20230512

日記106

下北沢駅南西口

昨日
スタバを出て酒を飲んで帰ろうとしたところ、同居人からMacbookとiPadを入れたカバンをどこかで落としたという連絡が入る。ほんの1ヶ月前にも同様の騒ぎを持ち来たし、そのときも蒼白になっていたのにまた同じことを繰り返し、同じように蒼白になっているのに笑ってしまう。

そのときは運良く見つかって事なきを得たのだが、今回はもうだめかもしれない。さらに話を聞いていると、PCバッグを紛失するのは今回で3回目だという。べつに信用どうこうと言うつもりはないが、自分の大事な荷物を預けてはおけない人間だとは思う。自分は貴重品は自分の手で持つ主義だから問題ないが。

二日間飲んでいなかったので、久しぶりの酒の味が余計な味付けで変わってしまったのが残念といえば残念だった。月といえば秋だと無意識に思っているけれど、五月の月も同じぐらい良いものだという当たり前のことに気がついた三日前の気分で酒を飲みたかったのに、降って湧いたおもしろ事件のおかげで、相手の不注意・無反省をやいのやいの言いながら飲む、わいわい楽しい酒になった。

出だしから結構辛辣な書きぶりで怒っていたのかと思ったが、読み進めていると分かる通り、書いている時点では全然怒っていない。ただただ驚き呆れるばかりだ。そういう古語があったよなと調べると「あさまし」という検索結果が出てきた。まさにあさましだ。


今日

在宅仕事。この一週間の忙しさは昨日で峠をこえたので、比較的落ち着いて時間を余らせて終えることができた。途中家事の洗濯をこなしたのだが、晴れの気候が気持ちよすぎてタスクという感じがゼロになっていて良かった。五月晴れをリーズナブルに味わえる機会としてちょうど最適だった。

晴れの気候というのはそれだけで良い気分をもたらすものだが、こうしてわかりやすいインセンティブがあると尚の事良い気分になれて、家事労働という感じがごく僅かになる。

結局、同居人が紛失騒ぎを起こしていたPCバッグは昨日立ち寄った店で無事見つかったとのことだった。一番スペックの高いMacbookと買ったばかりのiPadで合わせて60万円以上する落とし物だったので、逃さなかった魚は相当大きい。

これを機にリュックを使い始めたりして、うっかり置き忘れということが起こらないよう対策をしているからか、その後一年のあいだ紛失騒ぎを起こしていない。こういううっかりミスへの対応は「心がけ」なんていう心もとないものにするべきではなく、実際の行動に干渉できる実践的な働きかけこそが重要ということだ。

いつものスタバに行くも満席だったので新しくできたタリーズに行く。オープンのスタッフが初々しくもフレッシュで、昔四条烏丸のタリーズでオープニングスタッフとして働いたときの楽しい思い出が蘇った。とくに「コンアモーレ」という呼びかけあいが端折られずにきちんと行われているのが良かった。東京に出てきてから行くタリーズ、行くタリーズのほとんどすべてでコンアモーレは聞かれなかったし、そもそも元気のない店舗が多かったので、嬉しさもひとしおだった。自分はお客にとってそんな元気に働いていたわけでもないのに、客になるとえらそうに講評したりして良くないとは思うけど、手前味噌ながらわれわれチームはかなり良かった部類なんだと気がついた。もちろんあくまでタリーズにしては、だけど。

タリーズの人たちはスターバックスのことをバックス様と呼んで敬っていた。

『個人的な体験』を読む。超然として人生の達人じみてみえる火見子が、彼女の主観からは全然そうではなく動揺しているのだと明かされる描写によって、鳥(バード)のテンパり具合がわかるようになっていることや、火見子の好感度が上がるようになっているのは一石二鳥でよくできていると思う。火見子を通して鳥(バード)への共感も(もともと全然共感できないというようにはなっていないにしても)スムーズにできるので、相乗効果がある。

『個人的な体験』を読み終わる。オーラスのアスタリスクふたつ以降の文章を含む結末には感情が揺さぶられて実際に身体が震えた。これまで自分は小説の情景描写について興味を惹かれにくいというか情景描写について冷淡というか不感だと勘違いしてきたということに、この小説を読んでいる途中で気づいた。読んでいる文章が情景描写だと感じられるときの読書の体験は、小説のなかに入れていないときにしか起こらない。つまり、優れた情景描写は読者たる自分にとっては情景描写だと気づかれないまま小説を推進させる小説の一部分になるということだ。思い返してみても、情景描写を情景描写として感じるのは小説の冒頭部分にあるそれに集中していた。まだ小説の中に入り込めていないときに、自分の想像力がじゅうぶんな推進力を持っていないとき、車軸が回転していないときに、情景描写が情景描写として感じられるのにすぎない。どれだけ集中して読んでいても会話シーンは会話シーンとして頭がそれを捉えている。しかし、情景描写シーンは本当に透明なレンズとして目の前に現れるということが、小説を読むという体験においては起こっていることなのだ。

つまり情景描写であると意識されない描写が最良の描写だということで、この論点はわかりやすいしそれなりに重要なことを言っていると思う。しかし、描写然として感じられつつ、なおその威力に圧倒されるということも傑作小説における最良の場面では起こり得るだろうし、例外はあるなかでの大まかな原則ぐらいの意見だ。

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