20230713

日記155

東急ビルの低層化

2023/07/13 今日
在宅バイト。大相撲、今日も明生は勝てず。錦木が強い。大相撲の見始めが先場所からで、錦木は序盤成績が振るわなかっただこともあり全然注目してなかったのだけど、こんな力士いたっけ?というぐらいの変貌を遂げている。強さの面でもそうだが、単純に身体の大きさも一回り以上大きくなっているような印象を受ける。こういうこともあるのだと面白い。三役はすでに何回か負けていて、5勝は平幕力士だけ。群雄割拠といえば聞こえはいいが、横綱不在で大関もひとり、ちょっと物足りない感じもある。明生が負けているのもちょっとつらい。
昨日の演劇『笑の大学』のことをあらためて考えてみると、瀬戸康史の相手役・内野聖陽が役に見合った動きをできていなかったというのが、芝居全体がイマイチだった理由になる。ふたり芝居というのは、ひょっとすると一人芝居よりも役者一人の占める割合が大きいのかもしれないと思った。一人芝居の場合は、客の方で演者にアジャストしようとする結果、場内全体を巻き込んでいけたり、インタラクティブな演出をこちらで許容する意識が働くということがあって、こちらから歩み寄れたりするものだと思うが、二人芝居は二人の役者だけで完結できるし、こちらもそれを望んでいるところがある。舞台の上に描かれるきれいな円を求めていくときに、それがつぶれていたり、薄かったりすると、物足りないと思う気持ちは強くなる。成功した二人芝居というのは、二人の役者による相乗効果を実感できるものだと思うが、それは役者間で同程度の力量がないと成り立たないものだと思う。あるいは、一方がもう一方を強烈に引っ張ることで、本人たちで達成できる以上のものを引き出されている現場に居合わせることを面白さとすることもできるかもしれない。瀬戸康史が内野聖陽を引っ張ることができれば、面白い芝居になったかもしれないが、稽古期間が充分とれなかったのか、関係性がないのかわからないが、内野のレベルに瀬戸が合わせるという、もっとも悲しいかたちの喜劇になっていた。これはキャスティングのミスというか間違いだと思うが、二人芝居における役者のキャスティング以上に重要なキャスティングはないのだから、それができていないのはこの演劇の責任者の失敗だと思う。高いお金を払って見に行かずに済んで良かった。本当は逆の後悔ができればいいなと思っていたので残念だ。
ところで、自分が役者として舞台に立った経験から言うと、こんなふうに役者の力量についてごくあっさりとあるとかないとか言って文章を書くのは気が引ける部分もある。ただ座って見るのと実際にやるのとでは、すべてのことについての把握の仕方が全然異なるというのは、はっきり明言しておかないといけないとも思う。簡単に言うけど、そんなんできないよ? と言ってみても、そんなのわかっていると返されて仕舞いだけど、やっぱり大きな前提としておくべきことだ。
それでも、あくまでも面白い作品を自分は見たいと思うから、ただ座って見るだけの視点から、これはこうだった、あれはああだったということを言っていきたい。瀬戸康史とは共演しても良いかなとは思うけど、内野聖陽とは共演できないと思ったというのが、今回の演劇を見た一番の感想だということになる。そのことを前者に力量があって、後者には力量がなかったと言い換えても問題ないはずだ。とにかく見る目のある役者である自分にそう思わせたのだから、一面でそれは真だ。そもそも脚本があまり良くないような気がする。戯曲として読んでも面白くないのは間違いない。役者の力量によって見違えるように面白くなるというのは可能性として残るからなんとも言えないところだが、とくに検閲官の台詞が、作家に良いことを言わせるための装置の台詞にしか聞こえなかった。内野聖陽をしてそうとしか聞こえないのだから、たぶんとても難しい役なのだと思う。これでも一応役者の端くれなので、脚本が良くないというほうに一票。
まあ、冗談は冗談として、小説を書いていると、自分の力量のことを考えないといけないような羽目に陥りそうになる危機もしばしば訪れる。しかし自分の力量についてなんていうのは、自分で自分に問うてみても始まらない質問で、まったく意味を持たない。だからそんなことに関わっていては駄目なのだが、半分自動的に考えがそこに落ちていきそうになる。
自分にとって面白い小説とつまらない小説があるというのは事実なので、それを隠して全部が面白い小説ということはできない。面白くない小説にならないように、つまらない小説にならないようにと考えながらやるしかない。
たとえば、この書き方じゃ駄目だと思ったときに、ちがう書き方をすぐに試せるというのが実作の手軽なところだと思うので、自由に方向転換をしながらどんどん右往左往したい。
しかし、今考えているのは曲線の引き方ではなく直線の並べ方なので、本当に方向転換ばかりしていては駄目。これはもののたとえということで。
日記でも何でもそうだが、言いたいことがふたつ同時に出たりするとき、それをそのまま出そうとすると弾詰まりが起きる。順番を考えてひとつひとつ出すのが良いと思うんだけど、つい同時性を実現したくなって弾の通り道を広くしようとか考えてしまう。考えるだけではなくやってみることもあるが、そうすると弾は飛んでいくどころか、真下に落ちるだけで終わる。そういうことが自分にはよく起きる。今回の日記はそれが顕著だった。言いたいことがせめぎ合う感覚があってその対処でちょっと消耗した。あきらかに非効率だ。日記だからべつにいいけど、小説でそういうことをしたくない。暴発に使って暴発を使うみたいな特殊な状況は考えられるし良いと思うが、調整の結果、銃口を広げようというアイデアは自動的に却下されるぐらいでないと。

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