20230514

イージー☆ライター

軽々しく何かを言うことを覚えた。

たとえばこのブログで書いている日記などもまったく内省することなく思ったことを書き付けている。だから読む側は何が書かれてあるのか全然わからない文章に定期的にぶち当たるだろうし、それでまともに読む気をなくすことだろうと思う。だけどまともに読まれなくてもいいからとりあえず読んでほしいという気持ちがある。できたら読んでほしい、読まれるかどうかを自分で決めれるのであれば読まれる方を選ぶというぐらいの積極性はある。ただし、読まれるためによくわからない文章を書かないようにするだとか、もっと要領を得た書き方をするだとか、そういうまともなことをするつもりはない。それをそこまでやるだけの積極性がないと取るか、書きぶりを改める気もなく読んでほしいと望むふてぶてしさをみて積極性があると取るかは人によって意見が分かれるところであるだろう。……というのも、意見が分かれてほしいという願望込みでそう思うに過ぎないけれど、とにかく自分としては積極性を持ってこういうことを言っているつもりだ。

昔は自分の意見というものが自分にとって大きな意味を持ちすぎていて、それを外に出すということに高いハードルがあった。胡乱な言い方をあえて選んで、それで理解されなくても問題ないという安易な道を行くことが多かった。今も昔も、文章によって何ごとかを伝える高い能力を持っているわけではないのだが、昔はとくに、自分が目にしたもののレベルがそのまま自分のレベルだと信じていられたから、自分の能力に自身を持っていられた。他人の褌で相撲を取るようなものだが、他人の褌をそれなりの真剣さをもって自分のものであると考えられるだけの無邪気な定見があった。じつはその考え方は今も続いている。

これは無根拠な自信というものに近いようだが遠い。自分でも掴んでいる根拠が正当のものではないということは認めているという意味で無根拠に近い。しかし、何かを掴んでいると、そのロープの先がどこにも結びついていないにせよ一定の安心が得られるもので、その安心を現実に利用し活用しているという意味ではまったくの無根拠というわけではないのだ。根拠のない自信の持ち主を見ると、つい仰ぎ見る心が発動しそうになるが、その実、彼自身にとってのみ利活用される、たんに一般的ではない、しかし彼にとって確かな根拠がどこかに埋まっているにすぎないのではないかと考えるようになった。それが目に見えるところに無造作に置いてあるか目に見えないところに隠してあるかの違いにすぎない。

たとえば自分の根拠とするものに読書があるのは間違いない。しかし自分のことを読書家だとは思っていない。ブクログというサービスを利用し、ある年以降に読んだ本をすべてインターネット上に公開している。ブクログの本棚を見ると読んだ本の数字が出るのだが、恥ずかしいほど少ない量しか読んでいないことが明白になる。どこまでのラインから自分のことを読書家だといえるのかというのは人それぞれ違うものだろうが、読めば読むほどそのラインが向こう側へ遠ざかっていくのだろうなという予感は現時点でもあるから、無理にそのラインを越えようという気は起きない。それでも読み終えた本を公開しているのは、自分の不足をすこしでも埋めようとする動機を得るためだ。

読む本は面白いに違いないというものを選んでいるので、感想を書くときにはつい慎重になってしまう。たんに面白かったで済ませればいいのだがそういうことをしたくないのでtwitterで感想を言うことをしなくなった。その代わりにこのブログを作って文字数制限を気にしないで感想を言うようにした。それで気づいたのは、twitterの文字数という制限は感想を言うにあたってそこまでの障壁にはなっていなかったという当然といえば当然のことだ。面白いと思ったものについて感想を言うのは簡単なことではない。

だからどの部分が印象に残ったかというのを日記の形式を借りて書くことにした。これは感想を書くことにくらべてかなりやりやすい。しかも書いたものはいくらかなりとも感想としての体裁を保つ。そもそも感想文などというのはそんなに大げさなものではないのだが、自分にとってはなぜか自分の感想がおおごとに感じられるので、こういう工夫によって書かれる感想の数が増えるのはのぞむところだ。小説・映画・漫画問わず面白い作品について言いたいことはもっとあるので、できるだけ印象に残ったところを書いていって、もう言いたいことはないというぐらいまで感想を言いたい。

そういうことをしていると、大したことを感じていないと冷静になるタイミングが出てくる。これは感想を書くことの一番の弊害だと思う。何かを見て感動したことを大したことではないと感じる意味はないからだ。しかし、書いている途中に書いている内容に押されて、記憶の中の感動が薄れていくとしても、それ自体はわるいことではない。反芻するというのは、必ずしも懐古的になってあれは良かったと再確認するだけのことではない。ただ、書いている途中に起きることとして、間違った意味づけを与えたり、感じていることを言葉の進む方向に間違って固めていくことがある。冷静になって考えるというときにはそうなっていないかというチェックをする必要がある。そういうことが起きないように、最初から感想を言うということを控えるというのも理解できる。軽々しく物を言わないという方向性だ。

この方向性を取るのは大学生の頃や20代前半の頃には有効だ。対象をまるごと受け止めて評価・判断をしないというスタンスをとることで下地を作る時期というのは、継続的に何かを楽しもうとする目的にとって重要だ。そうするときには権威に寄りかかってもいいと思う。具体的には賞を獲った映画を見るだとか、名作とされる小説を読むといったことだ。それをやっていくと、見終えるということや読み終えるということはありえないということが理解される。

面白いのか面白くないのかわからないと、そこが半信半疑だと、感想を言うのは不可能だ。面白くなかったという感想を言うこと自体は難しいことではないので、面白くなかったという内容の自分にとって大した意味のない感想は書けるかもしれないが、何が面白かったかということに触れる、意味ある感想を書くのは簡単なことではない。だから面白いと感じることについて、自分なりの根拠を構築するための期間を設けることは、とくに最初期においてはもっとも重要なことだ。

そうやって面白いものを見つけられるようになったあと、「たしかに面白かったのだが何が面白かったのかわからない」という作品の感想を言うことには意味が生まれやすい。面白さを言おうとするなかで全然面白さの核心に近づけないというフラストレーションがたまることばかりだと思うが、無理に掴もうとして変な箇所を取り上げて感想を言うことも多いはずだが、そのせいでいくら頓珍漢な文章になったとしても、その軌跡が示されること自体に感想を書くことの意味がある。ひとつには書かれたものは読み返すことができるからだ。それをきっかけや足がかりにして、再び感想を書くことができる。書かれてあることが「面白かった」だけだと広がらない。あとから見て間違っているように思えたとしても、何か具体的な部分について触れていたり、良くなかった箇所について残されていると、それに注釈をいれる形でも部分的に訂正する形でも、感想が前に進む。それによって理解が深まるのは、その作品についてと、その作品についての自分の感じ方・意見についてである。これは作品を見てその感動を大事にとっておくだけでは得られないものだ。

しかし「そもそもそんなもの必要ない、自分の得た感動はそれほど大きい」というのは実際にあることだ。没入感覚を失わないように感動に浸りきっていたいというのは否定できるものではない。ただ、いくら下手なことを言っても、無理に感想としてまとめようとして書いたり、出来合いの形容で済ませたりということを避けて進めるかぎり、感動というのは少しも毀損されるものではない。たとえば作品がどれほど繊細な部分から成り立っていようと、それはその作品が柔弱なものであるということを意味しない。むしろ感動を与える作品というのはすべからく剛毅だ。それは裏を返すと、得た感動に傷をつけられるような強いことを、感動を受けた当人が言えるはずがないということだ。だから安心して、何が良かったか/どこが良くなかったかを、ひとつでもふたつでも思いつくだけ書いてみればいいのだ。

……というようなことを思って、ブンブン槍を振り回す気分で感想を書いている。十分なスペースが確保されていれば安全だし、長い棒をいい加減にブンブン振り回すのは楽しい。

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