20230605

日記123

安田さん

昨日
晴れるという情報を手にしていたので出かける予定を作っていたが、ゆっくりしているうちに昼飯の時間になり、食べてから行くという判断をしたおかげで14時すぎの出発になる。
それでもほぼ最短で投票所までたどり着くことができ、目当てのレースの馬券を購入した。しかしシェネルマイスターは一着にならず、なんとなく気になっていた名前のソングラインが一着になり、どうにも悔しい思いをする。余勢を駆るかたちで最終12R も戦うことに。一着予想を一番人気のマニバトラにして見事的中。しかし、それ以外の名前で票を投じたドラゴンゴクウやフィールザワールドの分の負けを回収するほどの勝ちにはならなかった。レースではエリカコレクトという馬が出走直後に躓き、ジョッキーを振り落としたかどで失格。ただ闘志まんまんではあったようで、レースが終わってからしばらくレース場を走っていた。本能がそうさせるのか日頃の訓練の賜物なのかわからないが、すごく速いスピードが出ており、その様子を見ていた観客のおじさんから「お前そんな速く走れるのか」という声が飛んでいた。それが人が乗って走るよりも速かったのかは、普段の走りを見ていないし一頭だけで走っているから他とも比較できないのでわからないが、この日走る姿がずば抜けて美しかったのはこの馬だった。
競馬に興じた後、近くの商業施設まで徒歩移動し、TOHOシネマズで映画を見る。ついに映画の通常料金が2000円になった。見たのは『怪物』。これが面白くて引き込まれた。是枝監督はこんなん言われたらきついやろうなあという台詞を言わせるのが上手で、序中盤の安藤サクラはかわいそうで見ていられなかった。
中盤でプレイヤーチャンジが起こってからは比較的安定してきたものの、別視点からの同時系列を再生という筋運びによりミステリー要素の答え合わせがされていくことで緊張感が持続した。
終盤へ向かうにつれ、それぞれにそれぞれの事情があるという是枝映画の約束がひとつずつ丁寧に果たされていき、良い映画のかたちになっていった。客観的には何も解決していないというふうにみえるが、主観的には一番大きかったわだかまりが解消されたようにみえるエンディングには、音楽のつよい力による後押しもあって感動させられた。映画として映画のカタルシスを描ききったことで、映画未満の物語、その不吉な存在を予感させるやり方になっているようにも思え、映画にできる映画外への関与は十分果たせる結果になったと思う。
坂本龍一の音楽がよかった。
あのラストシーンこそすべてであり、あのラストシーンはすべてでもなんでもないというのを同時に描くために、天候や自然光の力を借りた映画的な展開を全開にさせるというのは、やられてみるとそれしかないという感触が強くて、だからこそ当たり前の何でもない展開のように思えるので、ここは映画の評論家だったらしっかり褒めないといけないところだ。自然に流れるように描くと、受け取る側はそれを当たり前で特筆すべきものではないと受け止めてしまいがちだが、これは全然当たり前なんかではない。作る側はそのリスクについて考えるというようなせこい真似はしておらず、そのように受け止められようが構わないという姿勢を貫いているので(これは当たり前といえば当たり前だがやっぱり稀少だ)、今のはさりげないですが良いプレーですとスポーツ実況のアナウンサーに話しかける解説者のように、そこはきちんと言及されてしかるべきところだ。とくに是枝監督は、良い映画を制作し続けていることで作品を撮り続けることのできている監督だから、これからもその作品数は増えていくことになる。そして、是枝監督の映画には、作品数が増えれば増えるほど是枝節みたいな捉え方で済まされがちになっていく多くの美点がある。これを是枝作品の特徴として捉えるのは間違いではないが、同時にそれらが映画にとっての美点でもあることは思い出されなければならない。
単純に良いシーンがあるから良い映画という考え方に立っても、『怪物』はいい映画だった。泥に汚れて中を覗くことのできない窓ガラスを、大雨のなか必死になって何度も何度も拭く場面を窓の中から見るシーンは、拭く(=クリアにする)という意図とその目的が一向に成就されない様子を描きつつ、点々と一瞬だけ見えてはすぐ泥に隠される光がきれいで、しかもその視点が誰のものでもない架空の(幽霊の)視点であるというところも含め、映像とその映像を形作る運動とが2時間の映画全体を集約しているといっても過言ではなく、視覚を中心とした情報量が2時間分の重みを加えているという意味でもきわめて映画的なカットだった。映画のことを覚えているというときには、全体をこんなふうな映画だったと満遍なくイメージで記憶しているものだと思うが、なかには「この映画はこのシーン」というように、ある特定のカットが深く脳裏に刻まれて、その映画を思い出そうとしたときにまずはそのカットが取り出されるということが起こることもある。『怪物』にあのカットがあったことでそういう記憶に残る映画になった。たとえば『海街diary』にも『三度目の殺人』にもそういうシーンはある。並んでいく作品が仮に自己模倣だとすれば互いが互いを薄めあってもいいはずなのにそうならないということひとつとっても、強い映像を撮る映画監督だといえる。

今日
安田記念のレース直後、勝利者としてビジョンに大写しになったソングラインの顔から肩にかけての馬体前面に尋常ではないほどの血管の浮き上がりを見て、とにかくそれが一番の衝撃だったからそのことを朝起きてすぐ思い出し「競走馬 レース後」で検索したところ、レースを引退した馬の99%はそのまま食肉になるという衝撃の事実を知る。なにも動物愛護の精神が取り立てて豊富というのではないが、反射的に「それはないぜ」と思ってしまった。いろいろ考えてみたところ、食肉に反対はしないが、名前をつけた存在を肉にするのには抵抗があるという意見が自分にはあるということを発見した。すでに名前を覚えてしまった馬たち、シュネルマイスター、ソングライン、ドラゴンゴクウ、フィールザワールド、そしてエリカコレクトは肉にされないでほしいし、できればどこか広い草原で悠々と長生きしてほしいと思う。馬一般から固有のその馬という存在に変えてしまう効果が名前にはある。自分が嫌だからという主観に端を発している意見に過ぎないとはいえ、一度でも名前を呼んだ何かに対して冷徹に対処するというようなことを社会にはやっていてほしくない。そんなのは堕落じゃないかと思ってしまう。
教室で豚を飼う場合にもやりがちだが絶対にやってはいけないことは名前をつけることだと思う。そういえばニワトリ小屋のニワトリにも「ピーすけ」だか「ピーちゃん」だか、しょうもない名前が付いていたが、あれは彼女ら(たぶんピーちゃん)が産んだ卵を口にするだけだからまあセーフでいいか。
在宅仕事。先週から完全に落ち着いて余裕を持って定時を迎えられた。ただなぜかハイになって機嫌も良くてというふうに、仕事は嫌だったものの全体的に気分が良かった先週とは変わって気分が落ちている。心身の体調的になにかがズレているような感じがあって、そういう隙間をついお笑いのコンテンツで埋めようとしてしまう。とくに昼間に見た有吉の壁の録画分で、芸人たちがモノボケするコーナーでは自分でも違和感をおぼえるほどの大爆笑をしてしまい、それほどまでに疲れているのかと不安になった。たぶんそれを抜きにしても異常に面白い回だったとは思う。とくに、う大の「厨房にいるときの俺とだいぶ雰囲気ちがうだろ?」では笑いの最骨頂が出た。笑いの最骨頂とは何なのかわからないが、あまりにも面白すぎて面白いのが嬉しすぎて、そのボケに対して大ウケする芸人たちの表情を一時停止して見て悦に入っていた。こんな感じで俺は調子を上げていくんだと思う。その後、晴れだったので予定通りに洗濯機を回した。
芸人に対して”行き過ぎているモノマネ芸”を見せて、その迫真性の過剰さに芸人が笑うという構図で、なんだかわからないが、ギャラクシー!という感想を持った。
定時後スタバに行くも満席だったのでもうひとつのスタバに行こうと思ったが、(勝手な)義理もありタリーズに顔を出す。しかし、ラテの代金を払った直後に「90分制にご協力ください」と言われてしまう。それでは騙し討ちじゃないかと不満だし、それならもう二度とこないよと思う。しかし、そのあと黙々と90分を超えて150分まで作業をする。タリーズは適当なところが良いところだったということを思い出す。観葉植物の近くの席で、コバエが飛んでいるのはいただけないのでいずれにせよもう来ないが、それはそれとして。
本当に一度も行っていない。でも元気に営業しているようで何よりだ。

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