現代の鏡磨き職人の手による仕事『新緑』
昨日
2日続けての出社。一昨日の反省を活かし睡眠時間を充分にとったため、調子が良かった。ただやはり普通に忙しく、その調子の良さを仕事に消費させないといけないのが口惜しい。ただ急いでペダルを漕ぎ続けることで残業は回避し、予定していた映画を見に行くことには成功する。『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー3』を見に行く。結論から言うと面白かったが期待ほどではなかった。
ガーディアンズ好きは例外なく全員ロケットが好きだが、ロケットの過去を掘り下げるか否かというのは難しい問題で、ロケット好きのあいだでも掘り下げられたくない派と掘り下げて欲しい派とに分かれる。今作は後者のための映画だった。
しかし、掘り下げられたくない派もロケットが好きなことには変わりないので、掘り下げられるということになれば、掘り下げることに対して期待もすれば楽しみにもする。
今回のロケットの掘り下げは、まあそうだろうなというもので、1,2で得たロケットの印象を変えるものではなかった。ロケットはあの身なりに反して凶暴で、その凶暴さに反して優しいところがある。だから皆ロケットのことが好きになるのだが、その優しさの原因を掘り下げて欲しいとは思わない。ロケットは、クイルに出会う前にはさぞ苦労したんだろうなと想像するけど、それを明らかにしたり、その想像を本人に直接訊くということをしないのが、われわれのあいだで交わされなかった約束もとい節度という気が勝手にしていた。
いわばBGMとしてロケットを聴いていて、そのときに聴こえる音が言いようもなく素晴らしいものだったのに、頼まれもしないのに勝手にライブをやって勝手にライブCDを制作したようなものだ。BGMを前面に出すのはガーディアンズ・オブ・ギャラクシーの流儀だからそれも良いだろう。ポストクレジットの無音楽の味気なさは良い演出だったとも思う。しかしこれまでは音楽が良いということを音楽は良いということを言わずに音楽そのもので表現していた。ロケットが優しいということをロケットが目立って優しい行動を取ることなく表現していた。
映画の最後を、キモくて害のある生物を前に「かわいそうだけど」と言いながらも容赦なく撃つロケットでしめるのは良かった。ひねくれていて見え方がくるくる裏返るのがロケットの魅力なのであのラストは必然だし、それを躊躇なく選べるのはさすがジェームズ・ガンだと感心するが、ロケットのその部分はそっとしておいてほしかったというのがロケットの過去を掘り下げられたくない派の意見、忌憚ない意見だ。
ガーディアンズが順調にMCUに組み込まれていく感じがあってそれへの反感もあるので、よけいにこの部分が嫌になるのかもしれない。MCUのキャラクターだというだけで、ウルトラマンがソフビの人形にさせられたかのような魅力の減退を感じて目の瞑りようがない。最初の”何者かわからない”ときにあったガーディアンズの出自不明の魅力がしぼんでいって、かわりに記号的な挨拶や目配せで観客に尻尾を振るただの気の良いアナグマに堕してしまった。結局、出自を掘り下げることで引き起こるのは、ただのMCUメンバーになるだけのことで、じつはこの登場人物はかくかくしかじかの理由を抱えているのではないかと知らないまでも感じているときにあったつながりに替わって、キャラクターグッズの売上に貢献する「良いヤツ」というスタンプが押されることだ。
そいつの過去を知らないでも、そいつの過去を感じているだけでそいつのことが好きになるというのは無責任な態度なのだろうか。普通に考えてそうではないということは、クイルがロケットの過去を知らないままでいながらふたりが切り離せないバディであったことからも明らかだ。クイルが無責任なやつではないとしての話だが。
これはガーディアンズギャラクシー3についての不満だが、一番盛り上がっているときのMCUにも感じてきた不満というか、彼らのスタンスに関する批判になっていると思う。すべてに光を当ててコントラストを最大限くっきりさせることでそういうフィルターがかかった加工写真のようになっている。すべてが線画になる。線画がだめというのではないが、すべてが線画で表現されているということに対して趣味が合わない。隈なくすべてがそうなっているというのもそうだし、それを適応できるテーマに絞り込んでいる枠組みのほうにも物足りなさを感じる。
今日
在宅仕事。19時過ぎまで残業。疲れ果てて出かけないと思ったけど、何も考えずに家を出て正解だった。スタバで『個人的な体験』を読む。
早朝4時頃に千葉で発生した自身の地震アラートで途中目覚めさせられたものの基本的によく寝たので調子が良かった。なのに仕事で消耗して疲れて出かけないのでは何のために今日一日があったのか意味不明になってしまうと思って出かけることにした。だから何も考えずに家を出たという言い草は実際ではない。あまり考えないで書かれた文章だった。しかしこの言い草にしても気分的には正で、疲れているときにじっくり考えて判断しようとすればつい休むほうに何もしない方に傾いていってしまう。適当に切り上げたり、いい加減なところで結論を出してそれに従うのが結果良かったりする。そういう意味で何も考えずに家を出るというのはあながち嘘八百というわけでもない。
自分の常識にたよって生きていると、知らず識らずのうちに浮かんでくる選択肢が減っていくということを考えた。自分なりの判断に自分なりの美学を用いて決定していくということは基本のきだが、それ一辺倒になると雁字搦めになる。雁字搦めになったらなんとか結び目を解こうとするので生じる結果としてはまだましなほうで、よりわるい場合、考えているつもりでいてその考えが及んでいる範囲が極狭ということになってしまう。考えた結果、わたしはこう行動するということの繰り返しが良い行動に結びつくというのは統計的に正しいだろうが、そこには罠がある。われわれは(私だけということはないだろう)、考えた結果の結果には固執しやすい。なぜ固執しやすいかといえば考えたという積極的行為がその前に挟まっているからだ。しかも考えた場合、考えた結果についてこだわることを固執したと感じ取りづらい。対立する意見を考えていない結果だと簡単に決めつけてしまうのだ。これは二重に間違っている。考えた結果と対立するからといってそれが考えていない意見とは限らないというのがひとつ。これは考えた結果だと比較的見つけやすい。考えれば考えるほどそれに気づけるチャンスが増えていくからだ。もう一方の過ちはより見つけづらい。それは考えられた意見がつねに正しいとは限らないということだ。オープンなやり取りができるような知的にめぐまれた環境であってもこれは盲点になりうる。たとえばピラミッドはひとつひとつの岩を積み上げた結果としてこの世界に屹立している構造物だが、そういうふうにできていない構造物のほうが数多い。このことには簡単に納得できるとしても、自分が置かれている立場で何を選択するべきかというようなことだと、知的な判断がともなうといささかなりとも感じられる場面だと、あっさりしりぞけられる。
それがだめだというわけではない。継続的に見たり、統計的に考えるのであれば、考えることに決め打ちするほうがいい結果に結びつきやすいとも思われる。ただ、自分の考えることに自信を持ち、それを恃みにしながらも、そこ以外にルーツを持つ流れを自らに引き込む回路を用意しておくのはかなり重要なことだと思われる。そのほうが冗長性があるだとか、バックアップを用意するためというのもそうだが、それ以上に自分の考えそのものにとって重要な要素になりうるということだ。ただし、それとして用いるのに、自分ではない他人が考えた結果を持ち出すというのはあまり適当ではないかもしれない。同じ時代の人間が考えることなどは全然似たりよったりの結果になるからだ。それは考えた結果であればあるほど外的要素とはなりえない。未来方向の合理性や過去方向の因習もたぶん外的要素というには外の空気がうすすぎる。全然考えないで、理に合わないことを喜々としてやっている、(自分から見て)逆走する人間というのがもっとも外的な存在だと思われる。動物や機械ではあまりに合理的すぎてその用を足すための役に立たない。合理的には考えない人間というのが、われわれの用途にもっともふさわしい他人の呼び方であると私には思われる。
自分や他人が思う「こういう人間」というイメージを裏切る行動を示せる人間というのが、逆走する人間ということになり、イメージの裏切り行為のことを逆走というのかもしれない。
たとえば音楽のイメージがない人が突然ラブパワー全開の歌を作ってきたりするなど。そこまで大それた営みではなくても、普段とはすこし違う服装を選んだり、髪型を変えてみたり。イメージを覆すということには面白い発見という結果が待っている。それは他人にとってもそうだし、おそらく当の自分自身にとっても、新しい自分を発見する契機になるはずだ。変化そのものはもともとゆっくりあるのだろうが、それが顕在化するのは他人の目を借りるほうがわかりやすい。自分自身の変化はアハ体験のゆっくり変わっていく絵のようになされていくものなので、時間的隔たりを自然に持てる他人のほうから見えやすい。
自分に不満があるから変化するというのも考えられるだろうが、不満などなく、今の自分に満足しきっていて、なお変化を求めるということもある。不満があるからその解消を目論むという単線的な「動機」の究明は、とにもかくにも答えが出る以上の効用があるわけではない。そうした一応の回答は、一夜の安寧にはじゅうぶん寄与するかもしれないが、最後まで続くようなものでもなければ長続きするものでもない。しかし、一夜の安寧というのも馬鹿にはできないもので、そうやって一夜一夜とやり過ごしていくというのもじゅうぶん実践的な方法だとも考えられる。幸福を目標とするものにとってまず何よりも大事にするべきなのは今この瞬間であるに違いなく、それと地続きの今日、今夜、明日が楽しく過ごせるのであればそれに越したことはない。明後日のことばかり考えているのでは本来大切なものであるはずの今がなおざりになってしまう。
いろいろな思惑やお互いの過去が瞬時に交錯するから、言いたいことを言えないこともあるし、聞きたいことを聞けないこともある。他人と話をするときには当然起こり得ることだし、その不可能と可能がせめぎ合うこと自体が、他人と話をするということだ。こちらの得たいものを無制限に得られる状況があるとすればそれは会話とは言わない。つまり会話である以上、こちらには掴みどころのない相手の印象が積み重なっていくことになる。その印象をまとめるのが外形的な雰囲気という視覚情報になるのも無理からぬことではある。それでもできるだけそこにまとまっていかないように、感情が一箇所に集約されていこうとするのを自ら引き止める必要がある。相手を簡単にひとつかふたつの単語でまとめようとするのは、せっかく目の前に実在してくれている存在を単なる記号のひとつにしてしまうも同然のことだ。しかし、そういった安い願望、印象をある一箇所に集約してしまいたいという感情が引き起こされるのもその存在の実在によってであり、その邪気のないシンプルな綱引き遊びがどういう流れでそうなったのか不明なまま、いつの間にか綱渡りになっているというのも、よくある光景ではありながらその状況に自分たちを追い込んだ当事者にとっては抜き差しならず切羽詰まって感じられる。綱渡りで渡る綱は綱引きのおかげでテンションがしっかりしているものの、足場として盤石という太さではまるでないし、間違って下を見下ろせばちょうど足がすくむほどの(間違って落ちれば無事では済まされないほどの)高さに張られている。そしてその危険こそがふたりで始めた綱引き遊びの結果であり、そこに実在する楽しみの大部分を占める要素ということになる。
ともあれ、つい言いそうになったことについて、そのまま言えばよかったと若干後悔し、同時に言わないでよかったとも思うというのは、本当にひとり遊びとして遊ぶ「ひとり綱引き」だし、自分の右手と左手で引っ張った綱に乗って「ひとり綱渡り」をするという具体的にどういう姿勢でやればいいのか想像もつかないアクロバットを自ら実演する好機に恵まれたということであって、自分のやったこと・やらなかったことについての高評価および自らの幸運を悦ぶ気持ちにつながっている。それが結果的に自分と崖上とを結ぶ命綱になっていたのだと思う。崖から跳んでいながら死なずに無傷で生還しているとすればそれは命綱が機能したからだ。そもそも死んでもいいなんてもちろん思っていないし、結局のところ、跳んでもいないというのがふたつめの答えだ。