昨日
GWが終わった。在宅勤務で定時まで働く。LUUPを駆使して、GW4日目にも行った漫画喫茶に行く。道中買ったベビーカステラを食べながら漫画を読む。竹光侍8巻と鮫島最後の15日8〜20巻を読み、竹光侍とバチバチシリーズを読み終わる。ここは午前2時までいられる最高の漫画喫茶なのだが、この日はめあての漫画を読み終わったのと翌日に出勤日で若干早起きなのとで22時頃には帰宅する。油断してランジャタイの漫才を見ていたら寝るのがすこし遅れて24時ごろ就寝。
『鮫島最後の15日』の終わり方について、思っていたのと違った。急逝というのが気にかかる。どうしても続きを書きたいと切望しながらそれが叶わないというのではなさそうだと思えてしまう。
バチバチシリーズ(以下バチバチ)は白水というキャラクターがとても良かった。かっこいい、絵になる三枚目という漫画キャラの位置づけではゴールデンカムイの白井と並び立つ。彼は明らかなコメディリリーフだが、アンチクライマックス、アンチヒロイズムとしてのユーモアがあってバチバチを読ませる漫画にまで押し上げていた。「生き様」というような格好いいセリフを吐く若い主人公に足りない要素すべてを担っていた感さえあった。「横綱は神の依代と呼ばれる」みたいなことを言って見栄を切ったこの相撲漫画のおかげで相撲に興味を持ったが、この漫画の途切れ方で冷静さを取り戻した。生きるか死ぬかという線上をいくスリルを使うのでは物語としての魅力そのものはうすい。真剣・命懸けというのはあまりにもリニアな価値観で一本調子に落ちてしまう。『ちはやふる』を読んでいて途中までは熱かったけど、どんどん実力が上がってきて真剣味が増すにつれ、そもそもなんでこんなに真剣にやっているんだ・苦しむ理由はどこにあるという疑問が出来して熱が冷めていった感覚に近い。バチバチの場合はもっと極端で、火花のように燃え尽きた。一瞬で熱くなって一瞬で冷めた。こういうことを言うのをシニシズムに取られるのは仕方ないことかもしれないが、そうではなく、自分としてはむしろバチバチのほうにシニシズムを感じる。「面白くない人生は人生ではない」というのは頭を使わないで考えているとついそう思ってしまうたぐいの直截なテーゼだが、それを大真面目に扱い、地で行こうとしている。もちろんその姿勢には魅力がある。しかし退廃的な魅力だ。
横綱を見るために相撲を見ているのではない。そういう人もいるかもしれないが、そういう人ばかりではないと思う。
「面白いと感じるところに面白さがあり、客観的な面白さというものは存在し得ない」というところから目をそらしているというように見える。土俵の上にしか面白さがないというのは異常だが、それに共感できるものしか登場しない漫画なので、わるい意味で少年漫画だといえる。閉鎖的で外側がない、そしてそれが純粋な強さに変換される機構がある。純文学あるいは純粋培養という言葉遣いが持つ悪弊と同じものを共有している。
それに真剣勝負ということで何かを測ろうとするなら『竹光侍』には及ぶべくもない。土俵の上での真剣勝負という悠長なことは言わずもっと唐突に命が失われる。時代もあってのことだが、その真剣さを良しとするわけにいかない以上、真剣さやシリアスということについてそれがあればあるだけ良いとは言えない。
なぜそれが良いのかわからないものが良いと感じられることがあるとそれには感心させられる。それがユーモアということの意味だと思う。そういう意味で白水は良い。格好わるくてかっこいい。それに比べて鮫島鯉太郎はかっこよくて駄目だ。勝ち方に凄みも説得力もない。
一方は良くてもう一方は良くないというのは単純化してそう言えることにすぎないのだが、それでも自分の単純化の仕方、つまり自分のものの見方はこういうふうになっているということを示すことはできる。
ところで、2Fにある漫画喫茶にはカウンター席があり、窓から外を見ることができる。そして道を隔てた向こう側には居酒屋がある。その居酒屋にもカウンター席があって、窓に背を向けて飲んでいる人影がみえる。この日はたまたま二人組の若い女性が酒を飲んでいた。こちら側の窓の下半分は曇り加工になっていて、座った姿勢のままでは背中をピンと伸ばさないと居酒屋の様子は見えないようになっている。漫画喫茶にいるのだから漫画に集中しないといけないというのではないが当然漫画に集中してしかるべきところ、不自然なほどピンと背筋を伸ばしながら漫画を読んでしまった。べつにこれといった理由もないのだが、窓の外のことが気になるのだ。自分でもそれがなぜなのかわからないし、不合理だと感じるのに窓の外のことがとにかく気になる。なぜなのかわからない。しかしもちろん、これはユーモアとは関係がない。いつの間にか背筋を伸ばすのを忘れているうちに漫画を読み終わって、おもむろに窓の外を見たら別の男二人組が酒を飲んでいた。LUUPのチャリを漕いで家に帰った。
今日
大崎の引越し先オフィスに初出社する。以前のビルより縦長になったこと以外は全部以前の環境に劣る。WiFi飛んでるのは利点だけどそれを言うとこれまでWiFi飛んでなかったことが異常ということになるか。
定時で帰って渋谷のチャーハンがうまい店で高菜チャーハンを食べる。帰りがけに外で映画見れるイベントに通りがかり中身が『スパイダーマンFFH』だったこともあり階段に座って映画をみることにする。15分だけ見て離脱。最初の5分で見たかったNWHと勘違いしていたことに気づいたが、FFHも面白かったような記憶があるしと頑張ろうとしたが思っていたより気温が下がってきたので腰を上げた。階段部分の石が冷たいうえ固く我慢できなかった。
エクセルシオールで『個人的な体験』を読む。読みやすいのは読みやすいが、まだ『ピンチランナー調書』ほど面白くない。
小説とか漫画とかお笑いとかと何の関係もない楽しくない生活があると思うが、その生活が楽しくないまま続くことの意味がわからない。だからやっぱりなんだかんだ言って楽しいんだと思う。どこかの高度な一点を想像してそこから見たこの自分の生活が強烈に楽しいわけではないとしても楽しくないとは言えないのと同じことだ。楽しいと口に出して言うのは、ある意味で開き直りに近いことだと思う。人に言い聞かせないでも自分に言い聞かせないでも楽しいと言うことはできる。それこそものの見方というか決めの問題だと思う。いずれにせよ重大に考えるようなことではない。自分には想像しにくいことであるが楽しくないということも同様、まったく重大なことなどではない。楽しくないということはアイデンティティにはならない。楽しいということも同じ。ただ言ってみるだけのことで、念仏のようなものだ。
この一年、いや少なくともこの一ヶ月、この一週間、一日は本当に楽しくてしょうがない。日記にそういう所感を書けたらと思っているが、この一年の日記にその楽しくてしょうがない感慨がどれだけ写し取られているだろう。あまり自信がない。日記の記述は楽しかった事実に十分見合わないにちがいない。どうすればいいのか。だからせめて「面白い」とだけ書くのをやめろというのに。