20230629

日記143

 

溶け出した赤

2023/06/28 昨日

ドルビーシネマでスパイダーマンアクロスザスパイダーバースを見た。ドルビーシネマは音も良くなかなかのものだった。最初のドルビーシネマ紹介映像が力作というか、見る側にも労力を要求するほどの長さがあって否応なく期待させられてハードルがあがっていたのにもかかわらず飛び越えたのでかなり良いと言ってもいいのかもしれない。IMAXレーザーでなくしてわざわざ上映館の少ないドルビーシネマを選ぼうとは思わないが、代替にはなる。

それとコンセッションでクレミアが売っていたので、いつか食べたいと思っていたことだしと思い、買って食べた。クリームが柔らかいというよりはユルく、期待したほどではないなと思ったときに、これを食べたことがあるのを思い出した。そのときもまったく同じ感想を抱いたので、忘れていた記憶にうまく結びついたのだと思う。この思い出したという感覚がなければおそらくまた忘れたことだろうと思うので、一歩前進ということになりそうだが、いつか食べてみたいなと期待する気持ちがはっきり失われたわけで、前進は前進でも苦い前進ということになった。

映画館を出たタイミングでは雨がぱらついていたものの、とくに本降りにはあわずに電車に乗って帰宅。酒を飲みながらスパイダーマン映画の感想を喋るYoutubeを見てしまう。つまらないことしか言わないとわかっているのに見てしまうのだから良くない。高橋ヨシキと仲間たちの番組ブラックホールだけが良い感想動画だった。他はみんな駄目。とくに宇野維正が駄目で苛ついたが、映画ベストのチョイスだけは正解を言い当てるので余計に腹立たしかった。なんとなくの印象だけど、感想の良い輸入元を知っているのだという気がする。たまにそれらしいことを言うときと、それ以外の地の文章での脇の甘さとが同一人物のものとは思えない。宇多丸も町山も岡田も全然ヌルい。ポジションへの突き上げがないから駄目なんだと思う。エッジの効いた批評コーナーというか、好き嫌いを全開にした感想動画はないのか。皆ちゃんとしたコーナーを目指そうとして退屈だ。


2023/06/29 今日

在宅バイト。朝からわけのわからん情報の整理に追い回されてブチギレながら働く。しかしそれを終わらした後は淡々とタスクを消化し、ほぼ残業なしで図書館に来る。

仕事を進めた後、借りる本を1時間以上かけてじっくりさがす。日記を書いて閉館5分前の図書館をでる。


20230628

日記142

缶開け口

 2023/06/27 昨日

スタバを出ておいしいお酒を飲んだ後、ダイエーに寄って帰りがけに、間接的な顔見知りとばったり出くわす。片手に持った氷結500を隠すような真似は一切しなかったが、不意撃ちだったこともあって動顛したままでの対応となった。ちょっとの会話を交わした後の帰り道ではすでにべつにいつも通りの対応だったか……と冷静になることができていた。帰って映像の世紀バタフライエフェクトのビートルズ回後編をみる。NHKが本気で団塊の世代を殺りにきているのが感じられて恐ろしかった。ラストカットのかっこよさはテレビの枠を越えていてどうかしてるぜと思った。12時すぎに寝る。


2023/06/28 今日

在宅バイト。一生懸命働いて残業をしないをテーマに頑張った。なんとなく自分のやっていることがわかり始めたタイミングで、わけわからんまま手を動かしている時期をひとつ抜けたのだと思うとすこし心丈夫になれてよかった。

残業なしで家を抜け出すことに成功する。『リバー、流れないでよ』という映画を見に行くためにチケット予約しようとしたところで、『スパイダーマンアクロスザスパイダーバース』の影がちらつき、それを見ないで見る映画でもないということにも気がついたので、結局ドルビーシネマ回があったのでこっちを見に行くことにする。

いつものように日比谷まで千代田線で出てきてから、有楽町の地下ドトールに行って一時間ほど仕事をする。店内に白いシャツをちゃんとした黄色にまで染め上げた猛者がいて異臭を放っていたせいで、すわ一大事、これは集中できないかと危ぶんだけれど、充分に離れた席を選ぶことで問題なく作業できた。いつもは日記を書いてから仕事にかかるのだけど、昨日書いた分を読むことから始めたので、日記をパスしてそのまま仕事に入った。昨日書いた文は残念ながらまるまるボツになったが、その分だけ方向が定まったという感じがある。文体のこともちょっとわかってきたかもしれない。視点はもっと思い切って動かしていい。

根拠なく21時閉店だと思っていたら20時閉店だったらしく、追い出される形になったので早めに劇場入りしてベンチで日記を書く。ドルビーシネマがどんなものなのか楽しみ。はたしてIMAXレーザー主義者の私を唸らせることはできるかな。

20230627

日記141

初夏の夜


2023/06/25 一昨日
日比谷野外音楽堂で、快晴の初夏の夕暮れの中、坂本慎太郎の音楽を聞くこと以上にチルくアガることはない。軽薄に言おうとしてしまうときは感想を諦めているときなのでそれで察してもらいたい。ただこれを書いている時点からの昨日に日記を書けなかったことで、ライブの記憶がその分遠くなり、結果として感想を書く気になっているのもあって、その勢いのまま書いてしまうと、坂本慎太郎が音楽をやることで伝えようとしていることというのは、誰もが言葉にしないままに済ませてしまっているいろんなことも含まれるのにちがいなく、ただ楽しいと言っているだけじゃ駄目なんだなということを、ただ楽しい場所とただ楽しい環境、ただ楽しいセットを通して逆説的に思わさせられた。反対するのではなく、ただたんに燦々と輝くことでアゲインストの立場を取りうるということ。それが実現するかどうかは音楽を聴いて受け取る側にまるまる残された仕事によって成否を分けるのだと思う。ただ楽しいだけに留まらない何かがあって、芯からゆっくり突き動かされる感覚に陥ったりしたが、自分の好きな坂本慎太郎の曲が聞けて単純に嬉しかったというのもあった。衝動がふたつに分かれて片方は速く飛び出でようとし、もう一方はそれよりもゆっくり打った。その反復が一定時間続き、飛び出でようとする自分とそれを抑え込もうとする自分とに分かれ、ふたりの自分が押し相撲のような変な動きのダンスを踊っているような感覚があって、しばらく夢中だった。エネルギーがあるんだから、それを一切無駄にしないで使い切るということが何より重要なんだと思う。飛び出でようとする衝動だけでは絶対に不可能だし、抑え込もうとするだけではうまくスパークしない。やっぱり両方の衝動を抱えているのが大事だ。ラジオ体操第一第二をやって寝る。
得たもの、得られたと感じられることがあったのだということはわかる。ラジオ体操をやって寝るのはわからない。不可解。

2023/06/26 昨日
在宅バイト。バイト以外何もしなかった一日だった。8時に終わって自暴自棄になっていたところ、トリキの誘いがあり、きわどく人心地がつく。地獄に仏とはこのことかという感じ。
他愛もないことを喋りながらまいばすけっとに寄って食料を買い込んで帰宅。映像の世紀バタフライエフェクトを見る。ビートルズ前編のっぽのサリー回。
バイトの作業をしながら音声を聞いてしまい、それで効率が落ちたことで残業になっているのだとしたら本末転倒なので今後あらためたい。ラジオ体操第一第二をやって寝る。
ラジオ体操というのは起き抜けにやるものであって寝しなにやることではないのでは。運動不足を何とかしようという意図は感じられる。

2023/06/27 今日
在宅バイト。動画を見たりなんだりしなかったからなのか、昨日頑張ったおかげなのか、今日は45分程度の残業で済む。スタバに行く。日記を40分ほど使って書いた後、仕事にかかることにする。
この日は結局22時すぎまでやったので2時間半分の進捗があった。書いたものがボツになる可能性はそれなりにあるのだけど、こうやって取り組めたことには、それがどこにも接続されないで終わるにしても、それ単体の満足感がある。こういうことを日記に書かなければならない。こういうのはどこからどう見ても前向きだから、書き残すだけの価値があると思う。
さあ酒を飲んで帰ろう。
ああ羨ましい。

20230625

日記140

高架下踏切

2023/06/24 昨日
代々木公園のドッグランの前で日が暮れるまで過ごす。途中ボードゲームで遊んだりするが基本的には犬たちを見続けていた。
参宮橋駅まで無駄に歩いて東北沢まで電車に乗る。RELOADの屋上で飲酒の続きをやってから9時ぐらいに引き上げ、下北沢の街をパトロールしてから30分には解散。
帰宅後映像の世紀バタフライエフェクトを見る。独ソ戦の回。地獄のと形容されるだけあってかなり恐ろしい映像だったが、なかでもインパクトがあったのは「戦車犬」の映像だった。
その他にも粗品の太客に会いに行くロケ動画を見たり国崎がBKBに髪の毛を切ってもらう動画を見たりして1時半頃に寝る。

2023/06/25 今日
朝から1日中家でごろごろだらだらする。夕方から漫画喫茶に行こうとして読む漫画を探しているとき、坂本慎太郎の日比谷野外音楽堂でのライブの日だったことをスマホの予定で思い出し、チケット予約しながらすっぽかすという大チョンボをすんでのところで回避できた。
気持ちをちゃんと作れていないままなので、会場に向かう電車の中でちょっと眠い。

20230624

日記139

 

下町スクーター

2023/06/23 昨日

午前中は在宅バイト。午後から研修のため門前仲町まで出かける。研修内容はほとんどラボでの実習だったが、これで賃金が発生するのはだいぶありがたい。

BIG-IPとかいうシステムの操作入門だったがその後仕事で使用することはなく全部忘れた。そんなに難しいことはやらないということだけわかった。

17時半に研修が終わった後は下北沢までまっすぐ帰り、スタバに行って読書と仕事。

『暴力をめぐる哲学』第二章 文化と暴力 新田智通

冒頭から途中までは面白かったのに、最後のほうに「ほんとうの」とか「本来の」とかが唐突にしかも留保なく出てきて一気に面白みを失った。善悪のビジョンを持たない視座というのが”哲学的に”暴力を語る上では必須の項目なのにも関わらず、善悪の判断を隠し持っていながらも尻尾を出さないようにして論じはじめ、文脈的に紆余曲折を経て、そこで道に迷うものがいるのを良いことに、いつの間にか素朴に善悪を語る平面上にあるゴールに向かっているというのは控えめに言っても詐欺の類だ。仏教学者が暴力を語ろうとするのであればまずは仏教をきれいに漂白してから出直してこいと言いたくなった。それで語ることが残らないのであればそれはそれだ。

きれいに漂白してというのは無理な注文だと思う。が、前提は先出ししておくほうが余計な反発を生まないで済む。最初から出すと読まれないおそれがあるという危惧はわかる部分もあるが、総合的に見るとやっぱり正々堂々というか公正さを意識するほうが得する部分が多くなると思う。とくに本のような活字メディアではそれが顕著だろう。

読書をはさみながらではあったが仕事はまあまあ捗った。というか前回前々回がひどかっただけでまあ普通程度の目に見える進捗があったにすぎない。でも当然無いより良い。


2023/06/24 今日

AMからの歯医者、散髪の予定を立て続けにこなしたあと、またスタバにきて読書。『犬からみた人類史』、犬と人間の視線受送信についての章だったが、面白かった。視線というのを相手にわかるように形作られたのが白目の中の黒目で、人やオオカミにはその形質があり、犬は黒目がちで視線を分かりやすくするかわりに、他から見たときの顔における目の割合を増やして「かわいい」と思われるように進化したというのがそれらしく聞こえた。自分にとっても視線のコミュニケーションはかなり重要かつ無意識領域で行われることなのでここをコントロールできるようになりたいという本章の内容とはあまり関係ないことを思ったりした。

気になるものがあったら有無を言わさず見ようとしてしまう。対象が人だったりすると失礼にあたらないように気を遣うことになるのだが、見てしまってから気を遣う方法は目をそらすことしかないので、結果的になんにも気を遣えていないことになっている。

このあとは代々木公園まで取材に出かける予定。夏の始まりといってもいい立派な温度なのでやや気が重いが、嫌な取材対象ではなくむしろ良い取材になるのは確実なので、一応楽しみが勝つ。

ドッグランに犬を見に行くだけのことを曰く有り気に書いていてみっともない。

20230623

日記138

 

2023年

2023/06/22 昨日

バイトの出勤日だった。出勤時も退勤時もすこし小雨がぱらついたがタイミングがよくて傘をささずに済んだ。帰りがけにスタバに寄って本を読む。『犬から見た人類史』『暴力をめぐる哲学』

フルタイムだが仕事と呼ぶのも嫌だったしとくに学ぶこともなくなっていたのでこのあたりからバイトと呼び始めたのだった。そうなると当然もっと割の良いバイトを探さないといけないはずなのに半年間もそれをサボってつまらない思いをし続けたのは単純に失敗だった。一応この後には学びというか仕事上で痛い思いをする一幕があったので無意味ではなかったが、なしで済ませられるならなしで済ませたいところ。それでも経験値を考えるとトントンになるから、なかったことにしたいとは思わない。

帰宅後アクロスザスパイダーバースのサントラを聞きながらちょっと踊る。自分の部屋で踊るダンスがいちばん楽しい。クラブなどの音響施設を貸し切って踊り狂う貴族の遊びをいつかやってみたい。寝不足解消のため23時には寝る。

サウナとかランニングとか、決められたフォーマットに乗るのって考える必要がないうえにそれなりに楽しいのは保証済みだから頭使わずにやれてそれはそれでいいものだと思うが、こういうふとした思いつきでやる遊びにはかなわない。部屋でやるダンスなんて、運動部門の一人遊びのなかでは断然トップの楽しさがある。賃貸だからヘッドフォンであまりドズドス鳴らさない配慮はいるけれど、そのとき自分が一番アガるDMを爆音で流しながらヘトヘトになるまで手足をジタバタさせて汗をかく。ムードによっては部屋を暗くしてみてもいい。こんなん最高の遊び以外の何物でもない。

20230621

日記137

 

富士見坂夕景

2023/06/20 昨日

スタバに22時半近くまでいたあと、例のごとく外で飲んでから帰る。ここでいう外で飲むというのは文字通り外で飲むことを指していて、料理屋や居酒屋、バーなどで飲むことを意味してはいない。その場合は店で飲むという言い方になる。外で飲むというときのほとんどは下北沢の周辺で、ベンチ、階段、歩きながら、あるいはそれぞれの組み合わせで、コンビニエンスストアかスーパーマーケットで買った缶チューハイを飲んでいる。大半は氷結無糖レモン7%だが、それが置いていない場合は各コンビニエンスストア売出しの安い缶チューハイを買う。セブンイレブンとファミリーマートは許容できるレベルだがローソンは不可、あとは無糖商品の場合セブンイレブンも不可(これが断トツひどい)。コンビニエンスストア商品の中ではファミリーマートの白いパッケージの無糖レモン7%がもっとも良い。

ファミリーマートの無糖レモン

帰宅後もやしと豆腐、味噌汁を食べて、少ししてから寝る。


2023/06/21 今日

未明頃に超大作を見たと思うのだが内容を思い出せず、興奮状態だけが残されているなか目を覚ます。もったいないと思って何もせずにじっと思い出そうとするが、端緒をつかめる気さえしなかったので2,3分で諦めた。

在宅バイト。午前中に業務引き継ぎの打ち合わせをやり、午後からは進捗報告の打ち合わせをやる。リモートでの打ち合わせが当たり前になっているが、対面のそれはどうやってやるのか今となっては全然わからない。

定時に即上がりして図書館に向かう。途中歩きながら夕ご飯の一本満足バープロテインを食べる。この日記の書き終わりが18時半なので、結構な時間を仕事に充てられることになる。単純計算で3時間半。

しかし、思いつかないのが苦痛でじっと座っていられず、図書館の本を眺めて回る。いくつか面白そうなタイトルを席まで持ってきて流し見するが、そのうちの7冊中3冊だけ読む気になった。2冊だけ借りて帰る。



20230620

日記136

 

あなたと

2023/06/19 昨日

図書館にいて仕事をする時間は結局40分ぐらいしか取れなかった。自衛隊の階級について調べ始めたらWikipediaの記述が想像したよりさらに厚くて目がチカチカした。自分から遠いものについて知るのが面白いときもある。

関係の部分が体系化されていると判断しなくて良くなるから楽で、その分、集団の動きが脊髄反射的に機敏になるという効果があるんだろう。

下北でちょっと飲んでから帰宅。寝る前にいらん動画を見てしまい寝る時間が遅くなる。これは二重に駄目な行動だ。

動画をみて寝る時間が遅くなったときにはもれなくそれを記述するようにしている。読み返してもらえればわかるけどたぶん一年で十日もないと思う。それは言い過ぎか。でも案外とそんなもんなのでは。


2023/06/20 今日

在宅バイト。タスク消化に一生懸命の日。定時から50分の残業をするが、それでも全タスク消化とはいかなかった。

終わってからプールに泳ぎに出かける。終わってからプール近くのスタバに行こうとするも満席で入れず。しょうがないので電車で下北まで戻っていつものスタバに行く。プールでは2種類の泳ぎ方を交互にやって楽しんでいる。ひとつは力を抜いた状態でできるだけスイスイと進むのをイメージするクロール、もうひとつは備え付けのビート板を借りてバタ足だけでゆっくり往復する脚のトレーニング。小一時間でしっかり運動した感じが得られる。

今日はこの後1時間半は仕事に充てられる。いい加減前に進んでいかないと。

この頃の希望に満ち溢れていた頃の俺。俺は創作においてどういう姿勢を選んでいるかとか益体もないことを語っていないで、すこしでも前進しなければならない。ただ駄目だとわかっている小説を書き進めるのは前進している感覚を得られるのみで前進とは異なるというのもはっきりしているので簡単には進まないところ。

20230619

『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』を見た2

3日と空けずに2回目を鑑賞した。それが必ずしも良いとは言えないというかはっきりわるいと思うが、前回よりも冷静に見れてしまった。

IMAXレーザーで見たが少し後ろの席だったこと、何より二度目の鑑賞だったことで、一回目ほどの感動は得られなかった。予期していたとはいえやはり切ない。自分としては何回見ても面白い映画こそ面白い映画だという基準を持っており、その基準には沿わなかった。これはわりと普遍的な基準でもあると思う。しかし、最初の一撃にすべてを賭けるような映画体験を作るという、この基準に反したやり方もあり得ると知った。3部作のなかの2作目というもっとも宙ぶらりんなところに思い切って「一撃」を持ってくるのは、かなりクールな判断なのではないかと思う。第二幕の幕引きが良すぎて心配になる。第三幕が楽しみな反面、これは越えられないのではないかという心配がある。あとは個々の想像に委ねる式に投げてしまってこれで完結でも正直いいぐらいだ。

マイルスがなぜスパイダーマンのなかでも特別なのかについて、説明の仕様はある。

まず、同じような能力を持ったスパイダーマンたちからマイルスモラレスが逃げ切れるのはおかしいという指摘について、これはスパイダーマンというヒーローのイメージに関わることでもあるのだが、単純にスパイダーマンというヒーローは追いかけるよりも抜け出したり逃げ出す方が得意なヒーローだから、どのスパイダーマンがその他大勢のスパイダーマンから逃げ出してもそれなりに逃げ延びられると想定できる。18人全員一流のピッチャーで野球の試合を組めば滅多に起こらないとされる完全試合が起きる確率が高くなるようなものだ。さらにマイルスの特殊能力が逃げること・隠れることに特化したものであることも大きい。

あとは、マイルスにはフォロワーがたくさんいる。これはマイルスに追っかけ(フォロワー)を獲得できる条件が揃っていたということもある。マイルスがホームに帰るためにとった作戦は、ミゲル・オハラの指令に対して”すべての”スパイダーマンが忠実にマイルスを追いかけないかぎりは達成しづらいものだった。これをミゲルの統制力の高さで説明してもいいが、マイルスを追いかけたいという気持ちがスパイダーマンたちから湧き立ってこないと難しいのではないかと思われる。ホービーとまではいかないでも、スパイダーマンは他のヒーロに比べてそれなりに奔放であることが予想されるから、一律に繰り出される号令に対して全員で参加するというのは考えづらい。そうだとするなら、マイルスを追いかけたいという内発的な願望を他のスパイダーマンたちが抱いていたのだということが考えられる。その理由は、それこそひとつということはできないだろうが、基準(カノン)を破ろうとする在りし日の自分自身の影を追いかけたいという止むに止まれぬ願望も含まれていたのではないだろうか。あるいは、もし自分がマイルスと同じ立場だったらどうするかということを考えたくて、わけもわからないまま追いかけているということもあるかもしれない。単純に親切心からマイルスを止めなければならないとの義務感に駆られているのかもしれない。どのような理由があるにしても、彼らすべてにマイルスと関わりたいという気持ちがなければ追いかけっこは成立しない。能力的にも、理想的な考え方としても、ヒーローである彼ら自身がそうできたらいいなと内心で思うような場所へ抜け出そうとしているマイルスをフォローしたいという想いを表しているのがあのチェイスシーンだったと考えられる。われわれが全力で追いかけて、それでも捕まえられないとするなら、それは逃げ出しているそいつが特別な存在であるということを意味する。だからチェイスそのものがスパイダーマンたちによる百人組手の試験を兼ねていて、マイルスは試験に合格したということがいえる。

なぜ合格するのかといえば、その舞台がマイルスモラレスを主人公とする映画であるということが理由になる。たまたま主人公だったから、彼がもっとも影響力を持つスパイダーマンであるという説明は納得しづらいものかもしれない。しかし、そこに説得力を持たせる唯一の方法がある。それは主人公にかっこよさという性質を付与することである。そして、スパイダーマンをはじめ、ヒーローにはその強さとかっこよさとに相関がある。これはほとんど因果関係といっても良いものだ。

強いヒーローはかっこいいという因果があるとすれば、それをひっくり返して立っているのがスパイダーマンというヒーローだ。つまり、かっこいいヒーローはだから強いという因果関係になっているのだ。かっこいいスパイダーマンは強いという相関が成り立つのが、スパイダーマンというヒーローの特徴なのである。多くのスパイダーマンがNYをホームにして活躍しているのも、この相関に影響を受けてのことだ。文化的にもっとも栄えている都市にいるほうがかっこいいという性質のためには有利だからだ。

『スパイダーマン:スパイダーバース』が何をしようとしていたかというと、マルチバースの物語を構築するということではない。この映画が最近よくあるマルチバースものという枠に収まらないのは、マルチバースが手段であって目的ではないからだ。マルチバースの映画を作るためにスパイダーマンをモチーフにしてみましたという領域には最初からいないのだ。

マイルスモラレスというもっともかっこいいスパイダーマンを生み出すことで、「スパイダーマンといえばピーター・パーカー、ピーター・パーカーといえばスパイダーマン」というお約束を打ち破ろうとしている。すべてのスパイダーマンを登場させ、そのうえでもっとも【かっこいい=強い】スパイダーマンをマイルスモラレスにするという目的のためにマルチバースが存在している。マイルスが追いかけっこで他のスパイダーマンに遅れをとることはありえない。それはマイルスがもっともかっこいいスパイダーマンを決める競争で絶対に負けないからだ。マルチバース展開は、この映画がすべてのスパイダーマン映画の頂点に立とうとして企図されたものだ。かつてのスパイダーマンをめぐる利権闘争は、いつの間にかどのスパイダーマンがもっともかっこいいかという人気投票に取って代わった。いろいろなスパイダーマンが並列に存在して良いということになれば、もっとも重要になるのはどのスパイダーマンにいて欲しいかという願望ということになる。

マイルスモラレスが代表する人物像にはかっこいいということに対する闘争の歴史がある。レースがあるということはそこでの闘争においてもっともはっきり明確に意識される。今日、「だれがもっともかっこいいか」という人気投票以上に苛烈な投票はない。そこに向けて全力疾走している映画が面白くないわけがない。とりあえず人気ヒーローをたくさん登場させて、単純接触効果よろしくファンの数を増やそうというせこい作戦しか思いつけない映画とは比べるべくもないのだ。


サッカーではそれなりに広いフィールドでプレーが行われるが、ゴールがどこにあるかはピッチのどこに立ってもはっきりわかる。点取り屋たるストライカーは基本的にゴールの近くにいればいい。しかし、ゴールがどこにあるかわからないほど広いフィールドでプレーする試合では、サッカー以上にゴールへの嗅覚を必要とする。まずそこに進んでいけるかどうかというのがそのままストライカーの能力になる。スピードの速さも能力だが、このゲームにおいてはゴールへ向かう方向感覚ほど重要な能力はない。マイルスがとくに優れているのはこの力であって、それに比べれば電撃が出せるとか、透明になれるというのは賑やかしのアビリティにすぎない。そしてマイルスの力はマイルスだけから出てきたものではない。周囲から与えられたものである。その作用が何よりも強力であるとすれば、それはそのまま、その反作用の強力さを意味する。必要なときに必要な場所にいること、それがストライカーの天分のほとんどすべてであると言ってもいい。これはサッカーにおいてもそうだ。それよりもはるかに広い、宇宙を越えた広さを持つ領域でプレーされるゲームにおいては尚更そうであるだろう。無限の力を利用したビームを打ち出すなどは児戯にも等しい。ただまあ、そういう技には強さに裏付けられるかっこよさがあるから児戯に等しいとはいえ侮れなかったりするのだが。




日記135

 

across the universe

2023/06/17 一昨日

昼過ぎまで前日に見た映画『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』のことを考えたりする。

それから外出して町屋まで行く。一度も降りたことのない駅だったのでフルコンプリートに一歩近づく。到着して駅周りを軽く一周したあとセカンドストリートで古着を見る。下北沢からわざわざ出かけて古着屋に行くというのは一見おろかな行為のようだが、じつは得るところが大きい。それというのも下北の古着屋ばかりに行っていると、価格帯があがっていることに気づかなくなっていくからだ。古着というのはとくに下北沢・高円寺あたりでおしゃれ市民権を得た呼称だが、要するに中古服のことだ。定価の半額以下でないと本来おかしい。たとえば古本のことを考えるともっと安くなっていても良いはずのものだ。在庫のこととか諸々あるのだろうがごく単純に考えてワゴンの中に100円で置いていてもおかしくないはずのものだ。

町屋のセカンドストリートは品揃えはそれほど、価格も安いわけではないという結果だった。23区内で駅前だし、まあそんなものだ。

そのあと歩いて北千住まで行く。暑い中歩くのは大変だったが、途中無駄に荒川を横切ったり、河川敷で野球やサッカーに興じる子どもたちをちょっと眺めたりした。そして歩き疲れたり日焼けしたり喉を乾かしたりした。

駅前の芸術センターの角でテラス席のある居酒屋に入って飲んだビールがうまかった。

下北沢まで戻ってから少しだけ外で飲んで、バーに入って一杯だけもらって23時半ごろに帰る。オーナーだか店長だかが5月末で辞めたらしく、複数のカクテルメニューの作り方が散逸したとの話。


2023/06/18 昨日

日のあるうちは一日家にいた。お昼には茄子の煮浸しという美味しいご飯をいただく。

スパイダーマンの映画まとめを動画で流したあと、『スパイダーマン:スパイダーバース』を視聴してもらう。下北のバーキンででっかいハンバーガーを食べてからIMAXレーザー20:40の回を見に行く。アメリカ人が食べるようなでっかいハンバーガーはアホな食べ物代表としてかなり好きだ。何にせよそうなんだと最近になってまた気づいたのだが、自分は何かしらの「過剰」があるとすぐ反応して嬉しくなる。量が多いというのもそうだ。そこに質が載ってくると手もなくなびいてしまう。片方でもすごいと思うものが両方あるというのが嬉しいのだ。

IMAXレーザーで見たが少し後ろの席だったこと、何より二度目の鑑賞だったことで、一回目ほどの感動は得られなかった。予期していたとはいえやはり切ない。自分としては何回見ても面白い映画こそ面白い映画だという基準を持っており、その基準には沿わなかった。これはわりと普遍的な基準でもあると思う。しかし、最初の一撃にすべてを賭けるような映画体験を作るという、この基準に反したやり方もあり得ると知った。3部作のなかの2作目というもっとも宙ぶらりんなところに思い切って「一撃」を持ってくるのは、かなりクールな判断なのではないかと思う。第二幕の幕引きが良すぎて心配になる。第三幕が楽しみな反面、これは越えられないのではないかという心配がある。あとは個々の想像に委ねる式に投げてしまってこれで完結でも正直いいぐらいだ。

マイルスがなぜスパイダーマンのなかでも特別なのかについて、説明の仕様はある。

まず、同じような能力を持ったスパイダーマンたちからマイルスモラレスが逃げ切れるのはおかしいという指摘について、これはスパイダーマンというヒーローのイメージに関わることでもあるのだが、単純にスパイダーマンというヒーローは追いかけるよりも抜け出したり逃げ出す方が得意なヒーローだから、どのスパイダーマンがその他大勢のスパイダーマンから逃げ出してもそれなりに逃げ延びられると想定できる。18人全員一流のピッチャーで野球の試合を組めば滅多に起こらないとされる完全試合が起きる確率が高くなるようなものだ。さらにマイルスの特殊能力が逃げること・隠れることに特化したものであることも大きい。

あとは、マイルスにはフォロワーがたくさんいる。これはマイルスに追っかけ(フォロワー)を獲得できる条件が揃っていたということもある。マイルスがホームに帰るためにとった作戦は、ミゲル・オハラの指令に対して”すべての”スパイダーマンが忠実にマイルスを追いかけないかぎりは達成しづらいものだった。これをミゲルの統制力の高さで説明してもいいが、マイルスを追いかけたいという気持ちがスパイダーマンたちから湧き立ってこないと難しいのではないかと思われる。ホービーとまではいかないでも、スパイダーマンは他のヒーロに比べてそれなりに奔放であることが予想されるから、一律に繰り出される号令に対して全員で参加するというのは考えづらい。そうだとするなら、マイルスを追いかけたいという内発的な願望を他のスパイダーマンたちが抱いていたのだということが考えられる。その理由は、それこそひとつということはできないだろうが、基準(カノン)を破ろうとする在りし日の自分自身の影を追いかけたいという止むに止まれぬ願望も含まれていたのではないだろうか。あるいは、もし自分がマイルスと同じ立場だったらどうするかということを考えたくて、わけもわからないまま追いかけているということもあるかもしれない。単純に親切心からマイルスを止めなければならないとの義務感に駆られているのかもしれない。どのような理由があるにしても、彼らすべてにマイルスと関わりたいという気持ちがなければ追いかけっこは成立しない。能力的にも、理想的な考え方としても、ヒーローである彼ら自身がそうできたらいいなと内心で思うような場所へ抜け出そうとしているマイルスをフォローしたいという想いを表しているのがあのチェイスシーンだったと考えられる。われわれが全力で追いかけて、それでも捕まえられないとするなら、それは逃げ出しているそいつが特別な存在であるということを意味する。だからチェイスそのものがスパイダーマンたちによる百人組手の試験を兼ねていて、マイルスは試験に合格したということがいえる。

なぜ合格するのかといえば、その舞台がマイルスモラレスを主人公とする映画であるということが理由になる。たまたま主人公だったから、彼がもっとも影響力を持つスパイダーマンであるという説明は納得しづらいものかもしれない。しかし、そこに説得力を持たせる唯一の方法がある。それは主人公にかっこよさという性質を付与することである。そして、スパイダーマンをはじめ、ヒーローにはその強さとかっこよさとに相関がある。これはほとんど因果関係といっても良いものだ。

強いヒーローはかっこいいという因果があるとすれば、それをひっくり返して立っているのがスパイダーマンというヒーローだ。つまり、かっこいいヒーローはだから強いという因果関係になっているのだ。かっこいいスパイダーマンは強いという相関が成り立つのが、スパイダーマンというヒーローの特徴なのである。多くのスパイダーマンがNYをホームにして活躍しているのも、この相関に影響を受けてのことだ。文化的にもっとも栄えている都市にいるほうがかっこいいという性質のためには有利だからだ。

『スパイダーマン:スパイダーバース』が何をしようとしていたかというと、マルチバースの物語を構築するということではない。この映画が最近よくあるマルチバースものという枠に収まらないのは、マルチバースが手段であって目的ではないからだ。マルチバースの映画を作るためにスパイダーマンをモチーフにしてみましたという領域には最初からいないのだ。

マイルスモラレスというもっともかっこいいスパイダーマンを生み出すことで、「スパイダーマンといえばピーター・パーカー、ピーター・パーカーといえばスパイダーマン」というお約束を打ち破ろうとしている。すべてのスパイダーマンを登場させ、そのうえでもっとも【かっこいい=強い】スパイダーマンをマイルスモラレスにするという目的のためにマルチバースが存在している。マイルスが追いかけっこで他のスパイダーマンに遅れをとることはありえない。それはマイルスがもっともかっこいいスパイダーマンを決める競争で絶対に負けないからだ。マルチバース展開は、この映画がすべてのスパイダーマン映画の頂点に立とうとして企図されたものだ。かつてのスパイダーマンをめぐる利権闘争は、いつの間にかどのスパイダーマンがもっともかっこいいかという人気投票に取って代わった。いろいろなスパイダーマンが並列に存在して良いということになれば、もっとも重要になるのはどのスパイダーマンにいて欲しいかという願望ということになる。

マイルスモラレスが代表する人物像にはかっこいいということに対する闘争の歴史がある。レースがあるということはそこでの闘争においてもっともはっきり明確に意識される。今日、「だれがもっともかっこいいか」という人気投票以上に苛烈な投票はない。そこに向けて全力疾走している映画が面白くないわけがない。とりあえず人気ヒーローをたくさん登場させて、単純接触効果よろしくファンの数を増やそうというせこい作戦しか思いつけない映画とは比べるべくもないのだ。


サッカーではそれなりに広いフィールドでプレーが行われるが、ゴールがどこにあるかはピッチのどこに立ってもはっきりわかる。点取り屋たるストライカーは基本的にゴールの近くにいればいい。しかし、ゴールがどこにあるかわからないほど広いフィールドでプレーする試合では、サッカー以上にゴールへの嗅覚を必要とする。まずそこに進んでいけるかどうかというのがそのままストライカーの能力になる。スピードの速さも能力だが、このゲームにおいてはゴールへ向かう方向感覚ほど重要な能力はない。マイルスがとくに優れているのはこの力であって、それに比べれば電撃が出せるとか、透明になれるというのは賑やかしのアビリティにすぎない。そしてマイルスの力はマイルスだけから出てきたものではない。周囲から与えられたものである。その作用が何よりも強力であるとすれば、それはそのまま、その反作用の強力さを意味する。必要なときに必要な場所にいること、それがストライカーの天分のほとんどすべてであると言ってもいい。これはサッカーにおいてもそうだ。それよりもはるかに広い、宇宙を越えた広さを持つ領域でプレーされるゲームにおいては尚更そうであるだろう。無限の力を利用したビームを打ち出すなどは児戯にも等しい。ただまあ、そういう技には強さに裏付けられるかっこよさがあるから児戯に等しいとはいえ侮れなかったりするのだが。


2023/06/19 今日

在宅バイト。月曜日の憂鬱のせいでタスクもそれなりにあったのだがあまり捗らず。午後になっても月曜日の憂鬱とか言っている場合ではなかった。明日しっかりするという意志をこめて定時に即終了し、図書館にくる。

書こうとしている小説については一切言わないようにすることが大事だと思った。話すとその段階でいささか成仏してしまう魂があるような気がする。まあ気がするというだけだが、書いている途中でそれに言及すると続きがうまく書けなくなるジンクスもあるという気がするし、小説のことをこの日記に書く場合も、たんに仕事した。とか〇〇時間仕事。とか書くのがいい。お金稼ぎの仕事のことはこれからはバイトと呼ぶことにする。日記書いているうちにスパイダーマンのことを書き始めてしまい時間がとられ、ろくに「仕事」できなかった。小一時間仕事して帰る。

20230617

『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』を見た

自分は映画の前情報はなければないほど良いと思っている。言い方をかえると、その映画が面白いかどうかという評判なんかも決して小さくないネタバレだと思う。

ではどうやって上映している映画が面白いかどうかを判断するのかというと、これはもう嗅覚によるしかない。面白い映画に引き当たる嗅覚だ。そして、嗅覚だけに頼って映画を見るというのは、ハズレで全然面白くないかもしれないというがっかりを引き受けることでもある。

面白い!という感動をもっとも身中に引き込めるのがこのやり方なのだ。面白い!に対して作者ができることは作者の領分の中にしかない。じっさいに作品からどれだけ感動を引き出せるかについては、じつは鑑賞者の領分によるところも大きい。大いなる期待を寄せてその映画を心待ちにして、体調もろもろを整えて、一番良い映画館設備(IMAXレーザー)のできるだけ良い席を確保して見るということはある特別な体験を得ようとするときに必要となるセットだ。

これは原理的な話だが、本来、人は心を動かすために映画を見るはずだ。その映画を見ることが、自分のこの心を動かすという作用を及ぼすと考えて、映画館に行ったり、再生ボタンを押したり、アプリを起動するという行動に出ているはずだ。

この「どれだけ心を動かされるか」という問題について、たとえばジェットコースターに乗るということを考えてみても良い。ただ座っているだけでも、相応の高さにまで物理的に押し上げられたうえ一気に急降下させられることによって、身体的な危機感に根ざした動揺が引き起こされ、心を動かす仕組みになっている。

ジェットコースターに乗るときに起こっていることを客観的に考えてみれば、ただそれだけのことだ。ただし、実際にはそこに具体的な個々の経験が乗っかってくる。久しぶりの遊園地なのかもしれないし、はじめてのデートで行くのかもしれない、人生で最初に乗るジェットコースターということだって考えられる。夏なのか、寒い冬なのかでも条件は変わってくる。盛り上がろうとする気持ちが先走り、楽しむことがプレッシャーとなってどこか空回りしてしまうようなこともあるかもしれない。そういうときにはジェットコースターに乗って、どこかホッとするような感情が湧くことも考えられる。スリルによってなかば強制的に心が動かされたことでノルマを達成でき、あとの遊園地をリラックスして周遊できるという場合などだ。

ジェットコースターがやっていることは単純なことだ。しかし、そこから何を引き出せるのかということを抜きにして、ジェットコースターを語ることはできない。そういう意味で、ジェットコースターにはネタバレは存在しない。あの構造物を見たままの体験を与えてくれる。

これとほとんど同じことが『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』を見るときに起こっている。これは重要なネタバレではないが、しかし、この作品はジェットコースターに似た体験をもたらしてくれるとはいえジェットコースターではなく映画だから、これだけの指摘であってもやはりこの映画にとってはネタバレにあたる。

せっかくなのでネタバレだけではなく注意点を挙げると、今作は純度の高い続編として制作されているので、先に『スパイダーマン:スパイダーバース』を見ておくことは必須となる。

(あとは字幕版で見るのが良いと思う。自分は基本的にアニメは吹き替えで問題ない派というか、トイ・ストーリーなどは吹き替えのほうを選びたいと思っているが、本作はNY文化(的なもの)との結びつきが強い、いってみればローカルな映画なので、登場人物が日本語で話すことに違和感が出ると思う。あとは日本語の歌があまりいけていない(MVで本編映像が使われていてそのダサさにテンションが下がってしまった)ことも大きい。)


ネタバレを続けると、テイストが若干だけ変わった。音楽がお茶目さを通してかっこよさに結びついたクールさが前作『スパイダーマン:スパイダーバース』だとすれば、音楽が直でかっこよさと切なさに結びついたクールさが今作『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』だといえる。また前作との比較でいうと、カメラはスパイダーマン(マイルス・モラレスと、)に少しだけ近寄り、ぐいっとズームインした印象だ。

あとはモチーフがどれもこれも素晴らしいと思う。端的に好みに合う。

場面ごとの色調、ひっくり返ったビルの稜線、雨降りの夜、投げられたベーグル、そして……、

そして、モチーフがビジュアル表現とがっちり結びついている。その結びつき方にそれまでにない新味を感じるのだが、それは新しいのと同時にそれしかないという収まりの良さも感じさせる。オマージュだったり、カメオだったり、そういうものを見せられると脳神経がスパークして反応させられるということがあるようだが、そして今回はそういった効果を惜しみなく使っているのだが、そこにちょっとした遊び以上の意味を付与しても詮無いことだろうし、基本的には目眩まし的な効用を狙っているはずなので意識の流れをそこで止めないほうが良いと思う。まあそんなことを注意しないでも、演出のほうで流れるように調整しているとは思うが。


『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』を一言であらわせば、ジェットコースタームービーということになる。最初に見た(乗った)ときの感動にフォーカスしているのは間違いないはずだ。情報の奔流を文字通りに全身で浴びる体験は、その整理に追いつかないときにかえって受け取れる享楽が最大化する。それでも振り落とされないのは、マイルス・モラレスの動き(フィジカル・メンタル・エモ)すべてに付いていけるように物語が構成されているからだ。

ただ、『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』を単純な物語だと言うのには無理がある。台詞の有機的なつながり(それが独白だったのか誰に向けて放たれた言葉だったのかによっても意味合いは変わる)が、地上絵のように大きな模様を成しているという仕掛け、

デタラメに街をスイングしているように見えて(カメラはそのアクションにひたりついて追いかけるから当然なのだが)、どこかに向かっているというような意図の隠し方、張り巡らし方を見るにつけ、レイヤーは少なくとも主要登場人物の数だけあると感じさせる。マイルス・モラレスの物語という主軸はブレないが、それ一本で見るという単純なものの見方に留まらないかぎり、この物語を単純とはみなせない。しかし、それ一本で見ても充分な見ごたえがあるというところにこの作品の稀少さがある。糸一本にもう一本付け足すだけで、複雑さは奇妙なほどに膨れ上がる。沿わせるのか、横切らせるのか(その場合どの角度で?)、それが問題になるからだ。

とにかく心動かされ心打たれての2時間半だったが、どれかひとつを挙げるなら、夜のNYに降る雨にもっとも心打たれたかもしれない。単純だが力強い線に。




20230616

日記134

 

みぴょこぴょこ

2023/06/15 昨日

スタバに8時半頃までいたあと鳥貴族に行って酒を飲む。キャベツをしこたま食って、でかいジョッキで金麦をのんで、鳥を好きなだけ食べてひとり1200円っていうのは男爵じゃ効かない貴族っぷり。

帰ってから映像の世紀バタフライエフェクト、ベルリン戦後0年の回を見る。戦後困窮するドイツ人を見ながら「貧しい欧米人を映像で見たのはじめて」という声が聞かれて、たしかにそうだなと思うなど。

寝しなに『V.』を読んで23時台には就寝。うすうす気づいていたけど、自分が小説を書こうというときに読むものじゃない。誰の小説でもそうだけどピンチョンのはとくにそうだ。

場転がどんな感じだったか思い出せなかったので参考にするつもりで読み始めたら止まらなくなっている。

書けるものしか書けないから書けることを書くしかないわけだが、書けることに必然性がないとそもそも書こうと思えない。書きながら考えるという考えが甘い。甘い見立てだろうがどこかのタイミングで踏み切らないと始まらないというのは理解しているが……。


2023/06/16 今日

7時に起きて『V.』の続きを読む。そのまま在宅勤務。今週のタスクを全部きれいに消化。定時ダッシュで最寄り駅に飛び込む。18時上映の『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース(IMAXレーザー)』のため。

スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバースを見てきた。自分が今まで経験してきた中でも一番良い映画体験だった。動揺しすぎて帰りの電車内でもまだドキドキする。アニメーションもアクションもとにかくよく動いていたが、一番動いたのは感情だった。動かされたという感覚を置き去りにして、自発的に、受動的にという区別もつかないままただ動いた。ジェットコースタームービーではあるが、そもそもの質も高いはずなのでその確認のためにもう一回見に行かないといけない。

上映からようやく一年経ったのかと驚いた。この初回の視聴から何回見たかわからない。のでもっと昔に上映されたものとばかり思っていた。しかし最初の興奮と感動はやっぱり一番大きかった。マイルス・モラレスが鏡像反転する場面は本当に痺れた。ビリビリ来た。

20230615

日記133

 

左高井戸、右代田橋


2023/06/14 昨日

肝心の小説を一文字も書けないで、どんな小説を書きたいのかということをくだくだと書き立てた。そんなことをしているうちに時間になったので電車に乗って帰宅。途中酒を飲んで、無人販売所のちいさな花束を買って帰る。

作品に高下はない、あるいは、どの作品にも見るべきところは必ずあるのでそれを見ないでどうでもいい作品扱いするのは結局自分自身にとっての損失になるという話がある。あまねくすべての作品に触れてもまだ時間が余るというのであれば自分も大いに賛成したいスタンスだ。時間が限られていると考える派にとっては、作品についての自分なりの高下を示すのは便宜になる。ネットワークにFIFO(ファーストイン・ファーストアウト)という仕組みがある。はじめにきたデータをはじめに出すという単純なやり方で、わかりやすさという点で優れている。しかし、データにも重要なものとそうでもないものがあるというようにそれぞれ重み付けが異なる。また、一回でやり取りできるデータ量にも制限があるとする場合、FIFOは良い仕組みだとは言えない。そこで優先度に応じてデータをやり取りさせるべつの仕組みが重要になってくる。優先度を自動でつけるようにしておく(社会に任せる・ネットワークサービスが提供する優先度にしたがう)というのもひとつのやり方だろうが、自分にとってそこまで重要ではないものは除き、優先度付けの判断は自分でできるようにしておくべきだ。そして、自分にとってそこまで重要でないものでそれなりに時間をとるものを人に薦めるのは控えるべきだ。


2023/06/15 今日

在宅仕事。どの職場でも、数は多くはないものの喋りやすいと感じる人は一定数いる。自分が喋りやすいと感じるとそのモードに入って喋れるようになるので、大体いつも話せば話すほど好転していく。自分にとってどういう人が喋りやすいかというとわかりやすい共通点があって、隙があってあまり器用じゃないというタイプだ。彼らを見ていると同類だなと思うから、こちらも胸襟を開いて喋れるようになる。自分は隙だらけだがそれをどうにか隠そうとするので、その過程でむっつり黙り込むということをしてしまっている。向こうが喋りやすいと思ってくれるような開き方ができればいいと思う。

しかしどう見ても器用なタイプに見えないだろうから、それで喋りやすくならないならそいつのせいだろと思うぐらいだが、隠そうとしたり気まずくなって逃げたりするからぎりぎりのところでそうならないんだろう。隙は見えているだろうから一番損というか良くないポジションでやっている感じだ。ただ、今日は一番喋りやすい人と打ち解けた感じの打ち合わせで仕事なのに楽しいぐらいだった。

定時後、雨だったので図書館に行くのは断念したが、スタバには行こうと思って出かける。こういうベストを放棄しつつベターな判断ができるのが自分の良いところだ。もし家にいたら、ただただだらけて一日が終わるというのは充分理解している。そういう一日を多く経てきた、いわば年の功があるのだと思う。


20230614

日記132

 

アーケードのA

2023/06/13 昨日

ベンジャミンのトークショーのためにだいぶ早めに阿佐ヶ谷入りする。阿佐ヶ谷ロフトの開場時間が19時ということで、隣のパンの田島が19時まで営業だったのでたまごのコッペパンとホットラテを注文し、椅子に座ってベンジャミンのブログを読んで予習をしながら時間をつぶす。

トークショーでのベンジャミンは前回よりものびのびというかリラックスして臨んでいるように見えた。聞けば在宅仕事のあとで阿佐ヶ谷に出てトークショーをこなしたとかで、夕食も食べていなかったらしく、リラックスというよりは単純に空腹で元気がなかったとのこと。質問を用意していたが、ちょっと場にそぐわないというか会の主旨にあわないのではないかと思ったので蔵入れにする。言論系のだいたいのトークショーがそうであるように、それぞれの書いたもの以上の何かが得られるわけでもなかったが、三人とも元気そうで何よりだと思った。

阿佐ヶ谷の駅でちょっと飲んで解散する。帰りの電車で新宿までいっしょだったので質問すればよかったと後悔した。質問を作ったこと自体をすっかり忘れていた。時間が短すぎて答えられないかもしれないが、そういう場合だからこそぱっと聞いてぱっと返答を得る、あるいは得られないということが簡単にできるという利点があったりするので機会を逸したのが惜しまれる。質問の要点だけいえば、どこまでの範囲をキャンセルカルチャーのキャンセルとして捉えるかということなのだが、トークショーの場でするにはちょっと問題が大きくなりすぎて登壇者を困らせることになるのではないかと遠慮した。あとはブログのなかに「人格の自由」という言葉があってそれはどういう内容なのかということも聞いてみたかった。


2023/06/14 今日

この日みた夢はマイケル・ジャクソンのために踊ったダンス映像をPVとして残していたので、大きなホールでそれを再生して皆で鑑賞するというものだった。想像以上にちゃんと踊れていたし、群舞の場面はとくにクオリティが高く、見ていてワクワクするほどだった。ダンスも大きなステージで踊っていたし、映像の再生も大きなホールでやっていたので、観客の数が単純に倍いたので自分たちはすごい人気者なんだなと思った。ただ所詮マイケル・ジャクソンの威を借る狐だと冷静に考える自分もいた。

在宅勤務。長い打ち合わせが一件あった以外はとくに何もない一日だった。定時後、プールに直行し1時間弱泳いだあと、歩いて図書館にいく。プールで泳ぐ時間と図書館に行くために歩く時間はそれぞれ頭の中を空っぽにして動くことだけに専念できるという良さがある。

寝る前にベッドサイドにスマホを持っていかないのと引き換えに、ピンチョンの『V.』を持って行って寝る前にchapterずつだけ読み進めている。たしか再再読になるが、こんなふうに進んでいく小説だったのかという驚きがある。こんなにも読めてそれに対する驚きがあるということは、再読でも全然読めていなかったということをいくらか意味するということで、まあそれもそうだろうとピンチョンの小説のことだからと納得する反面、いくらなんでも目をつぶって小説を読みすぎなのではないか、大丈夫なのか、と自分の読みに対する信頼がそれなりに損なわれた。最近では大江健三郎を読んでこれはと思ったところでもあるので、それは大丈夫なのかと心配だし、まだ読んでいない作品がたくさん控えているのにそう思うのは億劫なところもあるのだが、やっぱり再読しないといけないとあらためて思った。

今回の『V.』で気になるのは場面の展開についてで、前二回では場面の切り替わりを意識することなく、切り替わるままにただ対処していたという感じだったが、『V.』ではプロフェインとステンシルというふたりの主人公がいて、少なくとも2つチャンネルがあるので、それらの往還についても意識するようになった。物語がすすんでいくのと、語りの位置が(映画だったらカメラの位置が)変わっていくのとを同時に感じながら、章の切り替えによって起きるチャンネルの切り替え(これは初読でもなんとか認識できていたと思う)を意識するだけではなく、chapterの切り替えやchapter内での場面の切り替わりについても意識するようにすると、わりと頻繁に、はっきり飛躍をしているということが明らかになった。細かい描写にぐっと入り込みながらも、そこから切り替わるのはじつは一瞬で、しかもその切り替わりのタイミングで大きく場面を動かすことで、物語自体はいつのまにか大きく展開していくというマジックのような手法がある。起こった結果に注目するとごまかしの手管ということになるんだけど、初読・再読時の自分は物語を追いかけたり主人公の動向を追いかけたりするのに必死で、そのテクニックに気が付かなかった。再再読でもそれに気づかないこともたぶんじゅうぶん有り得ることで、今自分が小説の進め方について悩んでいて、その答えを探ろうとして『V.』を読んでいるからたまたま目に入ったんだと思う。さすがに同じやり方はできないと思うけど、登場人物をできるだけ多く登場させたいという願望があるから、無理を承知で、でもできるだけ参考にしたいという思いがある。もっと初歩的なところで、そもそも登場人物をどうやって動かすのかという問題があるのは理解しているつもりだが、そのような糸を使って人形をコントロールするやり方ではどっちみちうまく動かせないような気がしているので、もっと大それた問題に取り組んで、いずれ失敗するにせよチャレンジした内容の大きさでそれなりに様になる言い訳を立てようという魂胆があるようだ。いや、そんな露悪的になって防衛しないでもいい。

フィクションに取り組む以上は、限られた時間を使ってせっかくフィクションに取り組むんだったら、自分の力ではどうにもならないほど大きな問題を目の前において、それに正面から取り組むということをやってみたい。そのためには、身の回りのことという条件はつけず、かといって自分という条件は外さず、もし〇〇だったらという仮定をフルで使えるような、振り幅重視のモチーフを選ぶことが重要になる。それは方法として重要であると同時に、小説を書く目的としてもそのまま挙げられるほど大切なことだ。

隣という概念を必要以上に狭くとらないというのは、自分にとっては、自分に可能なだけ隣というものが指す範囲を広くとるということを意味する。隣の数が多いということは、その分だけ隣の範囲を広くとれていることの証明になるので、それが登場人物の数を増やしたいという志向に結びついている。

かつては隣と自分とを同化しようという願望が強く働いていた。今でもその願望はあるだろうが、すこしの隣でもいいから同一になりたいという願望より、とにかくたくさんの隣と隣合いたいという願望がそれに優先している。それはより多くの希望を抱くようになったからというよりは諦観の結果だといえるものかもしれないし、急がば回れというように、そこに至る回路として、その複雑な手続きをさらに取り入れてどんどん際限なく複雑化していくことで逆に到達できるのではないかという、やけっぱちな希望の故ということもいえる。よくわからないけど。閉館します、3階はもう消灯します、という声が止まずに近づいてくるので帰る準備に移る。

20230613

日記131

スクラップ&ラン


2023/06/12 昨日
図書館にあまり長居せずに次の目的地のプールに歩いて向かう。1時間弱みっちり泳いで楽しかった。
帰りにテンションのまま雨の中を歩いて帰ったがこれが失敗だった。いつものように公園を抜けるコースを選んだのだが、白いスニーカーが汚れしんだ。気に入っていたのに勿体ないことをしたとテンションが下がって不要な酒を飲むことになったのもマイナスポイントだった。
せめてもと23時にはベッドに入る。
汚れ死ぬとは穏当ではない表現だが、白いスニーカーに対してはあり得る表現だと思っている。今回汚れ死んだスニーカー意外にも白系統のスニーカーは四足ある。すべて気に入っている。汚れ死んだスニーカーは雨の日専用として今も活躍してくれている。

2023/06/13 今日
在宅仕事。8時間半睡眠で睡眠スコア95を達成。仕事は打ち合わせ中心のダラダラ回。ただし晴れ間を逃さず洗濯物を回す。ベンジャミンのイベントのため久しぶりに阿佐ヶ谷ロフトにいく。夜中のにわか雨にそなえて洗濯物は引き込んでおいてから出かける。
在宅仕事でだらだらしているときには本当に純度の高いだらだらで何もしていないに近く、そのくせリラックスしているわけでもないので今から思うと相当時間の無駄だった。今はオフィスにいるのでサボるにしても能動的になる。実際、積極的に情報を拾いに行こうとしている。アーティストの永田康祐が気になっている。ビデオエッセイと作品表現としての料理。

20230612

日記130

 

ささやかな祭り

2023/06/11 昨日

昼食のタイミングでスタバを出て帰宅。映像の世紀バタフライエフェクト選「メルケルとベルリンの壁崩壊」を見る。東ドイツで自由を望んだ若き日のメルケルが、首相になってからもかつて自身が望んだものを望み続けていたというのを移民受け入れ政策によって政治家として表現しているのがとにかくかっこよすぎて、政治家は人気になりすぎてはいけないとは思う反面、彼女が政治家として人気にならなければ嘘だという思いがした。目の表情が漫画みたいというのを通り越して、漫画表現が彼女の目をお手本にしているのではないかという気にさせる。

その後、雨に邪魔されてなかなか外出できず、プール行く行かないの押し問答は水掛論になって終わり、いつのまにかマリオオデッセイを買う買わないの押し問答になり、気づけばそれも水掛け論に終わったところでもはやプールに行くための時間もなくなっていたので、仕方なく録り溜めていた映像の世紀バタフライエフェクトをもう一本消化することにする。「戦争の中の芸術家」今回ベルリン・フィルのフルトヴェングラーのことを知るにあたって、同じベルリン・フィルの指揮者を主人公にする映画『tár』を見ていたのが役に立った。ある決断に対して断罪することはやはり難しいものだというのをフルトヴェングラーを攻撃するトーマス・マンを見て思った。今でもトーマス・マンが正しいと言える部分があるのかもしれないが、当時ほど確定的ではないのだろうし、そのグレーの度合いは増えることはあっても減ることはないように思われる。イスラエルでの演奏会後に提案されたワーグナーの曲を演奏する映像もまた衝撃的で、芸術を超越的な位置に置くかどうかということが現実に問われる事態を映していた。

このテレビから一年越しに、事件の渦中にあったバレンボイムとサイードの対談を読むことになるとは驚きだ。というより、自分が興味を持つような本に興味を持って読んでいけば、いわば順当にいずれ当たるというだけの話かもしれない。当たるのかやや遅いような気もするが。

これらのことに関して思ったのは、芸術にもある程度のメンバーの数が必要なジャンルがあって、それらの運営には規模は小さくとも社会形成という側面があるということだ。だから本当の意味で社会背景に左右されない大芸術というのはありえない。そのような受容のされ方は存在するが、それはただ社会背景を無視してまでそれらの芸術をむさぼり食おうとする個人がいるというだけの話だ。

社会形成とともに芸術が制作されるような場面において「純然たる芸術」という考え方は一挙にフィクションに落ちて、そこで安定する。それは映画製作や音楽制作において顕著で、どれほどの独裁政治が実現されようと、一個人のビジョンを完璧に再現することは不可能に近い。ただし、かなりの程度精巧に再現するということは能力如何によっては可能である。その能力というのはいろいろな要素が挙げられるだろうが、多分に政治的な能力であるだろう。サッカーの監督にクラブ運営のスキルも求められるというほど表立って必要とされるわけではないだろうが、そこまで極端ではなくとも当然のように求められる力であるはずだ。それは人を動かすスキルである。そこでフィクションに落ちて旗化した「純然たる芸術」が役割を得る。せーので動くために必要になるのは、中身がなく、薄く引き伸ばされてよくたなびく、きれいで目立つ旗であるから。

このように風を見、風を読む努力をしておいてピュア・アートとはいささか虫が良すぎる。というよりも、支払ったコストはすでにそんな単純さの領域に作品を押し込めておかない。

そうであるとするなら、作品が置かれた社会的な背景も芸術を形成する一因子ということになるし、社会から独立した作品という考え方のほうが不自然ということになる。それは社会規範を飛び越えてまで選び取られる芸術が存在していることと相矛盾しない。その原因は芸術の側にあるのではなく、それによって与えられると予期されるものを何としても受け取ろうとする個人の方にあるからだ。

芸術は万能ではないから、社会によって規制されていたり、見聞きするのが良くないとされるものを見ることによって受ける制裁からは守ってくれない。芸術は、それによって救われたという人が多くいたり、そのような証言がたくさん残っているのに反して、事実の上では誰かを救ったりするようなものではない。ただ、何かを素晴らしいと思う人間が政治的・社会的に団結し、物心両面でお互い助け合うという事態が間歇的に起こるだけのことだ。


2023/06/12 今日

早出のため5時半に起きる。昨夜は21時前に床についたのだが予想通りうまく寝付けなかった。しかし、スマホを置き去りにする戦略のおかげで余計なロスなく、おそらく大体45分ぐらいまんじりとした後、入眠することができた。しかし、起きたあと2時間ほどは眠かった。これほど眠いのは久しぶりというぐらい、電車の中でもオフィスの椅子に座っても眠くつらかった。出社早々、職場の人が歯痛で一睡もできなかったから早退して歯医者に行ってこようと思うと話していたが、1時間の作業をしているあいだに腫れが引いたとかで、早退をキャンセルして結局定時まで残って仕事していた。ちょうどタイムリーな話だったからついいつもより親身になって話を聞いていたのだが、同情してちょっと損したと思った。

15時半に退けてから、帰宅してランドセルを投げ捨ててすぐ遊びに出かける小学生ばりに、ワーク用の端末をMacbookと入れ替え、水着をリュックに詰め込んで、図書館に行くためにもときた帰り道を取ってかえして電車に乗った。いつもより早い時間でまだ閉まっていなかったから学食にひさしぶりに行ったら、当然だけど大学生がいっぱいいた。皆若いというより幼く見えてびっくりしてしまった。学食ではワンメニューの縮小営業で、カレーしかなかったのでカレーを食べた。190円のササミカツをトッピングするというあの頃にはとうてい考えられない豪儀ぶりを幼いキッズたちに見せつけた。図書館でちょっと作業して、このあとプールに行く。

しかし、今日のハイライトは退勤の電車内。自分がつり革を持って立った正面に座っていたお姉さんが異常に綺麗だった。真っ黒のワンピースなのかなんなのかよくわからないオシャレな服を着ていた。胸のところにわけのわからないオシャレな切れ込みが横に入っていて、太腿のところにも意味不明の切れ込みが縦に入っていた。切れ込みからは肌部分がきわどく露出しており、その白さは都会の公衆便所の蛍光灯と同じぐらいの白だったので、真っ黒の服がこれ以上の黒はこの世には存在しないと言わんばかりの黒に見えた。髪はきれいな金髪に染めていたが、来週かできたら今週末にはリタッチにいきたいぐらいの段階にまで伸びてきていた。涼しげな目元で顔も綺麗だったというのは個人の感想だが、事実として、口のすこし上にあるホクロがセクシーだった。

こういうきれいな人を見つけてもじろじろ見ないという格好いいところが自分にはある。一時期、見ることこそが喜びだと考えて、限界まで見に徹しようと思っていた過去もあるにはあるが、今はその考えをあらため、とにかくクールに振る舞ってむしろ全然見ないようにするという格好良いところがある。いっしょに渋谷で降りることにならないかなとちょっとは期待したが、その人は座ったままだった。でも全然名残惜しそうにしなかった。

生きていると予期しない幸運が舞い込むことだってあるんだよ。本当にな。

20230611

日記129

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2023/06/10 昨日

一旦帰ってからまたスタバに行く。小説のことを考える。登場人物をどうやって移動させるか、登場人物をべつの登場人物とどうやってつなげるかということを中心に考える。そういうのにはパターンがあるのだろうからそのパターンをとりあえず把握すればいいのだろうけど、それを調べるというより自分で考えつこうとして、そのときに思い浮かぶべつの内容などもついでにメモしていくということを心がけた。

もう技術のことを考える段階だと思っていたわけだがそれは勘違いというものだ。フラナリー・オコナーが言うように、小説家は自分にとってもっとも興味惹かれることしか書いてはいけない。ではもっとも興味惹かれることとは何か。その糸口はすでに掴んでいるような気がするが、まだ書き始められるほどはっきりしていない。書きながらはっきりしていくということもあるのかもしれないが、そこに達するまでには方向を定めたうえでしっかり進んでいかなければならない。

あとはベンジャミンのブログ『道徳的動物日記』を読む。

https://davitrice.hatenadiary.jp/entry/2023/06/06/141558

https://davitrice.hatenadiary.jp/entry/2023/06/09/180558

ウォルドロンの議論について感覚的に正しいと思うところがあるとすれば、それは安心についての優先度が高いところだ。安心というのは、種々様々ある価値観のなかでもわりと重要な要素だと思う。「フルマックスの安心」というのはお題目に過ぎないにしても、安全を脅かされない環境作りというのはやはり重要だ。安心の重要性は安全な場所にいればいるほど見えなくなるものだと思うが、安全を脅かされることへの意識はつねに保持していないと危ないのではないか。

ケアについて書かれたピンチョン論文から、セキュリティというのは語源的にケアに否定語を被せたものだということを知る。安全が保証されていることで、ケアしようという意思がなくなるという論理展開だった。たしかに自分が安全地帯にいながらにして安全を望むときには、厚かましくもケアすることから免責されようとして安全を望んでいるような気もする。冒険的な気分を味わうため、専用の安全な場所を望んでいるというほうが自分の感覚からはしっくりくるのだが、すこしだけ詰めて考えれば同じことなのかもしれない。

言葉の暴力については、それが単体で直接的な危害を加えるということはあまりないだろうが、物理的な攻撃に結びつくことはじゅうぶん考えられる。たとえば密告というのは単なる情報の提供にすぎないがそれがもたらす結果を考えれば情報伝達の段階ですでに暴力性を認められてもいいものだ。

社会の段階によって安危の水準が上下することはあるだろうが、判断に迷うような微妙な場面や、社会A、社会Bのどちらも射程とするような議論においては、安全の重要性を必要最低限ではなく必要十分(より少し上)に合わせておくのがセキュリティ上正しい考え方になる。セキュリティ対策というのは基本的に煩わしいものだが、やはり支払うに値するコストだ。

また、快/不快と安全/危険とは明確に区別されるべきだ。これはネットの通信速度と通信可否の話ぐらい質的にちがう話だ。それでも通信速度と通信の可否とが同じネットの話としてまとめられることが多いのだとすれば、社会が支払うべきコストの話においても同じことが起きる危険はありそうだ。

しかし、一方が快不快の問題と捉えているものについて、もう一方が安危の問題と捉えているというような認識の差はそれぞれの立ち位置によって生じてもおかしくない。その場合はやはり安危の問題のほうに合わせて考えるのを基本的な方針にするべきだ。

進歩に応じて、もともとは安危の問題だったものがだんだん快不快の問題に切り替わっていくというのもあり得る事態だと思われる。そうすると段階によってコストを下げていくのは合理的な方策だ。ただそれでも一挙に切り戻しができないような仕方でそれを行うのはやや性急で、場合によっては余計なコストを生じさせるという点でもよくない方法だといえる。

それぞれがそれぞれにふさわしいだけのケアのマインドを持てばそれだけで社会が良くなるというものでもないから、やはりケアの透明化とセキュリティの充実はべつの話だと切り分けたほうがいいように思う。そもそも語源を辿ってべつべつの観念をひとつの概念に同化させようとするのは文化の面からははっきりと逆行していることだ。必要があって言葉はふたつやそれ以上に分かれているのに、無理やりそれらを繋げて考えようとするのは、何か魂胆があってのことにすぎない。ケアと怠惰の論理を成立させ、それを文芸批評につなげるためだとしても、文化や社会から見て許容できるやり方ではない。

むしろフィクションを安易に社会問題の解決に動員しようとするやり方として非難されるべきものだ。ベンジャミンが哲学や倫理学から社会問題の解決方法を探ろうとしているのとは別物で正道ではない。フィクションはやがて社会問題の解決策のひとつを発見することにつながっていくはずだと考えているが、それにしても一本の線で結び付けられるようなものではない。


歯医者に行く。歯医者の待合や診療椅子に座っているときには元気がゼロになる。しかし治療の痛みと、より多くの痛みがあるだろうと予期することで発生する恐怖に耐え、とりあえずは一週間の重りがとれた。
その足でプールに向かう。時間帯もあるのか前回よりもたくさんの人がいた。でも泳ぐのは楽しい。ビート板を掴んでバタ足メインで泳ぐ。歩いて帰宅。途中のまいばすけっとで晩ごはんのもやしと豆腐、翌日朝食のプロテインバーと酒を買って帰る。涼しくていい夜だった。

帰ってから粗品のチンチロ動画を見てしまう。あとはジュニアのチャンネルでしずるKAZMAが喋っているのを見て、つい勢いでメトロンズの公演を予約する。KAZMAはジュニアと喋っているときに竹を割った直後の表情をずっとしていて楽しいのが伝わってきて面白い。となりの村上の楽しいだけではない複雑な表情があるからそのシンプルさがより引き立つ。しずるといえばファミマの店内ラジオも有名だが、ファミマの「あなたとコンビに、ファミリーマート」のコンビになっていこうという意思表示みたいなものをコンビを組んでからもずっとやっていて目が離せない感じがある。そもそもはお互い別でしょという自主・自立の意識があるから、ふたりで「ふたりアベンジャーズ」をやっているつもりなのが良い。そこで「2」という最少人数なのも活きていると思う。

プールにいったから疲れてぐっすり寝れるだろうと思ったが、そのプレッシャーなのか、疲れすぎて眠れないのかわからないが、ベッドのなかで入眠できずにだらだらしてしまう。こういうのにもったいなさを感じるけど、考えてみたらだらだら動物のかわいい動画を見ているからいけないのであって、何も見ずに頭の中を整理する時間に当てればむしろ良い時間の使い方になるのに違いないのだから、寝る間際には意識してスマホを捨てていかないといけない。枕元にスマホを置く習慣は目覚まし機能のためにあるから、それをパージしてリビングにスマホを置き去りにするのがいいだろう。

これに関してはポケモンスリープの導入によって完全に解消した。その代償としてカビゴンを寝かしつける時間が毎夜発生しているが。


2023/06/11 今日

昨夜おそくまで起きていたせいで8時半に目が覚めてもすこし寝不足の気がある。朝の時間は朝の時間でだらだらしてしまい、9時半になってようやくスタバに行く。この朝のぐだぐだもベッドのなかでスマホをいじることから発生している事態なので、やっぱりスマホをリビングに置き去りにするのが良い。さっそく今日からやってみる。睡眠トラッカーとしても使っているスマートバンドにアラーム機能があることを最近発見し、それが使える(手首の振動だけで起きれる)ことを確認したので、目覚ましの役割をスマホから奪うことにする。

雨のなかスタバに向かう途中で気づいたが、雨の日には散歩している犬の数がいつもより少ない。しかし小雨ぐらいの降り方だったので何匹かは散歩していた。

準備のいい犬でたしかレインコートを装備していたと思う。ビーグル犬だったか柴だったか。

20230610

日記128

 

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2023/06/09 昨日

22時まで図書館にいたあと、電車で下北沢まで帰って氷結無糖を飲む。ぎりぎりまで図書館にいたらスタッフの人に背後から声をかけられて思わずビクッとなってしまった。

ごく短期間だが明大の図書館に通っていた。在宅勤務が終わってから電車に乗って(たまにLUUPに乗って)明大前に行き、図書館で作業。

最近の精神的な不調は、身体的コンディションの低下からきているのではないかと当たりをつけた。持論だが、ほとんどの原因不明の精神的不調は身体的な条件によってもたらされるものだ。4月頃に体重をはかったときに比べて体重がプラス2キロだった。スクワットだけは続けているが、ほかに全身運動をしないことで筋肉量は落ちていると考えられるので、このプラス2キロはイコール体脂肪、しかも腹の肉だと考えられる。何気なく座っているときに自分の腹の肉を意識するタイミングは増えており、しかもそれに慣れつつある。そのことで気分が落ちて、精神的な不調につながっているのではないかと考えられる。年齢的には青年期から中年期に向かうタイミングではあるが、代助の白粉すら付けかねないあの感覚を受け持っている自分にとって、鈍重になっていく身体というのは文字通り持ち重りのするもので、身体的にというよりは心理的にそこそこの負担になっているのだと思われる。

この不調は続いているし、なんだったら腹囲の増加はあれからさらに亢進しているまであるのだが、なんとなくそれにも慣れてきたというところもある。それでも夏の装い、Tシャツ一枚になってみると残念な気持ちがするし、テンションが上がらない。ファッションにも前向きになれないようなときがある。

こういうときの対処法は、とにかく食事から糖質を抜いて、飲み物を特茶にするという、生活習慣の改善しかない。運動をしてもいいのだが、続かない運動を始めてみてもしょうがない。その点、食事というのはしないようになることはないし、毎日3回やってくるものだから制限もしやすい。

というわけで、この日の夕食は糖質5グラムのプロテインバーと特茶になった。しかし、帰宅のタイミングで酒を飲んだことで空腹を意識し、帰ってからカップヌードルを食べてしまった。カップヌードルはカップヌードルでも、タンパク質の多いカップヌードルPROだという言い訳をしつつ。

面倒だから運動もしないし、だからといって食べるということをしないということもできない。そうすると精神的な怠惰が習慣となり、その慣性にしたがって身体のフォルムが形成されることになる。一応スクワットはやっているけれど……。


2023/06/10 今日

起床後、9時半頃にスタバに出かける。基本的に朝ごはんは自由にしてもいいと思っているので粗挽きソーセージパイとドリップコーヒーにする。スタバのフードは高いというイメージがあるのでたまにしか注文しないが、やっぱり食べると美味しい味がする。

ソーセージパイおいしい。おいしいご飯はおいしい。

スタバに来て小説をすすめるつもりだったのだが、昨日の余勢でつい昔のブログを読み始めてしまい、延々と読んでいるうちにお昼を迎える。だんだん気分があの頃に同化していってしまい、昨日の時点では完全に他人のように考えられていた過去の自分が、なんとなく自分の過去の姿であるかのように捉えられるようになっていった。気恥ずかしい気持ちや、書いていることに対してそのとおりだと思う気持ちがすぐそばにあるような、その感想(声)が自分の口から出ているような気になっていき、後ろに引っ張られるような感じがして振り払いたくなってきた。だからといって形を変えてしまう気にはならないし、もうしばらくは読むまいと思ってブラウザを閉じる。

この頃はこの頃から見た昔の自分の書くものと今のものとのあいだに変化が見られていたということだろうか。最近は一年前の日記を読んでもあまり代わり映えしないと思うのだが、このときどう思っていたのか忘れてしまった。

20230609

日記127

 

6月のあじさい

2023/06/08

雨の中歩いて家まで帰る。図書館通いの鉄の掟「歩いていける図書館に通え」をクリアするため。30分強で帰れるので理論上は掟の関門をクリアしたことになる。昔、奈良県立図書情報館に通っていた頃も、行き帰りを同じぐらいの時間をかけて徒歩で通っていたことを思い出す。

あの頃も本を読まないといけないというなぞの使命感と、小説を書かないといけないというなぞの義務感に突き動かされていたような。仕事をしていなかった分、昔のほうがより純粋な日々だったわけだが、当時は結局、本は読んだけれど小説は書けなかった。気軽にアウトプットするということが全然できなかったし、朝起きるのにもすごいエネルギーが要った。

懐かしさにまかせて昔書いた文章をちょっと読んでみた。基本的に言ってることは何も変わらない。当時のほうが今よりももうすこし自分の言っていることに寄っているというか、強い気持ちでものを言っているように見えるが、懐かしさと時間の経過を勘案せずに見ればべつにそうでもないかもしれない。気持ちが強いせいでへんな摩擦がかかって軌道がブレることを必要以上におそれているように見える。それにしても、当時の自分をいま時点から振り返ってそう思えるのを解釈に流用しているだけで、フラットに読めばべつにそうでもないかもしれない。当時の自分のコンディションは体力的な部分はともかく、気分的にいつも低調で、コーヒーの飲み過ぎでテンションがぐっとアガったタイミングでMacbookのキーボードを叩き始めるということをしていたから、残っている大体の文章はテンションが高い。そしてそれに対してすぐ自己言及している。ほかにも何かと、なにかあれば自己言及しているが、ほかに書くべき内容が何もなかったんだろう。本当は本を読んでいたのでその本についてどういうことを思ったのかを書くべきだったのだが、本当に面白い本を読んで得た感想を言葉にするのは無理だという諦めが邪魔しているようだ。今、本当に面白いと思ったものについては、無理にでも、ちょっとでも書こうと心がけているのは、このときの反省が大きい。

あまりに変わっていない、あまりにはしゃいでいる、そんな文章を見返すと、なんともいえず切ない気持ちになる部分もあるが、それでも何年も前に書いた文章を読むことができるのは、それでしか得られない感慨があるものなので、ほかに何に使うでもなかったMacbookをバイトで得た金を投じて手に入れたのは良かったと思う。今も新しく購入した二代目Macbookをただ文章を書くことだけに使っているが、ここ十年で考えてもこれ以上の買い物はない。

あまりにはしゃいでいる、伝える気のうすい文章についても、その拙さの先に大事に抱えているものがあるのは、過去の自分ということを抜きにしてもなんとなく感じ取れるような気がするし、当時の自分が他人のように感じられる今でも、いや、他人のように感じられ始めた今だからこそ、それを引き継いでやりたいという気になっている。あのときの自己言及には客観視しよう俯瞰しようという不自然な防御姿勢があって、しかもそれを意識するから、かえって主観を強めようという反動もあって、本人的にはすこしややこしい状況だったと思うが、時間経過等々の今に至るまでの事情によって充分に他人っぽさを獲得できているから、落ち着いた気持ちでそこまで気負わずに言及できるようになっていると思う。それを重大なものと考えるあまりそれについて言及することができないという状況だったのがいつの間にか変わった。そこまで重大なものだと考えなくなったと思いたくはないので、なんか成長して言及できなかったものに言及できるようになったということにする。重大で重大でどうしようもないというほどではないにしても、こうして書くということをする以上、やっぱりモチベーションは保たれているとみて良いわけだ。

帰宅後に晩ごはんを食べてから『誰も知らない』を見る。晩御飯のおかずに泉州なすというのがあって、生で食べれる贅沢品とのことだったが、甘くてりんごのような味ときゅうりのような青臭さがあって茄子とは思えない感触だった。オリーブオイルをつけて食べると一気に地中海アンダルシア地方の照りつける太陽と南風を思わせる風味に様変わりしたりして面白かった。

『誰も知らない』を見たのは久しぶり二回目だった。見ている途中でプリンを勝手に食べていたことがバレて怒られる。

『誰も知らない』の後半は見ていられないというか、前半の良さからするとどうしてもちょっと落ちるので、見ていて尻すぼみになる感じがあった。物語を超越しているような良い場面の連続で保たれてきた映画が、とつぜん洗練されない物語の急襲を受けるような印象だった。ただ、前半の良さについては、後半の展開を知っているからこそ、見る側で儚さを画面に映して見るから余計に良く見えるのかもしれないというふうにも思うので、(最初に見たときに前半のシーンの良さを今回感じていたほど感じていたかは覚えていない。甘く見れば感じていたはずだとは思う)それを映画から外してしまうわけにも行かないだろうし難しいところだ。

しかし単純に子どもの映っている映像という観点から、これほどまでに優れたシーンを持つ映画は他にないというのは間違いない。


2023/06/09

在宅仕事。会議の進行をするというだけでも不慣れもあり緊張する。リモートでこれだったらオフラインではもっと大変だろう。言うべきことさえあれば緊張しても言うべきことを言っていればいいので間が持つというのは私が考えた机上の論だったのだが、これは半分当たっているけれど、半分外れてしまっているのはここまで緊張するかというぐらい緊張することだ。

結局、会議はリスケになり、その途端に自分でもわかりやすいほど元気が回復した。

定時後、すぐに家を飛び出しLUUPで図書館に行く。途中ちょっと迷って思ったが、自分は自分で思っているよりも方向音感があるほうではない、というかむしろ方向音痴ではないかとさえ感じ始めた。全体的には曲がり道になっているコースを路地づたいに進んでいくときに、ちゃんと方向感覚がなくなるし、思えば地下から外に出るときにも案内板をちゃんと目視するから迷わないだけで、方向感覚はちゃんとない。ビルに上ってしばらくしてから降りたらどっちから来たのかわからなくなっている。これらを総合すると方向音痴の方向に自分はいるような気がする。昔はそうではなく、したがって方向音痴方向に向かっているのか、それとも昔から方向音痴で方向音痴だという気づきを得たことにより方向音痴方向から抜け出す方向に進んでいるのか、どっちなのかがちょうど半々ぐらいの感触でどっちなのかわからない。

さて、図書館にくると本がたくさんある。本がたくさんあるというのを体感するのはやはり目眩がしそうなことだ。泳げない人にとってのプールみたいな感じなのかと思う。大量の水が実際に目の前にあれば、それを眺めるだけで壮観というか、きれいだと感じたりちょっと恐ろしく感じたりするものだが、それと似たような感覚がある。久しぶりで物珍しさもあるからだろうが、なんとなく生の実感のようなものを印象として受ける。

書くためにきたのに、結局、本を読んでしまっている。ピンチョンの『ヴァインランド』を手にとって池澤夏樹の解説を読んだら、もっとピンチョンについての文章を読みたくなって『世界文学をよみほどく』を席まで持ち込んで読んでしまった。

あとは『固有名』というレヴィナスの本。先週に馬の名前について考えたことがきっかけで手に取ったのだが、パラパラめくるとパウル・ツェランの名前があり、そこを中心に読んだ。その章はこんなふうに始まる、


パウル・ツェラン/存在から他者へ

 他者に向けて

握手と詩のあいだに相違があるとは私は思わない――パウル・ツェランはハンス・ベンダーにこう書き送っている。


この章全体とプルーストについての章をすこし読んだ印象として、最短距離を行っていると感じた。構文的になってイズムに依った読み方をされるだろうが、そうなったからなんだというのだと言わんばかりで全然何も気にしていないことからもわかるとおり、わかりやすくするためにという意図は感じない。書き手の思索の流れが手を加えない形でそのまま流れているようで、個人的にわかるところはわかるし、わからないところはわからない。個人的にというのが味噌で、最初から自分が思っていたことに引きつけての理解をしかしようとしていないという読み方で読み終わった。途中にこんな文章があった。


純粋な接触、純粋な触れ合いの瞬間に、掴み握りしめる瞬間に、詩は位置しているのだが、おそらくそれは、与える手をも与えるひとつの仕方なのだろう。近さのためにあるような近さの言語。 (中略) 隣人に対するこの応答ないし責任は、その「他者のために」によって、与えることの驚異をまさに可能にするのだ。


太字の箇所は、最近自分がこだわり始めた概念[近い]についての言及で、近さというのではあまりに簡単だし概念すぎるのだが、なんとなく固有名として響きを響かせ始めているように思えているところだ。先の本でも『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』についての言及があり、昔読んで感動したというのもあるがそれ以上に、近いというのがcloseと訳されていることに関心を持った(実際にはcloseが近いと訳されているのだが、まあ同じことだ)。言葉のうしろに回り込めるほどひとつの言葉が立体感をもっていない場合には、違う言語に翻訳することによってズラしすこしでもその範囲を広げるというのも方法だ、というようなことを思った。

図書館の閉館のお知らせというのは事務的でいいものだ。そこまで居残って”やった”という達成感もある。途中Macbookを閉じて本を読んでしまったとはいえ。

20230608

日記126

最初の頃の道


昨日
この日はスタバを出たあと本屋が閉まるまでにすこし時間があったので、試し読みで気になっていた円城塔の『三人道三』を立ち読みしにいく。さすが成り上がり戦国大名だけあり権謀術数の箍が外れていて、現実世界と道三本人が理解している世界との現実世界側からの断絶に対して素早く事態を飲み込み受け入れる様子が面白かった。存在する記憶が存在しないということを受け入れるスピードが早すぎて、それは多くが文章で書かれていることに依るにもせよ、歴史物の文体との相性もよく、テンポ感が独特なこともあって奇妙な清々しい読後感だった。あんまり言えることはないのに何か言いたくなる面白い小説で、思わず収録作とされる作品の題名を検索し、その検索結果が見つからないというところまでが読書体験に組み込まれていることの新規性と良さがあった。

帰宅後、カップヌードルPROシーフード味を食べてから、天候が良かったので再度下北沢の街まで散歩に繰り出す。


今日

昨夜、そのまますぐ寝たので何時かわからないが、全身に力を入れすぎて疲れた状態で目が覚める。力を入れすぎて疲れたのですぐ寝たため何時頃かはわからないが、ウォッチの睡眠トラッカーによると4時28分に覚醒となっているのでおそらくこの時間だと思われる。涙を流しながら目を覚ますというのは何度かやったことあるが、何かに耐えているように身を固くして目を覚ますというのは覚えているかぎりでは初めてなので、脳機能が低下しているのか、日中ストレスを抱えていてそれを逃がせない状況にあるのか、脳機能の低下によってストレスを発散させる能力が落ちているのかわからないが、ちょっと様子を見て、これが続くようだと何か手を打ちたい。仕事のあと小説を書こうとするのがオーバーフロー気味なのかもしれない。自覚的にあるのは小説を書こうとして書けないことの負担だ。

在宅仕事。クーラーをつけないと暑くて無理だが、つけると寒くなるという課題がある。背に腹は代えられないし、長袖を導入するか。

今日からスタバを卒業して図書館に通うことにする。これは我ながらよくここにたどり着いたと褒めたい。居心地はいいし、資料にできる本はたくさんあるしで言うことない。何より良いのは22時まで開館しているところ。これで年間使用料3300円というのは破格だ。ただテスト期間の7月と1月は使用できないらしく、こんなに良い環境を1年のうち2ヶ月間も使えないのは痛い。

カード作成の手続き中に手に取った『再読だけが創造的な読書である』を読む。いわゆる読書本で本当に面白い本はやっぱり稀なんだと再認識した。そもそも再読が良いと知っている人しか手に取らず、それによって再読という行為の良さを再確認するという効果しかないように思われる。自分のやっていることを褒められるに吝かではないが、何かを良いとするときに飛躍があるのを感じた。ゆっくりと丁寧な感じで進んでいくだけに目立つ飛躍で、著者自身が気にしていた構成の部分よりもこちらのほうが気にかかった。面白い本につなげる役割は果たしていると思えたのはイタロ・カルヴィーノの名前が出たから。流し読み程度で済ませたがこの本を再読することはない。


20230607

日記125

 

6月の雨

昨日

スタバのあと友人と鳥貴族に飲みに行く。最初は企画の話で、今はやるべきことがあるから対応できないためポシャりはしたのだが良かった。だが結局、何度も話した近過去の話になる。どうせ酔って話した内容を覚えていないのだろうから、また同じ話をする羽目になるだろう。それにしてもなんであんなにも同じ話ばかりさせたがるのかわからない。推察するに、なにかこだわりがあるのだろうが、いつもその部分をはっきり言わないので核心に迫らないまま同じ場所をぐるぐる回って終わる。コンビニで納豆巻きを買って帰る。帰宅してすぐに寝る。


今日

在宅仕事。昼ごはんは弁当を買いに行く。天気がいいのでテンションがあがる。仕事は暇で、ついこないだまであんなに忙しかったのを忘れてだらだらする。定時後すぐスタバに出かける。そろそろ図書館で資料を探すフェイズに入るべきかと思う。知らないことを調べるのに図書館を有効活用する必要がある。

20230606

日記124

 

メインストリート

昨日

タリーズを出てちょっと古着屋をのぞいてから酒を飲んで帰る。サントリーの氷点凍結シリーズを買ってみたら意外と味が良くて驚いた。まだまだ早寝の意識はあって23時にはベッドに入るも寝付くのは0時すぎになる。


今日

大学のときの友人と電話していたら急に高校の友人が現れ、なぜか電話機を奪い取ってきて話し始めたかと思えば激しい口論になってふたりの板挟みになる夢を見る。ふたりとも今はもう全然会っていないのだがそれぞれ変わってないなと思って困りながらもちょっと可笑しかった。

在宅仕事はのんきな仕事量で、先んじていろいろ着手するべきとはわかっていながらだらだらしてしまう。

定時で家をとびだして雨の中スタバに入る。20時から友人と会うのでそれまでに小説を書き進める時間に充てる。

20230605

日記123

安田さん

昨日
晴れるという情報を手にしていたので出かける予定を作っていたが、ゆっくりしているうちに昼飯の時間になり、食べてから行くという判断をしたおかげで14時すぎの出発になる。
それでもほぼ最短で投票所までたどり着くことができ、目当てのレースの馬券を購入した。しかしシェネルマイスターは一着にならず、なんとなく気になっていた名前のソングラインが一着になり、どうにも悔しい思いをする。余勢を駆るかたちで最終12R も戦うことに。一着予想を一番人気のマニバトラにして見事的中。しかし、それ以外の名前で票を投じたドラゴンゴクウやフィールザワールドの分の負けを回収するほどの勝ちにはならなかった。レースではエリカコレクトという馬が出走直後に躓き、ジョッキーを振り落としたかどで失格。ただ闘志まんまんではあったようで、レースが終わってからしばらくレース場を走っていた。本能がそうさせるのか日頃の訓練の賜物なのかわからないが、すごく速いスピードが出ており、その様子を見ていた観客のおじさんから「お前そんな速く走れるのか」という声が飛んでいた。それが人が乗って走るよりも速かったのかは、普段の走りを見ていないし一頭だけで走っているから他とも比較できないのでわからないが、この日走る姿がずば抜けて美しかったのはこの馬だった。
競馬に興じた後、近くの商業施設まで徒歩移動し、TOHOシネマズで映画を見る。ついに映画の通常料金が2000円になった。見たのは『怪物』。これが面白くて引き込まれた。是枝監督はこんなん言われたらきついやろうなあという台詞を言わせるのが上手で、序中盤の安藤サクラはかわいそうで見ていられなかった。
中盤でプレイヤーチャンジが起こってからは比較的安定してきたものの、別視点からの同時系列を再生という筋運びによりミステリー要素の答え合わせがされていくことで緊張感が持続した。
終盤へ向かうにつれ、それぞれにそれぞれの事情があるという是枝映画の約束がひとつずつ丁寧に果たされていき、良い映画のかたちになっていった。客観的には何も解決していないというふうにみえるが、主観的には一番大きかったわだかまりが解消されたようにみえるエンディングには、音楽のつよい力による後押しもあって感動させられた。映画として映画のカタルシスを描ききったことで、映画未満の物語、その不吉な存在を予感させるやり方になっているようにも思え、映画にできる映画外への関与は十分果たせる結果になったと思う。
坂本龍一の音楽がよかった。
あのラストシーンこそすべてであり、あのラストシーンはすべてでもなんでもないというのを同時に描くために、天候や自然光の力を借りた映画的な展開を全開にさせるというのは、やられてみるとそれしかないという感触が強くて、だからこそ当たり前の何でもない展開のように思えるので、ここは映画の評論家だったらしっかり褒めないといけないところだ。自然に流れるように描くと、受け取る側はそれを当たり前で特筆すべきものではないと受け止めてしまいがちだが、これは全然当たり前なんかではない。作る側はそのリスクについて考えるというようなせこい真似はしておらず、そのように受け止められようが構わないという姿勢を貫いているので(これは当たり前といえば当たり前だがやっぱり稀少だ)、今のはさりげないですが良いプレーですとスポーツ実況のアナウンサーに話しかける解説者のように、そこはきちんと言及されてしかるべきところだ。とくに是枝監督は、良い映画を制作し続けていることで作品を撮り続けることのできている監督だから、これからもその作品数は増えていくことになる。そして、是枝監督の映画には、作品数が増えれば増えるほど是枝節みたいな捉え方で済まされがちになっていく多くの美点がある。これを是枝作品の特徴として捉えるのは間違いではないが、同時にそれらが映画にとっての美点でもあることは思い出されなければならない。
単純に良いシーンがあるから良い映画という考え方に立っても、『怪物』はいい映画だった。泥に汚れて中を覗くことのできない窓ガラスを、大雨のなか必死になって何度も何度も拭く場面を窓の中から見るシーンは、拭く(=クリアにする)という意図とその目的が一向に成就されない様子を描きつつ、点々と一瞬だけ見えてはすぐ泥に隠される光がきれいで、しかもその視点が誰のものでもない架空の(幽霊の)視点であるというところも含め、映像とその映像を形作る運動とが2時間の映画全体を集約しているといっても過言ではなく、視覚を中心とした情報量が2時間分の重みを加えているという意味でもきわめて映画的なカットだった。映画のことを覚えているというときには、全体をこんなふうな映画だったと満遍なくイメージで記憶しているものだと思うが、なかには「この映画はこのシーン」というように、ある特定のカットが深く脳裏に刻まれて、その映画を思い出そうとしたときにまずはそのカットが取り出されるということが起こることもある。『怪物』にあのカットがあったことでそういう記憶に残る映画になった。たとえば『海街diary』にも『三度目の殺人』にもそういうシーンはある。並んでいく作品が仮に自己模倣だとすれば互いが互いを薄めあってもいいはずなのにそうならないということひとつとっても、強い映像を撮る映画監督だといえる。

今日
安田記念のレース直後、勝利者としてビジョンに大写しになったソングラインの顔から肩にかけての馬体前面に尋常ではないほどの血管の浮き上がりを見て、とにかくそれが一番の衝撃だったからそのことを朝起きてすぐ思い出し「競走馬 レース後」で検索したところ、レースを引退した馬の99%はそのまま食肉になるという衝撃の事実を知る。なにも動物愛護の精神が取り立てて豊富というのではないが、反射的に「それはないぜ」と思ってしまった。いろいろ考えてみたところ、食肉に反対はしないが、名前をつけた存在を肉にするのには抵抗があるという意見が自分にはあるということを発見した。すでに名前を覚えてしまった馬たち、シュネルマイスター、ソングライン、ドラゴンゴクウ、フィールザワールド、そしてエリカコレクトは肉にされないでほしいし、できればどこか広い草原で悠々と長生きしてほしいと思う。馬一般から固有のその馬という存在に変えてしまう効果が名前にはある。自分が嫌だからという主観に端を発している意見に過ぎないとはいえ、一度でも名前を呼んだ何かに対して冷徹に対処するというようなことを社会にはやっていてほしくない。そんなのは堕落じゃないかと思ってしまう。
教室で豚を飼う場合にもやりがちだが絶対にやってはいけないことは名前をつけることだと思う。そういえばニワトリ小屋のニワトリにも「ピーすけ」だか「ピーちゃん」だか、しょうもない名前が付いていたが、あれは彼女ら(たぶんピーちゃん)が産んだ卵を口にするだけだからまあセーフでいいか。
在宅仕事。先週から完全に落ち着いて余裕を持って定時を迎えられた。ただなぜかハイになって機嫌も良くてというふうに、仕事は嫌だったものの全体的に気分が良かった先週とは変わって気分が落ちている。心身の体調的になにかがズレているような感じがあって、そういう隙間をついお笑いのコンテンツで埋めようとしてしまう。とくに昼間に見た有吉の壁の録画分で、芸人たちがモノボケするコーナーでは自分でも違和感をおぼえるほどの大爆笑をしてしまい、それほどまでに疲れているのかと不安になった。たぶんそれを抜きにしても異常に面白い回だったとは思う。とくに、う大の「厨房にいるときの俺とだいぶ雰囲気ちがうだろ?」では笑いの最骨頂が出た。笑いの最骨頂とは何なのかわからないが、あまりにも面白すぎて面白いのが嬉しすぎて、そのボケに対して大ウケする芸人たちの表情を一時停止して見て悦に入っていた。こんな感じで俺は調子を上げていくんだと思う。その後、晴れだったので予定通りに洗濯機を回した。
芸人に対して”行き過ぎているモノマネ芸”を見せて、その迫真性の過剰さに芸人が笑うという構図で、なんだかわからないが、ギャラクシー!という感想を持った。
定時後スタバに行くも満席だったのでもうひとつのスタバに行こうと思ったが、(勝手な)義理もありタリーズに顔を出す。しかし、ラテの代金を払った直後に「90分制にご協力ください」と言われてしまう。それでは騙し討ちじゃないかと不満だし、それならもう二度とこないよと思う。しかし、そのあと黙々と90分を超えて150分まで作業をする。タリーズは適当なところが良いところだったということを思い出す。観葉植物の近くの席で、コバエが飛んでいるのはいただけないのでいずれにせよもう来ないが、それはそれとして。
本当に一度も行っていない。でも元気に営業しているようで何よりだ。

20230603

日記122

 

おなじみの顔

昨日

在宅仕事。一日雨だったが午後からの降り方がとくにひどかった。雨の音量が上がれば上がるほど家にいられて良かったと思う。ちょっと窓を開けてみたが瞬時に入り込んでくる雨水の量がなかなかだった。今日はなぜか機嫌が悪く、自分に当たりそうな気配があったので何かを考える気にはなれなかった。ので映画を見る。『ケイコ』をぼーっと眺めるように見たが、なんとなく見てなんとなく面白かった。その後酒を飲もうとするも、日記も書かないではなんとなく飲む気になれず、シャワーで気分転換をはかってからMacbookを開く。

やっぱり外に出るというのは思っている以上に大事なのかもしれない。一日家にいるとどうも気が塞いでしまうようだ。できないことばかりに気が向かう。できることに目を向けないと酸欠になってしまう。

こういうときにできる唯一のこと”早寝”をしようとするも、雨の音がうるさすぎて寝付きが悪く、結局いつもの就寝時間になってしまう。

機嫌が悪いときに機嫌が悪いなりの過ごし方をするというのが機嫌が良い状態を保つコツなんだと思われる。


今日

7時半に目覚めたが、これでは寝不足になるしあまり調子がよくない感じがしたので二度寝をする。起きたら10時前でうだうだしているうちに歯医者の時間になる。痛いのは前回で終わったと油断していたら不意討ちで痛いのがきてショックを受けた。しかしショックを受けているうちに治療が終わったという感じで助かった。担当してくれている歯科医は持って行き方が上手い。しかし来週の治療が今からもう気が重くてそれはこまる。どうでもいいことだが歯科医の待合で映画がかかっており、音がないけど字幕はあったので見ていたら、トム・ホランドとマーク・ウォルバーグが何かの財宝を狙っているようだった。シーンのつなぎ方というか映像意図のクリアさが昨日の『ケイコ』とは全然違っていて面白かった。どっちが良いとかはないんだけど『ケイコ』のほうが断然良いと感じる。ジャンルはちがうんだけどだからといって言い訳にはならない。ハリウッド映画の面白くなさはそのままハリウッド映画の安定感ということで評価すべきポイントなんだろうけど、そういう典型的な映画を見ているときに”わかりやすさ”を見ている気持ちになるというこちらの自意識の問題かもしれないが、俺はそれはあんまり良くないと感じる。MCUもそうだが、こうなってほしいとかこうなるだろうという方向にしか進まないので、ストーリーが面白い面白くない以前の問題だ。そういうのも年末に忠臣蔵を見るような気晴らしと祝祭をかねた映画視聴の体験だとすれば納得はいくが、そればかり見ているわけにもいかない。

音無しで、しかも待合の短い合間だけ見てこれだけつまらないと言われる映画はかわいそうだが、ほんの2,3分、ちょっと見ただけでこの映画は面白くないというのはわかると思う。ハリウッド映画のようにメソッドが確立されていて上下の区別をつけやすい映画であればなおさら。

しかし、昨日のメンタル不調は解消している。外に出たのと、歯科医の治療を終えたのと、雨が上がったのが同時にやってきてすっかり良くなった。やっと休日がきたという感じ。本当は金曜の夜からその気分でいたいところだけどこのまま憂鬱な月曜につながっていくよりかはマシだ。

自分にできないことを見つめてしまい不調に陥った昨日の件だが、調子を取り戻した今は、それを起因として落ち込んでいた昨日よりも簡単に取り扱うことができる。調子が悪いときにはその原因となった要因と時間的に近いから、鉄を熱いうちに打つのと同じ考えで、苦しい今こそこの苦しさの原因を摘出するんだという気持ちが働くが、やっぱり一晩寝てから考えるほうが考えるということに関してはしやすい。間違った考えになってもいいから感情の起伏や軌道を書き残しておきたいというのであれば、勢いに任せてばーっと書いてしまうのも手ではあるかもしれないが、昨日の自分の場合、テンションが落ちていてなおかつ書こうという気力も全然出なかったので、よけいに書けない方向に進んでいきそうだった。

自分には声がないということの自覚が、不調の原因だ。山崎正和の『不機嫌の時代』に「さばけた人間として社交場で活動したいのに、そうできていない自分を見出し、それが負のスパイラルに入ってよけいに気負ってしまい、どんどんさばけていない人間になっていってしまう。不機嫌な人間の誕生である」というような記述があったと覚えているが、そのコースを今の時代なりに自分なりになぞっていっているような感じがある。あれは自他ともに認めるエリートの話だったが、こちらはエリート自認が先走っている半エリートの話で、すこし(考え方によっては全然)違う。

たったの一年なのでこれが解決するということはないが、それでも諦めをブレンドして気にしないようにしながらやれることをやっていくという当たり前の対応策を選ぶことができている。先週末に座ったポーカーテーブルでも、こうありたいという頭のなかの理想像からそれなりに隔たっている実際を再確認することになった。それでもその事実に対してそこまでダメージを受けないというのは諦めの効能だろう。

ただいずれにせよ、「自分はこういう人間だ、こうあるべき人間だ」という自己認識と同時に働く規範意識が、深化の方向ではなく発散の方向をめざすときに特有の問題意識のありようだ。思い悩むということが、悩みの解消とは真逆の方向に作用するというジレンマがある。

とにかく明るく接するということができない。たとえば仕事の人や目上の人なんかと接するときに、いまだに「ちゃんとしないと」という意識があり、頭ではフランクに接したいと思うのに反して、緊張して話をしてしまう。緊張からそれを一気に壊す言葉をちょっと言って「笑い」という反応に変えるという必要に迫られての面白いコミュニケーションしかしてこなかったから、じわじわ安心感を与えていっていつのまにか馴染んでいくという王道のコミュニケーションが全然できない。そのための近道のひとつがとにかく明るく接するということなんだと思うが、もともとの性格が明るいということもあって、それを無謀と考えて違う道を行くということも選択肢になかった。ただ、自分の明るいというのは、暗い人に比べたら明るいということに過ぎず、根っから明るいというのではないのかもしれない。いや根っから明るいんだけど、人と接するときには怒られたくない警戒心から明るさを隠そうとするんだろう。それは根っから明るいとは言わないというのは他人からすればそうなんだろうが、自分としては安全な部屋のなかであれだけ明るいんだから、根は明るいということに間違いはないという気があって、それが対人の場面ではうまく作動しないことに自分事ながらフラストレーションをためているんだろう。ただ、本当に、根っから明るいので、そんなフラストレーションについてもすぐ忘れて踊りだしてしまう。し、踊っているうちにそれでいいんだと考えるようになる。家で踊るか、外でだんまりかの極端な二択しか今の自分にはなくて、その振れ幅が良いといえば良いけど良くないといえば良くないので、なんとかしようとして、外で歩きながらお酒を飲むなどして疑似開放的な気持ちを味わっているだけのようだ。それは街を自分んちの庭にしているだけのことで、アウェーで踊れるというのとはべつのものだ。それでも家でじっとしているよりは外に繋がっていくのではないかという期待がある。その期待が一番の気晴らしになるので、つよい雨などが降って家でじっとしているしかできないと、途端に気が塞ぐのだろう。在宅仕事のせいで、かえって家のなかで緊張してだんまり人間にならざるを得ないから、ひとりで外に出るのが家に帰ることのようになっているのだと思う。そして帰ってきたら、やっと家に帰ってきたということになる。そういうのもあって仕事終わりに家を飛び出すのは自分にとっては帰宅するために行う一連の儀式だ。こうして書き出してみると、上手い下手はわからないが一応対処しているなという感想を抱く。この安定は日々を楽しいものにするのに役立っているのは間違いないから、つぎはもっと声を出す方向へすすんでいくために何かの仕組みを導入したい。ちょっと前には音読をしたことがあったが、そういう物理的に声を出すことも再開したほうがいいし、それ以外の何かも思いついていきたい。考え込むより先に口が動くような会話が一番良いんだろうけど、家みたいな友人とそれをやってもしょうがない。ただお互い何かしらの負荷をかけて喋るというのはありかも。あとは昔の友人に連絡取ってみるとか。

日記を書くというのは、今の自分にとって声を出すことに一番近い。それが家でやることか外でやることかを分けるのが文体ということになるのかもしれない。外にいる人にも分かり良いように、スムーズに汲み取れるように意識して文章を書くということをやれば、もっと声を出すことに近づいていくような気がする。あまり頭を使わないで書くことで指の体操のようになるのも楽しいことなので、そこは使い分けていくところになる。

書いている途中にどういう言い回しをするか、どういう言葉を使うかというのは、これでもそれなりに気を回すところなのだが、文章よりももうすこし大きい単位、パラグラフなどで、どういう構成にするかというのは全然考える気が起きない。何らかの文章を書いたあと、それらを並び替えたり、並び替えたあとで文章を修正したりということは楽しくないし、それをやりたいという気も起きない。それは消極的に面倒だからというのではなく、積極的にそのままにしておきたいという気がつよいからだ。文章が「出た」「発出された」ということに価値を置きすぎているようだが、実際、その部分がなければそもそも書きたいという意欲も「出て」こない。「出す」意識を、文章の単位ではなくもう少し長くまとまった単位で感じ取るように調整するのがいいと思う。その意味でもツイッターは自分にとっては良くないツールだった。ツイッター→ミクシーだったら良かったのだが、実際にはミクシー→ツイッターだったので、文章の細かいところが気にかかる、もともとのみみっちさが強化されたように思える。

でもこれではいけないと思ってブログをはじめてとりあえず書くことを始められているので、自分にとって必要なことを見つけてそれに取り組むことが出来ているという一定以上の満足はある。声を出すに向かってすすむことは、文体をつくるという方向と重なる部分が大きい。というよりも、ほとんど同じことを話し言葉/書き言葉によって言い換えているのに過ぎないと思われる。

言いたいことがあればこの日記のなかで言うようにして、普段はあまり考えないでいるようにするということができているので、言いたいことが言えないでヤキモキするというストレスからは開放されている。考えないでいるとそのときに感じたことをパッと言えるようになる。そのやり方を自分の舞台だと感じる場所でもできるようになれば、さらにその先に行ける気がする。いずれにしてもそれは「準備をしない」のではなく、「準備を入念にしたうえでそれを忘れる」というプロセスを経るべきだろう。

帰宅して昼飯を食べ、サインフェルドを2話見て再度スタバに出かける。iPadを駆使し、小説の骨組みを考える。

何の昼飯を食べたのだったか思い出せない。このとき骨組みを考えていた小説については思い出せる。というか半年以上の中断を挟んでちょうど同じ作業を最近になってもまだやっている。骨組みを考える。

20230601

日記121

 

幟調子

昨日

いつものように酒を飲んで帰るも、久しぶりに晩飯をもやしにする。翌朝に早出の出勤があるため早く寝る。22時半頃。

これから一回もやっていないので一年以上やっていないのかもしれないもやし飯。飽食対策にもなるし、そろそろまたやってもいいかも。


今日

出勤してゆるゆる働く。モチベーション管理をしなくても仕事をするのでたるい仕事をラクに片付けられるのが出勤の良い点だ。早出のため早めに上がれると聞いたから映画を予約したのに普通に打ち合わせに参加してくださいということになり定時5分前まで座らせられる。自分も他人の時間を好き勝手にできるという幻想を持たないようにしよう。好感度のようなものが控えめに言って大幅に下がった。ダッシュしたら映画には間に合ったから良かったが、新宿に向かう電車内でイライラが3,4回沸点に達した。あとTOHOのエレベーター内でも。

結局、駄目な職場には駄目な上司がいて、いい加減なことをやってくるわりに要求は当然という顔でしてくる。できることといえば可能なかぎりはやく離脱することだ。

『TAR』は今年の見てよかった映画No1かもしれない。オーケストラの指揮者を主人公に据えてそれをケイト・ブランシェットに完璧にこなさせるのが企画の勝利だといえる。わかりやすく頭抜けていて何度もため息が出た。最初クレジットが変だなと思ったが、ラストでズッコケさせられたうえ爆笑させられるというきれいなフリオチがハマっていて、ああそのためかと膝を打った。当然だが考えて作られている映画だから、ラストと最初がループを結ぶようにできているのも爆笑しながら拍手したくなるところで、拍手笑いというのはこうして起きるんだという実演になった。映画館なので心のなかで済ませたが。

通常言葉を乗せるためにある声から意味の通る言葉を取り去ってノイズにするという演出意図を、俳優の流暢な言語使いによって浮き上がらせるというのが見事だった。演説を聞き入ってしまうというときに起きることの半分は声の抑揚を味わうことで、残りの半分は言っていることの意味がわかるようにそれを追いかけることだというのがよく分かると思う。とくに冒頭から序盤にかけて、この人物はどういう人物なのか知ろうとするから自然にそういう事が起こる。ケイト・ブランシェットはアンドロイドのように魅力的だし。バッハを弾くまでの一連の流れなどは何度も見返したいぐらい良かった。

しかしそんな中でも「作曲家の目的を感じ取れ」「あいまいに指揮棒を振るな」「なんでも目的をもってやれ」というのは心地よいノイズのなかでうるさく響いてきた。自分の中の現代音楽を良いと感じる感性、あいまいだけど良いような気がするとか、良いと感じるために感覚的に退屈だと感じるものに対して譲歩する姿勢だとか咎められているような気がしてうるさかった。

全方向対応する棒は原理的にありえないというかそれを実現しようとすると棒状ではなくなるので棒は一方向特化で良い。そして棒を目指すわけではないのであれば棒の言うことを来にする必要はない。

ケイト・ブランシェットのスピーチ練習場面が中身ではなく抑揚をチェックするものだというのがこの映画の言いたいことの中心に重なるのだと思うが、中身をきちんと整えることでより外面が際立ったものに見えるということを理解したうえで脚本が書かれてあるので、すべてのシーンで見ごたえがあった。それというのもケイト・ブランシェットは画面に映っているあいだじゅうずっと喋っているから。喋らないでも意図のある行動をつねにしている。

しかし、この時代に、アンドロイドに完璧に寄せていくような方向性に類まれな俳優の技術・才能をこれでもかと存分に振り向けるというのは意義のあることだと思う。アンドロイドは無様にコケたりしないから、盛大にコケる場面から先はオチへむかっていく動きとして捉えられるが、あってもなくても良いものだと思う。ただ映画館であのエンドロールを迎えられたときのあの感覚はTAR以外では得られない特有のもので、TARの持つ目的、記憶の中に生き残ろうとする意欲的な面を文字通り全身に浴びることができたので、それのためにもあったほうが良かった。ただし映画館で見ないと半減以上なのは間違いない。歴史にも名だたる音楽家をクレジットする遊びというのはTARの発明だと思う。他にもそういう遊びをしている映画はあるのかもしれないがあんなにもバッチリ決まっているものはないはずだ。

映画を見終わって新宿から電車に乗ったのが21時ちょうど。すぐスタバに行ってこの日記を書き終えたのが22時すぎ。さすがに『TAR』を見てそのまま酒のんで寝るというわけにはいかなかった。(このあと酒のんで帰って寝るわけだが)

早出のために早起きをして、仕事終わりに映画を見たあとスタバに行くんだから大したもんだ。こういう日には酒を飲んでも許されると思う。

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