20230731

日記169

濃い夕焼け

2023/07/30 昨日
午前中から出かけて友人宅に遊びに行く。友人が最近飼いはじめたという猫は予想の倍ほどかわいくて驚いた。よく鳴くけど落ち着いている4歳のオス。近況についてちょっと話をしたり、刃牙のアニメを見ながらカタンをやったりして、まだ日が充分沈んでいないうちに川を通って赤羽まで歩く。危険な暑さのなか、十分な水分補給をしながら赤羽駅にたどり着き、そこからさらに赤羽台まで歩く。友人宅を出た当初予定していた夏祭りよりもさらにローカル色の濃い西六夏祭りで、格安の手作りたこせんと焼きそばを食べて夕暮れ時間を過ごす。じゃんけん大会で町内会長の頑張りを確認してから、元行く予定だった盆踊りに向かう。これまでの盆踊り大会と違い、中央にお手本のダンサーが配置されない盆踊りだったこともあり、その場の人数に比して参加人数が極端に少ない盆踊りだった。駅前に戻って鳥貴族ですこし飲み食いして帰宅。23時半だったので即風呂に入って、ポケスリの「約束の時間」に就寝する。

2023/07/31 今日
在宅バイト。先週の積み残しタスクを消化する。昨日のロケであまりを持って帰ってきてくれたロケ弁を昼飯と夕飯にする。月末処理をしてザ行なしで退勤。19時前にスタバに来る。友人と話をするとモチベーションが微増するが、なんとなく意欲が下がるのもあってプラスマイナスでマイナスになる。期待したいだけのモチベーション増が望めないことで、ちょっと残念に思ってしまうというのが大きい気がする。しかし、最初から認識している通り、小説を書くというのは完全に個人プレイなのだから、その特徴を生かさなければならない。しかし今度からはうまく書けないということを友人に向かって話すのはやめよう。自分の性格上書けてるときにはその話をしないのだろうから、これだとテスト勉強を全然してないよと言って嬉しがっている定期試験前の高校生のようだ。
文章を書く方法、みたいな記事をNoteで読む。意識を低くスタートするというのはその通りだが、基本的に人のやり方は参考にならない。というより自分なりのやり方がある場合、邪魔になるだけだ。
人(編集者)に読ませる前提の文章にするというブラッシュアップ方法は小説執筆においては間違っている。ライターの記事を参考にして小説を書くやつはいない。それなのに気が弱っているとついそういった記事を消費しようとして、うまく消化できずに消耗する。
気に入っていてこの夏に大活躍しているサンダルのゴム紐が留め具から外れてしまう。ショックだが治るにちがいないと思って耐えている。でも治らなかったらどうしよう。
良い季節(とき)というのは続かない。気づけばいつの間にか終わってしまっていて、元のようには戻らない。こういうのには抗いたいが、抗うというのはすでに取り込まれている姿勢を示すことにほかならないから、それを横目に見ながら無視するという負け惜しみのような態度を取っている。
スタバに2時間半いて全然進まなかった。クロスさせようと用意していた3本の線は撚り合わさって1本の紐になった。紐になったことについては仕方ないので、クロスさせる1本の線をあらたに用意しないといけないのだが、今さら用意しても取って付けた補助線ぐらいのものにしかなり得ない。片方が紐になっているのだからできれば紐にしたいとクロスするようの線のことを紐にしようと欲を出すと、いよいよ付け焼き刃のようになってしまう。一旦執筆は中断してしっかり考えるフェーズに入ったほうが良い。
それかやりたかった構造のほうを諦めるか。真似したい小説の形があってそれのために線と線をクロスさせる構造を採用したのだが、ガワだけを真似したところでしょうがない。しかし真似できるとすればガワだけだから、というのも一応考え方としてある。それに、きれいな模様を描くために構造を考えるというのは方向として間違っていないはずだ。主題を彩るためには良い色を塗るよりも模様に凝るというほうが理にかなっている。おそらく色は読み手が塗るものだ。
こういうことを考えながらも具体的な言葉遣いについて手を動かすようにしていきたい。形のある単語に触れない日があると気持ち悪いというふうに言語習慣を作っていくことがこれからは大事になる。

メトロは路線によって流す広告が違っている。たとえば南北線はハイソな雰囲気をたたえており、広告サイクルの中にシネマチャンネルがある。列車は北上するにつれ下町の色を濃くしていき、やがては埼玉まで到達するのだが、そうなっても目黒、白金台、白金高輪、麻布十番の雰囲気を完全に失ってしまうことはない。

20230729

日記168

まもろうよ

2023/07/28 昨日
恵比寿駅西口盆踊りの客入りと規模感はすごかった。恵比寿音頭とかミスター恵比寿とか、照明がピンクなだけでなく恵比寿色を押し出していて良い盆踊り大会だった。ローカルな部分とグローバルな部分とが混ざり合う良い大会に欠かせないのはとにかく客入りというか人の量だからそれがあるだけで特別なイベントになる。東京の盆踊りというスペシャルな感じというのを味わえる盆踊りのなかでもトップなのだろうと思う。4年前に一度だけ行った日比谷公園丸の内盆踊り(思い出補正あり)とも良い勝負ができる。
下北沢に戻ってトリキ難民になり、ミカンで少し飲んでから帰る。帰り道、友達の結婚式に対していろいろなアイデアがめぐり謎のやる気が出たが、一夜明けた今、完全に落ち着いたので、これが有名な真夏の夜の夢というやつかと勝手に納得した。
呪術廻戦のアニメ二期を見る。クオリティが高い。漫画原作を完全に超えた出来のアニメは珍しいのではないかと思う。何期目かの進撃の巨人が頑張っていたイメージだが、今作はおもに演出面で圧倒している。ひょっとするとこの四話までに全力を尽くしていてあとは全然駄目なのかもしれない。でも懐玉に関していうとこれは100点満点をつけてもいい。メイドの追加描写についてだけは蛇足なので5点減で95点ということにしておく(←見当違いだった。沖縄行く前の描写だった)。しかし面白かった。戦闘時も含めた台詞まわりがすっきりしていて見やすいのが良かったところなので原作のコントロールの範疇だという気もしてきたが、表現力の部分で全体の印象をより鮮烈にして、夏油傑に対する感情移入がより丁寧にできるようになぞり進んでいくことになったので、表現力が高いというのはやっぱり評価するべきポイントになる。毎回EDが切なくてまたいい。あの補完も大きい。

2023/07/29 今日
ポケスリで100点を叩き出すほどしっかり寝る。元気いっぱいになった。イシツブテを仲間にした。初期ポケモンで最初に主力にしたのがサンドパン、次に主力にしたのはゴローニャだったことを思い出して懐かしくなる。ヤフダと命名。
10時半にはスタバにくる。暑いのでボーナストラックからLUUPを使用。途中踏切にもつかまらず料金80円。LUUPは最高速度が15→20kmになって使い勝手が飛躍的に向上した。
14時までやったあと、もうやんカレーで昼食。もうやんカレーおいしいと思うんだけど下北沢にいる人間は飯に関しては大体ザルなのでいつも空いている。混んでいて並ぶのは嫌なので空いているのは良いんだけど、心配になるぐらい席が空いているのは困る。せっかく下北沢に良い御飯屋ができたのに潰れてほしくないから。
その後、外が暑すぎるので涼みがてらメトロをヨーヨーしてから一旦帰宅。電車内で『V.』を読む。エスター嬢の鼻美容整形の回。この箇所を読むときにはいつも自分の鼻をさわってしまう。鼻と額の骨が繋がっているというのを確認したくなった。この描写の痛々しさは、シェーンメイカーの誕生譚の苦々しさと合わせて、『V.』でも初読から引き込まれる屈指の場面だ。
帰宅してからは粗品の動画を流しながら洗濯物を干す。ほとんど夕方に入る時間帯だったが、これだけ日差しがあれば短時間でも乾くだろうという思惑であえて決行した。
夕方になって、遊びに行かないかとの誘いがあり行くと返事したらやっぱ暑すぎるからやめとくという訳の分からない時間が発生。出かける準備をしていたのでその勢いを借りてスタバに出る。結果仕事の進捗があったのでまあ良かった。書いていった断片に時系列を設定するという工程。今取り掛かっている小説が何年から始まって何年に終わる物語なのかということについて、ようやく目鼻がついた。
最近、人のやることや人が良いと思っていることを良いとは思えなくて、良いとは思わないと言ってしまったり、良くないと思うとか余計なことを言うようになってきて良くないと思うようになった。元々自分には良いと思う物事と良いと思わない物事のあいだにはっきり区別をつけるところがあり、それを自覚しているから人前であまり意見を言わないようにして対処していた。ところが、意見を言うということが大事だとちょっと前から考えるようになり、意見を率直に言うように心がけるようになった一時期がある。そのときに、自分の良いと人の良いとが「ちがう」ということに自覚的になって、その部分については繊細に扱いつつ自分が良いと思った物事を発信していくことが進め方として必要なことだった。そこをすっ飛ばして、自分の良いと思うことは良い、人の良いと思うことは必ずしも良いとは言えないという態度で意見を言うようになった。おじさんになって、自分の考えることや感じることについて一定の傾向があるということがわかり、その判断について必要以上に惑うことがなくなったから、良いと思う物事についても「いや良いでしょ」と言い、良くないと思う物事については「いや良くないでしょ」と言い、それで済ませるという機会が明らかに増えている。かといって、かくかくしかじかの理由で良い、かくかくしかじかの理由で良くない、というような説明を他人は必ずしも求めていないということもあるので、言えることが「良い」「良くない」という単純な話になっていってしまう。相手がこちらの「良い」に対して「良くない」と応じてくれたり、その逆があったりすれば、言い合いにも発展できるのだが、相手も自分と同じようにおじさん化しているから、自分自身の「良い」に固執して、しかもむやみにそれを戦わせようとはせず、自分のなかで良いのだからそれで良いという態度で通すから、そこですれ違ったまま終了ということになるようだ。まだもう少しおじさん化していない人たちと話せれば解決するかといえばそんな簡単な話でもなく、自分はおじさんなので年少の相手はこちらに気を使って思っていることを言えず、結果、こちらが一方的に思っていることを喋って相手は社交辞令的な対応でやり過ごすという時間が発生するだけだ。自分のコミュニケーション能力は、少なくとも自分が必要だと考える部分についてはそれなりに自信があったのだが、どんどん低くなっているように感じられる。ちょっとした言い方の部分でも気が回らず自分の主張を押しすぎたり、相手が言葉を出しやすいように誘導するということがうまくできなくなっている。「自分はべつに面白くなくても良い」と考えてざっくばらんな態度をとるよう心がける時期があって、それはそれなりに功を奏してきたと思われるが、ここらで反対側に舵を切って、面白いことが言えるように頑張ったほうが良い気がしてきた。ここでの面白いことが言えるようにというのは、自分にとってではなく、自分も含めた場にとって面白いことが言えるようにということだ。バイト先で8つ年下の大学生に「ギャグセン高いっすね」と言われた頃の勘を取り戻さなければならない。サービス精神というか、面白さということに特化したホスピタリティというか、昔それをちゃんとやれている友人に憧れていたことを思い出すところから始めないといけない。俺はもうそういうのは良いです、と言って当時自分にとって必要だと思ったことをやるために背を向けてしばらく経つけど、必要だと思ったことを今はもうやっていなかったり、それにも慣れて大した労力を払わずに自然にこなせているのだから、そのぶんの余力を使っていくということをやらないと、頭も鈍くなる一方だし、贅肉がついてしょうがない。職場でできるようになるのは難しいかもしれないけど、できるできないは置いておいてそこでもチャンスを伺うこと。友人たちとの会話でも自分が回すんだという意識を持つこと。同居人とのあいだではある程度できていると思うのでこれを維持すること。新しい場を見つけだして、そこで自分の面白さを使って場に奉仕すること。人に言う用の良いセリフを作ったり、それを言う妄想をすること。

20230728

日記167

街灯(レトロモダン)

2023/07/27 昨日
バイトの出社日。障害発生の対応と溜まっているタスクで首がまわらなくなってぎちぎち言いながら働いた。それでも15分程度のザ行で退勤。その後、派遣元の会社での説明会・懇親会があったので参加。社長が話すのを聞くだけの会だったが、まるで営業を受けているような気分になった。当たり前だけど良いことしか言わない、ポジティブな要因を成果と言いたがる、などのあるあるはあったけれど、さすが社用業が長いだけあってよく通る声と貫禄のようなものはあった。普段一緒に働いているわけでもない人たち、あまりパッとしない感じの人たちだったので懇親会は楽しくもない。ただほとんど二人きりで喋ることになった韓国人の男の子との会話は面白かった。新卒ほど若く見えたが年齢は27ということで、21〜23歳のときに兵役の経験もあるとのこと。自分たちの頃は殴るとかはなくなっていたけど、自由を制限されたのがとにかく嫌だったとのこと。大変な経験をした人の生の声を聞くと迫力がある。自分ごととして考えたら21〜23の年が兵役で潰されるなんて絶対に嫌だ。とくに何かをやった2年間というわけでもないけど。鬱屈するにせよ謳歌するにせよ、自由にやりたい。

2023/07/28 今日
在宅バイト。タスクはどんどん溜まっていくから消化しても消化し切るということがなく、いつも明日・来週に積み残しになる。だあるい。
しかし金曜日には華が咲くということなのでこれから恵比寿に繰り出して盆踊りでもひとつ踊りにいくことにする。ビールはうまいだろう。

20230726

日記166

提灯のような月

2023/07/25 昨日
スタバを出てから酒を飲んで街をうろうろする。前から名前が気になっていたダイニングバーに入る。演劇のそこそこ有名人が稽古後なのかふたりの女優とご飯を食べに来ているところに遭遇する。野菜カレーは酸味が効いていて美味しかった。
ピーナッツを食べながら酒を飲みながらいつもとはすこし違う道で帰る。

2023/07/26 今日
在宅バイト。午前中はだらだらしたが午後になってから重い腰を上げ、取るべき連絡をばんばん取ってえらかった。天鳳の調子がよく、二段に昇段する。一度は一級に降級する体たらくだったのだが持ち直してきたかもしれない。異様に運が良かったのも大きいが。
スタバに来て仕事をすすめる。友人からの婚姻届を提出したという報に接する。意外な展開というわけでもないが思ってたよりスピーディで驚いた。しかしとりめで(とりあえずめでたい)だ。
書いている小説について、骨格がないから、読ませるつもりで書いたものが骨格になっていってる。効率はよくないが、だからといって外骨格を考えつくというのも難しいし、とりあえずこの遅い方法で進めていくしかない。この進度でいけば今年の文学フリマにはまず間に合わないが、完成ではなく途中経過として部分提出できるところまでは進めたらいいな。

20230725

日記165

点景・ジャンボジェット

2023/07/24 昨日
スタバを出て酒を飲んで帰る。帰宅後、粗品のロケ動画で四兄弟の飲み会を見ていると、飲み会が楽しそうすぎてびっくりしてしまった。飲み会って楽しかったよな、というのが記憶のなかの出来事になってしまっている。12時前に就寝。


2023/07/25 今日
バスケの夢を見る。シューティングをしているといつの間にか極意を掴んでいて、ロングレンジのシュートも簡単に入るようになっている。リリースの瞬間に入ったことが確信できるようなシュートを何連続でも打つことができて、ミスショットというか入った確信が持てないシュートになってしまったときもリングに当たりはするものの結局入る夢らしい夢。いつもと違ったのは、このあと試合があるというタイミングで腕を鳴らしているときに、なんらかのトラブルで試合が開始できず、そのトラブルに対処。やっと試合ができるというところで目が覚めるというのがこの夢のセオリーだったのだが、今回はわりとすぐに試合開始になった。ところが、あれだけ練習でできていたことが試合ではまったくできずに、シュートを打とうとボールを構える段階で緊張からか変なフォームになってしまう。無理やり打ってもシュートが入る感触は当然なく、しかも全然惜しくもないエアボールになってしまう。チームメイトは練習のときの自分のシュートを見ているからボールを回してくれるし、自分も試合の中で復調するしかないと思うから、積極的にパスを要求する。走り回っても全然息が切れずにまったく疲れないとことからも夢だとは思ったが、それでもシュートの入らなさの感覚は現実感があり過ぎて嫌だった。あと、当時仲が悪くろくに話したこともない高校のクラスメートが登場して当たり障りのない会話ができたのと、シューティングの練習をやって決めまくっていた前半は楽しかったが、その分シュートが入らない後半の失速感は大きくなった。これだったら試合を楽しみにしつつ後少しで試合開始というタイミングで目が覚める従来の夢のほうが良かったと思うのが半分、よく見るタイプの夢に進展があったのが嬉しいと思うのが半分。雨が降っているから自転車で学校に行くか微妙だが、いろいろ考えて自転車で行くことにする卒業式、自転車置き場で何かが起きないかと期待するけど何も起きないまま教室までの道を歩く感じ、その時歩く道に高校の建物と大学の建物が混ざっている夢の感じ。こういうのが学生時代・バスケの夢の定番になっている。結構好きなシリーズだ。
在宅バイト。片手でこなせるぐらいの仕事量だったので片手でこなしつつ、ラジオを聴いてしまう。情報摂取を制限する方針がいつの間にかガバガバになっているので軌道修正をしなければと思いつつ、バイト時間を無為に過ごしているから良くない。何も入れない時間にして、バイト後のスタバに備えないと。
あとはネット見てたら流れてきたブルージャイアントエクスプローラーの続編一話を読む。舞台はNYということで、漫画の登場人物に嫉妬する日が来るとは思わなかった。初っ端ブルックリンブリッジを渡ってマンハッタンに入って、最後にサブウェイでマンハッタンに入る構成がよくできているのと、ダイがNYに来て「俺に合ってる」と言うのが「言われてみればたしかに」と知ってたことを発見する形になっているのが良かった。
定時までに出かける準備をこなし、ザ行なしでスタバに行く。着いてすぐ仕事に手を付ける。途中から夢のことを思い出したのでそれを書くために日記をひらく。

20230724

日記164

夏トロピカル

2023/07/23 昨日
大相撲名古屋場所の優勝は豊昇龍に決まった。豊昇龍の取り組み前の勝ち気な表情はもともと好きだったが、優勝が決まった後の涙と、優勝インタビューのときの「嬉しいです」で見せた笑顔で完全に持っていかれた。大関として来場所からも頑張って欲しい。
痛めた背中がだんだん痛くなってくる。ポケスリのために早めに寝たのだが、背中のせいで早く目が覚めてしまう。

2023/07/24 今日
在宅バイト。月曜特有の憂鬱さが背中の痛みという具体的な感覚で薄れていて、良いのか悪いのかという感じ。週末ラジオを聞きながらタスクを消化していく。定時前に出かける準備を済ませておき、定時即スタバにいく。去年日記を書くのに1時間半以上かける。

20230723

日記163

夏の入り口

2023/07/22 昨日
海に行く約束がある前日には寝れない癖が発現して、前夜2時半に目を覚まして6時半頃まで起きていてしまった。その後朝の予定をなしにして10時起き。散髪にいく。前回から指名で切ってもらっている若い男の店員に、切った後の髪の写真を広報インスタ用に撮っていいですかと頼まれたのだが、どんな表情をすればいいのかわからず無表情で写ってしまった。
集合時間まですこし間があったのですた丼で生姜丼を食べて小田急に乗る。さすがに夏休みが始まった影響か相模大野まで座れず。去年までとの違いを感じる。
江ノ島に到着してすぐの海にずっといた。江ノ島に行って以来一番移動が少ない回だった。途中海に浸かって、試供品でもらった日焼けオイルを塗って、相撲を何回か取って、名前を言うゲームをする。あとは酒を飲んで盆踊りを踊りに行く。水2リットルと塩気にピーナッツとポップコーンで熱中症を回避。
ロマンスカーのメトロバージョンで成城学園前駅まで座って帰る。汗と塩水と砂でどろどろになっていてそれなりに強い頭痛もあったので一度家に帰る。バファリンプレミアムとLシステインを飲んでシャワーを浴びると完全復活した。夜は涼しくなる良い夏の夜だったので下北沢に出て4段ハンバーグの店で晩ごはんを食べる。
帰ってからちょっと動画を見てすぐ寝る。

2023/07/23 今日
8時に目が覚める。しかし前日の睡眠負債と疲れから二度寝をしてしまう。そのまま11時になったので正午過ぎに昼飯を食べに出かける。下北沢駅隣接の中華料理屋。終わりに上のスタバに行くも満席で座れず。仕方ないのでダイエーで買い物を済ませてLUUPで帰る。
家でメトロンズの第三回公演『僕の大好きな最悪の飲み会』を見る。仕組みと仕掛けが面白い芝居だが、かなり長いコント以上の感想はとくになし。演者の舞台上での「待ち」の時間が多いから飲んでないとつらいだろうなという印象。
いよいよ千秋楽、三敗で並ぶ平幕北勝富士、新入幕ハクオウホウ、関脇豊昇龍の三人で優勝争いが盛り上がる大相撲を見る。明生は金峰山に勝って四連勝で勝ち越しを決めた。

20230721

日記162

黄色い線

2023/07/20 昨日
昨日は災難だった。気持ちがクサクサする暇もないほど、馬車馬のように働いた。ポケモンスリープという新しいゲームに助けられて、速攻で寝た。ピカチュウの名前は「コレバ」に決めた。ない言葉を決める一番は名前だと思うので、既存の言葉に影響を受けない名前を考えてポケモンたちに付けていくことにする。
ポケモンスリープ一年続いた。これをかぎりにやめようかとも思ったがもうすこしだけ続けることにした。

2023/07/21 今日
起床してポケモンスリープをやる。カビゴンの眠りパワーのおかげでヒトカゲが新しく仲間になった。名前を「ビャーボ」と付ける。在宅バイト。締切に追われるなか締切だぞと急かす役割なので、本来気を遣う仕事なのだろうが、トチれない不安は緊張としてつきまとうものの急かすこと自体はあまり気を遣わずにできてしまう。機械的にコミュニケーションをとる術を仕事から学ぶという社会の仕組みの一端を感じた。社会人というのはこんなのでレベルアップして、平気な顔をして世に憚っているのだと思うと、たんにおじさんなだけじゃねえかと呆れる。自分にできないことをできる人を条件つけずに尊敬する癖が自分にはあるが、おじさん化した暁にはそういう尊敬癖もなくなっていって、見た目・態度ともに真のおじさんになっていくのだろう。めくらずに置いてあったトランプの数字が想像よりしょぼかったときと同じ気分だ。ともあれ、そういう経験を得るのは、平気な顔して世の中に場所を取るために必要な手続きにちがいないので、よいわるいで言ったら良いことなんだろう。つまらないが。
ザ行なしでスタバにくる。タスクをほいほい終わらせてそれができたことにちょっとした達成感がある。大相撲は明生が王鵬に勝つ。錦木がハクオウホウ(まだ変換できない)に負け、二連敗で足踏み。しかし優勝争いもそうだが力士の奮戦は本当に心を打つ。気持ちや気迫が目に見えるというのは、相当なものだととにかく感心する。それが自分にできないということとは関係なく。
仕事を小一時間分進める。考えたことを覚えているうちに書いておくと、小説を書くときにはクリエイティビティを発揮する領域をできるだけ減らしておかないとろくに書き進められない。判断する必要が出てくるときにその判断を的確に行い、話を前に進めるというのがここでいうクリエイティビティだが、書いている最中にいちいちそれをしていたら小説が書き進められない。これは前作を書き上げたときにも感じていたし、何だったら書き残した覚えもあるが、今またこうやって書き残しておかないといけないという気になっているのは、今もそれができていないからだ。自分が書くのではなく、自分がこれと思った文体を維持して、その文体に書かせるというのが正しくクリエイティビティのない書き進め方だ。判断するときには一旦立ち止まる必要がある。それが邪魔になる。設定があって、話の進んでいく大まかな方向があれば、あとはそれに沿って書くだけ、そのときに文章の振れ幅が極端に上下したりしないように見張っておく。これは普通クリエイティビティとは呼ばない作業内容だが必要だ。設定について、登場して話をしたり行動をしたりする人物について考えること、ここにはクリエイティビティが必要になる。座ってじっとしている時間。べつのことを考えず、誰とも話さずにひとりでじっとしている時間。
あとは書き始めるときに、とりあえず書き始めるということを今はしているが、それはやめるべきだ。気分が書くモードに入ったとき以外に、原稿のページを表示するべきではない。それ以外の時間、滑走路の時間としてもっと日記を活用するべきで、たまに直接小説原稿のほうに取りかかれる日があっても味をしめて今度からそれでいこうとしないこと。あくまでも例外と心得ておくこと。書けない日に原稿の前に座って一文字でも書こうとしても、ただボツ原稿ができあがるだけで良いことはない。設定やその型紙について考える叩き台程度には使えるかもしれないが、それだとかなり効率が悪い。ごりごり進めていくという手もあるにはあるが、それだとただ「やってる感」の役に立つだけで、満足いく一日というアイデアのためには有用だが、小説のためには有用でない。本末を転倒させないこと。満足いく一日を送りたいのであれば他に気の利いたやり方はいくらでもある。小説を書くなんてバカなことをやっている以上は、明確にそれそのものを目的にするべきだ。書くのが楽しいというのは、いいと思うものが書けたと思うから楽しいということであって、それは書き終わった瞬間の満足感とは別物だ。習慣化するというところまではとりあえず漕ぎ着けたので、ニンジンとして書き終わった瞬間の満足感を使う必要はもうないはず。



20230720

日記161

レトロモダン

2023/07/19 昨日
帰宅後日記を書いて、酒を飲まずにすぐに寝た。面白い夢を見ていたような気がする。

2023/07/20 今日
在宅バイト。昼間は小忙しいし、想定していたよりタスクが重いしで、気がついたら23時までザ行。前日によく寝たのでイライラがちょっとはマシになっていて淡々と消化していけたのが良いのか悪いのか。体調を万全にととのえてやることがバイトだったらこれは本当に駄目なことだと静かな怒りが湧いてきている。明日が金曜日でよかったぞ。今週が平日4日でよかったぞ。
二十三時までの残業なんて正気の沙汰ではない。このときには残業代も入らなかったし本当に意味がわからない。
しかし正直、書けない小説の前に座って唸り声をあげるよりは簡単に時間が過ぎるので「何をやっているんだ」というストレスを抑え込めたらたぶんラクはラクだと思う。ラクがしたかっただけじゃないからそういうことじゃないけど。
※サヨナラCOLOR
そういえば午前中に溜めておいた胎界主を読む。レックスとルーサー大活躍の回。40歳を越えたら確認しにきて駄目だったら処分するというのは方針としては立っているように思う。ミドルエイジ・クライシスじゃないけど、ピリピリするぐらいの感受性はいつの間にかなくなっているように感じる。感受性なんてひとつのバロメータでしかないけど、慌てたり焦れたりしているときには方向性のこととか考えられなくなるし、そうすると感受性があった頃よりそれに対処できているということもない。やっぱりいかに平常心の時間を多く作ってそれを制作に注力できるかという勝負になってくる。せっかく作った調子の良い一日をバイトに奪われている場合ではない。しかし、これに不貞腐れることなくしっかり睡眠時間を確保してまた調子の良い明日を迎えるのが大事。それができれば今日は無駄じゃない。
もういよいよ「僕には時間がない」。※君には時間がある
明生は今日正代に外掛けで勝った。柔道であれを見てもたぶん何も思わないが相撲でみるとうまいと思った。
一瞬の隙をついて出す技巧。技巧を入れるタイミングにも技巧があるという構造。

20230719

日記160

邂逅と会合

2023/07/18 昨日
スタバを出た後、ダンダンでちょっと飲む。レトリーバーが休憩にくると座っている人間皆の目がそこに集中する。カネコアヤノを聞きながらちょっと飲んだあと、飲みながら帰る。買って帰ったスパイス鳥の胸肉を食べ、さらに罪作りなラーメンを食べる。めちゃくちゃしてやれと自暴自棄になってもう一回ラーメンを食べる。おそらくストレスが溜まっているんだと思うが、こんなことをして良い理由にはならない。案の定、夜中に胃腸の不快感で目が覚める。水を一杯飲んで寝る。
すごいアホなことをしているがさすが自分のしたことだけあって気持ちはわかる。最近はこういうアホなことをしていないのだがそろそろ頃合いかもしれないので気を引き締めよう。べつにこれくらいの馬鹿なことはやっても問題ないのだけどやらないにこしたことはない。

2023/07/19 今日
バイト出勤日。昼食にフカヒレあんかけチャーハンを食べる。珍しさ以外に何もなし。あんかけ部分はともかくチャーハンはきゅうきゅうに米が詰まっていておいしくなかった。
今思うと社食も美味しくない安くない空いてないで何が良い職場だったんだと謎が深まる。まあ、良い職場でなくても働かないといけない身の上だったというだけの話か。そしてその境遇自体は今も変わっていない。ただ今はわるくない環境で働けているだけ。
定時で即帰りしてメトロンズの公演のために赤坂まで行く。早く着いたし腹も減ったしで蕎麦と親子丼のセットを食べるとお腹がパンパンになった。みよたと同系列の店みたいで名をみまきという。ひそかに気になっていた穴子天丼を注文したのだが、解凍が追いついておらず提供に15分以上かかるとかで、仕方なく親子丼にしたのだった。
飲食店でぐだぐだになっちゃうときってあるよね。腹が減って気が立っているときはともかく、落ち着いて思い返したり、冷静な状態であればそういうタイミングに出くわすと面白い。問題は飯屋には空腹で行くことが多いということだ。
メトロンズの公演は面白かった。普通とは? 普通って何? というどこまでも後退していきそうなテーマだったが、随所に笑いを挟みながら、しっかり話を展開していくのはすごい。最後、普通じゃないことをさも普通そうにしている大きな三角形に包まれる小さな三角形の様子が可笑しかった。普段画面越しで笑わせてもらってる芸人の実物を間近で見れたのも良かった。それから笑いに逃げるということをせずに、「普通」を持ってることでそれが土台になってコミュニケーションが円滑に進むという良い側面と、「普通」を振りかざすことでそうではないものに対して意図せず暴力的な接し方をしてしまうという良くない側面との両方を描いていて立派だと思った。そしてその場に居合わせた人数のバランスによって「普通」というのは簡単に裏返るということをわかりやすく示して終わる幕引きも気持ちよかった。それでも5000円は高い。1000円で配信が見れるらしいので配信で見るのがおすすめ。
無料でyoutube公開までしている。べつにファンじゃないし、そこまで面白いかと言われるとそんなことはないのでそれで十分だ。演劇に挑戦しているお笑い芸人というのが面白い。なんであれ挑戦は良いものだし、それを見られるのは楽しいことが多い。
サルゴリラ赤羽は友達がいないと言っていたが、しずる村上とサルゴリラ赤羽の関係が友達ではないのだとすると、普通に考えると二人は付き合っていることになるが、サルゴリラ赤羽がしずる村上の異常なポテンシャルを認めて徹底利用しているとも考えられる。友達がひとりしかいないと、普通は「友達がいない」ということになるのか。そんなことはないと思うけどな。
ゼロとイチとのあいだにものすごく大きな差があって、その両方ともが「友達いない」で括られることになるのでそこに違和感があるという話。
酒を飲まずにまっすぐ帰って家で日記を書く。今日はバカなことをせずに寝ることにする。

20230718

日記159

交差位置と昇降場所、屋根と旅客

2023/07/17 昨日
16時すぎまでスタバにいた後、落とし物を見つけるため落とし物センターに電話する。ルミネエストにはなかった。小田急に確認するために下北沢駅の窓口で聞いてみるとそれらしい鍵が見つかったとのことで、登戸の落とし物センターまで受け取りに行く。他人の空似ならぬ他鍵の空似だったらどうしようと思って快速急行で一気に登戸に向かう道中も気が休まらなかったが、ちゃんと本人もとい本鍵だったので、こりゃラッキーと思った。
座って移動したかったので各停に乗って表参道まで行く。ちょっと服を見て、みよたという蕎麦屋に夕飯を食べに行く。この店は空調の効きが悪いのか外と同じか風がないだけに外よりも暑く、味はともかく食事の体験としては過去最低レベルだった。値段もそこそこに抑えていて頑張っていると思しき蕎麦屋だったので残念。100円高くしても良いから空調設備をちゃんとしてほしい。
表参道で二時間ぐらい仕事をしてから、酒を飲んで帰る。氷結無糖のシークヮーサー味は駄目な味だった。元が無味に近くていい感じなだけに、香り付けに失敗して余計なことしてくれた感が他より強い。自分は無味な飲み物を好む傾向がある。水に近ければ近いだけ良いという価値観。酒は氷結無糖のレモン、コーヒーはネスカフェクリアテイスト。
帰宅後、なんとなくテレビをつけたらNHKで街角哲学インタビューみたいな番組に釘付けになる。「あなたは何のために生きていますか?」という一問だけを用意し、街角で見た目がちょっと派手な人にインタビューしている番組。ストリートでディレクターが頑張っていてかなりの力作だと思った。
愚かにも深夜の時間帯にラーメンを食べる。三連休が終わってほしくない、終わらせたくないという無意識が、インスタント麺の袋を開けさせたのだと思う。

2023/07/18 今日
在宅バイト。つねに締め切りに追われている感覚になって落ち着かない。落ち着かないとつい手を動かして働いてしまう。これは好悪はともかく循環に入ったとみていい。洗濯機を回す。大相撲を見る。打ち合わせの時間とかぶってしまい明生と錦木の一番は見逃してしまう。霧島と宇良の結びの一番は力戦で良かった。見終わってすぐLUUPを使ってクラシックのほうのスタバに行く。仕事を2時間ほど進める。日記を書く。

20230717

日記158

自由が丘納涼盆踊り大会

2023/07/16 昨日
買い物に行くことにするも暑すぎるから外に出られないと思って新宿ルミネに行く。家から駅までの5分とない道を歩くだけでも汗が吹き出す。昼飯を食べていなかったのでルミネ7Fのレストランフロアに行くと、15時前だというのに全店舗に待機列ができていた。悔しい思いをしつつ小田急改札出口ちかくの「わをん」というチェーンの居酒屋兼定食屋に入って唐揚げ定食を食べる。三元豚のロースカツカレーは不評のようだったが、だしが入っているカレーうどんのカレーに近い味で私はわるくないと思った。唐揚げ定食もふだん醤油味ばかり食べていることもあって塩麹味が鶏の味を潰してしまわずに美味いと思った。私は食事における微妙な差がわかるつもりではいるがグルメではないから多少の失点には目を瞑ることが多い。味の微妙な差よりも時宜にかなっているかを重要視する。熱い料理は熱いうちに、冷たい料理は冷たいうちに食べるほうが微妙な差よりも優先されるはずだと考えるし、もっというと自分の腹具合より優先されるほど大きな差は店で提供されるレベルの料理にはほとんどないはずだと思う。お金をたくさん払い、時間を使ってその場所に行き、もっとも良いタイミングで提供された料理を食べるという行動にはコストがかかる。そのコストに見合わない量の満足しか得られないと素で考えているというのが、私がグルメではないということの一番の理由だ。実際、腹が減っていたら大抵のものは美味い。飯が美味くないというのは単純にお腹が減っていないだけだと思う。飯を食うことに多くのコストを払うんじゃなくて、何か違うことをして腹を空かせてみたらどうか。
食文化を解さない健啖家の弁にはなるけれども、喫食にはほかの創作物より低い地位しか用意できない。目指すべき高みがあり、そこに到達しようという試みには思えないからだ。美食家に言わせてみれば当然、高みというのはあるだろう。そしてその美食家が本物であればあるだけ、それはほんの僅かな差異・微妙なちがいだと認めることだろう。その微妙な差に大きな変化を読み取るというのが美食家の仕事に違いない。そして、自分の得られる幸福を最大化しようとするのは、立派な生活の送り方には違いない。人が得られる満足感というのはその人の持っている小さな脳味噌のなかにしかないということを考えると、喫食にそれを持ってくるというのは理解できなくもないことではある。だが、ほんの少しの差に注意することができる鋭敏な感性をもっていて、なぜ食にそれを求めるのかというのが理解し難い部分として残る。飽食の時代にあって、あくまでも食にこだわろうとするのは、つまりそこに大きなコストをかけようとするのは、本当に微妙な差を享受したいからなのか。ひょっとすると、贅沢をしたい、贅沢をするというステータスを得たいという気持ちがそこに紛れ込んでいないか。素直で正直な人はおそらく、いささかなりとも紛れ込んでいないとは言い切れないと答えるだろう。それが旨味のひとつなんだと。そうすると、微妙な差異はたちまち潰れるはずだ。腹が減っているという境遇が、ソースの味の変化を塗りつぶしてしまうように、そこまで極端に塗りつぶさないにしても、高みにいれば高みにいるだけ、つまり変化が微妙であればあるだけ、せっかくの微差が埋められてしまうことになるのだ。
他にあり得る回答としては、食文化というのは社交的な食事のためにこそあるというものだ。うまくすればそれを話の種にもできるし、直接食事への言及をしなかった場合でも、美食は場の雰囲気を華やいだものにできる。つまり効果的な道具ということで、社交上の潤滑油として美味しい食事が存在するのだという考え方だ。これは貴族が新作のオペラを話題作りやサロンでの話題に乗り遅れないようにするため見に行くというのに近い。ここで注目すべきことはただひとつ、食事はその人の目的になっていないということだ。食事を通じた社交の方に目的がある。これは美食家よりも自然な意見だと考えられるが、同時に、わざわざ取り上げるに足る文化でもないということを明らかにしている。これはなにも食にかぎったことではなく、オペラにしても、それがもし話題の種として扱われることしかなかったなら、いかに有用な道具であろうと創作物としては取るに足らないものと考えて何ら問題ない。
ある特定の創作物に対して、特権的な地位を与えようとすることのほうがおかしいのかもしれない。しかし、自分自身の心を動かした創作物に接するとき、特別な地位を与えたくなるというのは、不思議なことではなくむしろありきたりのことだ。
だから結局、問題は次のようになる。美味い食事を摂ったときに得られる感動は、その他の創作物を圧して自らのスペースを確保し、自立するほどのものか。
私としては、これには「否」と答えるしかない。井之頭五郎(『孤独のグルメ』の主人公)など、一部の変態的嗜好の持ち主にしか、「応」と答え得ないのではないかと思われるが、それにしても、他に楽しいことを何も知らない寂しい趣味人としてのみ、かろうじて可能だというにすぎない。井之頭は好奇心の持っていきどころが三度三度の食事しかないという意味で孤独なのだ。しかし美食家として彼のあり方は正しい。美食家がいるとすれば、その人は孤独にならざるを得ない。美食家ではない人は、もっと違う場面に注意力を振り向けるべきだというのが、平板で単純だがすこぶる文化的だと思う私の意見だ。
これはべつに美食にかぎったことではない。どんな創作物や自然物に対してもそれに嗜好性を持って接するのであれば、その山を登るのは孤独な営みにならざるをえない。登らないのであれば、その入り口近辺を物欲しげにうろうろし、登っていく人の背中を指をくわえて見ている場合ではないはずだ。コミュニケーションが目的で、コミュニケーションをしたいなら、堂々と、この山をだしに使ってコミュニケーションをしたいのだと言えばいい。何でも正直に話すというのは大抵のコミュニケーションにはしっくりいかない方針なのかもしれないから、これは適当なアドバイスだとは言えないかもしれないが、健啖家で美学者の人格を借りて言ってしまえば、「そんなの知らない、コミュニケーションの方針などどうでもいい、面白いもの楽しいことを追求し、本当に面白いと思うことだけやってるほうが、愚痴のこぼし合いをして間を埋める過ごし方より絶対いいだろう」ということになる。
それにコミュニケーションと一口に言っても、社交平面上のものもあれば、もうすこし込み入った生活圏内のものもあれば、形而上学的な宙に浮いたものもあるわけで、どのコミュニケーションを推進したいかによって山登りの必要が出たり出なかったりする。だから、どんな相手とも対等にコミュニケーションをとりたいと思うのなら、せめて麓までは登った経験があるほうが便宜だ。音楽や、絵画などの視覚芸術がとくに裾野が広いようだ。大体その人の目につくものは何でも対象になるはずだと思う。しかし美食だけは趣味としてふさわしくない。それは十中八九、ブービートラップだ。
食事後にルミネの服屋を見て回る。グレゴリーのデイパックを見たり、マーベルストアでスパイダーマンのグッズを漁る。ショッキングピンクのトートを発見し一目惚れ購入する。スパイダーハムのイケてるバッグ。途中、明生と御嶽富士の一番だけNHKプラスで視聴する。明生の勝ち。当然嬉しいのは嬉しいが、御嶽富士にも頑張ってほしい思いがあり、喜びきれないところもあった。
服屋終了後、新宿の地下を通って副都心線に乗って自由が丘へ。6時近くだったがまだまだ全然暑さが引いていなかった。チョコジェラートの専門店でジェラートを食べる。昔、奈良そごうの1Fでジェラートを買ってもらって食べるのが楽しみだったのを思い出すので、ジェラートはこれからもずっと好きだろうと思う。そういう記憶を残せる可能性があるというのはすごいことだ。これなども、味・美味の感覚以前に「おいしさ」のイデア、そのレゾンデートルがあるということの証明になる。もちろん自分にとっては、ということだが、舌は誰とも共有できないのだから同じことだ。肝心のジェラートはトリプルで注文する。チョコチップ・コーヒーチョコ・カカオが濃いチョコの三種類。暑い外の道を見ながら涼しい場所で食べるジェラートの美味しかったことと言ったらない。これなんかも、(以下略)。
氷結を水のように飲み干して盆踊りに参加する。駅前ロータリーの喧騒は盆踊りに向いていると思うが、コース取りにやや難があった。前日に参加した新宿二丁目の盆踊りに軍配が上がる。駅前だから仕方ないとはいえ、結構な頻度でけたたましく鳴る電車の警笛も、踊りへの集団的没入を阻害していた。
盆踊り終わりにピッツェリアに入って牛ひき肉のピザを食べる。一番外を歩くのが少ないコースで帰宅。どこかでポケットに入っていた鍵を落としているのに気がつく。意気消沈してシャワーで汗を流し、前日同様疲れ切ったのですぐに寝る。

2023/07/17 今日
いつもの出勤時間と同じ時間に起きるが、今日は休日なので幸福な二度寝をする。昼前の暑くなってくる時間に家を出てスタバに来る。日記を書こうとすると、体調が良すぎるせいか無茶なテンションになってはまり込んでしまいいつの間にかまあまあの時間が経過する。実際、今の時刻は14時41分。仕事には行き詰まり感がある。せっかく調子良いんだからふらふら迂回して打開孔を発見しないと。
でも先に書いておきたいことがあった。『君たちはどう生きるか』のこと。
この映画はこれまでの宮崎駿映画と同様、想像力を駆使して虚構世界を描いた作品だと思うが、その想像主体がこれまでは作者・宮崎駿のものだったのと違い、今作は眞人の方に鉛筆が置かれているように見えた。たとえば、なぜ「鳥」なのかというのを、宮崎駿の生活圏にある身近な問題から取り寄せたものだと考えるということを、見ている最中の自分はしていた。都内でも、飼育用に外から持ってこられたインコがその生命力の強さで繁殖し、数を増やすというニュースが聞こえてきて久しいし、実際に世田谷区の住宅街を歩いているとき、電信柱に群れている十数羽のインコを見たことがある。近くで見たものや、身近な環境にあるものから着想を受けるというのは想像世界にはよくあることだ。ただあまりにも身近だし、すぐそばにあるほど近いから、写りとして若干浅薄に見えるというのはある。そのせいで、「環境問題」というカッコ付きの問題意識が見え隠れし(見え隠れと言ってもそれを見る自分自身の主観においては「見え見え」と言いたくなるようなものだ)、そういうメッセージは今は良いだろう、という反感を覚えた。世界が「ひとつひとつの問題を順番に解決していくからそこに並べ」というように、われわれに理路整然と問題の解決を要求するわけではないし、そういうふうにできてはいないのだから「今は良い」ということも本当はないのだが、反発する気持ちというのはそういう正しい意見とは関係なく生じてしまい、映画の受容におけるスムーズさ・滑らかさを妨害する。そして、これは『君たちはどう生きるか』というタイトルにも関わることだが、年長者が年少者に送るアドバイスというのは難しいものになりがちだ。反感や反発は充分予期されるし、そういった反感・反発をまったく覚えない人よりも、そういった反感や反発を本人としても飼いならす必要がある人にこそ、伝えたいメッセージがあるというジレンマもある。

まずは眞人の体験を鑑賞者自身の体験に据えることだ。この映画の白眉は何と言っても冒頭からタイトルコールまでの圧倒的な切迫感だ。生きてきた年数から言っても、起こっていることの光景から言っても、誰のどの体験と比べてもこれ以上の非常時はない。当時、実際に誰にでも起こりうることだっただろうし、同じ境遇に置かれた人物が他にいてもおかしくない。それでも、自分の母親が、病気がちの母親が入院している病院が焼けているということを想像してみようとするとき、そういった誰にでも、他にも、といった可能性のことなどは、瞬時に後景にしりぞいていってしまう。

眞人には友達がいない。これは作画演出レベルでも明らかなことだ。いわゆるモブキャラを完全にモブ扱いしている。この描き分けはこれまでのジブリ映画には見られなかったものだ。母のもとに急ぐときに道に大挙する群衆を、眞人の目線では同じ人間扱いしていない。非常時だから、そのとき何よりも大事な目的の妨害要因としてしか人々を見られないという言い訳もこの場面だけは成り立つ。
しかし、疎開先の学校でも同じことで、田舎者の群れとしてしか眞人は学友を認識していない。眞人にとっては自分の周囲の人間だけが、あるいは父親が認めた人間だけが、まともで見られた格好の真人間だという認識があるのだと考えられる。
そうであるとするなら、眞人からの見え方が、この映画の外見にも反映されているということになる。このことは、この映画における想像世界の創造主体は眞人だということの傍証ともなる。

眞人は生きていくために必要なことをしている。母親が焼け死んだという事実に対抗して、彼女がじつは火を操る魔力を持った特別な人間だったと考えることは眞人にとって必要な考え方だ。同じ扉から出ていくことはできなくても「じゃあね」と言って別れること、べつの扉から彼女が出ていけることは、眞人にとって必要なイメージだ。

生きるために必要なことをしている。それは誰にでもあることだし、人によって必要とする物事や想像上の世界というのは異なる。できることも当然ちがう。人によって想像できることも異なる。置かれた境遇や暮らしている環境がちがうからだ。
支離滅裂な想像世界は眞人の作によるものだ。母親から残された一冊の本を読んで感じたことをもとに創造された世界。鳥たちは、友達のいない眞人にとって親しみを感じられる存在だった。鳥たちには、よく観察してみると、不気味で何を考えているかわからないところもある。しかし、鳥たちは眞人にとって、興味を持って接することのできる対象だった。もっとも印象的な鳥のアオサギは言う。
「友達を作らないといけませんぜ」
この映画は眞人の想像世界ではなく、眞人の暮らしている世界で終わる。眞人の世界の見え方が変わったのかどうかはわからない。その場面には家族しかいないからだ。変わったのかもしれないし、変わっていないのかもしれない。しかしそれはどちらでもいいことだ。それは眞人の世界の問題だから。いずれにしても眞人は玄関の扉をあけて外へ出ていく。戦争のあいだじゅう暮らした家を出て、東京に帰るのだ。
宮崎駿の作ったものを見返しても、眞人ほどつらい目に合わされた登場人物はいない。今作を制作するにあたって宮崎が受けたであろう創作の苦しみやつらさを想像すると頭が下がる。『もののけ姫』のアシタカは明らかにつらい目にあった人物だが、彼はそれを乗り越えるだけの強さも与えられていた。物語冒頭の受難において、彼は少なくとも子供ではなかった。『風立ちぬ』の二郎が受けた苦しみは、大人だから持ちこたえられるという性質のものではなく、単純な比較はできないが、それでも、人がこの世で受ける最大の苦しみを年端も行かぬ少年に負わせ、その様を描くというのは、宮崎ほどの作家にとってはほとんど不可能事にちがいない。今作を成功作とみなすか失敗作とするかは措いても、映画全体を通じて眞人の主観にひたり付いてそこから一時も離れなかったことは称賛に値するし、その作業には全力を尽くさずにはいられなかったはずだ。一方、見る側にとっても、全身全霊を傾けて制作された作品に対して失敗作と言うのは、とても気の引けることだろうと想像する。だからこの映画をみてそういう意見を持つに至った人にとっては、とても残念なことだったと言わなければならない。
私は、宮崎駿はこの映画をやり切ったと思う。音楽と主題歌、それから演出の細かな部分は気に入らないが、それだけで失敗作だとしてしまうのは惜しいほど、明確に挑戦していて、しかもその挑戦の大事な部分についてはやり遂げているというのがこの映画を見た感想だ。

自己模倣だという意見については、そう見えるという部分だけで自己模倣だと言うのではなく、すぐには目に入らない部分・設定についても自己模倣だと指摘してほしいと思った。
たとえば、母親が病院にいるというのは、『となりのトトロ』の設定と同じだ。急がなければと気だけは急いて、動顛してすごく慌てているのに靴を脱いで家に上がり、着替えをする滑稽で同時に物悲しい場面は『風立ちぬ』にも見られた。半分刈り上げの髪型は『崖の上のポニョ』の宗介のヘアスタイルを彷彿とさせる。そういった符号が喚起するのは、作者論的なレベルでの自己模倣などではなく、彼らにも同様の不幸は起こり得た(が、幸運なことにそうはならなかった)ということであるはずだ。映画に「こう見ろ」とか「こう見るのが正しい」というものはない。しかし、成長するにつれジブリ映画が公開されていき、つねにとなりにジブリ映画があったものからすれば、似たシーンが出てくることを殊更にあげつらって「自己模倣がひどい」と賢しらな意見を口にするのは右腕を切り落とされても文句が言えないことなのではないか。つまらないという意見も、率直にそう思うならそれで良い。しかし、曇りなき眼で見定め決めるという気概は持ってほしい。君たちはもう子供ではないのだから。

20230715

日記157

カラオケ学部併設

2023/07/14 昨日
『君たちはどう生きるか』を見た。夜、空襲のサイレンが鳴り響くカットから始まり、主観のカットを交えながら火事に向かって行く場面につながっていく。そして、結果がどうなったかを主人公の年齢には不似合いなほど抑制の効いた声で告げるところでタイトルコールが入る。これ以上ないほど期待感が高まる出だしだったが、鑑賞中の気持ちの盛り上がりとしては本当にこれが最高値になってしまった。
私たちはいつまでも「ジブリ」「宮崎駿」と言っていてはいけないというメッセージを受け取った。作品の持つパワーはジブリ映画ではもっとも弱い部類だ。良くなかったところとしてすぐに思いつくのは、つなぎのシーンが多く、しかもひとつひとつが長いので冗長という点だ。しかも引きの絵で、カメラだけ移動する止め絵が多用されるので、次の展開がどうなるのかを気にする前のめりな鑑賞においては、かなり焦らされる。焦れているだけで済めばまだいいが、そうなったときに、物語から離脱して他のことを考えてしまったり、集中力が失われて主人公に付いていくことが難しくなる。これは当然鑑賞側の集中力の問題ということもあるので、一方的に批判するわけにはいかない要素でもあるのだが、鑑賞者側で一度でもタイム配分の申し分ないアニメ視聴体験をしてしまうと、そのテンポ感にすぐ慣らされて、それを基準として持ってしまう。つまりこの映画はそういった映画に比べるとタルいのだ。そして、その申し分のないアニメ体験というのは『風立ちぬ』以前の宮崎駿映画によってもたらされており、それにアニメ映画業界全体が追随した結果、どこにでも見られるタイム感覚となっている。
野球に詳しくないのにこういう例えをするのもどうかと思うが、昨日寝しなに思いついたのでそのまま使ってしまうと、新作ジブリ映画にかぎらずどんな映画でも、それを鑑賞するというのは、打席に立って投手の投げる球を待ち受けるような心境でそうすることだといえる。バットを振りたい、ヒットを打ちたいと思わせ、ホームランを打つ夢を見せてくれるのが良い投手の条件だ。
好きな監督の映画を見るというのは、投手の癖を知っていて、投げるコースが大体わかっている打席のようなものだ。コースだけでなく球速についても、変化はあるが似たようなものになるので、投手についての知識があるとその分ホームランを打つイメージが明確になる。
しかし投げるコースが全然変わらない投手というのは、それはそれですごいコントロールなのだと思うが、よっぽど速い球だったり鋭い変化をさせないと成り立たない。同じコース・同じ球速を繰り返すと、打者はそれを打たせ球だと感じるようになる。そうすると途端にホームランを打つ夢がしぼんでしまうからだ。
話の前提が長くなったが、この野球の例えにおいて今作は、まったく同じコースでガクンと落ちたスピードの球ということになる。コースはバッチリだったから、ほとんどの打者はほれきたとばかり思いっきりバットを振った。振りながら「あれ?」「やばい」と思っただろうと思うが、振り終わってもまだボールがミットに届いていない。そうするともう一度バットを構えようとするだろう。しかしもう一度構えたときにはさすがにボールはミットの中に収まっている。球速がゆるやかなだけによく見ることのできた軌道には既視感があるので、投手がまったく同じコースに投げたと感じるのだ。
打者の主観からすれば打たせ球と投げたということで批難の対象になる。ホームランを打ちたいのに打てなかったことの腹いせに、同じコースだったという理由をとりあげて批難するのだが、これは見当外れである。そもそも同じコースではない。そのうえ球速はぜんぜん違う。さらに勘違いしてはいけないのだが、ホームランを打たせるのが良い投手ではない。
すでにバットを振ってしまってから、「ああ、ホームランを打ちたかったな」と思わせ、しかもその時間が長く続くのが今作『君たちはどう生きるか』の特徴だ。この投球については、球速が落ちたと捉えるのか、球速を落としたと考えるのかで評価が分かれるところだろう。これについては両方あるのではないか。落ちただけでなく落としたとも言えるし、落としただけでなく落ちたとも言えるが、これまでの投球からすると驚くほどの変化があったということだけは確かだ。
自分にとって良かったところも挙げておくと、主人公の「主観」がさらに強くなっているように感じられて面白かった。三人称の視点を脱して一人称で見ることができれば、この映画は失敗作ではなく傑作だといえるかもしれない。一人称で見せるということについて必ずしも成功していたとは思わないが、鑑賞者側で勝手に一人称で見ることはできる。行動に先立つ説明があるはずだと考えるのはドラマの見すぎだが、いずれそれが明かされると考えるのも似たりよったりということになる。

2023/07/15 今日
朝から渋谷PARCOにきてスタバで日記を書く。この後PARCO劇場で『天保十二年のシェイクスピア』を見る。
予想に反していたのは、20分の休憩を挟んで4時間近く上演時間があったことで、見ながらとにかくお腹が空いてしまった。思えば昨日の映画も途中からお腹が痛くなって集中しづらかった。コンディションを整えるというのは重要だという当たり前のことを思い出した。もちろん最低限はコンディションを整えているし、そもそも忘れてないのだが、それでも思い出した。
演劇調の演劇で内容はともかく見かけは面白いと思えなかった。休憩時間に友人が後ろに座っていたことに気づき、終演後ねぎしに遅めの昼ごはんを食べに行く。麦飯を腹いっぱい食べたいという上演中に見た夢を即刻叶えたかたち。三杯もおかわりしたのでお腹が苦しくなった。ねぎしにいってお腹が苦しくならずに店を出たことが一度もない。その後RAGTAGでTシャツを買う。kebozというブランドのオンスがある黄色のオーバーサイズのTシャツ。Too BIGかもだが、そういう気分だったので流れに身を任せた。
その後PARCOに戻って屋上ルーフトップで日記の続きを書いて、仕事を進めようとするが開放的な気分に当てられてちっとも進められず。ツーリストに紛れてゆっくり過ごす。
7時近くになって、入日が済んでからセミが鳴き始める。今年始めて聞いたセミの声だ。

20230714

日記156

犬の木

2023/07/13 昨日
スタバに行った後、酒を飲まずにまっすぐ帰宅。家でもやし食。大粒納豆も2パック食べる。映像の世紀バタフライエフェクトを見る。JFKの回。最後の数カットを家族で過ごす幸せな場面にしているのは残酷さが引き立つ。

2023/07/14 今日
在宅バイト。打ち合わせの進行役をつとめる。良かったと思いますよというフィードバックがもらえて地味に嬉しかった。他にも締切のことや期限感のことを意識する習慣がついてきた。出勤するときも時間に遅れないように30、40分ぐらい早めに家を出るのが当然になっているし、そっちのほうが道中何も考えずにリラックスできるという効果もあることを知った。昔はもっと気合い入れていい加減な生活をしていたのに最近は完全にたるんでいる。
今日も明生は勝てず。相手は若元春。勝ってほしい力士がいる状態で大相撲を見ると必ずしもうまくいかないから悔しい思いをする。もっと力のぶつかり合いを見るとか、気合の入った立ち会いを期待するとか、サッカー観戦よりも一歩二歩三歩引いた見方が適しているのかもしれないと思ったりした。
ザ行ゼロで渋谷PARCOへ。野田地図の『THE BEE』を見る。これにはノックアウト寸前。俳優の演技力というのはリアルさというそれらしい響きのなかへ向かって漠然と進んでいるのではなく、他(見るもの)を圧倒する存在感のほうへ歩一歩あゆんでいくものなんだと感じた。俳優・野田秀樹を世に知らしめたという謳い文句があったが、まさにそうだ。演技に説得力があるとかそういう次元の話じゃない。ラストにむけての盛り上がりとその異常なエネルギーのしぼみ方が、ピークエンドの法則を無視しているのでやや一般ウケしづらいかもしれないが、そこに演劇人の職業倫理を感じる。話自体は単純で、自分などはよく妄想で、大事な人が通り魔にあったらどうするかというシチュエーションを思い浮かべて、その通り魔に復讐するということを考えたりするが、そういう妄想を浮かべたことのある人にとっては馴染みのあるテーマだと思う。ただ、この劇が秀逸なのは、主人公を大事な人が殺された殺人の被害者にすえるのではなく、今まさにそうなろうとしている立てこもり犯の被害者にすえるという設定の部分で、復讐するにしてもその成否がどうなるかというところに注目させるのではなく、復讐パートを被害に対してリアルタイムでゆっくり進めることで、互いにエスカレートしていく暴力が主題になっているところだ。マクロで見ると戦争の原理のようなものに肉薄していると思うし、個人のものの見方に留まると、暴力というかたちでの一個人のエネルギーの横溢というところに完全にピントが合っている。まともな部分(それは蜂への恐怖心というありきたりの普通さとして表れている)を克服して、次のステージに進む場面は、方向が暴力ではなければ個人の達成と捉えて何の不思議なこともないし、プレゼントの交換が失敗することで戦争状態に突入する経過には戦国大名同士の失敗した同盟交渉という感がある。大きい枠と小さい枠とを見る方の感覚で自在に行き来しつつ、どちらから見ても違和感がない。暴力がルーチンワークになっていく描写によって明確にエネルギーが落ち、物語の幕引きにも関わっているというのもよく出来ている。女の諦めに若干の違和感があるとはいえ、女はもっと抵抗するはずだというリアリズムはお門違いだろう。生命を脅かされるという事態に直面して勇気を奮い起こせないのはおかしいというのは、むしろ演劇的なリアリズムに考え方が汚染されていると考えていい。
「私は大切な人が不当に奪われる事件の被害者に向いていない」という野田秀樹の絶叫はこの演劇の原点にあたる台詞でもあって、これを突き詰めて考えるうちに加害を(それによって相手側から受ける復讐により被害を)エスカレートさせるところがいかにも過剰で、過剰な分だけ大いに「見もの」になっている。たとえば「演劇は心の襞に触れるものだ」という意見があるとして、それに対して「そうだ」と思う反面、「しゃらくさい」と思う一面が人にはある。この劇は、そのかすかな振動を見逃さず、ひっ捕まえて有無を言わせずに増幅させていくような暴力装置だと思う。それを鎮めるのは外部からの救済や死んだ良心の復活などではなく、ルーチンに堕した行動がいかにもつまらないもので、単純に見ていて退屈、飽き飽きさせられるという事実による。その経過はこうだ。破壊の欲動は興奮を巻き起こす、然り。その興奮は絶頂を迎える、然り。何度も同じ絶頂を迎える、然り。破壊できるものがあるかぎりいつまでも破壊できる、然り。破壊はそれ自体で面白いものである、否。
上のようなかたちで暴力や悪を突き詰めて実践することでその魅力とつまらなさを順番に描き出すことに成功した演劇だ。野田秀樹はまくしたてるような早口とアスリートと形容するしかない豊富な運動量で、この野心的な演劇を成立させるおそるべき役者だった。
このあと『君たちはどう生きるか』を見に行く。場所はTOHOシネマズ渋谷。新しいジブリ映画を映画館で見られる経験というのはこれで最後だと思うと特別な感慨がある。じつは『風立ちぬ』を見たときにも似たような感慨があったものだが、今回はそれにもう少し迫真性を加えた感じだ。あとは情報を制限する広告方針もあって、何が出てくるかわからずにわくわくするというのもある。このワクワク感も映画体験の一部だと考えると、もう充分に2000円(映画料金はまた値上がりした)のもとを取っている気になる。

20230713

日記155

東急ビルの低層化

2023/07/13 今日
在宅バイト。大相撲、今日も明生は勝てず。錦木が強い。大相撲の見始めが先場所からで、錦木は序盤成績が振るわなかっただこともあり全然注目してなかったのだけど、こんな力士いたっけ?というぐらいの変貌を遂げている。強さの面でもそうだが、単純に身体の大きさも一回り以上大きくなっているような印象を受ける。こういうこともあるのだと面白い。三役はすでに何回か負けていて、5勝は平幕力士だけ。群雄割拠といえば聞こえはいいが、横綱不在で大関もひとり、ちょっと物足りない感じもある。明生が負けているのもちょっとつらい。
昨日の演劇『笑の大学』のことをあらためて考えてみると、瀬戸康史の相手役・内野聖陽が役に見合った動きをできていなかったというのが、芝居全体がイマイチだった理由になる。ふたり芝居というのは、ひょっとすると一人芝居よりも役者一人の占める割合が大きいのかもしれないと思った。一人芝居の場合は、客の方で演者にアジャストしようとする結果、場内全体を巻き込んでいけたり、インタラクティブな演出をこちらで許容する意識が働くということがあって、こちらから歩み寄れたりするものだと思うが、二人芝居は二人の役者だけで完結できるし、こちらもそれを望んでいるところがある。舞台の上に描かれるきれいな円を求めていくときに、それがつぶれていたり、薄かったりすると、物足りないと思う気持ちは強くなる。成功した二人芝居というのは、二人の役者による相乗効果を実感できるものだと思うが、それは役者間で同程度の力量がないと成り立たないものだと思う。あるいは、一方がもう一方を強烈に引っ張ることで、本人たちで達成できる以上のものを引き出されている現場に居合わせることを面白さとすることもできるかもしれない。瀬戸康史が内野聖陽を引っ張ることができれば、面白い芝居になったかもしれないが、稽古期間が充分とれなかったのか、関係性がないのかわからないが、内野のレベルに瀬戸が合わせるという、もっとも悲しいかたちの喜劇になっていた。これはキャスティングのミスというか間違いだと思うが、二人芝居における役者のキャスティング以上に重要なキャスティングはないのだから、それができていないのはこの演劇の責任者の失敗だと思う。高いお金を払って見に行かずに済んで良かった。本当は逆の後悔ができればいいなと思っていたので残念だ。
ところで、自分が役者として舞台に立った経験から言うと、こんなふうに役者の力量についてごくあっさりとあるとかないとか言って文章を書くのは気が引ける部分もある。ただ座って見るのと実際にやるのとでは、すべてのことについての把握の仕方が全然異なるというのは、はっきり明言しておかないといけないとも思う。簡単に言うけど、そんなんできないよ? と言ってみても、そんなのわかっていると返されて仕舞いだけど、やっぱり大きな前提としておくべきことだ。
それでも、あくまでも面白い作品を自分は見たいと思うから、ただ座って見るだけの視点から、これはこうだった、あれはああだったということを言っていきたい。瀬戸康史とは共演しても良いかなとは思うけど、内野聖陽とは共演できないと思ったというのが、今回の演劇を見た一番の感想だということになる。そのことを前者に力量があって、後者には力量がなかったと言い換えても問題ないはずだ。とにかく見る目のある役者である自分にそう思わせたのだから、一面でそれは真だ。そもそも脚本があまり良くないような気がする。戯曲として読んでも面白くないのは間違いない。役者の力量によって見違えるように面白くなるというのは可能性として残るからなんとも言えないところだが、とくに検閲官の台詞が、作家に良いことを言わせるための装置の台詞にしか聞こえなかった。内野聖陽をしてそうとしか聞こえないのだから、たぶんとても難しい役なのだと思う。これでも一応役者の端くれなので、脚本が良くないというほうに一票。
まあ、冗談は冗談として、小説を書いていると、自分の力量のことを考えないといけないような羽目に陥りそうになる危機もしばしば訪れる。しかし自分の力量についてなんていうのは、自分で自分に問うてみても始まらない質問で、まったく意味を持たない。だからそんなことに関わっていては駄目なのだが、半分自動的に考えがそこに落ちていきそうになる。
自分にとって面白い小説とつまらない小説があるというのは事実なので、それを隠して全部が面白い小説ということはできない。面白くない小説にならないように、つまらない小説にならないようにと考えながらやるしかない。
たとえば、この書き方じゃ駄目だと思ったときに、ちがう書き方をすぐに試せるというのが実作の手軽なところだと思うので、自由に方向転換をしながらどんどん右往左往したい。
しかし、今考えているのは曲線の引き方ではなく直線の並べ方なので、本当に方向転換ばかりしていては駄目。これはもののたとえということで。
日記でも何でもそうだが、言いたいことがふたつ同時に出たりするとき、それをそのまま出そうとすると弾詰まりが起きる。順番を考えてひとつひとつ出すのが良いと思うんだけど、つい同時性を実現したくなって弾の通り道を広くしようとか考えてしまう。考えるだけではなくやってみることもあるが、そうすると弾は飛んでいくどころか、真下に落ちるだけで終わる。そういうことが自分にはよく起きる。今回の日記はそれが顕著だった。言いたいことがせめぎ合う感覚があってその対処でちょっと消耗した。あきらかに非効率だ。日記だからべつにいいけど、小説でそういうことをしたくない。暴発に使って暴発を使うみたいな特殊な状況は考えられるし良いと思うが、調整の結果、銃口を広げようというアイデアは自動的に却下されるぐらいでないと。

20230712

日記154

カーブスロープ

2023/07/11 昨日
スタバのあと酒飲みながら歩いて帰る。帰宅途中でスマホを拾って交番的なところに届ける。そうです、私が善きサマリア人です。
こんな殊勝なことをしていたとは、と驚いた。しかもこんな殊勝なことをしておきながら全然覚えていなかったというところもポイントが高い。えらい。

2023/07/12 今日
在宅バイト。最高気温37度という話をニュースで知る。最近部屋が暑くなりすぎてクーラーつけても熱気がこもる。大相撲四日目は照ノ富士が休場。大関霧島は復帰。明生は宇良に負けて2勝2敗に。
管理会社に連絡したところクーラーを交換してもらえることになった。これで涼しいリビングが手に入れば良いが。
PARCO劇場に『笑の大学』を見に行く。二人芝居で、期待ほど面白くなかったが、瀬戸康史は安定感があってよかった。嵯峨谷でそばと親子丼を食べて帰る。今日は時間が遅くなったのでスタバに行かず。あと久しぶりに飲酒せず。
高画質の映像とサラウンドの音声で、実際の舞台のように映像で見られるというその仕組が一番の見どころだった。
家で日記だけ書いて寝る。

20230711

日記153

自転車使用中

2023/07/10 昨日
10時すぎまでスタバで仕事。コアばっかり書こうとするのがよくない。もっと魂から遠い場所・枝葉について書いていかないと、前作に似たものが出来上がって終わりになるだけだ。それで何がわるいという反抗的な気持ちもあるから困るが、もっと贅沢なものになるように方向づけないと後悔する気がする。純文学みたいな考え方もなじまないし、詩文を極めたいというのはちがうし、もっと直線のパーツを増やさないといけない。グネグネしたカードばっかり持っているせいでゲームが面白くならなさそう。
酒を飲みながら下北沢をグルッと回る。ダンダンで座って、夜行性の犬三匹を見ながらもう一缶だけ飲んで帰る。暑さからか終始フゴフゴ言っているかわいい犬三匹だった。試しにかわいいという感情をなくした状態で眺めてみようと思い、黙って見ていたが、酒を飲んでそんなことが可能なわけもなく、ただただニヤニヤしていただけだった。

2023/07/11 今日
在宅バイト。ちょっとのザ行。大相撲は二日連続で照ノ富士が土をつけられる展開。翔猿がねばって長期戦になったのがこたえたようで、取り組み直後の筋肉が痙攣している様子が痛々しかった。明日は霧島が怪我から復帰するみたいだが、入れ替わりで横綱が休場してもおかしくない。残念だがしょうがない。
スタバにきて、2020年頃の日記を見る。これとは違い、誰かに見せるのを前提にした文章ではないので踏み込んだ内容も多く、今の自分からすると読むのが苦しい。もう少し時間が経ったらきちんと消化されて、笑いどころの多さとして扱えて、この日記の当たり障りのない内容よりも面白く読めるのかもしれないが、少なくとも今は無理だ。今はこれで良い。もっと踏み込んで書いてもいいのかもとは思ったりするが、べつに日和っているつもりもないし、無理せず、思った通りに近い形で書いている感覚はある。行動の根っこ部分しか書いていないので、こういうところで枝葉を書くように心がけるのは今やろうとしていることに対して有用だ。
今日はスタバで良い席に座れた。テーブルがない席もあり、PC作業があるのでそこには座れないが、座れる席としては、背もたれのある椅子と背もたれのない椅子、背もたれが壁側ベンチになっていて座り心地が良い席がある。今日は壁側ベンチの席で、しかもクーラーの直下ではなく長時間居やすい場所で申し分ない。バイト後によく行く時間帯はいつも満席近いのでどこに座れるかは運なのだけど、だいたいいつも運よくまあまあの席には座れる。座ったらすぐノイズキャンセリングイヤホンを装着し、辻井伸行のショパンをBGMにして作業している。のだけど今日はイヤホンだけ付けて曲をかけるのを忘れたまま一時間以上作業していた。しかもノイズキャンセリングモードではなくアンビエントサウンドモードだったので、何も付けないよりも外音が取り込まれる状態になっていた。そのせいかわからないが、あまり進捗が良くないので、ここから2時間くらいは集中して進めたい。

20230710

日記152

覆水は盆に返らず

2023/07/09 昨日
友人と大相撲を見る。新入幕三力士、関脇三力士、横綱が勝利する初日だった。明生が朝乃山を倒すのを見てとくに嬉しかったので、贔屓の力士ができたんだと理解した。相撲視聴後、二人で麻雀をする。牌を触るのが楽しい以外は何もなかった。
駅前で友人と解散し、回転寿司を食べに行く。安い回転寿司屋の、薄くて細いマグロを食べて美味しいと言っていられるんだから、俺たちはここでやっていけると思った。美味い飯には美味い飯以上の価値はないと考える俺だからそう思うだけのことかもしれないけど。俺が思うんだからそれでいいだろう。呪術廻戦の21巻から23巻を買って帰る。
今は大相撲を見るのがイベントではなくなっている。九月場所のチケットを取りたいのでチャレンジしてみよう。

2023/07/10 今日
良いかわるいかどちらかでいえばわるい夢を見た。トラックほどのごつい車を、尊敬していない先輩芸人が運転していて、バンパーに傷をつける物損事故を起こした。冗談ぽく「事故処理で免許を貸してくれないか」と言われたので、「良いですよ」と即答した。多分これはマジで言ってるなと思ったが、先輩は立場もあるのもあって冗談の雰囲気を崩さないので、一応気を使った。このあと警察署に行って同じことを言ってくるようだったら本当のことを言ってしまおうと思っていた。なんでこんな先輩といっしょに遊んでいるんだと思ってすこしいやな気持ちになったのでわるい夢だが、起こった出来事はそれなりにリアルで日常のなかの非日常感があって楽しかった。でも事件の切り抜け方は現実の自分が考えそうな小ずるい立ち回りだったのでテンションが下がった。だから総じてわるい夢。忘れていてしまっても良かったが、なぜか思い出せた。もっと良かった夢のときに思い出せてくれ。あと、自分が芸人やってる設定の夢を見るとなんかちょっと恥ずかしい。
気を遣っているのか先輩芸人の名前を出していないので誰だったか思い出せなくなっている。こんな夢を見たという記憶はかろうじて残っている。(これを読んで思い出した)
在宅バイトは大変だった。後回しにしていたタスクが後回しにしていいレベルを越えているのに気がついて焦った。残念ながらザ行で対応。19時半まで働いてしまった。それでもこういう日にこそ出かけないとと思ってすぐスタバにきた。えらい。

20230709

日記151

ファニーボーイ発見

2023/07/08 昨日
朝起きてすぐエキウエのスタバに行く。途中の道で朝食を済ませて、到着してからすぐに仕事にかかる。1時間ぐらいやって『犬からみた人類史』を読む。そのまま帰ろうと思ったがもう少しだけと思いさらに1時間やる。
ダイエーで昼食を買ってからトレジャーファクトリーでTシャツをちょっと見る。暑さに歩く気がしないのでLUUPを使って帰宅。
帰宅後は、昼寝をしては呪術廻戦を読み直し、呪術廻戦を読み直しては昼寝をして夜まで過ごす。Wordを使ってどれぐらい小説本を作れるのかを確認する。
☑縦書き☑サイズ☑ルビ☑フォント
多分これでできる。ということで側の見通しが立ったのであとは内容に注力するのみ。
夜から街に出かける。金麦と本麒麟を片手にボーナストラックを突っ切って、西口のテーブル付きベンチを勝手にビアガーデンにしたあと、洋食屋に入ってチーズフォンデュを誂えて飲む。今日のように許容できる範囲の気温だったら夏の夜も良いものだと思った。
5年前に大事だと思っていたことの話をする。そのときの自分には影も形もなかったものが今大事だったりするので、思い出しても意味ないような気になったのだけど、パッと思い出せないのがショックで、それを誤魔化そうとひねり出した答えのような気もする。
しかし、5年前とはいえ【2018年の夏】が懐かしいなんて意味分からない感じだ。一部の気分は2010年あたりをさまよったままなので、2018という数字には未来感があるのに、懐かしいという実感がちゃんとある。5年前、まだ盆踊りを発見していなかった。友人はまだ中野に住んでいた。これから先知らない友人ができていくんだという予感もあった。今からでもどうにかなる問題もあるはずなので、あの頃はもう戻らないとか言って嘆きを見せるのではなく、これからも現役のプレーヤーとして遊んでいかないと。小説を書いていると、他はどうでもいいとは言わないまでも、あまり色々やれていなくても「それで良い」という甘えが出てしまって良くない。今年はとりあえず盆踊り行く。

2023/07/09 今日
昨日ほどのスピードは出なかったが一応朝にスタバに行く。毎日ぐらいエキウエに行っておりさすがに気にするので、今日はクラシックのほうに行く。スタバには普通に毎日行っている。今週は6日(1日だけ渋谷エクセルシオールの回があった)なのでバイトの出勤日より多い。
読む本を忘れてしまい、テンションが下がるも、気を取り直してちょっとだけ仕事する。遅々として進まないのだが、全然進まないというのではないので、まあ良いかと思う。考えるフェーズではなく手を動かすフェーズで、ここが一番楽しいといえば楽しいはずなのだが、なんとなく調子が上がらない。こういうときは大枠を考える時間にあてるほうが良いのかもしれない。どうせ何も思いつかないが、そういう気分のときのほうがかえって気楽に何らかのアイデアが出るかもしれない。思いついたこと全部を今作のなにかに繋げてやろうと考えているのはあまりうまくない気がする。だから、今作のことと次作以降のことを同時に考えながら、ストック自体を増やす意識で進めるのが案出しのコツだ。
これまで意味がわからんとしてスルーしてきた文体については、書いているうちに理解するようになってきた。たたき台として一応書き上げるために、自分の好きな小説の感じを模倣しているのだが、参照先が大きくふたつあるので、歪な感じになってまとめるのに苦労する反面、足し算の塩梅をバランスするのがクリエイティビティを感じられて面白い。参照先というか模倣元があるのである程度安定するが、問題はふたつのあいだのバランスが日によって変動すること。章単位で書き上げていくのは難しいけど、せめてチャプター単位では書き上げていきたい。が、今のところそれだけのスピードも出ない。遅いとはいえ動いている車輪が止まってしまいそうでヤキモキする。そうなったらもう一度回し始めようとするだけなんだけど、一度止まったら全部止めて新しいものに手を付けようとする悪癖があるからそれがちょっと気がかりだ。
この日記に完全ストップを防止するための機能があって、我ながらよくできた体制を構築できたものだと感心する。日記の手前にはuekaramesen_streetの毎日投稿という防波堤まで用意しているし。
スタバから出た後は、大相撲夏場所の初日を見る予定。二ヶ月前の横綱照ノ富士の優勝は最高だったし、初めての熱い夏が楽しみだ。

20230707

あなたは真面目ですか


渋谷には人が溢れていて、渋谷の広告には文字が溢れている。どんな街でもある程度そうだろうが、東京―渋谷では極端にそうだ。

人は流れていく。文字は、流れていくものもあれば、流れていかずにずっと同じ場所に居座っているものもある。文字は流れていったとしても、何分かおきの周期で繰り返し現れる。流れていかないのは物理的に描かれた文字だ。

「あなたは真面目ですか」

こう問いかける式のテキストが書かれている広告がひときわ目を引く。その両隣に書かれているのは企業の名前だから、もともとその名前を知っている人に向かって刷り込みを行うか、無意識下でもほとんど気にも止めらないかのどちらかだ。どちらにしても、意識の表面には上ってこない。そして「あ」を頂点として、ビルをキャンバスに縦書きされた文章は、文字の大きさや掲示位置もそうだが、字体と余白にプロの工夫が見られる。下を向いている人にむかっての訴求力は持たないが、偶然、見上げた人の視界にさえ入れば、十人に一人ぐらいは何らかのリアクションをすることになるのではないか。

実際、黒い髪をなびかせながら交差点の先にある坂を上ろうとして道を急ぐ女が、ひどい暑さの原因を不自然なほど青い空に認め、睨みつけるようにして顔を上げたその瞬間、舌打ちを繰り出した。

街側にある巨大な人混みと、駅側にある莫大な人混みとを混ぜ合わせてできた夏の渋谷では、そこかしこから舌打ちや嘆息、短く野太い奇声のたぐいが聞こえてくるので、3メートルもの身長があるわけでもないただの女が隠そうともせず大きな舌打ちをしたところで、街の雑踏へ吸い込まれていくだけだ。舌打ちをした瞬間の女のすぐ近くでは、ピンクの髪の毛を逆立てた人影がカメラに向かって「ブラーーーー」という叫声を挙げていた。

「あなたは真面目ですか」という広告文にイラついたのか、それともその広告主体が某有名デーティングアプリだったことに腹を立てたのか、吸い込まれていった舌打ちから推し量ることはもはやできないのだが、目線の動きと舌打ちのタイミングを観察していると、少なくとも広告に対して「チョッ」と怒りを表明したのだということがわかる。怒りの炎がちらっと見えたのは、自分の恋がうまくいっていないから? それとも友達の恋がうまくいっているから? 多分その両方なのだろう。「チョッ。ムカつく」私のほうがどう見てもルックスが良いのに。それより何よりこの暑さ。いくらなんでもふざけすぎ。

文章のすぐ隣には、ストイックなまでに顔面に対して美的修正を施した金髪のサングラス男が、こちらを真っ直ぐに見据えている。暑さに眉をひそめるということとはまったく無縁に見える余裕ある笑みを浮かべ、当たり前だが汗ひとつかいていない。せっかく綺麗に整えた完璧な目元関係を濃い色のサングラスで隠してしまうあたりに奥ゆかしさを感じさせるが、自らがアイコン的な存在になることを肯んじた男には、その覚悟に見合うだけの説得力も感じられる。

ただし、男の職業のことを考えるとデーティングアプリの広告塔には不向きなのではないかとも考えられた。たしかに、そのミスマッチ感は、いくつもの会議をくぐり抜けて、あるいは大量の会議による会議疲れから偶然にもたらされた巧まれざる技工なのかもしれなかった。そもそも、デーティングアプリの広告塔になることを所属タレントにやらせる芸能事務所は数多くないのかもしれない。いずれにしても、金髪男の職業はホストだ。この広告の制作者は、デーティングアプリがホストやキャバクラ嬢の営業場所になっていることを知らなかったのだろうか。知らないわけはあるまい。そうすると、そんな事実はいちいち言及するほどのことでもないと示したかったのだとも考えられる。これではお墨付きを与えたことになりはしないか、と問われたとしても、お墨付き? なんのお墨付きですか? ととぼけて見せればそれで済む程度の話だと冷静に判断し、見切りをつけたということだろうか。

あるいは、こういうことも考えられる。デーティングアプリやホスト、キャバクラ嬢、渋谷の雑踏と暑さの原因となっている鬱陶しいほど青い空、すべての文脈をひとつの文章に集約させてある効果を生もうとイキんでいる現場が、ここにあるのではなかったか、と。そして、一瞬の舌打ちに終わったかのように見えて、テキストは女の深層意識に深く潜り込むことに成功し、ことによると熾火となってくすぶり続け、この一瞬のためにすべてがあったのだという確信とともに見上げられることになる大きな花火を打ち上げることに繋がっていくのではなかったかと。

すべてが、とか、すべては、という言い方をするのは危険だ。いや、危険だというのは、物事を真剣に捉えようとした側からの取り越し苦労、そうであればいいなという願望にすぎない。すべてと口にするのはほとんどナンセンスだ。

すべてがと言えば、それは何も指定しないということだし、そうすると何にも当てはまらないということだ。

しかし、だからこそ気楽に可能性の海を見つめていられる。そして砂浜さえあれば、この暑さだ、皆喜んで靴を脱ぎ、我先にそこへ飛び込んでいくだろう。私たちは、いや私は、期待される行動だけを繰り返すために生まれてきたわけではない。

私は、真面目だ、真面目であろうとしている。

男は舌打ちもせず、黙って下唇を噛んだまま交差点を通り抜けて坂を上っていった。それは先に女が上っていったのと同じ坂だった。すでに夜の時間になっており、紫のネオンがちらちらして、まったく違う見た目の坂になってはいたが、それでも同じ道、同じ坂だった。

日記150

歩く用の屋根

2023/07/06 昨日
スタバの後、ミカンの階段で飲む。あの場所がダンダンと名付けられていることを知る。ダンダンといえば西日暮里の夕焼けだんだんだが、下北沢のそれは普通ダンダンだ。ひらがなカタカナの違いもある。ただし、ダンダダンになると「餃子とビールは文化です」と主張する餃子系居酒屋のことになるので要注意だ。
帰宅後すぐに寝てしまう。なぜなら翌日に出社だから。

2023/07/07 今日
恐ろしく寝覚めがよく、良すぎてそのまますぐもう一度眠れそうなほど、ぐっすり感がある気持ちのいい朝だった。思えばヤクルト1000を飲んで寝たのと前夜にピーナッツしか食べていない。それでかと思うが、前者はともかく後者はあまりきちんとした理由にはなっていなさそうだ。睡眠時間を確保できていたことが最大の理由だから、その他はべつに何でもいいのだけど。
出社してタスクをこなす。そろそろわからないことがなくなってきたので一面では気がラクになった。しかし、見通しがきくようになるとそれはそれで何やってんだという感じも連れてくることになるので、痛し痒しといったところだ。
しかし、ザ行にならないよう全力を尽くし、最後に降ってきた依頼も週明け対応でいいっすか?と悪びれずに秒レスで聞くなどもでき、満足感の強い金曜の夜を迎えられた。
そのうえ、すぐに帰るのではなく、帰路途中のエクセルシオールに入って読書、日記、そのうえ仕事までこなそうとするのだから、見上げたもんだと我ながら天晴です。

20230706

日記149

誰かが何かのポスターを破った

2023/07/05 昨日
行き詰まった仕事をそれでも何とか続けるために違う場面に着手したのは良いが、そのシーンも冴えない。ペースを乱したときに復調する手段がない。元はと言えば、出来が良いと思うシーンを書けたことが不調の発端になっているので、出来が良いという感想を抱かずに淡々と進めていくようにするのがいい。帰り道の嬉しさを抑えるというテクニックが必要とされている。
帰宅後にChatGPTの特集番組の動画を見て寝る。AIは映像制作が苦手という話をきいて面白いと思っていたが、よくよく聞いてみると10年かそこらで解消する躓きにすぎないと言っていてズッコケた。数年ぐらいかも、とも言っていた。AIのことはイメージでしかわからないが、なんとなく映像制作が苦手というイメージがあって、その一致を面白く感じたのだが、時間軸方向の操作と、単純化しての把握が苦手という理由もいかにもそれらしいもので面白かった。
しかしケンドリック・ラマーのMVを見た今、これのかっこよさを超えることは不可能ではないのかという思いはある。文章を作れるからといって面白い小説を作れるということとはまったく別物だろうというのと同じ考え方だ。ただ受容する能力のほうがAIづいていくのではないかという危惧がないではない。そこまでシンプルではないはずだと思いつつも、心配するとしたらそっちではなくこっちだというのは的を外していない見立てだと思う。しかしごく大雑把に言って映像作家は強さを見せているがそれに比べると文章作家は強さを見せていない。簡単に見せられるものではないから難しいところなんだろう。

2023/07/06 今日
在宅バイト。昼休みから、前日からのChatGPT動画の余波で川上量生と立花孝志の対談動画を見る。途中途中で爆笑しながら見ていたが、全部を見終わって虚無感に近い感情が押し寄せた。タスク消化状況は良好。
一生懸命というのはそれ単体では必ずしも褒められたものとはかぎらないという単純な話だ。論誅してやろうという正義感にしてもそう。ダサいことをしているやつに向かってダサいということには意味がない。ダサいとわからせることが大事なんだと思う。やはりここでもケンドリック・ラマー。『Not Like Us』、MVのなかに若干”チーム友達”めいたシーンを見た。
ザ行(残業のこと)ゼロでスタバにくる。

20230705

日記148

小休止

2023/07/04 昨日
それなりの時間スタバにいて、それなりに手を動かしたのだけど、手応えがなかった。鉄の掟ではないにしてもダイアモンドの掟を、俺はすぐに忘れてしまう。心の壁にポスターを貼っておかないといけない。

兄さんの小説は、以下の条件を満たせば、芸術作品になります。
一、政治的・社会的・経済的な性格の長広舌をやめること。
二、絶対的な客観性。
三、扱う人物や対象を描写する際の本当らしさ。
四、極度に短くすること。
五、大胆さと独創性。決まり文句を避けること。
六、誠実さ。
……いちばんいいのは、主人公たちの魂の描写は避けること。主人公たちの行動から、それがおのずとわかるようにすべきです。
(1886年、兄のアレクサンドル宛の手紙)

1〜6については、自分の内心に真逆をとりたいという志向があったり、そのまま同意できる気持ちの問題だったりして、結構どうでもいいといえばどうでもいいのだけど、最後のアドバイス項目だけは絶対不変の法則としてつねに心がけなければならぬ。

帰宅前に古着屋を回ってから、TSUTAYAで三笘特集のNumberを買い、階段に座って酒を飲みながら読む。その後ガストで合流し、食事に良くない時間帯にハンバーグ単品(ハンバーグトッピング)を注文して食べる。
仕事がうまくいかなかった日はやっぱり何をしても駄目な気分を払拭できない。そういうときには早く帰って寝るのにまさる行動はない。


2023/07/05 今日
在宅バイト。自分でスケジュールした内容を完璧にこなしていて本当にえらい。だが、進捗を先んじて進めまくり、締切より先に終わらしてしまうという発想にはまだ至れない。
川上量生の対談動画を見る。AI研究で有名らしい松尾豊の話が面白かった。
夕方に降って湧いたタスクによってザ行をちょっとだけする羽目になったが可及的速やかに終わらせてスタバへ。エキウエのほうが満席だったのでそのままクラシックのほうへ行く。
エキウエのコピー「みんなの毎日アガる場所」はよくできているなと通り過ぎながら看板を見て思った。
今日は全然違う場面を書こうと思う。大枠を決めて始めると、行き詰まったときにべつのことができて効率が良いのだという気づきがある。もっともっと長編にしたいので狭まったりまとめたりせずに収集がつかないを目指してある程度書き散らかしていかないといけない。現状のマインドセットからするともっともっと散らさないとだめだ。ふざけるにしても書きぶりとか口調とかそういうことではない。もっと平板な調子で全体が頭の中に入って初めてふざけてたんだと気づくような大ぶりのふざけ方を心がける。なんだか心がけてばかりだが、いくらでも心がけないといけないことはあるから、そう言ってもいられない。

20230704

日記147

小田急の青

2023/07/03 昨日
日記書いた後の進捗は順調だった。アクロスザスパイダーバースの曲を聞きながら駅前のスペースで酒を飲むとテンションが急上昇して楽しかった。
帰宅後、映像の世紀バタフライエフェクトを見る。チャーチルこそ「知性の奸雄・乱世の英雄」なんだなと思った。彼の描いた絵を見たピカソの「画家としても十分生活できたに違いない」というのもあながちお追従100%ではなさそうだ。だから結局、できるやつは何やってもできるし、できないやつはできないってだけの話でしょ。
エネルギーが多いというのは能力の第一なんだろうと思う。

2023/07/04 今日
在宅バイト。順調にタスクを終わらせていく。ただしもっとも期限感・コミット感が強い案件については逆にノータッチ。逆にね。
ほぼザ行なしでスタバにくる。昨日買ったTシャツを今日おろす。なんでって魔人ブウかっこええやん。
やめるまでにまだ半年以上ある。過去の自分ながら気の毒だ。

20230703

日記146

天国

2023/07/02 昨日
午前中にスタバに行った後、下北沢でうどんを食べ、虎ノ門の科学館へ行く。目当ては市販されているロボットが集合するという企画だったのだが、ブースが思っていた以上にこじんまりしていた。そのため、当初の予定よりもかなり短い滞在時間で済んでしまい、虎ノ門ヒルズでトラのもんを見て、そそくさと銀座に移動する。銀ぶらに目的を切り替えたのだけどこれが予想外に良かった。歩行者天国に椅子と机、さらにはパラソルまで用意してくれていたので、それに座って休憩しつつ、傾いた日の中で路行く人を見ているのが楽しかった。
このときは虎ノ門はあまり行かないエリアだった。銀座のホコ天と設置ベンチに座れるのは楽しかった。
その後、ドイツ留学時代の友人のブラジル人とその友人と4人で寿司を食べに行く。彼らはナイスアンドフレンドリーの見本のようで、10年ぶりに会うというのに、留学時代のいろんなエピソードを覚えていたりして、社交上の格の違いを見せつけられた。小綺麗で印象がよく、こちらにも聞き取れるスピードのはっきりと聞き取りやすい英語でわざとらしくなく話しかけてくれた。言いたいことが言えないということ、英語が喋れないということをこんなに残念に思ったことはない。ざっくばらんに話せたらもっと面白いんだろうなというのが容易に想像できた。サンパウロで弁護士と法哲学の教授をやっているふたりということで結局、寿司は奢ってもらった。やっぱり若い頃に留学のひとつやふたつはしておくものだ。俺はパスポートすら持っていないが。

2023/07/03 今日
在宅バイト。忙しいのが常態化している。しかも今4案件を並行して進めていて、とくに忙しくない時期だからまだしも、ひとつかふたつ忙しくなるだけでも回らなくなるだろうから空恐ろしい。しかし、余計な心配をしてザ行(=残業)をするのもばからしいので、早々に切り上げてスタバにくる。ユニクロでネットショッピングしたTシャツを回収。紫のTシャツを着ることはこれまであまりなかったが、今夏だけで3着目の紫Tシャツ(全ユニクロ)なので、今年のカラーは紫で決まりになりそう。驚くことに2023年はもう残り半分なのだけど。
今は管理しているのが4案件どころではないのに回せている。このときの反省が今活きているということはいえそうだ。
厚底サンダルは、さすがに歩きやすいとは言えないが、天下のナイキ・エアマックスだけあって歩きにくさはほとんどない。景色がちょっと変わってより高みから地面やその他を見下ろせるというのは、十分に機能的で、我ながらいい買い物をしたなと思う。
慣れとはこわいもので6.8cmもかさ増しされるのに今はエアマックスを履いてもとくに感動もないし、高くなっている感覚もほぼない。

20230702

日記145

傘日和

2023/07/01 昨日
スタバの後、小雨のちらつく中で酒を飲む。帰って遅めの晩飯を食べながらアニメ『推しの子』についてのレクを受ける。素っ頓狂な説を提示して『推しの子』についての話は終わりになる。アニメはともかくアイドルを通ってきていないのでちょっとよくわからないがこれで心が動く人もいるんだろうからそのことを無碍に否定しないでおこう。もともとそのスタンスだったのだけど、面白い作品とつまらない作品との区別をはっきりつけるというこだわりを持つようになってからこっち、すこしオーバーザラインの気(け)があったので今後はしっかり手綱を握らないといけない。「世間の価値観」なんて曖昧なものと喧嘩している暇はない。自分の限界としてはっきり意識するところとして、転生モノについては完全に乗れないというのがある。転生だとか前世だとか前前前世だとかは本気になって言っているわけでもないだろうが、虚構だったら何でもありだとはいえ、虚構だから何をやってもついていけるというわけじゃない。マルチバースについてはそれなりについていけるのは、「可能世界論」というのを昔なにかの本で読んだからなのだけど、そういう取っ掛かりなしにマルチバースに違和感なく入り込めるのは、かなり柔軟な物事の捉え方をしているのだろう。そういう人がとくに違和感なく、違和感があってもうまくスルーしつつ、転生モノをそういうものとして受け入れて楽しんでいるんだろうという気がする。個人としては乗れるかどうかしかないので、結局のところ乗れたもの勝ち、乗れなかったものは外野からぐちぐち言うしかできないというだけの話だ。
たしかに自分のこの意識が自分の死後もどこかに繋がっていたらいいなという素朴な願いはある。なので自分も転生モノの前提を受け入れたいところではあるんだけど、いやいや無理だろうと思ってしまうし、素朴ではあるが強烈な願いが受け入れられないことを思って暗くなるから見ていられないという事情があるのだと思われる。そうであったらいいのにな、でもそうであるということは信じられないという立ち位置が、そうであるというイメージにもっとも反発しやすいという一般論も成り立ちそうではある。自分にとっての宗教の問題も似たような形を取る。

2023/07/02 今日
朝4時頃に外が明るいのにつられて目が覚める。その後6時までスマホを弄って過ごしてしまう。俺はなんて無駄な時間を……、(ポカリ)もう無いのか。
目が覚めてもそのままスムーズに寝入れるときとそうできないときとがある。両者の違いは楽しみにしている何かがこの朝にやってくるかどうかにあって、今回の場合は注文したナイキの厚底サンダルの配送日がこの日で、出かける前にそれを受け取れるか否か、発送準備中から発送完了にステータス変更されているかどうかが気になってそれをチェックしたことによって完全な覚醒状態に移ってしまったのだった。結局10時半現在、スタバにきている今もステータスは変わらず、今日のお出かけには間に合わないことが確定してしまったのだった。残念。
しかし気を取り直して仕事を進めることにする。寝る前にも目が覚めてすぐのときにも小説のことを考えていて、頭の中を書きかけの小説が占める割合が順調に増えてきているのを実感した。
ナイキ エアマックス・ココ
ウィメンズ商品だがサイズが29cmまである
ソール高(ヒール高):6.7cm




20230701

日記144

レオナルド・ダ・ヴィンチ『最後の晩餐』

2023/06/30 昨日
バイトの出勤日。むし暑くて仕方なく、途中の渋谷駅で電車を待つ時間がわりと苦痛だった。先輩の一人が現場変更ということで最終出社日だった。元ヤンキーっぽい雰囲気をたたえたハキハキ喋る人で、リモート会議中でもよく笑い、ともすれば活気を失いがちになるITの現場を盛り上げていた。前のめりで仕事に取り組む姿勢は真似しようと思ってもできることではないが、労働に向かっては怠惰を全面に押し出したいスタンスの私をして、参考にしたいとまで思わしめたので大したものだ。ただし絶対に上司にはしたくない。怖すぎる。後輩としての自分には適度な距離感で優しかったので面(めん)が良かった。運が良かった。
お腹すいたし雨がタルかったのでそのまま帰宅。インスタントラーメン(ラ王・坦々)とスプリングバレーで晩飯。とくにスプリングバレーの一口目が飛ぶほど美味かった。一週間の労働を洗い流してくれる味がするというのは一週間の労働の数少ない功(いさおし)だ。
気晴らしというか露払いというか、マイナスをゼロにするだけのことだからそればかりになっていてはいけないことだと思うが、単純な上下動で考えたときの上昇幅はそれなりにある。
図書館で借りてきた『哲学者、競馬へ行く』をちょっと読んでそのままうたた寝をする。パーソナルチェアでの読書はこれまでほとんどやってこなかったが独特の感触があって良い。もちろんパーソナルチェアでのうたた寝も。
TVerでアメトーク「学生時代の友人コンビ芸人」がやっているとの情報が流れてきてメンツの良さについ見てしまう。囲碁将棋、ダイアン、U字工事がとくに印象に残った。ダイアンはもはや安定で、津田の立ち回りがこなれてきてもう面白くなくなってるのが逆に面白い。囲碁将棋は文脈依存ではないヒットをつねに狙っていて気味が良い。続いていかないし、続けてもらえないので打点にならないところに勝敗とは関係ない美学があるような気がする。あのやり方で打点を上げるにはホームランを打つしかないのだけどイチローみたいな職人気質で打率を上げようとしているから、そもそもバラエティに向いていないのかもしれないが、この調子でシングルヒットを量産していってほしい。やっぱりそれが格好いいと思う。U字工事は最近良く見るようになってきているからか、あれ?こんなに面白かったっけ?と思うことが増えてきている。最近よく見るというのは力(か勢い、またはその両方)があるからなので、どんどんやっていってほしい。単純に上り調子の人物を見るのは気分が良い。年齢が彼らの芸に合ってきたということなんだと思う。年齢に応じた華を感じる。あとはAマッソの代わりに三四郎が出ていたらもうひと回り面白くなったろうなと思ったが、それだとウエストランドとの兼ね合いでバランスが難しいのと津田が活き活きしなくなるから結局ちょうどのバランスだったということか。

2023/07/01 今日
新生児を連れて映画館に行ってはちゃめちゃなことになる夢と、弱っている子猫がどんどん弱っていって、どんどん小さくクレーアニメのような質感になっていって、最終的にセミぐらいの大きさになって蟻に連れて行かれそうになる夢を見る。映画館の夢のほうは、なぜか面白くないと思っている映画の上映回に行っており、あまり人の迷惑ということを考えないでもよかったので、はちゃめちゃになるがままに任せた。あと自分が映画館のなかで動き回っていて気づいたことだが、意外と観客はじっと座って映画を見ていないし、なんだったら前の方の席では集団でピクニックのようなことをしていた。バトミントンしているまではさすがに行かなかったが、それぐらいの雰囲気だった。猫の夢のほうは、衰弱している猫を助けようとして、コンビニに猫餌を買いに行くのだがなぜか売り切れで、窮余の策として紙パックの牛乳を買って飲ませることにしたのが、牛乳を注ぐ皿がなくてまた歩き回る羽目になった。途中で野良の獣医師が見つかってちょっと見てもらったところ、この衰弱は空腹とかそういうことじゃない、そんなことをしてももう無駄だというようなことを言われる。いろいろやってきた挙げ句その言葉を聞いてさすがに絶望したのだが、よく考えたらこいつの言っていることってべつに正しいわけじゃないよな、というか風貌からしても相当怪しいよな、と思い直したところぐらいでたぶん目が覚めた。
一年越しに読み返してみてまったくおぼえていない夢だと最初は思ったが、内容について詳しく書かれてあるところを読むと思い出した。過去は折り畳まれて格納されているということが、この思い出し方によって明らかになって面白く感じた。
起きたら9時を回っていて、久しぶりにぐっすり8時間45分オーバーの睡眠時間を獲得。予定よりも遅れてスタバに行く。雨が面倒だったが来てしまえばこちらのもの。日記を書く。
その後仕事を進めてお使いをこなして昼飯を買って帰って食べる。その後昼寝などダラダラして過ごし、夕方から歯医者に行く。とうとうこの日で治療が終わった。苦役が終わった解放感とともにもう二度と行く羽目にならないぞと決意する。この清々しい気分と決意にはもちろん既視感がある。この日二度目のスタバ(別店舗)にいって仕事を進めることにする。
最近はバイトにフルタイムコミットしているせいで、感覚がビジネスっぽくなってきていて堕落だなと思う。何もすることがないという焦燥を抱えていないで小説などという余技をこなせるのかという自分に対する疑念がある。もっと何もやることがなく身体を引きずって自由を謳歌できるような状態でいないと。もっとも、結局去年一年の無職期間で何一つ書き上がらなかったのでそれも絵に描いた餅なのだが、それは一年に満たない無職期間が小説を書き始めるには短すぎるという話かもしれない。まあ安定した気持ちで一日にある程度の時間を継続的に捻出できる今の環境より良い環境というのは頭の中にしか無いユートピアのようなものなのだから、こうやってグチグチ言っていないで少しでも前に進めろというだけの話だ。
ビジネスモードになると内部に進捗という物差しが発生するようになり、その目盛りを前に進めることで進捗を得られるようになる。後退と前進がわかりやすいと動きやすくなり、モヤモヤすることがなくなるのであっけらかんと生活できるようになる。小説が書けないときに感じる焦燥と対極にある。やっぱり人は仕事をしているのがラクだから仕事をしているんだろう。

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