20230729

日記168

まもろうよ

2023/07/28 昨日
恵比寿駅西口盆踊りの客入りと規模感はすごかった。恵比寿音頭とかミスター恵比寿とか、照明がピンクなだけでなく恵比寿色を押し出していて良い盆踊り大会だった。ローカルな部分とグローバルな部分とが混ざり合う良い大会に欠かせないのはとにかく客入りというか人の量だからそれがあるだけで特別なイベントになる。東京の盆踊りというスペシャルな感じというのを味わえる盆踊りのなかでもトップなのだろうと思う。4年前に一度だけ行った日比谷公園丸の内盆踊り(思い出補正あり)とも良い勝負ができる。
下北沢に戻ってトリキ難民になり、ミカンで少し飲んでから帰る。帰り道、友達の結婚式に対していろいろなアイデアがめぐり謎のやる気が出たが、一夜明けた今、完全に落ち着いたので、これが有名な真夏の夜の夢というやつかと勝手に納得した。
呪術廻戦のアニメ二期を見る。クオリティが高い。漫画原作を完全に超えた出来のアニメは珍しいのではないかと思う。何期目かの進撃の巨人が頑張っていたイメージだが、今作はおもに演出面で圧倒している。ひょっとするとこの四話までに全力を尽くしていてあとは全然駄目なのかもしれない。でも懐玉に関していうとこれは100点満点をつけてもいい。メイドの追加描写についてだけは蛇足なので5点減で95点ということにしておく(←見当違いだった。沖縄行く前の描写だった)。しかし面白かった。戦闘時も含めた台詞まわりがすっきりしていて見やすいのが良かったところなので原作のコントロールの範疇だという気もしてきたが、表現力の部分で全体の印象をより鮮烈にして、夏油傑に対する感情移入がより丁寧にできるようになぞり進んでいくことになったので、表現力が高いというのはやっぱり評価するべきポイントになる。毎回EDが切なくてまたいい。あの補完も大きい。

2023/07/29 今日
ポケスリで100点を叩き出すほどしっかり寝る。元気いっぱいになった。イシツブテを仲間にした。初期ポケモンで最初に主力にしたのがサンドパン、次に主力にしたのはゴローニャだったことを思い出して懐かしくなる。ヤフダと命名。
10時半にはスタバにくる。暑いのでボーナストラックからLUUPを使用。途中踏切にもつかまらず料金80円。LUUPは最高速度が15→20kmになって使い勝手が飛躍的に向上した。
14時までやったあと、もうやんカレーで昼食。もうやんカレーおいしいと思うんだけど下北沢にいる人間は飯に関しては大体ザルなのでいつも空いている。混んでいて並ぶのは嫌なので空いているのは良いんだけど、心配になるぐらい席が空いているのは困る。せっかく下北沢に良い御飯屋ができたのに潰れてほしくないから。
その後、外が暑すぎるので涼みがてらメトロをヨーヨーしてから一旦帰宅。電車内で『V.』を読む。エスター嬢の鼻美容整形の回。この箇所を読むときにはいつも自分の鼻をさわってしまう。鼻と額の骨が繋がっているというのを確認したくなった。この描写の痛々しさは、シェーンメイカーの誕生譚の苦々しさと合わせて、『V.』でも初読から引き込まれる屈指の場面だ。
帰宅してからは粗品の動画を流しながら洗濯物を干す。ほとんど夕方に入る時間帯だったが、これだけ日差しがあれば短時間でも乾くだろうという思惑であえて決行した。
夕方になって、遊びに行かないかとの誘いがあり行くと返事したらやっぱ暑すぎるからやめとくという訳の分からない時間が発生。出かける準備をしていたのでその勢いを借りてスタバに出る。結果仕事の進捗があったのでまあ良かった。書いていった断片に時系列を設定するという工程。今取り掛かっている小説が何年から始まって何年に終わる物語なのかということについて、ようやく目鼻がついた。
最近、人のやることや人が良いと思っていることを良いとは思えなくて、良いとは思わないと言ってしまったり、良くないと思うとか余計なことを言うようになってきて良くないと思うようになった。元々自分には良いと思う物事と良いと思わない物事のあいだにはっきり区別をつけるところがあり、それを自覚しているから人前であまり意見を言わないようにして対処していた。ところが、意見を言うということが大事だとちょっと前から考えるようになり、意見を率直に言うように心がけるようになった一時期がある。そのときに、自分の良いと人の良いとが「ちがう」ということに自覚的になって、その部分については繊細に扱いつつ自分が良いと思った物事を発信していくことが進め方として必要なことだった。そこをすっ飛ばして、自分の良いと思うことは良い、人の良いと思うことは必ずしも良いとは言えないという態度で意見を言うようになった。おじさんになって、自分の考えることや感じることについて一定の傾向があるということがわかり、その判断について必要以上に惑うことがなくなったから、良いと思う物事についても「いや良いでしょ」と言い、良くないと思う物事については「いや良くないでしょ」と言い、それで済ませるという機会が明らかに増えている。かといって、かくかくしかじかの理由で良い、かくかくしかじかの理由で良くない、というような説明を他人は必ずしも求めていないということもあるので、言えることが「良い」「良くない」という単純な話になっていってしまう。相手がこちらの「良い」に対して「良くない」と応じてくれたり、その逆があったりすれば、言い合いにも発展できるのだが、相手も自分と同じようにおじさん化しているから、自分自身の「良い」に固執して、しかもむやみにそれを戦わせようとはせず、自分のなかで良いのだからそれで良いという態度で通すから、そこですれ違ったまま終了ということになるようだ。まだもう少しおじさん化していない人たちと話せれば解決するかといえばそんな簡単な話でもなく、自分はおじさんなので年少の相手はこちらに気を使って思っていることを言えず、結果、こちらが一方的に思っていることを喋って相手は社交辞令的な対応でやり過ごすという時間が発生するだけだ。自分のコミュニケーション能力は、少なくとも自分が必要だと考える部分についてはそれなりに自信があったのだが、どんどん低くなっているように感じられる。ちょっとした言い方の部分でも気が回らず自分の主張を押しすぎたり、相手が言葉を出しやすいように誘導するということがうまくできなくなっている。「自分はべつに面白くなくても良い」と考えてざっくばらんな態度をとるよう心がける時期があって、それはそれなりに功を奏してきたと思われるが、ここらで反対側に舵を切って、面白いことが言えるように頑張ったほうが良い気がしてきた。ここでの面白いことが言えるようにというのは、自分にとってではなく、自分も含めた場にとって面白いことが言えるようにということだ。バイト先で8つ年下の大学生に「ギャグセン高いっすね」と言われた頃の勘を取り戻さなければならない。サービス精神というか、面白さということに特化したホスピタリティというか、昔それをちゃんとやれている友人に憧れていたことを思い出すところから始めないといけない。俺はもうそういうのは良いです、と言って当時自分にとって必要だと思ったことをやるために背を向けてしばらく経つけど、必要だと思ったことを今はもうやっていなかったり、それにも慣れて大した労力を払わずに自然にこなせているのだから、そのぶんの余力を使っていくということをやらないと、頭も鈍くなる一方だし、贅肉がついてしょうがない。職場でできるようになるのは難しいかもしれないけど、できるできないは置いておいてそこでもチャンスを伺うこと。友人たちとの会話でも自分が回すんだという意識を持つこと。同居人とのあいだではある程度できていると思うのでこれを維持すること。新しい場を見つけだして、そこで自分の面白さを使って場に奉仕すること。人に言う用の良いセリフを作ったり、それを言う妄想をすること。

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