20230529

日記118

 

中央線素描

昨日

吉祥寺図書館で文芸誌をちょっとめくる。大江健三郎追悼特集をみて、もともと知っている名前の人の文章だけ眺めたあと、大江が若い小説家にむけて書いたという「難関突破」を読む。

待ち合わせ時間までの隙間時間に読む、まさに言葉通りの立ち読みだったが、力強いメッセージに打たれたんだと思う。詳細な内容を覚えていないが今読んでいる『定義集』にも後輩小説家に対するアドバイスがある。「書け」「書き直せ」。「書け」「出せ」ではなく書いたあとには「書き直せ」と書かれてあった。

昼間予約して、夜ジャズバーに音楽を聞きに行ったら、なんとそれはインプロのライブであえなく撃沈の巻。全然楽しくないただの「音 」だったが、なぜか集中して聴けるのは聴けて、時間は一瞬で過ぎた。ああいうのは何かに近づこうという気はあるんだろうか。「偶然の音楽」というわけではないんだろうから、はっきり定まっていないにせよ目標のようなものはあるんだろうと勝手になんとなく思っているが、やっぱりそれに近づくぞという気持ちよりもその時その場の反応・反射というのに委ねていくんだという気持ちが勝つものなのかな。後者によって前者に至ろうとするんだというのがまあ無難な落とし所か。面白いと感じられたのはバイオリンの人が朗々と弾けているときではなくて、むしろ、入りどころを探して惑っているようにみえるところ、変な弾き方でお茶を濁しているようにみえる箇所だった。そういうときには何かに近づこうという気持ち(もしかすると瞬間的には焦りもあったかもしれない)が見えたのが良かった。定まったメロディ弾き始めるとそういうのが消えるから、演奏しているのとは裏腹にちょっと休憩しているような感じになった。あとは叙情的なメロディがかえってノイズに聴こえるという倒錯はあとから気づいてちょっと面白いところだった。せまい店内に満杯の人たちがじっと座り、何かを見つけようとして一生懸命に「音 」を聴いている様子が一番面白かった。聴いている音をなんとか「音楽」にしようと自分の耳とか心持ちでどうにかそっちに持っていこうと必死になっている人が自分以外にも同じ場所にいるんだろうと思いながら過ごす時間に物珍しさがあった。演奏している人たちが上手いのかどうかさえもわからないような無定形の音楽だったので、そういう取りに行くような楽しみを見出すしかなかった。

昨日の記事のこの音楽イベントについての振り返りはいたってポジティブなものだったので、記憶というのはいい加減なものだと思った。しかしここに書かれてある内容を総合して「良かった」とする大雑把さは生活に欠かせない。だからこそ記憶が近いうちにできるだけ詳細に書き残すという日記の意義もあるというもの。

やけになってラーメンを食べる。鶏そば専門店の鶏そばは変わらず美味しかった。わりと空いてたのに自分たちが入るとどかどか客が入ってすぐ満席になった。外には待機列ができていたし、こういう現象が起こるとちょっと嬉しくなる。行列に並ぶのは絶対に嫌だが自分の後ろに行列ができるのはわるくない。

おかげでラーメンちょっと美味くなったまである。


今日

在宅仕事。それにしても残業がひどい。20時まで同じ場所に座って仕事をし通していた。1分たりとも残業をしたくないのでそのつもりで慌ただしくがちゃがちゃやっているのだが、それにもかかわらずこの時間になるのは嫌なことだ。

自分の仕事の進め方がわるいので残業になっているという控えめで謙虚な書きぶりだが絶対にそんなことはない。

今日は雨もひどい。外に出る気もなくなって家のなかで日記を書くことにする。日記を書き終えたあとで傘も何も持たずに外にとびだしてショーシャンクの空にごっこをやろうと思うぐらいには気持ちが荒んでいる。

そして一年後の今日、残業時間はなんと脅威の-6時間。その差なんと8.5時間である。生活を真面目に送ろうとする人は全員、職場を選ぼう。

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