夢には限界がある。
寝ているときに見る夢には、現実世界では起こりもしないことや現実世界では出来もしないことを、現実的な感触をいくらかなりと含んだ感覚とともに私の主観に立ち現すことができる。
しかし、現実世界で実際に想像するこの想像の及ぶ範囲の外に夢が出ていくことはできない。夢見ることというのは、現実世界からすれば途方も無いビジョンを見せてくれることであると感じられるのに反して、現実のこの脳が想像する範囲から一歩もでない映像であるにすぎない。たとえどれほど能力が高い人物であろうと、その想像力が群を抜いて高い特別な人物であろうと、彼が一万年前の人間であるなら「電子マネー」を夢にも見ることができないはずだ。しかし現実には電子マネーがある。そして一万年前には想像力が並外れて高い人物がいた。
夢を入れ子状にして夢の夢を見ようが、夢の夢の夢を見たと主張しようが、現実の外に出ていくことはできない。
現実には先がある。一万年後には一万年後の、百万年後には百万年後の現実がある。そして夢は、いとも簡単に想像できるそこにさえたどり着くことができないのだ。それなのに夢を現実より何でもできるもの、想像力の世界の上位に置くのは間違っている。現実こそが一万年後に接続される唯一のものであり、夢はそれを見る主観が消えればただちに消えるものであるにすぎない。
それでたくさんだ、現実に想像できるものや、それよりもはるかに少ないものであっても、夢を見ることができればそれで十分だと主張することはできる。しかし、それを主張することでさえ夢の中ではできない。あくまでも現実の世界のなかで、夢には大きな可能性があると主張することしかできないのだ。そもそも夢には夢の何たるかを把握する能力にも欠けている。一方、現実感の欠損を夢の充実として捉えて、夢の本質を現実感覚の部分的喪失に見出すことは可能である。現実感覚を手放すことで、ひどい現実を手放すことができるのであれば、それは夢の功績となるだろう。恐怖を和らげるために現実を現実として意識することの邪魔立てをする、明らかに意識する状態をいくらかなりと離れる、その役に立つのが夢である。しかし、それでもやはり夢には限界がある。
その役割を果たすだけのためにも、多くの助けがいることだろう。それは毎日の睡眠、アルコール等による酩酊、あるいは教条。思考すること、現実を意識しないために脳を疲れさせること全般。
現実には、今こうして考えている何事かを考えられなくなるということ、今感じている物事を感じ取れなくなるということが含まれる。それがどういうことなのか、夢に想像できるとは思えない。