一気に引き剥がされる移動をするということはやっておきたい。偏執狂的・パラノイアという売り文句があるから、深刻ななかにも著者の手を止めない勢いが生まれるのだろうと思う。もちろん歴史についての最低限の知識があって、それをもとに任意の画角まで下がることができるというのも条件になる。
人物に寄るときに、そこから一気にズームアウトできないような仕方で寄っているのが問題だと言う気がする。自分を手がかりにしたり取っ掛かりにして始めるのは良いけど、微に入り細を穿つように展開しても、結局、自分の心情や考え方をつぶさに言い表すということにしかならない。それがやりたいのであればもっと適した形式がある。それをやりたいのであれば、もっと突き詰めて文章を書くこともできるはずだ。このブログにそれを載せればいい。目的について考えてみると、人生の素晴らしさを伝えたいというのではない。人生における特有の素晴らしさというのは驚くべきものだと思うし、それを伝えるというのが大事なことになる局面もあるかもしれないとは思うが、それを小説で表現したいわけではない。同様に人生の許せないこと・悪の一面について暴露したいというわけでもない。ユクスキュルの環世界ではないが、ダニを例に挙げると、人の生が持つ魅力というものをダニに説明しようという人はいないと思う。自分の生の素晴らしさや問題点を他人に伝えようというのは、極端に言えばこのことに近い。
自分以外のものについての自分なりの解釈を自分以外のものに対して与えたいというのが、小説を書く理由にもっとも近いと思われる。哲学のように明確で明瞭なマッピング、ある意義とべつの意義との対応関係を示すことをできるのであれば、哲学のようにその体系を示せば良いのだろうと思うが、自分自身が抱える限界もあり、”真っ直ぐの直線”しか使わないという条件を飲むことはできないので、歪んだ空間だったり、”曲がった直線”などを勝手気ままに使ったりしたい。そうすると事実にどこまで依拠するかということが問題になってくるが、事実に対して解釈を加えたいという気持ちがある。やっぱり最終的なところに近いところで、共有できるかどうかを重要視しているからなのか。でも共有については、少なくとも頭で考える分には、そこまで重要視していないはずだ。
そうすると、自分の考えていることに理があるという担保を手にしておきたいということか。他人を解釈するために必要な部品を手放しておけない。わかるという感覚を得るためには欠かせないパーツを手に持ったままで、色々なことを感じたり考えたりしたい。認知の能力が落ちるにしたがって「わかる」のラインが下がるようなことがあれば、それはそれで今とはちがった形での解決が見込まれることだろうが、今の能力に応じた今の解決を見たい。
というようなことを書いてみたところで、それが小説を書く理由になっているとも、動機の説明になっているとも思われない。
自分にその良さがわかる世界に自分自身が飛び込んで自分自身の良さを見つけ出したい、というのが直線的に答えに近づいた言い回しになるか。比較しても良いと思えるものと自分の作ったものを比較してみたい、とか?
もっと感覚的にいえば、砂場でお山を作ってトンネルを掘っているとき、それに夢中になる感覚が楽しいので、夢中になれる時間を増やしたい。今の自分に合う条件や適した難易度があり、そのなかで制作物の高下を自分で判断できるのが小説だったということか。だから結局、できることはなんでもやってみたら良いし、できないことはできないってだけの話だ。つまり、自分には小説が書けるから、というのが自分が小説を書く理由だ。
↑概念的な話だった。満足すべき状況なのに足りない気持ちが強いからというのが実感に即したところ。願望としては埋めたいというのがある。しかしこれも直截的に字にすると概念じみる。感じている部分との齟齬が許容できないほど大きい。許容できるところまで進めるしかないと思うが、そうすると、締切に追いかけられて取り組むのは嫌なんだけどそれと結局同じことになってしまいそう。どこまで進められるかということを考えると制限時間が気になってくるという意味で。
今日も21時半まで進めたけど、面白くないものを面白いと感じられる隙を狙って書き進めている感が強くなっていって、わるい意味でしみじみする。反故を増やしてるにすぎないのだけど、増えていることに喜んでそれをたよりに進んでいる感じを得ている。
駅前でカネコアヤノの歌を聞きながら道行く人の様子を眺めている。やっているのは受容だけど、この楽しさで満足できるのではないか。満足いくかどうかは置いておいても楽しいのは間違いない。「ラクをしたいだけ」では首を縦に振れない、「楽しいだけ」でもそうできない。それはなぜだ。