2023/06/08
雨の中歩いて家まで帰る。図書館通いの鉄の掟「歩いていける図書館に通え」をクリアするため。30分強で帰れるので理論上は掟の関門をクリアしたことになる。昔、奈良県立図書情報館に通っていた頃も、行き帰りを同じぐらいの時間をかけて徒歩で通っていたことを思い出す。
あの頃も本を読まないといけないというなぞの使命感と、小説を書かないといけないというなぞの義務感に突き動かされていたような。仕事をしていなかった分、昔のほうがより純粋な日々だったわけだが、当時は結局、本は読んだけれど小説は書けなかった。気軽にアウトプットするということが全然できなかったし、朝起きるのにもすごいエネルギーが要った。
懐かしさにまかせて昔書いた文章をちょっと読んでみた。基本的に言ってることは何も変わらない。当時のほうが今よりももうすこし自分の言っていることに寄っているというか、強い気持ちでものを言っているように見えるが、懐かしさと時間の経過を勘案せずに見ればべつにそうでもないかもしれない。気持ちが強いせいでへんな摩擦がかかって軌道がブレることを必要以上におそれているように見える。それにしても、当時の自分をいま時点から振り返ってそう思えるのを解釈に流用しているだけで、フラットに読めばべつにそうでもないかもしれない。当時の自分のコンディションは体力的な部分はともかく、気分的にいつも低調で、コーヒーの飲み過ぎでテンションがぐっとアガったタイミングでMacbookのキーボードを叩き始めるということをしていたから、残っている大体の文章はテンションが高い。そしてそれに対してすぐ自己言及している。ほかにも何かと、なにかあれば自己言及しているが、ほかに書くべき内容が何もなかったんだろう。本当は本を読んでいたのでその本についてどういうことを思ったのかを書くべきだったのだが、本当に面白い本を読んで得た感想を言葉にするのは無理だという諦めが邪魔しているようだ。今、本当に面白いと思ったものについては、無理にでも、ちょっとでも書こうと心がけているのは、このときの反省が大きい。
あまりに変わっていない、あまりにはしゃいでいる、そんな文章を見返すと、なんともいえず切ない気持ちになる部分もあるが、それでも何年も前に書いた文章を読むことができるのは、それでしか得られない感慨があるものなので、ほかに何に使うでもなかったMacbookをバイトで得た金を投じて手に入れたのは良かったと思う。今も新しく購入した二代目Macbookをただ文章を書くことだけに使っているが、ここ十年で考えてもこれ以上の買い物はない。
あまりにはしゃいでいる、伝える気のうすい文章についても、その拙さの先に大事に抱えているものがあるのは、過去の自分ということを抜きにしてもなんとなく感じ取れるような気がするし、当時の自分が他人のように感じられる今でも、いや、他人のように感じられ始めた今だからこそ、それを引き継いでやりたいという気になっている。あのときの自己言及には客観視しよう俯瞰しようという不自然な防御姿勢があって、しかもそれを意識するから、かえって主観を強めようという反動もあって、本人的にはすこしややこしい状況だったと思うが、時間経過等々の今に至るまでの事情によって充分に他人っぽさを獲得できているから、落ち着いた気持ちでそこまで気負わずに言及できるようになっていると思う。それを重大なものと考えるあまりそれについて言及することができないという状況だったのがいつの間にか変わった。そこまで重大なものだと考えなくなったと思いたくはないので、なんか成長して言及できなかったものに言及できるようになったということにする。重大で重大でどうしようもないというほどではないにしても、こうして書くということをする以上、やっぱりモチベーションは保たれているとみて良いわけだ。
帰宅後に晩ごはんを食べてから『誰も知らない』を見る。晩御飯のおかずに泉州なすというのがあって、生で食べれる贅沢品とのことだったが、甘くてりんごのような味ときゅうりのような青臭さがあって茄子とは思えない感触だった。オリーブオイルをつけて食べると一気に地中海アンダルシア地方の照りつける太陽と南風を思わせる風味に様変わりしたりして面白かった。
『誰も知らない』を見たのは久しぶり二回目だった。見ている途中でプリンを勝手に食べていたことがバレて怒られる。
『誰も知らない』の後半は見ていられないというか、前半の良さからするとどうしてもちょっと落ちるので、見ていて尻すぼみになる感じがあった。物語を超越しているような良い場面の連続で保たれてきた映画が、とつぜん洗練されない物語の急襲を受けるような印象だった。ただ、前半の良さについては、後半の展開を知っているからこそ、見る側で儚さを画面に映して見るから余計に良く見えるのかもしれないというふうにも思うので、(最初に見たときに前半のシーンの良さを今回感じていたほど感じていたかは覚えていない。甘く見れば感じていたはずだとは思う)それを映画から外してしまうわけにも行かないだろうし難しいところだ。
しかし単純に子どもの映っている映像という観点から、これほどまでに優れたシーンを持つ映画は他にないというのは間違いない。
2023/06/09
在宅仕事。会議の進行をするというだけでも不慣れもあり緊張する。リモートでこれだったらオフラインではもっと大変だろう。言うべきことさえあれば緊張しても言うべきことを言っていればいいので間が持つというのは私が考えた机上の論だったのだが、これは半分当たっているけれど、半分外れてしまっているのはここまで緊張するかというぐらい緊張することだ。
結局、会議はリスケになり、その途端に自分でもわかりやすいほど元気が回復した。
定時後、すぐに家を飛び出しLUUPで図書館に行く。途中ちょっと迷って思ったが、自分は自分で思っているよりも方向音感があるほうではない、というかむしろ方向音痴ではないかとさえ感じ始めた。全体的には曲がり道になっているコースを路地づたいに進んでいくときに、ちゃんと方向感覚がなくなるし、思えば地下から外に出るときにも案内板をちゃんと目視するから迷わないだけで、方向感覚はちゃんとない。ビルに上ってしばらくしてから降りたらどっちから来たのかわからなくなっている。これらを総合すると方向音痴の方向に自分はいるような気がする。昔はそうではなく、したがって方向音痴方向に向かっているのか、それとも昔から方向音痴で方向音痴だという気づきを得たことにより方向音痴方向から抜け出す方向に進んでいるのか、どっちなのかがちょうど半々ぐらいの感触でどっちなのかわからない。
さて、図書館にくると本がたくさんある。本がたくさんあるというのを体感するのはやはり目眩がしそうなことだ。泳げない人にとってのプールみたいな感じなのかと思う。大量の水が実際に目の前にあれば、それを眺めるだけで壮観というか、きれいだと感じたりちょっと恐ろしく感じたりするものだが、それと似たような感覚がある。久しぶりで物珍しさもあるからだろうが、なんとなく生の実感のようなものを印象として受ける。
書くためにきたのに、結局、本を読んでしまっている。ピンチョンの『ヴァインランド』を手にとって池澤夏樹の解説を読んだら、もっとピンチョンについての文章を読みたくなって『世界文学をよみほどく』を席まで持ち込んで読んでしまった。
あとは『固有名』というレヴィナスの本。先週に馬の名前について考えたことがきっかけで手に取ったのだが、パラパラめくるとパウル・ツェランの名前があり、そこを中心に読んだ。その章はこんなふうに始まる、
パウル・ツェラン/存在から他者へ
他者に向けて
握手と詩のあいだに相違があるとは私は思わない――パウル・ツェランはハンス・ベンダーにこう書き送っている。
この章全体とプルーストについての章をすこし読んだ印象として、最短距離を行っていると感じた。構文的になってイズムに依った読み方をされるだろうが、そうなったからなんだというのだと言わんばかりで全然何も気にしていないことからもわかるとおり、わかりやすくするためにという意図は感じない。書き手の思索の流れが手を加えない形でそのまま流れているようで、個人的にわかるところはわかるし、わからないところはわからない。個人的にというのが味噌で、最初から自分が思っていたことに引きつけての理解をしかしようとしていないという読み方で読み終わった。途中にこんな文章があった。
純粋な接触、純粋な触れ合いの瞬間に、掴み握りしめる瞬間に、詩は位置しているのだが、おそらくそれは、与える手をも与えるひとつの仕方なのだろう。近さのためにあるような近さの言語。 (中略) 隣人に対するこの応答ないし責任は、その「他者のために」によって、与えることの驚異をまさに可能にするのだ。
太字の箇所は、最近自分がこだわり始めた概念[近い]についての言及で、近さというのではあまりに簡単だし概念すぎるのだが、なんとなく固有名として響きを響かせ始めているように思えているところだ。先の本でも『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』についての言及があり、昔読んで感動したというのもあるがそれ以上に、近いというのがcloseと訳されていることに関心を持った(実際にはcloseが近いと訳されているのだが、まあ同じことだ)。言葉のうしろに回り込めるほどひとつの言葉が立体感をもっていない場合には、違う言語に翻訳することによってズラしすこしでもその範囲を広げるというのも方法だ、というようなことを思った。
図書館の閉館のお知らせというのは事務的でいいものだ。そこまで居残って”やった”という達成感もある。途中Macbookを閉じて本を読んでしまったとはいえ。