20230501

日記101

 

三角州

昨日

8時過ぎに目が覚める。大江健三郎『戦いの今日』を読んでいるうちに家を出る時間が迫ってくる。時間ギリギリになって慌てて家を出て、LUUPを駆使し近所の児童館まで演劇WS(2日目)に行く。

2日制WSの利点は初日よりは慣れた状態で挑める二日目があるということがある。そしてこの日の発見は、衆人環視の状況でガチガチ状態のときに身体を動かすよりも、さらにもう一段階進んで、声を出すのは難しいというのを身を以て知れたということだ。脚本を読むということを、明らかに負荷がかかりすぎている状態でするのは厳しいものがあった。慣らしていかないとどうにもならない。客観的にだけでなく、主観的にもかなりひどい体たらくだった。本当にもう懲り懲りだという感じだったが、何よりつらいのは、この惨状をどうにかこうにか通過したのに3日目がないことだ。一番つらいところを抜けたあと、まあ飲みに行けたのは楽しかったが、挽回の機会がないというのがどうにも残念だ。

頭が動かない状態で口を動かすと自分が自動機械になったような気がする。現実感がないというか、普段の生活においては普通に感じられるフィードバックに対して感覚がなくなり、ふわふわと宙を浮いているような気がする。

演劇のWSはただ参加すればそれでいいやと思って何も準備していかなかったが、できるだけセリフを入れていけばよかった。すくなくとも二日目にはそれができたのにやらなかったのは合理的ではない。全乗っかりでやるというのは基本方針だったが、自分のやり方でやるということをしないかぎりは楽しくならないという当たり前のことを知った。自分のやり方でやる・その準備をするということをやって、しかもそのやり方を捨てて全乗っかりにシフトするということをやって丁度いいのだと思う。経験のある俳優が彼らなりの準備をしてきて、経験のない自分が何の準備もしていかないのは、これはもう非合理を通り越してしまっている。

いや、よくよく考えれば必要な準備をやっていかないというところから経験のなさが始まっているというだけの話だ。

WS後の飲みでは俳優たちと話ができてたのしかった。憧れを持っている俳優を目の前にして、すごいと思った感想を言うというつまらないことをしてしまって言いながら後悔だったが、酔いもありつまらない口を利くのを全然止められなかった。慣性のようなものが働いて、もうどうにでもなれという破れかぶれの言をいたずらに重ねていった。そんなことをしたいわけではないのに、べつに阿ったつもりはないしまさかそう受け取られもしないだろうけど、何を楽しいと思うかとか、どんなお笑いが好きかとか最近読んだ本でなにが面白かったかとか、もっと話すべきことはあったのに、せっかくの機会を台無しにしてしまったと慚愧に堪えない。

そのときに思ったことを言っただけだと開き直っていいことなのだが、何かもっとうまくやれたはずだ、場に対して貢献することができたはずだ、あんな微妙な表情をさせずに済んだはずだという自恃心からくる後悔だ。もし同じ機会があればどうせまた同じことをするだろう。

自分のコミュニケーションのとり方を見直さないといけないと思うきっかけになった。まあ緊張していたからとか言い訳は立つのだが、テンポとか相互理解とかに重きを置きすぎている。どうでもいい相手であればそれでもかまわないが、どうでもよくない相手に対してもそれしかできないのであれば、どうでもいい相手であれば云々とか眠たいことを言っていてはいけない。

「どうでもいい相手/そうではない相手」と区別をつけるようなやり方は、どちらに向けても良い結果をもたらさないだろう。面白い小説と面白くない小説があるというふうに、評価して目前の人に向き合うのも、たんにそれが失礼だとか、どんな人にも面白いところがあるはずだという考え方とはべつの、もっと根本的な考えのあり方の面で自分にとって必要ない天井を設けるようなものだ。ラクしようとして簡単にトクしようとしても駄目だ。

たとえば文章を書くことをとっても、作品のための文章制作と日記のための作文と仕事のメールを書くときの文章作成とをそれぞれべつものと捉えて、仕事のメール文章をいいかげんに書くということをしていては全然駄目になってしまうのではないかということを最近思ったのだが、それと同じで、人によって対応を変えるということをしていてはくだらない時間が増え、結果くだらない人間そのものになってしまうということを思った。メール文もそれに記名しているということを重く見て、不完全な作文でもべつにいいやという舐めたことをやらないようにしないといけない。どうでもいい相手とかいないんだよ、ということを信じられるようになるのを待っている時間はないから、とりあえず、どうでもいい相手であったとしても、そうとしか思えない相手に対しても、もっと緊張感をもって接見する必要がある。慣性に逆らうのは難しいし、切り替えは簡単にできないという自分の性質を顧みて、少しずつでも変化していくよう舵を切る。

これはその通りだと思う。相手も自分も、とくに自分にとっては時間が限られているということを思って、ある程度緊張感を持って人と会うこと。そうでなければやっぱり本を読まないと。


今日

在宅仕事。わりと働き詰めて18時まで。途中週に一度のラジオ「サンデーナイトドリーマー」を聴きながら洗濯物を干したり昼ご飯を食べたりする。サンドリ以外のお笑いコンテンツ、ラジオ・テレビ・動画を断っているのもあってか面白くてしょうがない。お笑いを断っているのでこれはもう当たり前だが、ツイッターも見ていないしインスタグラムも投稿専用のアカウント以外開かないようにし始めたことの効果が出始めたような気がする。黙っているとき、受容のために頭を働かせていた分が脳内会話をする分に回され始めた。今のところ目覚ましい面白さはないが、この時間をとることのほうが面白さを受容するよりも自分にとって意義のあることだと感じられ始めてもいる。

最近はランジャタイのラジオが面白くてたまらない。「…ブタクソ!」と間をあけて怒鳴るところで吹き出してしまった。電車のなかで吹き出すと周囲に不安な気持ちを抱かせてしまうことになるので気をつけないといけないのに。

具体的には、最近起こった出来事、つまり昨日一昨日のWSを振り返る時間になっている。「あー」とか「うう」とか「ぬう」とか気がつかないうちに発声してしまうことも非常にしばしば起こったと思うが、得た経験を構築して塔状の物体をつくりあげようという試みにそれは欠かせないプロセスであるように思う。言葉にならない呻き声がほとんどだったが、意味のある言葉として一番聞かれたのは「恥ずかしい」だった。それを耳にして「恥ずかしい」と思うなんて恥ずかしいと思ったりもした。単純な相殺手順だが、この手のよくあるちょっとした苦痛に対しては有効なのだろうと思う。

神経質のため、皮膚のささくれなどを剥いてしまうのをやめられない。

『戦いの今日』を読み終わる。一気に読むべきところを一気に読まずに途切れさせたせいか、気持ちの流れについていけなかった。

もちろんどんな話だったか覚えていない。きれいさっぱり忘れてしまっている。梗概に触れればさすがに思い出すだっろうとは思うが、ちょっと心配でもあるし、わざわざ思い出さないでもいいやと思うのであえて触れないようにしておくが。

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