カラオケ学部併設
2023/07/14 昨日
『君たちはどう生きるか』を見た。夜、空襲のサイレンが鳴り響くカットから始まり、主観のカットを交えながら火事に向かって行く場面につながっていく。そして、結果がどうなったかを主人公の年齢には不似合いなほど抑制の効いた声で告げるところでタイトルコールが入る。これ以上ないほど期待感が高まる出だしだったが、鑑賞中の気持ちの盛り上がりとしては本当にこれが最高値になってしまった。
私たちはいつまでも「ジブリ」「宮崎駿」と言っていてはいけないというメッセージを受け取った。作品の持つパワーはジブリ映画ではもっとも弱い部類だ。良くなかったところとしてすぐに思いつくのは、つなぎのシーンが多く、しかもひとつひとつが長いので冗長という点だ。しかも引きの絵で、カメラだけ移動する止め絵が多用されるので、次の展開がどうなるのかを気にする前のめりな鑑賞においては、かなり焦らされる。焦れているだけで済めばまだいいが、そうなったときに、物語から離脱して他のことを考えてしまったり、集中力が失われて主人公に付いていくことが難しくなる。これは当然鑑賞側の集中力の問題ということもあるので、一方的に批判するわけにはいかない要素でもあるのだが、鑑賞者側で一度でもタイム配分の申し分ないアニメ視聴体験をしてしまうと、そのテンポ感にすぐ慣らされて、それを基準として持ってしまう。つまりこの映画はそういった映画に比べるとタルいのだ。そして、その申し分のないアニメ体験というのは『風立ちぬ』以前の宮崎駿映画によってもたらされており、それにアニメ映画業界全体が追随した結果、どこにでも見られるタイム感覚となっている。
野球に詳しくないのにこういう例えをするのもどうかと思うが、昨日寝しなに思いついたのでそのまま使ってしまうと、新作ジブリ映画にかぎらずどんな映画でも、それを鑑賞するというのは、打席に立って投手の投げる球を待ち受けるような心境でそうすることだといえる。バットを振りたい、ヒットを打ちたいと思わせ、ホームランを打つ夢を見せてくれるのが良い投手の条件だ。
好きな監督の映画を見るというのは、投手の癖を知っていて、投げるコースが大体わかっている打席のようなものだ。コースだけでなく球速についても、変化はあるが似たようなものになるので、投手についての知識があるとその分ホームランを打つイメージが明確になる。
しかし投げるコースが全然変わらない投手というのは、それはそれですごいコントロールなのだと思うが、よっぽど速い球だったり鋭い変化をさせないと成り立たない。同じコース・同じ球速を繰り返すと、打者はそれを打たせ球だと感じるようになる。そうすると途端にホームランを打つ夢がしぼんでしまうからだ。
話の前提が長くなったが、この野球の例えにおいて今作は、まったく同じコースでガクンと落ちたスピードの球ということになる。コースはバッチリだったから、ほとんどの打者はほれきたとばかり思いっきりバットを振った。振りながら「あれ?」「やばい」と思っただろうと思うが、振り終わってもまだボールがミットに届いていない。そうするともう一度バットを構えようとするだろう。しかしもう一度構えたときにはさすがにボールはミットの中に収まっている。球速がゆるやかなだけによく見ることのできた軌道には既視感があるので、投手がまったく同じコースに投げたと感じるのだ。
打者の主観からすれば打たせ球と投げたということで批難の対象になる。ホームランを打ちたいのに打てなかったことの腹いせに、同じコースだったという理由をとりあげて批難するのだが、これは見当外れである。そもそも同じコースではない。そのうえ球速はぜんぜん違う。さらに勘違いしてはいけないのだが、ホームランを打たせるのが良い投手ではない。
すでにバットを振ってしまってから、「ああ、ホームランを打ちたかったな」と思わせ、しかもその時間が長く続くのが今作『君たちはどう生きるか』の特徴だ。この投球については、球速が落ちたと捉えるのか、球速を落としたと考えるのかで評価が分かれるところだろう。これについては両方あるのではないか。落ちただけでなく落としたとも言えるし、落としただけでなく落ちたとも言えるが、これまでの投球からすると驚くほどの変化があったということだけは確かだ。
自分にとって良かったところも挙げておくと、主人公の「主観」がさらに強くなっているように感じられて面白かった。三人称の視点を脱して一人称で見ることができれば、この映画は失敗作ではなく傑作だといえるかもしれない。一人称で見せるということについて必ずしも成功していたとは思わないが、鑑賞者側で勝手に一人称で見ることはできる。行動に先立つ説明があるはずだと考えるのはドラマの見すぎだが、いずれそれが明かされると考えるのも似たりよったりということになる。
2023/07/15 今日
朝から渋谷PARCOにきてスタバで日記を書く。この後PARCO劇場で『天保十二年のシェイクスピア』を見る。
予想に反していたのは、20分の休憩を挟んで4時間近く上演時間があったことで、見ながらとにかくお腹が空いてしまった。思えば昨日の映画も途中からお腹が痛くなって集中しづらかった。コンディションを整えるというのは重要だという当たり前のことを思い出した。もちろん最低限はコンディションを整えているし、そもそも忘れてないのだが、それでも思い出した。
演劇調の演劇で内容はともかく見かけは面白いと思えなかった。休憩時間に友人が後ろに座っていたことに気づき、終演後ねぎしに遅めの昼ごはんを食べに行く。麦飯を腹いっぱい食べたいという上演中に見た夢を即刻叶えたかたち。三杯もおかわりしたのでお腹が苦しくなった。ねぎしにいってお腹が苦しくならずに店を出たことが一度もない。その後RAGTAGでTシャツを買う。kebozというブランドのオンスがある黄色のオーバーサイズのTシャツ。Too BIGかもだが、そういう気分だったので流れに身を任せた。
その後PARCOに戻って屋上ルーフトップで日記の続きを書いて、仕事を進めようとするが開放的な気分に当てられてちっとも進められず。ツーリストに紛れてゆっくり過ごす。
7時近くになって、入日が済んでからセミが鳴き始める。今年始めて聞いたセミの声だ。