20230717

日記158

自由が丘納涼盆踊り大会

2023/07/16 昨日
買い物に行くことにするも暑すぎるから外に出られないと思って新宿ルミネに行く。家から駅までの5分とない道を歩くだけでも汗が吹き出す。昼飯を食べていなかったのでルミネ7Fのレストランフロアに行くと、15時前だというのに全店舗に待機列ができていた。悔しい思いをしつつ小田急改札出口ちかくの「わをん」というチェーンの居酒屋兼定食屋に入って唐揚げ定食を食べる。三元豚のロースカツカレーは不評のようだったが、だしが入っているカレーうどんのカレーに近い味で私はわるくないと思った。唐揚げ定食もふだん醤油味ばかり食べていることもあって塩麹味が鶏の味を潰してしまわずに美味いと思った。私は食事における微妙な差がわかるつもりではいるがグルメではないから多少の失点には目を瞑ることが多い。味の微妙な差よりも時宜にかなっているかを重要視する。熱い料理は熱いうちに、冷たい料理は冷たいうちに食べるほうが微妙な差よりも優先されるはずだと考えるし、もっというと自分の腹具合より優先されるほど大きな差は店で提供されるレベルの料理にはほとんどないはずだと思う。お金をたくさん払い、時間を使ってその場所に行き、もっとも良いタイミングで提供された料理を食べるという行動にはコストがかかる。そのコストに見合わない量の満足しか得られないと素で考えているというのが、私がグルメではないということの一番の理由だ。実際、腹が減っていたら大抵のものは美味い。飯が美味くないというのは単純にお腹が減っていないだけだと思う。飯を食うことに多くのコストを払うんじゃなくて、何か違うことをして腹を空かせてみたらどうか。
食文化を解さない健啖家の弁にはなるけれども、喫食にはほかの創作物より低い地位しか用意できない。目指すべき高みがあり、そこに到達しようという試みには思えないからだ。美食家に言わせてみれば当然、高みというのはあるだろう。そしてその美食家が本物であればあるだけ、それはほんの僅かな差異・微妙なちがいだと認めることだろう。その微妙な差に大きな変化を読み取るというのが美食家の仕事に違いない。そして、自分の得られる幸福を最大化しようとするのは、立派な生活の送り方には違いない。人が得られる満足感というのはその人の持っている小さな脳味噌のなかにしかないということを考えると、喫食にそれを持ってくるというのは理解できなくもないことではある。だが、ほんの少しの差に注意することができる鋭敏な感性をもっていて、なぜ食にそれを求めるのかというのが理解し難い部分として残る。飽食の時代にあって、あくまでも食にこだわろうとするのは、つまりそこに大きなコストをかけようとするのは、本当に微妙な差を享受したいからなのか。ひょっとすると、贅沢をしたい、贅沢をするというステータスを得たいという気持ちがそこに紛れ込んでいないか。素直で正直な人はおそらく、いささかなりとも紛れ込んでいないとは言い切れないと答えるだろう。それが旨味のひとつなんだと。そうすると、微妙な差異はたちまち潰れるはずだ。腹が減っているという境遇が、ソースの味の変化を塗りつぶしてしまうように、そこまで極端に塗りつぶさないにしても、高みにいれば高みにいるだけ、つまり変化が微妙であればあるだけ、せっかくの微差が埋められてしまうことになるのだ。
他にあり得る回答としては、食文化というのは社交的な食事のためにこそあるというものだ。うまくすればそれを話の種にもできるし、直接食事への言及をしなかった場合でも、美食は場の雰囲気を華やいだものにできる。つまり効果的な道具ということで、社交上の潤滑油として美味しい食事が存在するのだという考え方だ。これは貴族が新作のオペラを話題作りやサロンでの話題に乗り遅れないようにするため見に行くというのに近い。ここで注目すべきことはただひとつ、食事はその人の目的になっていないということだ。食事を通じた社交の方に目的がある。これは美食家よりも自然な意見だと考えられるが、同時に、わざわざ取り上げるに足る文化でもないということを明らかにしている。これはなにも食にかぎったことではなく、オペラにしても、それがもし話題の種として扱われることしかなかったなら、いかに有用な道具であろうと創作物としては取るに足らないものと考えて何ら問題ない。
ある特定の創作物に対して、特権的な地位を与えようとすることのほうがおかしいのかもしれない。しかし、自分自身の心を動かした創作物に接するとき、特別な地位を与えたくなるというのは、不思議なことではなくむしろありきたりのことだ。
だから結局、問題は次のようになる。美味い食事を摂ったときに得られる感動は、その他の創作物を圧して自らのスペースを確保し、自立するほどのものか。
私としては、これには「否」と答えるしかない。井之頭五郎(『孤独のグルメ』の主人公)など、一部の変態的嗜好の持ち主にしか、「応」と答え得ないのではないかと思われるが、それにしても、他に楽しいことを何も知らない寂しい趣味人としてのみ、かろうじて可能だというにすぎない。井之頭は好奇心の持っていきどころが三度三度の食事しかないという意味で孤独なのだ。しかし美食家として彼のあり方は正しい。美食家がいるとすれば、その人は孤独にならざるを得ない。美食家ではない人は、もっと違う場面に注意力を振り向けるべきだというのが、平板で単純だがすこぶる文化的だと思う私の意見だ。
これはべつに美食にかぎったことではない。どんな創作物や自然物に対してもそれに嗜好性を持って接するのであれば、その山を登るのは孤独な営みにならざるをえない。登らないのであれば、その入り口近辺を物欲しげにうろうろし、登っていく人の背中を指をくわえて見ている場合ではないはずだ。コミュニケーションが目的で、コミュニケーションをしたいなら、堂々と、この山をだしに使ってコミュニケーションをしたいのだと言えばいい。何でも正直に話すというのは大抵のコミュニケーションにはしっくりいかない方針なのかもしれないから、これは適当なアドバイスだとは言えないかもしれないが、健啖家で美学者の人格を借りて言ってしまえば、「そんなの知らない、コミュニケーションの方針などどうでもいい、面白いもの楽しいことを追求し、本当に面白いと思うことだけやってるほうが、愚痴のこぼし合いをして間を埋める過ごし方より絶対いいだろう」ということになる。
それにコミュニケーションと一口に言っても、社交平面上のものもあれば、もうすこし込み入った生活圏内のものもあれば、形而上学的な宙に浮いたものもあるわけで、どのコミュニケーションを推進したいかによって山登りの必要が出たり出なかったりする。だから、どんな相手とも対等にコミュニケーションをとりたいと思うのなら、せめて麓までは登った経験があるほうが便宜だ。音楽や、絵画などの視覚芸術がとくに裾野が広いようだ。大体その人の目につくものは何でも対象になるはずだと思う。しかし美食だけは趣味としてふさわしくない。それは十中八九、ブービートラップだ。
食事後にルミネの服屋を見て回る。グレゴリーのデイパックを見たり、マーベルストアでスパイダーマンのグッズを漁る。ショッキングピンクのトートを発見し一目惚れ購入する。スパイダーハムのイケてるバッグ。途中、明生と御嶽富士の一番だけNHKプラスで視聴する。明生の勝ち。当然嬉しいのは嬉しいが、御嶽富士にも頑張ってほしい思いがあり、喜びきれないところもあった。
服屋終了後、新宿の地下を通って副都心線に乗って自由が丘へ。6時近くだったがまだまだ全然暑さが引いていなかった。チョコジェラートの専門店でジェラートを食べる。昔、奈良そごうの1Fでジェラートを買ってもらって食べるのが楽しみだったのを思い出すので、ジェラートはこれからもずっと好きだろうと思う。そういう記憶を残せる可能性があるというのはすごいことだ。これなども、味・美味の感覚以前に「おいしさ」のイデア、そのレゾンデートルがあるということの証明になる。もちろん自分にとっては、ということだが、舌は誰とも共有できないのだから同じことだ。肝心のジェラートはトリプルで注文する。チョコチップ・コーヒーチョコ・カカオが濃いチョコの三種類。暑い外の道を見ながら涼しい場所で食べるジェラートの美味しかったことと言ったらない。これなんかも、(以下略)。
氷結を水のように飲み干して盆踊りに参加する。駅前ロータリーの喧騒は盆踊りに向いていると思うが、コース取りにやや難があった。前日に参加した新宿二丁目の盆踊りに軍配が上がる。駅前だから仕方ないとはいえ、結構な頻度でけたたましく鳴る電車の警笛も、踊りへの集団的没入を阻害していた。
盆踊り終わりにピッツェリアに入って牛ひき肉のピザを食べる。一番外を歩くのが少ないコースで帰宅。どこかでポケットに入っていた鍵を落としているのに気がつく。意気消沈してシャワーで汗を流し、前日同様疲れ切ったのですぐに寝る。

2023/07/17 今日
いつもの出勤時間と同じ時間に起きるが、今日は休日なので幸福な二度寝をする。昼前の暑くなってくる時間に家を出てスタバに来る。日記を書こうとすると、体調が良すぎるせいか無茶なテンションになってはまり込んでしまいいつの間にかまあまあの時間が経過する。実際、今の時刻は14時41分。仕事には行き詰まり感がある。せっかく調子良いんだからふらふら迂回して打開孔を発見しないと。
でも先に書いておきたいことがあった。『君たちはどう生きるか』のこと。
この映画はこれまでの宮崎駿映画と同様、想像力を駆使して虚構世界を描いた作品だと思うが、その想像主体がこれまでは作者・宮崎駿のものだったのと違い、今作は眞人の方に鉛筆が置かれているように見えた。たとえば、なぜ「鳥」なのかというのを、宮崎駿の生活圏にある身近な問題から取り寄せたものだと考えるということを、見ている最中の自分はしていた。都内でも、飼育用に外から持ってこられたインコがその生命力の強さで繁殖し、数を増やすというニュースが聞こえてきて久しいし、実際に世田谷区の住宅街を歩いているとき、電信柱に群れている十数羽のインコを見たことがある。近くで見たものや、身近な環境にあるものから着想を受けるというのは想像世界にはよくあることだ。ただあまりにも身近だし、すぐそばにあるほど近いから、写りとして若干浅薄に見えるというのはある。そのせいで、「環境問題」というカッコ付きの問題意識が見え隠れし(見え隠れと言ってもそれを見る自分自身の主観においては「見え見え」と言いたくなるようなものだ)、そういうメッセージは今は良いだろう、という反感を覚えた。世界が「ひとつひとつの問題を順番に解決していくからそこに並べ」というように、われわれに理路整然と問題の解決を要求するわけではないし、そういうふうにできてはいないのだから「今は良い」ということも本当はないのだが、反発する気持ちというのはそういう正しい意見とは関係なく生じてしまい、映画の受容におけるスムーズさ・滑らかさを妨害する。そして、これは『君たちはどう生きるか』というタイトルにも関わることだが、年長者が年少者に送るアドバイスというのは難しいものになりがちだ。反感や反発は充分予期されるし、そういった反感・反発をまったく覚えない人よりも、そういった反感や反発を本人としても飼いならす必要がある人にこそ、伝えたいメッセージがあるというジレンマもある。

まずは眞人の体験を鑑賞者自身の体験に据えることだ。この映画の白眉は何と言っても冒頭からタイトルコールまでの圧倒的な切迫感だ。生きてきた年数から言っても、起こっていることの光景から言っても、誰のどの体験と比べてもこれ以上の非常時はない。当時、実際に誰にでも起こりうることだっただろうし、同じ境遇に置かれた人物が他にいてもおかしくない。それでも、自分の母親が、病気がちの母親が入院している病院が焼けているということを想像してみようとするとき、そういった誰にでも、他にも、といった可能性のことなどは、瞬時に後景にしりぞいていってしまう。

眞人には友達がいない。これは作画演出レベルでも明らかなことだ。いわゆるモブキャラを完全にモブ扱いしている。この描き分けはこれまでのジブリ映画には見られなかったものだ。母のもとに急ぐときに道に大挙する群衆を、眞人の目線では同じ人間扱いしていない。非常時だから、そのとき何よりも大事な目的の妨害要因としてしか人々を見られないという言い訳もこの場面だけは成り立つ。
しかし、疎開先の学校でも同じことで、田舎者の群れとしてしか眞人は学友を認識していない。眞人にとっては自分の周囲の人間だけが、あるいは父親が認めた人間だけが、まともで見られた格好の真人間だという認識があるのだと考えられる。
そうであるとするなら、眞人からの見え方が、この映画の外見にも反映されているということになる。このことは、この映画における想像世界の創造主体は眞人だということの傍証ともなる。

眞人は生きていくために必要なことをしている。母親が焼け死んだという事実に対抗して、彼女がじつは火を操る魔力を持った特別な人間だったと考えることは眞人にとって必要な考え方だ。同じ扉から出ていくことはできなくても「じゃあね」と言って別れること、べつの扉から彼女が出ていけることは、眞人にとって必要なイメージだ。

生きるために必要なことをしている。それは誰にでもあることだし、人によって必要とする物事や想像上の世界というのは異なる。できることも当然ちがう。人によって想像できることも異なる。置かれた境遇や暮らしている環境がちがうからだ。
支離滅裂な想像世界は眞人の作によるものだ。母親から残された一冊の本を読んで感じたことをもとに創造された世界。鳥たちは、友達のいない眞人にとって親しみを感じられる存在だった。鳥たちには、よく観察してみると、不気味で何を考えているかわからないところもある。しかし、鳥たちは眞人にとって、興味を持って接することのできる対象だった。もっとも印象的な鳥のアオサギは言う。
「友達を作らないといけませんぜ」
この映画は眞人の想像世界ではなく、眞人の暮らしている世界で終わる。眞人の世界の見え方が変わったのかどうかはわからない。その場面には家族しかいないからだ。変わったのかもしれないし、変わっていないのかもしれない。しかしそれはどちらでもいいことだ。それは眞人の世界の問題だから。いずれにしても眞人は玄関の扉をあけて外へ出ていく。戦争のあいだじゅう暮らした家を出て、東京に帰るのだ。
宮崎駿の作ったものを見返しても、眞人ほどつらい目に合わされた登場人物はいない。今作を制作するにあたって宮崎が受けたであろう創作の苦しみやつらさを想像すると頭が下がる。『もののけ姫』のアシタカは明らかにつらい目にあった人物だが、彼はそれを乗り越えるだけの強さも与えられていた。物語冒頭の受難において、彼は少なくとも子供ではなかった。『風立ちぬ』の二郎が受けた苦しみは、大人だから持ちこたえられるという性質のものではなく、単純な比較はできないが、それでも、人がこの世で受ける最大の苦しみを年端も行かぬ少年に負わせ、その様を描くというのは、宮崎ほどの作家にとってはほとんど不可能事にちがいない。今作を成功作とみなすか失敗作とするかは措いても、映画全体を通じて眞人の主観にひたり付いてそこから一時も離れなかったことは称賛に値するし、その作業には全力を尽くさずにはいられなかったはずだ。一方、見る側にとっても、全身全霊を傾けて制作された作品に対して失敗作と言うのは、とても気の引けることだろうと想像する。だからこの映画をみてそういう意見を持つに至った人にとっては、とても残念なことだったと言わなければならない。
私は、宮崎駿はこの映画をやり切ったと思う。音楽と主題歌、それから演出の細かな部分は気に入らないが、それだけで失敗作だとしてしまうのは惜しいほど、明確に挑戦していて、しかもその挑戦の大事な部分についてはやり遂げているというのがこの映画を見た感想だ。

自己模倣だという意見については、そう見えるという部分だけで自己模倣だと言うのではなく、すぐには目に入らない部分・設定についても自己模倣だと指摘してほしいと思った。
たとえば、母親が病院にいるというのは、『となりのトトロ』の設定と同じだ。急がなければと気だけは急いて、動顛してすごく慌てているのに靴を脱いで家に上がり、着替えをする滑稽で同時に物悲しい場面は『風立ちぬ』にも見られた。半分刈り上げの髪型は『崖の上のポニョ』の宗介のヘアスタイルを彷彿とさせる。そういった符号が喚起するのは、作者論的なレベルでの自己模倣などではなく、彼らにも同様の不幸は起こり得た(が、幸運なことにそうはならなかった)ということであるはずだ。映画に「こう見ろ」とか「こう見るのが正しい」というものはない。しかし、成長するにつれジブリ映画が公開されていき、つねにとなりにジブリ映画があったものからすれば、似たシーンが出てくることを殊更にあげつらって「自己模倣がひどい」と賢しらな意見を口にするのは右腕を切り落とされても文句が言えないことなのではないか。つまらないという意見も、率直にそう思うならそれで良い。しかし、曇りなき眼で見定め決めるという気概は持ってほしい。君たちはもう子供ではないのだから。

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