20230614

日記132

 

アーケードのA

2023/06/13 昨日

ベンジャミンのトークショーのためにだいぶ早めに阿佐ヶ谷入りする。阿佐ヶ谷ロフトの開場時間が19時ということで、隣のパンの田島が19時まで営業だったのでたまごのコッペパンとホットラテを注文し、椅子に座ってベンジャミンのブログを読んで予習をしながら時間をつぶす。

トークショーでのベンジャミンは前回よりものびのびというかリラックスして臨んでいるように見えた。聞けば在宅仕事のあとで阿佐ヶ谷に出てトークショーをこなしたとかで、夕食も食べていなかったらしく、リラックスというよりは単純に空腹で元気がなかったとのこと。質問を用意していたが、ちょっと場にそぐわないというか会の主旨にあわないのではないかと思ったので蔵入れにする。言論系のだいたいのトークショーがそうであるように、それぞれの書いたもの以上の何かが得られるわけでもなかったが、三人とも元気そうで何よりだと思った。

阿佐ヶ谷の駅でちょっと飲んで解散する。帰りの電車で新宿までいっしょだったので質問すればよかったと後悔した。質問を作ったこと自体をすっかり忘れていた。時間が短すぎて答えられないかもしれないが、そういう場合だからこそぱっと聞いてぱっと返答を得る、あるいは得られないということが簡単にできるという利点があったりするので機会を逸したのが惜しまれる。質問の要点だけいえば、どこまでの範囲をキャンセルカルチャーのキャンセルとして捉えるかということなのだが、トークショーの場でするにはちょっと問題が大きくなりすぎて登壇者を困らせることになるのではないかと遠慮した。あとはブログのなかに「人格の自由」という言葉があってそれはどういう内容なのかということも聞いてみたかった。


2023/06/14 今日

この日みた夢はマイケル・ジャクソンのために踊ったダンス映像をPVとして残していたので、大きなホールでそれを再生して皆で鑑賞するというものだった。想像以上にちゃんと踊れていたし、群舞の場面はとくにクオリティが高く、見ていてワクワクするほどだった。ダンスも大きなステージで踊っていたし、映像の再生も大きなホールでやっていたので、観客の数が単純に倍いたので自分たちはすごい人気者なんだなと思った。ただ所詮マイケル・ジャクソンの威を借る狐だと冷静に考える自分もいた。

在宅勤務。長い打ち合わせが一件あった以外はとくに何もない一日だった。定時後、プールに直行し1時間弱泳いだあと、歩いて図書館にいく。プールで泳ぐ時間と図書館に行くために歩く時間はそれぞれ頭の中を空っぽにして動くことだけに専念できるという良さがある。

寝る前にベッドサイドにスマホを持っていかないのと引き換えに、ピンチョンの『V.』を持って行って寝る前にchapterずつだけ読み進めている。たしか再再読になるが、こんなふうに進んでいく小説だったのかという驚きがある。こんなにも読めてそれに対する驚きがあるということは、再読でも全然読めていなかったということをいくらか意味するということで、まあそれもそうだろうとピンチョンの小説のことだからと納得する反面、いくらなんでも目をつぶって小説を読みすぎなのではないか、大丈夫なのか、と自分の読みに対する信頼がそれなりに損なわれた。最近では大江健三郎を読んでこれはと思ったところでもあるので、それは大丈夫なのかと心配だし、まだ読んでいない作品がたくさん控えているのにそう思うのは億劫なところもあるのだが、やっぱり再読しないといけないとあらためて思った。

今回の『V.』で気になるのは場面の展開についてで、前二回では場面の切り替わりを意識することなく、切り替わるままにただ対処していたという感じだったが、『V.』ではプロフェインとステンシルというふたりの主人公がいて、少なくとも2つチャンネルがあるので、それらの往還についても意識するようになった。物語がすすんでいくのと、語りの位置が(映画だったらカメラの位置が)変わっていくのとを同時に感じながら、章の切り替えによって起きるチャンネルの切り替え(これは初読でもなんとか認識できていたと思う)を意識するだけではなく、chapterの切り替えやchapter内での場面の切り替わりについても意識するようにすると、わりと頻繁に、はっきり飛躍をしているということが明らかになった。細かい描写にぐっと入り込みながらも、そこから切り替わるのはじつは一瞬で、しかもその切り替わりのタイミングで大きく場面を動かすことで、物語自体はいつのまにか大きく展開していくというマジックのような手法がある。起こった結果に注目するとごまかしの手管ということになるんだけど、初読・再読時の自分は物語を追いかけたり主人公の動向を追いかけたりするのに必死で、そのテクニックに気が付かなかった。再再読でもそれに気づかないこともたぶんじゅうぶん有り得ることで、今自分が小説の進め方について悩んでいて、その答えを探ろうとして『V.』を読んでいるからたまたま目に入ったんだと思う。さすがに同じやり方はできないと思うけど、登場人物をできるだけ多く登場させたいという願望があるから、無理を承知で、でもできるだけ参考にしたいという思いがある。もっと初歩的なところで、そもそも登場人物をどうやって動かすのかという問題があるのは理解しているつもりだが、そのような糸を使って人形をコントロールするやり方ではどっちみちうまく動かせないような気がしているので、もっと大それた問題に取り組んで、いずれ失敗するにせよチャレンジした内容の大きさでそれなりに様になる言い訳を立てようという魂胆があるようだ。いや、そんな露悪的になって防衛しないでもいい。

フィクションに取り組む以上は、限られた時間を使ってせっかくフィクションに取り組むんだったら、自分の力ではどうにもならないほど大きな問題を目の前において、それに正面から取り組むということをやってみたい。そのためには、身の回りのことという条件はつけず、かといって自分という条件は外さず、もし〇〇だったらという仮定をフルで使えるような、振り幅重視のモチーフを選ぶことが重要になる。それは方法として重要であると同時に、小説を書く目的としてもそのまま挙げられるほど大切なことだ。

隣という概念を必要以上に狭くとらないというのは、自分にとっては、自分に可能なだけ隣というものが指す範囲を広くとるということを意味する。隣の数が多いということは、その分だけ隣の範囲を広くとれていることの証明になるので、それが登場人物の数を増やしたいという志向に結びついている。

かつては隣と自分とを同化しようという願望が強く働いていた。今でもその願望はあるだろうが、すこしの隣でもいいから同一になりたいという願望より、とにかくたくさんの隣と隣合いたいという願望がそれに優先している。それはより多くの希望を抱くようになったからというよりは諦観の結果だといえるものかもしれないし、急がば回れというように、そこに至る回路として、その複雑な手続きをさらに取り入れてどんどん際限なく複雑化していくことで逆に到達できるのではないかという、やけっぱちな希望の故ということもいえる。よくわからないけど。閉館します、3階はもう消灯します、という声が止まずに近づいてくるので帰る準備に移る。

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