20230612

日記130

 

ささやかな祭り

2023/06/11 昨日

昼食のタイミングでスタバを出て帰宅。映像の世紀バタフライエフェクト選「メルケルとベルリンの壁崩壊」を見る。東ドイツで自由を望んだ若き日のメルケルが、首相になってからもかつて自身が望んだものを望み続けていたというのを移民受け入れ政策によって政治家として表現しているのがとにかくかっこよすぎて、政治家は人気になりすぎてはいけないとは思う反面、彼女が政治家として人気にならなければ嘘だという思いがした。目の表情が漫画みたいというのを通り越して、漫画表現が彼女の目をお手本にしているのではないかという気にさせる。

その後、雨に邪魔されてなかなか外出できず、プール行く行かないの押し問答は水掛論になって終わり、いつのまにかマリオオデッセイを買う買わないの押し問答になり、気づけばそれも水掛け論に終わったところでもはやプールに行くための時間もなくなっていたので、仕方なく録り溜めていた映像の世紀バタフライエフェクトをもう一本消化することにする。「戦争の中の芸術家」今回ベルリン・フィルのフルトヴェングラーのことを知るにあたって、同じベルリン・フィルの指揮者を主人公にする映画『tár』を見ていたのが役に立った。ある決断に対して断罪することはやはり難しいものだというのをフルトヴェングラーを攻撃するトーマス・マンを見て思った。今でもトーマス・マンが正しいと言える部分があるのかもしれないが、当時ほど確定的ではないのだろうし、そのグレーの度合いは増えることはあっても減ることはないように思われる。イスラエルでの演奏会後に提案されたワーグナーの曲を演奏する映像もまた衝撃的で、芸術を超越的な位置に置くかどうかということが現実に問われる事態を映していた。

このテレビから一年越しに、事件の渦中にあったバレンボイムとサイードの対談を読むことになるとは驚きだ。というより、自分が興味を持つような本に興味を持って読んでいけば、いわば順当にいずれ当たるというだけの話かもしれない。当たるのかやや遅いような気もするが。

これらのことに関して思ったのは、芸術にもある程度のメンバーの数が必要なジャンルがあって、それらの運営には規模は小さくとも社会形成という側面があるということだ。だから本当の意味で社会背景に左右されない大芸術というのはありえない。そのような受容のされ方は存在するが、それはただ社会背景を無視してまでそれらの芸術をむさぼり食おうとする個人がいるというだけの話だ。

社会形成とともに芸術が制作されるような場面において「純然たる芸術」という考え方は一挙にフィクションに落ちて、そこで安定する。それは映画製作や音楽制作において顕著で、どれほどの独裁政治が実現されようと、一個人のビジョンを完璧に再現することは不可能に近い。ただし、かなりの程度精巧に再現するということは能力如何によっては可能である。その能力というのはいろいろな要素が挙げられるだろうが、多分に政治的な能力であるだろう。サッカーの監督にクラブ運営のスキルも求められるというほど表立って必要とされるわけではないだろうが、そこまで極端ではなくとも当然のように求められる力であるはずだ。それは人を動かすスキルである。そこでフィクションに落ちて旗化した「純然たる芸術」が役割を得る。せーので動くために必要になるのは、中身がなく、薄く引き伸ばされてよくたなびく、きれいで目立つ旗であるから。

このように風を見、風を読む努力をしておいてピュア・アートとはいささか虫が良すぎる。というよりも、支払ったコストはすでにそんな単純さの領域に作品を押し込めておかない。

そうであるとするなら、作品が置かれた社会的な背景も芸術を形成する一因子ということになるし、社会から独立した作品という考え方のほうが不自然ということになる。それは社会規範を飛び越えてまで選び取られる芸術が存在していることと相矛盾しない。その原因は芸術の側にあるのではなく、それによって与えられると予期されるものを何としても受け取ろうとする個人の方にあるからだ。

芸術は万能ではないから、社会によって規制されていたり、見聞きするのが良くないとされるものを見ることによって受ける制裁からは守ってくれない。芸術は、それによって救われたという人が多くいたり、そのような証言がたくさん残っているのに反して、事実の上では誰かを救ったりするようなものではない。ただ、何かを素晴らしいと思う人間が政治的・社会的に団結し、物心両面でお互い助け合うという事態が間歇的に起こるだけのことだ。


2023/06/12 今日

早出のため5時半に起きる。昨夜は21時前に床についたのだが予想通りうまく寝付けなかった。しかし、スマホを置き去りにする戦略のおかげで余計なロスなく、おそらく大体45分ぐらいまんじりとした後、入眠することができた。しかし、起きたあと2時間ほどは眠かった。これほど眠いのは久しぶりというぐらい、電車の中でもオフィスの椅子に座っても眠くつらかった。出社早々、職場の人が歯痛で一睡もできなかったから早退して歯医者に行ってこようと思うと話していたが、1時間の作業をしているあいだに腫れが引いたとかで、早退をキャンセルして結局定時まで残って仕事していた。ちょうどタイムリーな話だったからついいつもより親身になって話を聞いていたのだが、同情してちょっと損したと思った。

15時半に退けてから、帰宅してランドセルを投げ捨ててすぐ遊びに出かける小学生ばりに、ワーク用の端末をMacbookと入れ替え、水着をリュックに詰め込んで、図書館に行くためにもときた帰り道を取ってかえして電車に乗った。いつもより早い時間でまだ閉まっていなかったから学食にひさしぶりに行ったら、当然だけど大学生がいっぱいいた。皆若いというより幼く見えてびっくりしてしまった。学食ではワンメニューの縮小営業で、カレーしかなかったのでカレーを食べた。190円のササミカツをトッピングするというあの頃にはとうてい考えられない豪儀ぶりを幼いキッズたちに見せつけた。図書館でちょっと作業して、このあとプールに行く。

しかし、今日のハイライトは退勤の電車内。自分がつり革を持って立った正面に座っていたお姉さんが異常に綺麗だった。真っ黒のワンピースなのかなんなのかよくわからないオシャレな服を着ていた。胸のところにわけのわからないオシャレな切れ込みが横に入っていて、太腿のところにも意味不明の切れ込みが縦に入っていた。切れ込みからは肌部分がきわどく露出しており、その白さは都会の公衆便所の蛍光灯と同じぐらいの白だったので、真っ黒の服がこれ以上の黒はこの世には存在しないと言わんばかりの黒に見えた。髪はきれいな金髪に染めていたが、来週かできたら今週末にはリタッチにいきたいぐらいの段階にまで伸びてきていた。涼しげな目元で顔も綺麗だったというのは個人の感想だが、事実として、口のすこし上にあるホクロがセクシーだった。

こういうきれいな人を見つけてもじろじろ見ないという格好いいところが自分にはある。一時期、見ることこそが喜びだと考えて、限界まで見に徹しようと思っていた過去もあるにはあるが、今はその考えをあらため、とにかくクールに振る舞ってむしろ全然見ないようにするという格好良いところがある。いっしょに渋谷で降りることにならないかなとちょっとは期待したが、その人は座ったままだった。でも全然名残惜しそうにしなかった。

生きていると予期しない幸運が舞い込むことだってあるんだよ。本当にな。

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