一旦帰ってからまたスタバに行く。小説のことを考える。登場人物をどうやって移動させるか、登場人物をべつの登場人物とどうやってつなげるかということを中心に考える。そういうのにはパターンがあるのだろうからそのパターンをとりあえず把握すればいいのだろうけど、それを調べるというより自分で考えつこうとして、そのときに思い浮かぶべつの内容などもついでにメモしていくということを心がけた。
もう技術のことを考える段階だと思っていたわけだがそれは勘違いというものだ。フラナリー・オコナーが言うように、小説家は自分にとってもっとも興味惹かれることしか書いてはいけない。ではもっとも興味惹かれることとは何か。その糸口はすでに掴んでいるような気がするが、まだ書き始められるほどはっきりしていない。書きながらはっきりしていくということもあるのかもしれないが、そこに達するまでには方向を定めたうえでしっかり進んでいかなければならない。
あとはベンジャミンのブログ『道徳的動物日記』を読む。
https://davitrice.hatenadiary.jp/entry/2023/06/06/141558
https://davitrice.hatenadiary.jp/entry/2023/06/09/180558
ウォルドロンの議論について感覚的に正しいと思うところがあるとすれば、それは安心についての優先度が高いところだ。安心というのは、種々様々ある価値観のなかでもわりと重要な要素だと思う。「フルマックスの安心」というのはお題目に過ぎないにしても、安全を脅かされない環境作りというのはやはり重要だ。安心の重要性は安全な場所にいればいるほど見えなくなるものだと思うが、安全を脅かされることへの意識はつねに保持していないと危ないのではないか。
ケアについて書かれたピンチョン論文から、セキュリティというのは語源的にケアに否定語を被せたものだということを知る。安全が保証されていることで、ケアしようという意思がなくなるという論理展開だった。たしかに自分が安全地帯にいながらにして安全を望むときには、厚かましくもケアすることから免責されようとして安全を望んでいるような気もする。冒険的な気分を味わうため、専用の安全な場所を望んでいるというほうが自分の感覚からはしっくりくるのだが、すこしだけ詰めて考えれば同じことなのかもしれない。
言葉の暴力については、それが単体で直接的な危害を加えるということはあまりないだろうが、物理的な攻撃に結びつくことはじゅうぶん考えられる。たとえば密告というのは単なる情報の提供にすぎないがそれがもたらす結果を考えれば情報伝達の段階ですでに暴力性を認められてもいいものだ。
社会の段階によって安危の水準が上下することはあるだろうが、判断に迷うような微妙な場面や、社会A、社会Bのどちらも射程とするような議論においては、安全の重要性を必要最低限ではなく必要十分(より少し上)に合わせておくのがセキュリティ上正しい考え方になる。セキュリティ対策というのは基本的に煩わしいものだが、やはり支払うに値するコストだ。
また、快/不快と安全/危険とは明確に区別されるべきだ。これはネットの通信速度と通信可否の話ぐらい質的にちがう話だ。それでも通信速度と通信の可否とが同じネットの話としてまとめられることが多いのだとすれば、社会が支払うべきコストの話においても同じことが起きる危険はありそうだ。
しかし、一方が快不快の問題と捉えているものについて、もう一方が安危の問題と捉えているというような認識の差はそれぞれの立ち位置によって生じてもおかしくない。その場合はやはり安危の問題のほうに合わせて考えるのを基本的な方針にするべきだ。
進歩に応じて、もともとは安危の問題だったものがだんだん快不快の問題に切り替わっていくというのもあり得る事態だと思われる。そうすると段階によってコストを下げていくのは合理的な方策だ。ただそれでも一挙に切り戻しができないような仕方でそれを行うのはやや性急で、場合によっては余計なコストを生じさせるという点でもよくない方法だといえる。
それぞれがそれぞれにふさわしいだけのケアのマインドを持てばそれだけで社会が良くなるというものでもないから、やはりケアの透明化とセキュリティの充実はべつの話だと切り分けたほうがいいように思う。そもそも語源を辿ってべつべつの観念をひとつの概念に同化させようとするのは文化の面からははっきりと逆行していることだ。必要があって言葉はふたつやそれ以上に分かれているのに、無理やりそれらを繋げて考えようとするのは、何か魂胆があってのことにすぎない。ケアと怠惰の論理を成立させ、それを文芸批評につなげるためだとしても、文化や社会から見て許容できるやり方ではない。
むしろフィクションを安易に社会問題の解決に動員しようとするやり方として非難されるべきものだ。ベンジャミンが哲学や倫理学から社会問題の解決方法を探ろうとしているのとは別物で正道ではない。フィクションはやがて社会問題の解決策のひとつを発見することにつながっていくはずだと考えているが、それにしても一本の線で結び付けられるようなものではない。
歯医者に行く。歯医者の待合や診療椅子に座っているときには元気がゼロになる。しかし治療の痛みと、より多くの痛みがあるだろうと予期することで発生する恐怖に耐え、とりあえずは一週間の重りがとれた。
その足でプールに向かう。時間帯もあるのか前回よりもたくさんの人がいた。でも泳ぐのは楽しい。ビート板を掴んでバタ足メインで泳ぐ。歩いて帰宅。途中のまいばすけっとで晩ごはんのもやしと豆腐、翌日朝食のプロテインバーと酒を買って帰る。涼しくていい夜だった。
帰ってから粗品のチンチロ動画を見てしまう。あとはジュニアのチャンネルでしずるKAZMAが喋っているのを見て、つい勢いでメトロンズの公演を予約する。KAZMAはジュニアと喋っているときに竹を割った直後の表情をずっとしていて楽しいのが伝わってきて面白い。となりの村上の楽しいだけではない複雑な表情があるからそのシンプルさがより引き立つ。しずるといえばファミマの店内ラジオも有名だが、ファミマの「あなたとコンビに、ファミリーマート」のコンビになっていこうという意思表示みたいなものをコンビを組んでからもずっとやっていて目が離せない感じがある。そもそもはお互い別でしょという自主・自立の意識があるから、ふたりで「ふたりアベンジャーズ」をやっているつもりなのが良い。そこで「2」という最少人数なのも活きていると思う。
プールにいったから疲れてぐっすり寝れるだろうと思ったが、そのプレッシャーなのか、疲れすぎて眠れないのかわからないが、ベッドのなかで入眠できずにだらだらしてしまう。こういうのにもったいなさを感じるけど、考えてみたらだらだら動物のかわいい動画を見ているからいけないのであって、何も見ずに頭の中を整理する時間に当てればむしろ良い時間の使い方になるのに違いないのだから、寝る間際には意識してスマホを捨てていかないといけない。枕元にスマホを置く習慣は目覚まし機能のためにあるから、それをパージしてリビングにスマホを置き去りにするのがいいだろう。
これに関してはポケモンスリープの導入によって完全に解消した。その代償としてカビゴンを寝かしつける時間が毎夜発生しているが。
2023/06/11 今日
昨夜おそくまで起きていたせいで8時半に目が覚めてもすこし寝不足の気がある。朝の時間は朝の時間でだらだらしてしまい、9時半になってようやくスタバに行く。この朝のぐだぐだもベッドのなかでスマホをいじることから発生している事態なので、やっぱりスマホをリビングに置き去りにするのが良い。さっそく今日からやってみる。睡眠トラッカーとしても使っているスマートバンドにアラーム機能があることを最近発見し、それが使える(手首の振動だけで起きれる)ことを確認したので、目覚ましの役割をスマホから奪うことにする。
雨のなかスタバに向かう途中で気づいたが、雨の日には散歩している犬の数がいつもより少ない。しかし小雨ぐらいの降り方だったので何匹かは散歩していた。
準備のいい犬でたしかレインコートを装備していたと思う。ビーグル犬だったか柴だったか。