昨日
いつものように酒を飲んで帰るも、久しぶりに晩飯をもやしにする。翌朝に早出の出勤があるため早く寝る。22時半頃。
これから一回もやっていないので一年以上やっていないのかもしれないもやし飯。飽食対策にもなるし、そろそろまたやってもいいかも。
今日
出勤してゆるゆる働く。モチベーション管理をしなくても仕事をするのでたるい仕事をラクに片付けられるのが出勤の良い点だ。早出のため早めに上がれると聞いたから映画を予約したのに普通に打ち合わせに参加してくださいということになり定時5分前まで座らせられる。自分も他人の時間を好き勝手にできるという幻想を持たないようにしよう。好感度のようなものが控えめに言って大幅に下がった。ダッシュしたら映画には間に合ったから良かったが、新宿に向かう電車内でイライラが3,4回沸点に達した。あとTOHOのエレベーター内でも。
結局、駄目な職場には駄目な上司がいて、いい加減なことをやってくるわりに要求は当然という顔でしてくる。できることといえば可能なかぎりはやく離脱することだ。
『TAR』は今年の見てよかった映画No1かもしれない。オーケストラの指揮者を主人公に据えてそれをケイト・ブランシェットに完璧にこなさせるのが企画の勝利だといえる。わかりやすく頭抜けていて何度もため息が出た。最初クレジットが変だなと思ったが、ラストでズッコケさせられたうえ爆笑させられるというきれいなフリオチがハマっていて、ああそのためかと膝を打った。当然だが考えて作られている映画だから、ラストと最初がループを結ぶようにできているのも爆笑しながら拍手したくなるところで、拍手笑いというのはこうして起きるんだという実演になった。映画館なので心のなかで済ませたが。
通常言葉を乗せるためにある声から意味の通る言葉を取り去ってノイズにするという演出意図を、俳優の流暢な言語使いによって浮き上がらせるというのが見事だった。演説を聞き入ってしまうというときに起きることの半分は声の抑揚を味わうことで、残りの半分は言っていることの意味がわかるようにそれを追いかけることだというのがよく分かると思う。とくに冒頭から序盤にかけて、この人物はどういう人物なのか知ろうとするから自然にそういう事が起こる。ケイト・ブランシェットはアンドロイドのように魅力的だし。バッハを弾くまでの一連の流れなどは何度も見返したいぐらい良かった。
しかしそんな中でも「作曲家の目的を感じ取れ」「あいまいに指揮棒を振るな」「なんでも目的をもってやれ」というのは心地よいノイズのなかでうるさく響いてきた。自分の中の現代音楽を良いと感じる感性、あいまいだけど良いような気がするとか、良いと感じるために感覚的に退屈だと感じるものに対して譲歩する姿勢だとか咎められているような気がしてうるさかった。
全方向対応する棒は原理的にありえないというかそれを実現しようとすると棒状ではなくなるので棒は一方向特化で良い。そして棒を目指すわけではないのであれば棒の言うことを来にする必要はない。
ケイト・ブランシェットのスピーチ練習場面が中身ではなく抑揚をチェックするものだというのがこの映画の言いたいことの中心に重なるのだと思うが、中身をきちんと整えることでより外面が際立ったものに見えるということを理解したうえで脚本が書かれてあるので、すべてのシーンで見ごたえがあった。それというのもケイト・ブランシェットは画面に映っているあいだじゅうずっと喋っているから。喋らないでも意図のある行動をつねにしている。
しかし、この時代に、アンドロイドに完璧に寄せていくような方向性に類まれな俳優の技術・才能をこれでもかと存分に振り向けるというのは意義のあることだと思う。アンドロイドは無様にコケたりしないから、盛大にコケる場面から先はオチへむかっていく動きとして捉えられるが、あってもなくても良いものだと思う。ただ映画館であのエンドロールを迎えられたときのあの感覚はTAR以外では得られない特有のもので、TARの持つ目的、記憶の中に生き残ろうとする意欲的な面を文字通り全身に浴びることができたので、それのためにもあったほうが良かった。ただし映画館で見ないと半減以上なのは間違いない。歴史にも名だたる音楽家をクレジットする遊びというのはTARの発明だと思う。他にもそういう遊びをしている映画はあるのかもしれないがあんなにもバッチリ決まっているものはないはずだ。
映画を見終わって新宿から電車に乗ったのが21時ちょうど。すぐスタバに行ってこの日記を書き終えたのが22時すぎ。さすがに『TAR』を見てそのまま酒のんで寝るというわけにはいかなかった。(このあと酒のんで帰って寝るわけだが)
早出のために早起きをして、仕事終わりに映画を見たあとスタバに行くんだから大したもんだ。こういう日には酒を飲んでも許されると思う。