渋谷には人が溢れていて、渋谷の広告には文字が溢れている。どんな街でもある程度そうだろうが、東京―渋谷では極端にそうだ。
人は流れていく。文字は、流れていくものもあれば、流れていかずにずっと同じ場所に居座っているものもある。文字は流れていったとしても、何分かおきの周期で繰り返し現れる。流れていかないのは物理的に描かれた文字だ。
「あなたは真面目ですか」
こう問いかける式のテキストが書かれている広告がひときわ目を引く。その両隣に書かれているのは企業の名前だから、もともとその名前を知っている人に向かって刷り込みを行うか、無意識下でもほとんど気にも止めらないかのどちらかだ。どちらにしても、意識の表面には上ってこない。そして「あ」を頂点として、ビルをキャンバスに縦書きされた文章は、文字の大きさや掲示位置もそうだが、字体と余白にプロの工夫が見られる。下を向いている人にむかっての訴求力は持たないが、偶然、見上げた人の視界にさえ入れば、十人に一人ぐらいは何らかのリアクションをすることになるのではないか。
実際、黒い髪をなびかせながら交差点の先にある坂を上ろうとして道を急ぐ女が、ひどい暑さの原因を不自然なほど青い空に認め、睨みつけるようにして顔を上げたその瞬間、舌打ちを繰り出した。
街側にある巨大な人混みと、駅側にある莫大な人混みとを混ぜ合わせてできた夏の渋谷では、そこかしこから舌打ちや嘆息、短く野太い奇声のたぐいが聞こえてくるので、3メートルもの身長があるわけでもないただの女が隠そうともせず大きな舌打ちをしたところで、街の雑踏へ吸い込まれていくだけだ。舌打ちをした瞬間の女のすぐ近くでは、ピンクの髪の毛を逆立てた人影がカメラに向かって「ブラーーーー」という叫声を挙げていた。
「あなたは真面目ですか」という広告文にイラついたのか、それともその広告主体が某有名デーティングアプリだったことに腹を立てたのか、吸い込まれていった舌打ちから推し量ることはもはやできないのだが、目線の動きと舌打ちのタイミングを観察していると、少なくとも広告に対して「チョッ」と怒りを表明したのだということがわかる。怒りの炎がちらっと見えたのは、自分の恋がうまくいっていないから? それとも友達の恋がうまくいっているから? 多分その両方なのだろう。「チョッ。ムカつく」私のほうがどう見てもルックスが良いのに。それより何よりこの暑さ。いくらなんでもふざけすぎ。
文章のすぐ隣には、ストイックなまでに顔面に対して美的修正を施した金髪のサングラス男が、こちらを真っ直ぐに見据えている。暑さに眉をひそめるということとはまったく無縁に見える余裕ある笑みを浮かべ、当たり前だが汗ひとつかいていない。せっかく綺麗に整えた完璧な目元関係を濃い色のサングラスで隠してしまうあたりに奥ゆかしさを感じさせるが、自らがアイコン的な存在になることを肯んじた男には、その覚悟に見合うだけの説得力も感じられる。
ただし、男の職業のことを考えるとデーティングアプリの広告塔には不向きなのではないかとも考えられた。たしかに、そのミスマッチ感は、いくつもの会議をくぐり抜けて、あるいは大量の会議による会議疲れから偶然にもたらされた巧まれざる技工なのかもしれなかった。そもそも、デーティングアプリの広告塔になることを所属タレントにやらせる芸能事務所は数多くないのかもしれない。いずれにしても、金髪男の職業はホストだ。この広告の制作者は、デーティングアプリがホストやキャバクラ嬢の営業場所になっていることを知らなかったのだろうか。知らないわけはあるまい。そうすると、そんな事実はいちいち言及するほどのことでもないと示したかったのだとも考えられる。これではお墨付きを与えたことになりはしないか、と問われたとしても、お墨付き? なんのお墨付きですか? ととぼけて見せればそれで済む程度の話だと冷静に判断し、見切りをつけたということだろうか。
あるいは、こういうことも考えられる。デーティングアプリやホスト、キャバクラ嬢、渋谷の雑踏と暑さの原因となっている鬱陶しいほど青い空、すべての文脈をひとつの文章に集約させてある効果を生もうとイキんでいる現場が、ここにあるのではなかったか、と。そして、一瞬の舌打ちに終わったかのように見えて、テキストは女の深層意識に深く潜り込むことに成功し、ことによると熾火となってくすぶり続け、この一瞬のためにすべてがあったのだという確信とともに見上げられることになる大きな花火を打ち上げることに繋がっていくのではなかったかと。
すべてが、とか、すべては、という言い方をするのは危険だ。いや、危険だというのは、物事を真剣に捉えようとした側からの取り越し苦労、そうであればいいなという願望にすぎない。すべてと口にするのはほとんどナンセンスだ。
すべてがと言えば、それは何も指定しないということだし、そうすると何にも当てはまらないということだ。
しかし、だからこそ気楽に可能性の海を見つめていられる。そして砂浜さえあれば、この暑さだ、皆喜んで靴を脱ぎ、我先にそこへ飛び込んでいくだろう。私たちは、いや私は、期待される行動だけを繰り返すために生まれてきたわけではない。
私は、真面目だ、真面目であろうとしている。
男は舌打ちもせず、黙って下唇を噛んだまま交差点を通り抜けて坂を上っていった。それは先に女が上っていったのと同じ坂だった。すでに夜の時間になっており、紫のネオンがちらちらして、まったく違う見た目の坂になってはいたが、それでも同じ道、同じ坂だった。