20230511

逆走せよ人間

自分の常識にたよって生きていると、知らず識らずのうちに、頭に浮かんでくる選択肢が減っていく。自分なりの判断に自分なりの美学を用いて決定していくということは基本のきだが、それ一辺倒になると雁字搦めになる。雁字搦めになったらなんとか結び目を解こうとするので生じる結果としてはまだましなほうで、よりわるい場合、考えているつもりでいてその考えが及んでいる範囲が極狭(ごくせま)ということになってしまう。「考えた結果、わたしはこう行動する」ということの繰り返しが良い行動に結びつくというのは統計的に正しいだろうが、そこには罠がある。われわれは(私だけということはないだろう)、考えた結果の結果には固執しやすい。なぜ固執しやすいかといえば考えたという積極的行為がその前に挟まっているからだ。しかも考えた場合、考えた結果についてこだわることを固執したと感じ取りづらい。対立する意見を「考えていない結果」だと簡単に決めつけてしまうのだ。これは二重に間違っている。考えた結果と対立するからといってそれが考えていない意見とは限らないというのがひとつ。こちらはまだましなほうで、考えた結果だと比較的過ちを見つけやすい。考えれば考えるほどそれに気づけるチャンスが増えていくからだ。もう一方のミスはより見つけづらい。それは「考えられた意見がつねに正しいとは限らない」ということだ。オープンなやり取りができるような知的にめぐまれた環境であってもこれは盲点になりうる。たとえばピラミッドはひとつひとつの岩を積み上げた結果としてこの世界に屹立している構造物だが、じつはそういうふうにできていない構造物のほうが数多い。このことには簡単に納得できても、自分が置かれている立場で何を選択するべきかというようなことが俎上に載せられると、知的な判断がともなうといささかなりとも感じられる場面になると、あっさりしりぞけられる。

それがまったくだめだというわけではない。継続的に見たり、統計的に考えるのであれば、考えることに決め打ちするほうがいい結果に結びつきやすいとも思われる。ただ、自分の考えることに自信を持ち、それを恃みにしながらも、そこ以外にルーツを持つ流れを自らに引き込む回路を用意しておくのはかなり重要なことだと思われる。そのほうが冗長性があるだとか、バックアップを用意するためというのもそうだが、それ以上に、「外」は自分の考えそのものにとって重要な要素になりうるということだ。ただし、それとして用いるのに、自分ではない他人が考えた結果を持ち出すというのはあまりふさわしくないかもしれない。同じ時代の人間が考えることなどは似たりよったりの結果になるからだ。それが考えた結果であればあるほど外的要素とはなりえない。未来方向の合理性や過去方向の因習もたぶん外的要素というには外の空気がうすすぎる。全然考えないで、理に合わないことを喜々としてやっている、(自分から見て)逆走する人間というのがもっとも外的な存在だと思われる。動物や機械ではあまりに合理的すぎてその用を足すための役に立たない。合理的には考えない人間というのが、われわれの用途にもっともふさわしい他人の呼び方であると私には思われる。

われわれは自分自身にとってベストの考え方をする存在でありたい。そこに向かって存在していきたいというのは、誰もが確実に、おぼろげに感じていることだ。そうであるなら、お互いにとっての逆走人間をお互い排斥せず、むしろ大いに利用しようではないか。これが、私のやっていることを見て「ああこれは完全な逆走人間だ」と感じるあなたに対して私が提案できることだ。なお、「逆走してはいないけれどコースアウトしているね……」でも可。

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