われわれは普段人類愛にあふれるというタイプではないが、それでも、できるだけ美しいもの面白いもの優れたものを遺したいと思うほどには人類を、あるいは文化を愛している。
自分には3人を選ぶ準備ができていなかった。だから個人的な趣味ではなくごく穏当な常識的判断になるが『ハンターハンター』の作者、『ピンポン』の作者として2人を選んだ。あとひとりは悩みに悩んだが答えは出なかった。あまり考えないでも2人の名前が言えたことにはさして驚きはなく、あとひとりがどうしても出ないことのほうに意識を取られた。
酔いにまかせての放談スタイルで、昔はもっとそんな破天荒ともいえるスタイルで全然すれ違いながらも全然すれ違いを気にせずにお互い好き勝手なことを喋り合っていたのだが、ここのところそういった放談の機会も順調に減ってきていて、久しぶりに楽しく好きな漫画のことを喋りあったのだった。
しかし酔っていない今となって、なぜそんなことを言えたのかと不思議なことがある。酔っていないときでもこの2人の名前はすぐ挙がるのでべつにそこは不思議ではないのだが、松本大洋の名前を『ピンポン』の作者として出したのは、どう考えてもおかしいと思う。3人だけの漫画家、そのひとりとして松本大洋の名前が挙がるのは『ピンポン』を読んだからでも『鉄コン筋クリート』を読んだからでも『東京ヒゴロ』を読んだからでもない。『Sunny』を読んだからにほかならないからだ。
『Sunny』の舞台は「星の子」という施設だ。この施設は何らかの理由で親といっしょに暮らせない子供を引き取って育てるという役割を果たす場所で、登場する子どもたちはみな孤児である。
彼らはできるだけ不自由のないようにと「星の子」の職員たちによって庇護されている。「星の子」では子供のためのルールが定められていて、そのひとつに「大人はSunnyに入ってはいけない」というものがある。Sunnyというのは古い車で、もう動かないかわりに、その車内を子供だけのためのスペースとして外界から区切るために残されている。この「大人はSunnyに入ってはいけない」というルールをいわば悪用してなかにエロ本を隠していたり、中学生ほどの大きい子はタバコを吸っていたりする。大人たちは当然それを知っているだろうが、それでもSunnyのなかのことには口出ししない。職員が「星の子」の子たちにできるだけ不自由を感じることがないようにとどれだけ努力しても、彼らが親と暮らす子供と同じだけの自由を享受することはできない。たとえば、子どもたちは集団生活をしているからほとんどひとりになることができない。泣きたいときにひとりでいられないということは大きな不自由だろう。しかも「星の子」の子どもたちは定期的に泣きたい気持ちになるはずで、それなのにひとりになれる場所がないというのは悲しいことだ。だから職員はSunnyのなかのことには口出ししない。大人が入ってこない場所を用意することを優先したのだろう。
すべての施設がそうだということはないだろうが、「星の子」は暖かい場所だ。ここに来ることになった子どもたちは別の施設にいくことになった子に比べて運が良いといえると思う。しかし、それでも主人公のひとり春男が言うようにそこは地獄でもある。親と暮らしたい子どもが集められてひとつところで暮らすというのは本人たちにとっては最低なことなんだろう。暖かい場所で、楽しいことやきれいな風景があって、優しい大人に囲まれていて、それでもなお地獄だというのはわからないようでいてわかることでもある。不足はあれど大抵のことを用意してくれるからこそ、一番欲しいものがないというのが浮き彫りになるということだと思う。純度の高い悲しいがそこにはあって、それらが響き合ったり、ただ一粒の涙になってどこかに消えていったりするさまは、本当に胸が苦しくなるほど美しい。
悲しいがあり、それがどうなっていくのかということに関心を持つのは自然なことだ。しかし、どうなっていくかということに関わりなく、ただそこに悲しいがある。それだけがすべてだと思わないとだめなときもある。ただ悲しいだけでどうにもならないということを認めないと、悲しいがあるということに思い至れないような悲しいがある。そういう悲しいだけが出口なんじゃないかと思えるときがある。それをなかったことにするのは無理だ。