20230517

日記110

 

IC専用出入り口

昨日

晴れていて外で飲むのに適した気候だったので、スタバから出たあと歩きまわったり座れるところに座ったりしながら酒を飲む。帰宅して料理しておいた玉ねぎと鶏肉の無水料理を食べる。新玉ねぎが売っていたからついどんなものだろうという好奇心で新玉ねぎを買ってきて作ったのだが、普通の玉ねぎよりも水っぽく、普通の玉ねぎで作るほうが美味しいという発見があった。他に何もせずわりとすぐ寝てしまう。


今日

用事があって地元に帰ると、MVを作り直すことになったという報告をバンドのメンバーから受ける。話を聞いているとそのまま撮影が始まる様子で、撮影スタッフも監督もちゃんといて規模感もあってすごいなと思っていると、知っている女優が出演するというサプライズまである。なるほどこっちの道だったのね、と答え合わせをされる感覚のままどんどん撮影は進んでいき、あっという間にクランクアップになる。これはもう仕方ないね、腹を決めますか、とミュージシャンになる覚悟を決めていたと思う。

という夢を見たという一言がどこにもない。わざとそうしているんだろうけど読んでいると心配になる。

在宅仕事。だらだら仕事をする。ラジオを聞いたりしないルールは続いているが短い動画なら良いやとザ・セカンドの番宣動画をTverで見てしまう。あとは録画していたテレビ番組の消化。言ってる場合じゃないけど、マツコ有吉の番組は面白い。

ザ・プロファイラーの最終回、正岡子規回を見る。松尾を批判する戦略は戦略として理解できるけど、鬱陶しさとちょっとのさもしさが感じられて気に入らない。しかし漱石に宛てた手紙の苦しさはやはり何度見ても苦しそうでつらくなる。漱石のことを「柿」とあだ名したのは初耳で面白かった。

柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺

の句が漱石の詠んだ

鐘つけば銀杏散るなり建長寺

の句のアンサーソングとして生まれたという説はもっともらしいうえに面白い。俳句のことは松尾ほどわからないが後者のほうが佳句だろうと思う。

そのほかでは、子規が宗匠のいる句会をあらためて、無記名でそれぞれの句を出してそれぞれ自由に品評するという仕組みを作ったという。これはいかにもエリートの思いつきそうな発想であるが、自分が句会に出るとすればもちろん宗匠など居ない方に出たいので、もし現在の句会の形式がそうなっているのであれば明らかな功績として認められるだろうと思う。

あとは移り気で自分勝手に振る舞う人柄などもその永遠に若い人物像と親和するところが大きい。彼に可愛げがあると感じられるのは若干34歳で生涯を閉じなければならなかったことが影響しているだろう。本人は俳句で名を残すことがなかったとしても、少なくとも50までは生きたかったのではないか。もちろん何もせずに50まで生きるようなタマではないだろうから、べつのかたちでその名を知っていたということになりそうだが。

今日も大相撲を見る。四日目。大相撲のなかにある価値観がなんとなくわかってきた。そうすると恐ろしいことに、力士の身体のほうが美的にもすぐれているのではないかと思う瞬間も短いながら存在し始めた。たとえば、力士に比べて普通の人間は頭でっかちなほど頭が大きすぎるし、性器の身体に占める割合もいたずらに大きすぎてわいせつなのではないかと思ったりした。今日のNHKのアナウンサーは前日に比べても正直あまり良くなかったのだが、解説の錣山親方が格好いい切り返しをしていたので引き立て役として考えるとそういう良さもありえるのかと考えさせられる一幕があった。貴景勝が怪我を押して出場していることについて話が及ぶと、「あまり怪我のことを言われたくないと思います。彼は相当の覚悟を持って場所に出ることを決めていると思うので」と穏やかにきっぱりと言い切っていたのがとにかく格好良くて痺れた。

関係ないが今週の呪術廻戦が面白かった。月曜日に読んだのだが昨日今日もそのことを考えた。この漫画は展開も面白いのだが、それ以上に登場人物のセリフが面白い。架空の登場人物で、架空の立場にいる人物なのだが、その立場を代表した考え方ができていると感心させられる台詞回しが秀逸だ。枠を設定してその枠をはみ出す表現が理にかなっているとそれだけで一定の面白さがある。設定が不変恒常なものだと自ら暗示をかけるというのは言い得て妙だと思った。

錣山親方は心臓の持病が悪化したとかで亡くなってしまった。これからももっと解説を聞きたかったのに残念だ。阿炎を見ると自動で頑張れと思うようになった。

定時に上がり、結びの一番を見てからスタバに出かける。半袖で来たにもかかわらずただ座ってコーヒーを飲んでいるだけで汗ばむぐらい暑くていやになる。いやになりながらも他にやることがないので『同時代ゲーム』を読む。第三の手紙を読み終えたところでようやく、歴史を語るということの全体を小説にしようとしていることに気がつき始めた。かつての指導者の血を引く演劇者を登場させ、彼に歴史を語りかけるという構造が面白い。演劇のパフォーマンスがもっとも発揮されるのは、「のう、去(い)のや!」という意味のある台詞ではなく「バハッ!」という表面的には意味を持たない台詞のほうであるというところに勘所がある。これは時代の流行といった話ではなく演劇の本質に関わるところだ。形式の話ではあるのだろうがジャンルの話ではないはずだ。何かを発しないといけないタイミングはある。何を言うかというのを考えていられないほど急を要するその瞬間に、間違ったことを言うまいとしつつ、何かを発さざるを得ないとき、魯迅のいう吶喊ではないが、動物的な咆哮にも似たただの発声があらわれるのだろう。

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