20230603

日記122

 

おなじみの顔

昨日

在宅仕事。一日雨だったが午後からの降り方がとくにひどかった。雨の音量が上がれば上がるほど家にいられて良かったと思う。ちょっと窓を開けてみたが瞬時に入り込んでくる雨水の量がなかなかだった。今日はなぜか機嫌が悪く、自分に当たりそうな気配があったので何かを考える気にはなれなかった。ので映画を見る。『ケイコ』をぼーっと眺めるように見たが、なんとなく見てなんとなく面白かった。その後酒を飲もうとするも、日記も書かないではなんとなく飲む気になれず、シャワーで気分転換をはかってからMacbookを開く。

やっぱり外に出るというのは思っている以上に大事なのかもしれない。一日家にいるとどうも気が塞いでしまうようだ。できないことばかりに気が向かう。できることに目を向けないと酸欠になってしまう。

こういうときにできる唯一のこと”早寝”をしようとするも、雨の音がうるさすぎて寝付きが悪く、結局いつもの就寝時間になってしまう。

機嫌が悪いときに機嫌が悪いなりの過ごし方をするというのが機嫌が良い状態を保つコツなんだと思われる。


今日

7時半に目覚めたが、これでは寝不足になるしあまり調子がよくない感じがしたので二度寝をする。起きたら10時前でうだうだしているうちに歯医者の時間になる。痛いのは前回で終わったと油断していたら不意討ちで痛いのがきてショックを受けた。しかしショックを受けているうちに治療が終わったという感じで助かった。担当してくれている歯科医は持って行き方が上手い。しかし来週の治療が今からもう気が重くてそれはこまる。どうでもいいことだが歯科医の待合で映画がかかっており、音がないけど字幕はあったので見ていたら、トム・ホランドとマーク・ウォルバーグが何かの財宝を狙っているようだった。シーンのつなぎ方というか映像意図のクリアさが昨日の『ケイコ』とは全然違っていて面白かった。どっちが良いとかはないんだけど『ケイコ』のほうが断然良いと感じる。ジャンルはちがうんだけどだからといって言い訳にはならない。ハリウッド映画の面白くなさはそのままハリウッド映画の安定感ということで評価すべきポイントなんだろうけど、そういう典型的な映画を見ているときに”わかりやすさ”を見ている気持ちになるというこちらの自意識の問題かもしれないが、俺はそれはあんまり良くないと感じる。MCUもそうだが、こうなってほしいとかこうなるだろうという方向にしか進まないので、ストーリーが面白い面白くない以前の問題だ。そういうのも年末に忠臣蔵を見るような気晴らしと祝祭をかねた映画視聴の体験だとすれば納得はいくが、そればかり見ているわけにもいかない。

音無しで、しかも待合の短い合間だけ見てこれだけつまらないと言われる映画はかわいそうだが、ほんの2,3分、ちょっと見ただけでこの映画は面白くないというのはわかると思う。ハリウッド映画のようにメソッドが確立されていて上下の区別をつけやすい映画であればなおさら。

しかし、昨日のメンタル不調は解消している。外に出たのと、歯科医の治療を終えたのと、雨が上がったのが同時にやってきてすっかり良くなった。やっと休日がきたという感じ。本当は金曜の夜からその気分でいたいところだけどこのまま憂鬱な月曜につながっていくよりかはマシだ。

自分にできないことを見つめてしまい不調に陥った昨日の件だが、調子を取り戻した今は、それを起因として落ち込んでいた昨日よりも簡単に取り扱うことができる。調子が悪いときにはその原因となった要因と時間的に近いから、鉄を熱いうちに打つのと同じ考えで、苦しい今こそこの苦しさの原因を摘出するんだという気持ちが働くが、やっぱり一晩寝てから考えるほうが考えるということに関してはしやすい。間違った考えになってもいいから感情の起伏や軌道を書き残しておきたいというのであれば、勢いに任せてばーっと書いてしまうのも手ではあるかもしれないが、昨日の自分の場合、テンションが落ちていてなおかつ書こうという気力も全然出なかったので、よけいに書けない方向に進んでいきそうだった。

自分には声がないということの自覚が、不調の原因だ。山崎正和の『不機嫌の時代』に「さばけた人間として社交場で活動したいのに、そうできていない自分を見出し、それが負のスパイラルに入ってよけいに気負ってしまい、どんどんさばけていない人間になっていってしまう。不機嫌な人間の誕生である」というような記述があったと覚えているが、そのコースを今の時代なりに自分なりになぞっていっているような感じがある。あれは自他ともに認めるエリートの話だったが、こちらはエリート自認が先走っている半エリートの話で、すこし(考え方によっては全然)違う。

たったの一年なのでこれが解決するということはないが、それでも諦めをブレンドして気にしないようにしながらやれることをやっていくという当たり前の対応策を選ぶことができている。先週末に座ったポーカーテーブルでも、こうありたいという頭のなかの理想像からそれなりに隔たっている実際を再確認することになった。それでもその事実に対してそこまでダメージを受けないというのは諦めの効能だろう。

ただいずれにせよ、「自分はこういう人間だ、こうあるべき人間だ」という自己認識と同時に働く規範意識が、深化の方向ではなく発散の方向をめざすときに特有の問題意識のありようだ。思い悩むということが、悩みの解消とは真逆の方向に作用するというジレンマがある。

とにかく明るく接するということができない。たとえば仕事の人や目上の人なんかと接するときに、いまだに「ちゃんとしないと」という意識があり、頭ではフランクに接したいと思うのに反して、緊張して話をしてしまう。緊張からそれを一気に壊す言葉をちょっと言って「笑い」という反応に変えるという必要に迫られての面白いコミュニケーションしかしてこなかったから、じわじわ安心感を与えていっていつのまにか馴染んでいくという王道のコミュニケーションが全然できない。そのための近道のひとつがとにかく明るく接するということなんだと思うが、もともとの性格が明るいということもあって、それを無謀と考えて違う道を行くということも選択肢になかった。ただ、自分の明るいというのは、暗い人に比べたら明るいということに過ぎず、根っから明るいというのではないのかもしれない。いや根っから明るいんだけど、人と接するときには怒られたくない警戒心から明るさを隠そうとするんだろう。それは根っから明るいとは言わないというのは他人からすればそうなんだろうが、自分としては安全な部屋のなかであれだけ明るいんだから、根は明るいということに間違いはないという気があって、それが対人の場面ではうまく作動しないことに自分事ながらフラストレーションをためているんだろう。ただ、本当に、根っから明るいので、そんなフラストレーションについてもすぐ忘れて踊りだしてしまう。し、踊っているうちにそれでいいんだと考えるようになる。家で踊るか、外でだんまりかの極端な二択しか今の自分にはなくて、その振れ幅が良いといえば良いけど良くないといえば良くないので、なんとかしようとして、外で歩きながらお酒を飲むなどして疑似開放的な気持ちを味わっているだけのようだ。それは街を自分んちの庭にしているだけのことで、アウェーで踊れるというのとはべつのものだ。それでも家でじっとしているよりは外に繋がっていくのではないかという期待がある。その期待が一番の気晴らしになるので、つよい雨などが降って家でじっとしているしかできないと、途端に気が塞ぐのだろう。在宅仕事のせいで、かえって家のなかで緊張してだんまり人間にならざるを得ないから、ひとりで外に出るのが家に帰ることのようになっているのだと思う。そして帰ってきたら、やっと家に帰ってきたということになる。そういうのもあって仕事終わりに家を飛び出すのは自分にとっては帰宅するために行う一連の儀式だ。こうして書き出してみると、上手い下手はわからないが一応対処しているなという感想を抱く。この安定は日々を楽しいものにするのに役立っているのは間違いないから、つぎはもっと声を出す方向へすすんでいくために何かの仕組みを導入したい。ちょっと前には音読をしたことがあったが、そういう物理的に声を出すことも再開したほうがいいし、それ以外の何かも思いついていきたい。考え込むより先に口が動くような会話が一番良いんだろうけど、家みたいな友人とそれをやってもしょうがない。ただお互い何かしらの負荷をかけて喋るというのはありかも。あとは昔の友人に連絡取ってみるとか。

日記を書くというのは、今の自分にとって声を出すことに一番近い。それが家でやることか外でやることかを分けるのが文体ということになるのかもしれない。外にいる人にも分かり良いように、スムーズに汲み取れるように意識して文章を書くということをやれば、もっと声を出すことに近づいていくような気がする。あまり頭を使わないで書くことで指の体操のようになるのも楽しいことなので、そこは使い分けていくところになる。

書いている途中にどういう言い回しをするか、どういう言葉を使うかというのは、これでもそれなりに気を回すところなのだが、文章よりももうすこし大きい単位、パラグラフなどで、どういう構成にするかというのは全然考える気が起きない。何らかの文章を書いたあと、それらを並び替えたり、並び替えたあとで文章を修正したりということは楽しくないし、それをやりたいという気も起きない。それは消極的に面倒だからというのではなく、積極的にそのままにしておきたいという気がつよいからだ。文章が「出た」「発出された」ということに価値を置きすぎているようだが、実際、その部分がなければそもそも書きたいという意欲も「出て」こない。「出す」意識を、文章の単位ではなくもう少し長くまとまった単位で感じ取るように調整するのがいいと思う。その意味でもツイッターは自分にとっては良くないツールだった。ツイッター→ミクシーだったら良かったのだが、実際にはミクシー→ツイッターだったので、文章の細かいところが気にかかる、もともとのみみっちさが強化されたように思える。

でもこれではいけないと思ってブログをはじめてとりあえず書くことを始められているので、自分にとって必要なことを見つけてそれに取り組むことが出来ているという一定以上の満足はある。声を出すに向かってすすむことは、文体をつくるという方向と重なる部分が大きい。というよりも、ほとんど同じことを話し言葉/書き言葉によって言い換えているのに過ぎないと思われる。

言いたいことがあればこの日記のなかで言うようにして、普段はあまり考えないでいるようにするということができているので、言いたいことが言えないでヤキモキするというストレスからは開放されている。考えないでいるとそのときに感じたことをパッと言えるようになる。そのやり方を自分の舞台だと感じる場所でもできるようになれば、さらにその先に行ける気がする。いずれにしてもそれは「準備をしない」のではなく、「準備を入念にしたうえでそれを忘れる」というプロセスを経るべきだろう。

帰宅して昼飯を食べ、サインフェルドを2話見て再度スタバに出かける。iPadを駆使し、小説の骨組みを考える。

何の昼飯を食べたのだったか思い出せない。このとき骨組みを考えていた小説については思い出せる。というか半年以上の中断を挟んでちょうど同じ作業を最近になってもまだやっている。骨組みを考える。

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