20230531

日記120

 

お仕着せ

昨日

スタバを出て鳥貴族に向かう。作業がブツリと途切れてしまうかたちになったが、これ以上頑張ったとて、どうせもうちょっとやれたのにという感覚ほどはやれないし、もうちょっとやれたのにという感覚で後ろ髪引かれつつの中断になることで自分のなかにある意欲を感じ取れる縁(よすが)にもなり結果オーライというわけだった。鳥貴族のサク飲みはお肉とキャベツを腹いっぱい食べて大ジョッキ飲んでひとり1200円ちょっとという素敵なクオリティになる。総じて満足度が高い夜だった。気候的にも充分でここのところずっと調子いい夜が続いている。寝不足になるということもないし言うことない。


今日

郵便局と鉄道駅が合体した場所で窓口職員と会話する夢を見る。お役所対応をされるなか、ちょっとでも和ませて自分の利益を確保しようと必死になって喋っていたような記憶がある。その場所にたどり着くのにも相応の苦労があって、やっとの思いというのもあるから頑張ったんだと思う。夢の自分ながらえらかった。

月曜火曜と頑張ったおかげで久しぶりに定時に上がれる。月末処理を抜かりなく行った上で定時なので優秀と言わざるを得ない。映画を見に行こうと一瞬考えるも、今は書くときと思い止めておいた。現実の自分も夢の自分に負けず劣らずえらいものだ。

小説のモチーフにするべきものがひとつ見つかる。今書いている小説は書いていて楽しいというかいつまでも書いていられるようなものだから、これを滑走路として今日思いついたほうを書き上げるべきだという気がする。死者というかピリオドを打たれた存在というのはモチベーションを与えてくれる。"human being."

だけど生き死にに関わる何事かを書きたいわけではない。あくまでも彼が生きている姿を見つめたい。

それにしても、インプットを絞っている効果がどんどん出始めている気がする。仕事をして集中するとき以外の時間にふと昔のことを思い出すことが目に見えて多くなってきた。見た夢のことや、いつかの出来事というのが財産だとすれば、それについて思い出すことがコレクションルームでのひとときだということになるが、コレクションルームを訪ねる機会が増えているのでこれは確実に良いことだ。ラジオやテレビなどから聞こえてくる誰かの気の利いた言葉を遠ざけた結果なんだと思う。誰かに面白いことを言わせておく場合じゃないということだが、これまでの自分にはありえなかった考え方だ。最近、笑う必要が減っているからだろうか。今でもわりとそうだが、昔はもっとなりふりかまっていられないほど、笑う必要があった。

彼のWikipediaを見てみると予想していたよりもはるかに面白かったし、ある一貫したものを感じた。それに共鳴することは全然難しくない。あとは現実から引き剥がして私の小説の登場人物に変えてしまうだけだ。

20230530

自分に接近する話

「自分に接近しろ。そうしないとだんだん遠ざかっていくぞ(大意)」

という一文がたしかピンチョンにあってメモしたはずなのだが、そのメモがどこかにいってしまった。うろ覚えだが、たしかこんな感じの文章だった。


【どうあれ自分自身の幻覚に固執しろ、そうしないとお前はだんだん他人(アザーズ)のほうへとズレていくことになる】


ちょっとニュアンスが違うのかもしれないが、大雑把には大体同じようなことだと思っている。この「自分に接近しろ」というのが今の気分で、すこしずつ墓碑銘のようになってきている。


***

昔の恋愛について、なぜあんなことをしたのかと急に恥ずかしくなる(自分にはやや珍しい)体験があった。当時年下の女の人と仲良くなり、その人のことが好きになったので告白をしたというだけの話なのだが、自分の属性と年齢、相手の属性と年齢とを並べて考えて、なぜそんなことをしたのかと急に恥ずかしくなるという出来事だった。

当時の自分がそういう周縁的な要素について考えなかったかというと決してそんなことはなく、そういった条件を越えて仲良くなれると信じていて、部分的にはそうなれたと感じていたからこそ、行動に踏み切ったというわけで、そういう種々の事情というか機微の面が、時間の流れによってごっそり抜け落ちてしまった結果、ガワとなる社会的属性と年齢だけがぽつんと残り、それをもって「何をしてるんだ自分」という強烈なフラッシュバックが襲ってきたのであった。

しかしそれは偽のフラッシュバックとでも言うべきもので、当時の自分が感じていたものとは全然別様のものだ。それにもかかわらず、一瞬でもそれにたじろぐとは、あきらかに過去の自分に対して失礼な態度だった。当時、私は他人が外から見てどう考えようが関係ないねという強い姿勢を崩さなかったから、彼からみた未来の自分がこんな弱いことを思って、それに反駁するでもなくしっかり動揺し自分を批判的にとらえるということがあっても、まったくしょうがないやつだ、未来の自分ながら情けないと吐き捨てて終わりだという気がする。このことひとつとっても、自分は恋をしていると強くなり、もしかするとやや強くなりすぎるのかもしれない。

当時の自分には結局フラれることになるという考えなど微塵もなかった、というのでは勿論ない。フラれるかもしれないと考えつつ、それでもジャンプしてみようと思いきったのだから、やはり強かったのだ。ただ成功する確率は低いという認識は今も当時も変わらずあったはずで、それでもしいて決行したわけだ。このとき結果を度外視できていたのだとすれば、やはり強すぎたということになるだろうか。しかし、君、弱いことを言ってはいけない。はい。強かったとか、強すぎたとか、当時についての感想を言っている場合ではないだろう。はい。もっと自分に接近しろ。

***


当時の自分にむかって、それでもやっぱり冷静に考えたら恥ずかしいよな、というようなことを私は言うことができる。しかし、もし送話器を渡されたとしてもそんなことは言わないだろう。だからやっぱり強い、という話ではなく、当時の自分にも恥ずかしさはあったということを知っているということだ。年齢と属性ということで誤魔化しているが、恋をすることそのものに結構な恥ずかしさがあるというのが自分にとっての常識で、それを共有しているからだ。

そして、この根源的な恥ずかしさをわざわざ持ち出したのは、もう一方の具体的な恥ずかしさを、普遍的・根源的な恥ずかしさで隠したいという意図があってのことだから、やはり強いという話ではない。しかし、だからといってこうやって俎上に載せる以上、弱いという話でもない。これは強いとか弱いとかではなく、たんに自分に接近しようとした結果だ。

日記119

 

「ジャン負けでアイスな」

昨日

深夜というには早い時間、強雨というにはまばらな雨滴のなか、30分ほどウォーキングをする。昔から雨に濡れるのがちっとも苦にならない、どころかこういう雨の中のウォーキングには、一度びしょ濡れることを肯んじれば、テーマパーク相当の楽しみがある。

音楽的にもかなりの良さがあるし、雨粒が高いところからわざわざ私のところまで当たりにきてくれるのは嬉しいし、そのうえ、次から次へと当たりにきてくれて返礼をする暇も与えないよいうのも有り難い。恩に着せようという姿勢が微塵も見られないのが立派なお大尽だと思う。

帰宅して温かいご飯を食べる。肉巻きミョウガがお互いを引き立てあって、ポン酢で食べるのがたまらなく美味だった。

映像の世紀バタフライエフェクトを見る。「マクナマラの誤謬」の回。やっぱり映像で見るというのもあっていろいろ衝撃だったが、最後ベトナムを訪れて当時の敵司令官と握手を交わす映像がかなりの衝撃だった。そこで「なぜあれだけの局面にまで追い込まれて戦争を止めなかったのか」という質問をして、「国を愛していたからだ」という相手の回答に納得しなかったのが印象的で、たしかにそれでは納得がいかないだろうなと思った。ベトナム人はベトナム戦争をしぶとく戦ったが、同じような状況に置かれればどこの国の人間でもそうなると思うと恐ろしいものがある。最初は殺されるのが嫌で戦いたくなかったが、大切な人が殺されて敵が憎くなり死んでもいいから戦うという気持ちになったというのは、わかりやすく戦争状態の悲惨さを表していると思う。死んでもいいからというのは間違っていてもいいからというのを含むというか、正誤をこえている態度だから、かなりの程度どうやっても正せない姿勢にはまり込んでいるといえる。「子どもの命がどうなってもいいのか」とか「子どものために戦うのをやめろ」というのはそんな中でもかろうじて言える説得の言葉だが、子どもを殺された親がいるということを考えると、少なくともその人への説得はもう不可能だと思われる。実際、市街地を巻き込んだ戦闘では子どもの犠牲者も出ただろう。映像には、おそらく自分の子どもの死体を抱えて道を歩く女性の姿が映っていた。

あの局面でベトナムは戦争をやめるべきだったとするマクナマラの意見は正しいと思う。戦争をやめさえすればその時点から直接の犠牲者は出なくなるという意味で。しかし実際には戦争をやめなかったわけで、なぜやめなかったのか、その理由について考えないといけない。これはマクナマラひとりでは解決できない問いではあるから相手に質問をするのは必要になるだろうが、マクナマラは質問する相手を間違っていた。どれだけ冷徹に事を運ぶ人間であってもそんな質問をかけるに忍びない相手というのが現実にいて、しかしその人に対して「なぜ戦争をやめなかったのか」と聞くべきだったのだ。

敵司令が間違った判断をしたから犠牲が増えたというのが、この質問をしたマクナマラの主張なのだろうが、それで収めようとするのは正しくない。それで収まるとは思っていず、ただ間違いについての適切な評価に用いることのできる材料をひとつでも提供したいという姿勢で、できることをやるという意図で質問をしたというのなら、正しさについて考えようとしていたということはいえると思う。自分が間違っていたと認めることが一個人としての当人には不可能なほど決定的に間違っていて正しくなかったとしても、正しさについて考えようとすることはできて、それが正しさとは無関係であるという事態が起こる。このことをマクナマラは示した。

これこそが正しいと信じて突き進み、盛大に間違えることのできる人間に対して、私はシンパシーを覚えるし、状況によっては敬意を抱きさえする。マクナマラにしても活躍する舞台が異なっていれば魅力的な人物として人々に記憶されたかもしれない。反対に、正しさについて考え、それに邁進しようという、それ自体はまっすぐな姿勢も、間違った場所を選んでしまえば現実に起きる悲惨な出来事の元凶になってしまう。間違った場所にあっても正しさについて考えようとすることは可能で、十分な効果を挙げられるよう努力奮闘することもできるからだ。どの時代にあっても、戦争の英雄というのは間違った場所にいる正しさとは無関係の存在だと私は思う。ただ思うのではなく、およそすべて私が思うときと同様、そう考えるのが正しいと思う。


今日

在宅仕事。晴れ間が出たので洗濯物を処理する。残業を30分に抑えてスタバに出かける。当初の予定とは離れ、誤謬やら正しさやらについて考えることになる。当初は小説を書くつもりだったのに頭がべつの方向へ向いてしまった。正しさとか間違いとかの次元を離れた、小説の世界に遊ばないといけなかったのに。せっかくそれが許されているのに、むざむざ時間と労力を消費して愚かだったと思う。どうしてもつい考えようとしてしまうから、そういうところにはまり込んでしまったとき一気に抜け出せるような何か合言葉(?)を用意しておく必要がある。

20230529

日記118

 

中央線素描

昨日

吉祥寺図書館で文芸誌をちょっとめくる。大江健三郎追悼特集をみて、もともと知っている名前の人の文章だけ眺めたあと、大江が若い小説家にむけて書いたという「難関突破」を読む。

待ち合わせ時間までの隙間時間に読む、まさに言葉通りの立ち読みだったが、力強いメッセージに打たれたんだと思う。詳細な内容を覚えていないが今読んでいる『定義集』にも後輩小説家に対するアドバイスがある。「書け」「書き直せ」。「書け」「出せ」ではなく書いたあとには「書き直せ」と書かれてあった。

昼間予約して、夜ジャズバーに音楽を聞きに行ったら、なんとそれはインプロのライブであえなく撃沈の巻。全然楽しくないただの「音 」だったが、なぜか集中して聴けるのは聴けて、時間は一瞬で過ぎた。ああいうのは何かに近づこうという気はあるんだろうか。「偶然の音楽」というわけではないんだろうから、はっきり定まっていないにせよ目標のようなものはあるんだろうと勝手になんとなく思っているが、やっぱりそれに近づくぞという気持ちよりもその時その場の反応・反射というのに委ねていくんだという気持ちが勝つものなのかな。後者によって前者に至ろうとするんだというのがまあ無難な落とし所か。面白いと感じられたのはバイオリンの人が朗々と弾けているときではなくて、むしろ、入りどころを探して惑っているようにみえるところ、変な弾き方でお茶を濁しているようにみえる箇所だった。そういうときには何かに近づこうという気持ち(もしかすると瞬間的には焦りもあったかもしれない)が見えたのが良かった。定まったメロディ弾き始めるとそういうのが消えるから、演奏しているのとは裏腹にちょっと休憩しているような感じになった。あとは叙情的なメロディがかえってノイズに聴こえるという倒錯はあとから気づいてちょっと面白いところだった。せまい店内に満杯の人たちがじっと座り、何かを見つけようとして一生懸命に「音 」を聴いている様子が一番面白かった。聴いている音をなんとか「音楽」にしようと自分の耳とか心持ちでどうにかそっちに持っていこうと必死になっている人が自分以外にも同じ場所にいるんだろうと思いながら過ごす時間に物珍しさがあった。演奏している人たちが上手いのかどうかさえもわからないような無定形の音楽だったので、そういう取りに行くような楽しみを見出すしかなかった。

昨日の記事のこの音楽イベントについての振り返りはいたってポジティブなものだったので、記憶というのはいい加減なものだと思った。しかしここに書かれてある内容を総合して「良かった」とする大雑把さは生活に欠かせない。だからこそ記憶が近いうちにできるだけ詳細に書き残すという日記の意義もあるというもの。

やけになってラーメンを食べる。鶏そば専門店の鶏そばは変わらず美味しかった。わりと空いてたのに自分たちが入るとどかどか客が入ってすぐ満席になった。外には待機列ができていたし、こういう現象が起こるとちょっと嬉しくなる。行列に並ぶのは絶対に嫌だが自分の後ろに行列ができるのはわるくない。

おかげでラーメンちょっと美味くなったまである。


今日

在宅仕事。それにしても残業がひどい。20時まで同じ場所に座って仕事をし通していた。1分たりとも残業をしたくないのでそのつもりで慌ただしくがちゃがちゃやっているのだが、それにもかかわらずこの時間になるのは嫌なことだ。

自分の仕事の進め方がわるいので残業になっているという控えめで謙虚な書きぶりだが絶対にそんなことはない。

今日は雨もひどい。外に出る気もなくなって家のなかで日記を書くことにする。日記を書き終えたあとで傘も何も持たずに外にとびだしてショーシャンクの空にごっこをやろうと思うぐらいには気持ちが荒んでいる。

そして一年後の今日、残業時間はなんと脅威の-6時間。その差なんと8.5時間である。生活を真面目に送ろうとする人は全員、職場を選ぼう。

20230528

日記117

「薬味をそうめんで食べる」


昨日
晩飯にそうめんを食べて夜の散歩に出かける。グレイヴィ通りを奥まで進んで引き返しミカンの階段でちょっと座って休憩する定番のコース。暑くもなく寒くもなく賑わいも落ち着きもある気候と環境で言うことなしと言いたいところだったが、歯痛の名残りが名残っているようなコンディションのためほんの少しダウナーが入る。そこまではっきり痛いわけでもなし、結果、チルできたので、怪我の功名ということにしてもいい。月がすこし太ったうえ、ぼわっと光っていた。そういうのもたまにはいいよねというような全体の感じ。
これ以前の日記とくらべ写真が大きくなった。これはスマホで直接写真をアップロードすると画質が落ちないことに気づいてそうし始めたのだった。

今日
昨夜いらぬ夜更かしをしたせいで起床が遅れ、午前中のプランは壊れたが、気を取り直して昼間から出かける。井の頭公園でピクニック。はじめて「いせや」の焼鳥を食べたが、ハツとボンジリ、シロがとくに美味かった。これで100円とは恐れ入った。いつも公園の入口で行列を作っている悪印象から食わず嫌いをしてきたが、これからは井の頭公園に行くときには選択肢に入っていくと思う。
ただしアホみたいな行列になっていないときにかぎる。
井の頭公園の落ち葉質の土で比較的森閑としているエリアでビニールシートを敷いて横たわる。葉影から見える空がきらきらしてきれいだなと思うのもつかのま気づいたら寝入ってしまっていた。起きて運動場エリアに行くと芝生が全部土に変えられて工事中になっていた。なんとなく白けたので来た道を引き返す。
あまり記憶にないほどガチ寝をした。起きたときに林の中にいて「どういうこと?」と一瞬わけがわからなくなった。
散歩中の犬のケツを追いかけて井の頭公園の入口にもどると、大型犬の集会が開かれているのに遭遇する。そこでしばらく集会する犬たちと通りがかりの犬と通りがかりの人間を眺める。取材のために犬を見るんだと意気込んでいたのは最初だけで、気づけばそこで見つけたお気に入りの犬ばかり見て、道行く人にしてもとくに若い女が通るとそのたびに目で追いかけてしまう体たらく。しかし、たくさんのかわいいものを存分に見られて、目の満足を味わった。
しばらくしてからドトールに入って今回取材して得た内容をまとめる。
夜はジャズバーのライブを聴きに行くことにする。ドライブ・マイ・カーの音楽を担当した石橋英子が出演するらしく楽しみ。
下北沢のジャズバー。自由を強要してくるような真面目な雰囲気が合わず、これ以降一度も行っていない。石橋英子は傍から見てもわかりやすいほど真面目に取り組んでいるのに、演奏中は誰よりも自由な感じがしてよかった。この後『悪は存在しない』でその音楽に触れることになるとは思っていなかった。

20230527

日記116

 

バツマル両方

昨日

歯の痛みもあって9時にならないうちにスタバを引き上げる。酒を飲んで帰り、スーパーで買って帰った天丼を食べる。早々に寝てしまって翌朝歯医者に行く作戦だったが、痛さで目が覚めてしまい、どうしようもなくなったので家にある痛み止めの薬を飲む。これが効果てきめんで、まさに備えあれば患いなしだった。痛くない状態に気を良くして『サンクチュアリ』の続きを見る。2話分見たら驚きの最終回になった。

歯痛というのはどのタイミングから思い返しても最低だ。歯の健康は大事にしよう。


今日

8時すぎに昨日飲んだ痛み止めの効果が切れたことによる痛みで目が覚める。たまらず歯科医に行く。ほんの30分かからず手際よく治療してもらったら痛みはなくなった。麻酔をしてもらったのでご飯は食べられず、ゼリー飲料で空腹をしのぐ。

これだけ痛くなる前に歯医者に行けたらいいんだけどやっぱり無理だ。歯医者での治療は我慢できない歯痛の次ぐらいに嫌な記憶で、そこに行こうという動機はかなり弱くなってしまう。痛みに連れて行ってもらうしか方法がない。

以前、一緒の舞台に出た俳優の仲間が出演する劇団の旗揚げ公演を見に出かける。原作があるらしいが原作は未読。これが想像をこえて面白かった。街の灯同士がお互いにコミュニケーションをとる都会の寓話という感じで、自分の好みに合う題材だったが、それより何より、まず俳優が実際にそこに立って人物として「いる」ことのパワーを感じた。

暗いままで、暗い部屋にいるままでコミュニケーションをとることができるという昔ツイッターが出始めた頃の、細かなルールが出来上がっていくまえの「つぶやき」が見られるあの空間を思い出した。まだエアリプという言葉がなかった頃に、それが相手に届くか届かないかをもっと積極的に関知しない方針で無責任にぽっと出るつぶやき、そうやって誰かから浮かび上がるつぶやきが、自分に向けられたように感じたときの、あの浮遊感のあるコミュニケーション感覚を新しいものだと受け取っていた頃が懐かしくなった。

瞬きするような、それでひそかにモールス信号を送り合うような、残響のようにしか響き合わない淡いコミュニケーションと、それだけが照らすことのできる闇が印象的だった。ドアを開け閉めするリズムと、ドアから漏れ出る光、ひとり自分の部屋の中だけに閉じ込めておきたい個人的な闇を優しく照らす光にも惹かれた。

この演劇では人がぐるぐる走り回る光景になぜか感動して涙が出たのだった。それを書いていないのは涙を出すことを恥ずかしく感じていたからだろう。

その後遅めの昼飯を食べに行く。サンゾウトウキョウのコルマカレー。これがかなり美味しかった。昨日まであった痛みが消え、麻酔も切れたので、喉元過ぎれば熱さを忘れるかのごとく、昨日の歯痛に悩まされつらかった気持ちをすっかり忘れて、天気のいい下北沢をぶらぶら歩いて機嫌よく家に帰った。

サンゾウトウキョウが下北で一番美味しいカレーということで異論はないと思う。下北はカレーでも有名だからそれなりにカレー屋が多く、そのため変わり種のカレーは多いが、まっすぐ突き抜けて美味しいのはサンゾウトウキョウのカレーだ。二位以下を大きく引き離しての一位【ダントツ】だと言っていい。

大相撲の14日目。一敗の横綱照ノ富士が、二敗で追いかける霧馬山との直接対決を制して場所優勝を果たした。最初に見た大相撲の場所が横綱優勝で幕を閉じたのが嬉しいことだという感覚が14日しか観戦経験がないのにもかかわらず既にある。横綱は強かった。

見ていたらわかるが大相撲の世界は厳しい。そんななか、ほとんど優勝を義務付けられ、土俵に固定させられている横綱というのは大変な存在だ。実際場所に出てきたら優勝する照ノ富士はすごい。

20230526

日記115


月が見ている

昨日

閉店時間を意識するぐらいの時刻までスタバにいたあと、その辺に座って酒を飲んでから帰る。ちょっと飲みすぎたので、なぜそうしたのかわからないが納豆を食べて寝る。

散髪したての髪型を誰かに見てもらいたかったから、最近行くようになったバーに顔を出す。すでに酔っ払っていたとはいえ、あまりにシャバシャバの行動だったと店にいながらにして後悔していたが積極的にリカバーするということもなくそのまま日付が変わった。普通にこういうことをしてしまうし、何だったらそういうことをしといて日記に書かないということまで仕出かしてしまう。後者はぎりぎりのところでなんとか回避できた。


今日

在宅仕事。あれもこれもやってきれいにタスクを消化した。まるまる積み残しているタスクが一個あるのは承知しているが、それは来週あたまに回す。とにかく歯痛がおさまらず、だんだん存在を主張し始めた。しょうがないから行きたくないけど定時後に行こうと重い腰を上げていった歯科医は午後臨時休業。あんまり状況が飲み込めないままスタバにきたが歯痛がいよいよ幅を利かせてきてじつに鬱陶しい。というか痛い。痛みにも波があるので痛くないときに多くタイピングしている。タイミングよくタイピング。集中していると忘れられるような気がするが、痛みで集中が途切れるような気もする。

大相撲を見た。カド番の大関貴景勝と、復帰直後の横綱照ノ富士に皆の視線が集中していくのがわかる。照ノ富士は朝乃山を打ち破った。貴景勝は明生から勝ちを掴んだ。それぞれにドラマチックで胸が熱くなった。

いま書いている「賢犬伝(仮)」のことを考える。賢犬は一人称を賢犬にするというのは最初からの方針なのだが、二日目か三日目には自分という言葉も使わずに賢犬で代用するようになっていった。どちらにするかは保留しておくが、以降書くときには自分という語も賢犬に置き換えるのが今のところスムーズに書いていける方向だと思うのでそのようにする。飼い主的な存在については、賢犬も歩けば棒に当たるのだろうと思うが、書く前からあまり先回りしても仕方ないので歯痛にかまけてふにゃふにゃ考えるにとどめておく。

しかし歯痛は嫌なものだ。こんなのが続いたら二日目には不機嫌な人間になってしまうにちがいない。明日は嫌だけど歯科医にかかりにいこう……。

20230525

日記114

蛍の光

昨日
小説のワンアイデアが浮かんだ。これだったら書けるという形式を見つけ出したということだが、それを読むことの面白さについては全然請け合えるような代物ではない。だが結局書けるものしか書けないのだし、書ける以上はそれを書くしかないのではないか。しかし、昨日このアイデアが思い浮かんだ瞬間にはすべてが完璧に思えたのだけど、一晩寝て日中仕事して夕方散髪してスタバに座ってこれを書いている今、というか朝起きてからしっかり夜になる今までのあいだずっと、全然大したものに思えない。毎度のこととはいえその落差に若干落ち込む。
しかしとにかく書くしかない。小さくまとまるようなことをしないでのびのび書くことだけ心がけよう。
自分が読みたいものを書くんだと意気込んでいたものだったが、最近はそれさえ思わなくなってきていて、自分の書きたいものを書くんだという幼稚園生になんとかクレヨン持たせようとするみたいな展開になってきている。自分の読みたいものを書くということのハードルが高すぎるのがわるい。
友人がライブハウスにバンド音楽を聞きに行くというのでタリーズでの喫茶のあとから合流する。四組出演したうちのトリのバンドだけほぼフルで見れた。オーソドックスな編成の3ピースバンド。基本的に明るい音楽なんだけど、曲の終わりや小節の終わりに飛び立ちそうで飛び立たない、気持ちいいリズムがあるんだけどもうちょっとで入れるというところで止めてしまう、というところになぜか誠実さを感じた。音楽に対してストイックというか、盛り上がるためのツールとして音楽を使っている連中を嫌悪していそうな風情があり、客にむけてではなく虚空にむけて演奏しているように見えたのが良かった。しかもおそらく自分が気持ちよくなるためにそうしているわけではなかったと思う。そうだとするなら、もっと長く演奏できたはずだし、もっと明るい、もっと伸び上がれるような音を選ぶはずだ。そうしないほうが上がれるというだけのことかもしれないが、その様子、行き切らない感じが自分には今の時代を代表するように思えた。
それはいいんだけど、友人はバンドを好んで見にいくことが多いようなのだが、こういうバンドを見て感じるものがないんだろうかという疑問をもった。そこまで強烈とは言えないまでも彼らはたしかに光を放っていた。そういう光に対して思うところはないんだろうか。
圧倒的な光であれば明らかに自分とは違うわけで、自分とは違うと考えて平気でいられると思うが、今回のように眩しくて目を開けていられないほどではない光だとそれを直視することも可能なわけで、その場合目が焼かれないでも心が焼かれそうなものだと思うが、ステージに対しては明らかに自分とは別物、無関係のものと考えているということだろうか。それとも「音楽が好き」ということなんだろうか。そうだとしたら、友人には彼らの輝きは全然見えていないのかもしれない。
帰って鶏のひき肉とお芋を甘辛く煮たやつをいただく。甘辛くて美味しかった。
寝る前からなんだか歯が痛い。季節の変わり目に起こる歯痛であればいいのだけど、もし新しい虫歯ができていてそれが進行していたら嫌だなと思う。歯医者での治療のことを思うといつも気が重い。ただでさえ歯痛で削られるのに歯医者に行く心配まで抱えていられない。

今日
在宅仕事。昨日の今日なのでさすがにモチベーション高く仕事することができた。しかしただでさえ余裕がないタスク消化状態に新しい仕事が降ってきてなかなか追い詰められた。大相撲は部分的にしか見られなかったが、結びの一番、照ノ富士が強かった。横綱っていうのは強いんだなと感動さえおぼえた。その前の一番、貴景勝は立ち会いで押し負けていた。つらそうだし苦しそうだが、まっすぐ押して押し負ける様子には胸に迫るものがある。
関係ないが、相撲を見始める前にはなんとなく「小結」というのは弱い力士のことだと思っていた。字面で判断しただけだが、今となってはとんでもないことだと思う。それでもあえてフォローすると、”横綱や大関にくらべて”弱い力士だと思っていたのだと思う。それ以外の力士など注目もしていなかったから。文学賞には芥川賞しかないと思っているほどの無知だ。いや、それはちょっと違うか。
夕方に散髪に向かう。予約していたので残業するわけにはいかなかった。明日は残業になりそうな予感……。
散髪のあとスタバに行く。『同時代ゲーム』を持っていかず。とりあえず小説を書くことにして、小説を読むのをやめた。これで動画を見ていたら本末転倒なので動画は見ない。テレビも見ない。SNSも見ない。サッカーと大相撲と新聞だけ見る。さて、それで。それでどうなる。

20230524

日記113

水に濡れると濃いグレーになる

昨日
スタバからの帰宅後、録画していたテレビ「有吉クイズ」を見る。楽しみにしていた蛭子能収回。番組は絵のタッチが以前に描いていた漫画のタッチに戻ったと言って喜んでいたのだが、前回の怖い絵もあれはあれで良かったし、あそこからもっと前進しても面白かったような気もする。どのような前進になるのか、その変化が前進と呼べるものになるのかという不安はあるかもしれないが。150万円という値がついたよという報告に対して売らないで取っておくほうがいいという答えを返すのは立派なテレビタレントだと思った。そのほうが値を吊り上げられるしな。
不安なんてない。自分の動きが前進ではないかもしれないと怯えるのは間違っている。それは原理原則としてそうなんだが、やっぱり不安はないと断言するのはすこし固い。不安があるとか言っているのに対して不安なんてないと反応するのはわからないでもない。心配になるのかもしれないが、と書いていてくれればもうすこし受け止めやすかっただろうと思う。やっぱりニュアンスというのはしっかり大切なものだ。

今日
在宅仕事。タスクに追いかけられるように仕事をしていてはつまらない、もっと積極的に取り組もう、というもう何度目かわからない「気づき」が降りてくる日だった。やらないといけないことを全然やらないで「やらないほうがいいと思います」と言い続けるバートルビーにはなれない。できるだけやらない方向にだらだらしながら、だらだらしていることを見咎められないかびくびくしているいかにも小市民的な態度をとって、しかもきっちり消耗しているのは馬鹿らしいにもほどがある。不満があるなら、相手にその不満が言えるぐらいしっかり取り組んだうえで不満を言うべきだ。そのときにはじめて不満を言わないという選択ができる。今の状況では不満を言わないのではなく、不満を言えないだけのことだ。これも何度目の気づきかわからないくらいだけど、明日からは巻きになるぐらいタスクをどんどん消化していこう。期日に間に合わせるという発想がそもそも駄目な気がする。追いかけられるように感じていらぬ緊張をしてしまう。
この姿勢があったから、曲がりなりにも、タスクが増えていっていらぬ負担になりながらも、三月末まで働き通せたのだろう。自分のことながら普通にえらいと思う。
18時半頃にスタバが満席だったのでタリーズに行く。文学フリマへの申し込みを済ませる。去年はやらなかったけど今年はやる。
やる気のない仕事頑張ってやって、自分でやろうと思った文学フリマへ出す小説の完成をやれないのでは、まじで本当の本末転倒だ。普通にえらいとは思うが、やっぱり自分はそれでは駄目だ。

20230523

日記112

競争社会


 一昨昨日(さきおととい)

ぷらっとこだまで名古屋に行く。新幹線乗車に遅刻できないプレッシャーでかなり早い時間に品川に着き、30分以上品川駅の新幹線ホームで座って待つ。品川駅の新幹線ホームは地下にあるという発見があった。ドリンク券でビールの500ml缶をもらえたのでここ数年でも最速の時間に飲み始める。寝不足だったが車内でも眠れずに「サンクチュアリ」を消化する。

寝過ごすかもしれないという緊張感で眠れなかった。京都や新大阪まで行ってしまったらさすがに厳しい。『サンクチュアリ』は勢いだけのドラマだった。勢いは大事なのでそれがあるというのは良いことなのだが、視聴者を飽きさせない方法として刺激を与え続けるという長続きしないやり方を選んでいて、そういうやり方にはやっぱりげんなりさせられる。

名古屋に着き、久しぶりに弟とも会う。母が右手首を骨折していて驚かされた。山登りの下山途中、ほとんど終わりの道ですべって転んで、わるい手の付き方をしたらしい。事故は恐ろしいので気をつけてほしい。

気を取り直して覚王山まで行き、祖父のお墓参りをする。テクノロジーの進出が目覚ましく、立体駐車場と似たスタイルになっていた。英國屋というインドカレー屋でチーズナンを食べてから東山公園に行く。広い動物園をゆっくり回って、スカイタワーにものぼって、3人ともくたくたになる。とくに入り口すぐのところにいるサイが見ものだった。すごく間近で見られて大満足。正面から対峙する一幕があり、近寄ってくるサイにこちらからも向かっていく時間が持てた。時間にしてほんの2,3秒ぐらいだったが、ものすごくゆっくり動くサイからちょっと言葉にならないような迫力を受けた。

夕ご飯にモツ鍋をご馳走になり、新幹線で即帰宅。さすがのぞみは早い。帰りの車中で漫才大会ザ・セカンドを見る。TVerで見たが電波が良くなくてぶつぶつ途切れ、あまり笑うどころではなかった。漫才は集中してそれなりに大きな画面で見るにかぎる。

ザ・セカンドは今年二回目だった。ひょっとするとザ・セカンド自体がそもそもそこまで面白い番組ではないのかもしれない。審査員というのは重要な役割なのだと再認識させられる。


一昨日

非常に疲れた一日のあと気絶するように寝たが、12時頃だったので8時すぎに自然に目が覚める。昨日のザ・セカンドの序盤の漫才を見られていなかったので見返す。昼過ぎに下北にでかけてゴーグルと水泳帽を買い、うどん屋でうどんと天ぷらを食べてから、世田谷区のプールまで泳ぎに行く。久しぶりのプールとその中にある大量の水はやっぱり最高だった。クロールと平泳ぎをする。ビート板を使ってバタ足だけというのもやってみる。

動物園で動物を見た翌日に泳ぐというのは面白い体験だ。当日だったらもっと面白いのかもしれない。水中では普段陸上で何気なくやっている動くということが意識されるから、自分も一個の動物であるという感覚に至り、その感覚をもって動物のことを思い出したりするなかで、一種独特の感興をよびおこされるのだったろうか。

1時間だけ泳いで散歩してから帰る。子どものためにある公園を通って歩いたのだが、子供同士で遊ぶなかで子供同士が話す声も聞こえてきた。その内容をちょっと忘れてしまったのだが、かなり子供の言うことという感じでしょうもないことだったのだが、何かを衒って声を出している気配が微塵も感じられない大声でとてもよかった。何かの呼びかけだったような気がする。無駄が一切なく、前日に見た動物が持つ良さに近かった。

自分も子供の頃にこの種のおたけびを上げていたはずなのだが、やっぱり意識として滞留する機会が少ない(あるいはまったくない)からか、かたちある記憶として残っていない。

散歩が延びた影響で帰りが少し遅くなり、大相撲をちょっとしか見られなかった。弁当屋で買ってきた弁当を食べて、翌日が朝早いこともありとくに何をするでもなく酒を飲み、9時頃に寝る。


昨日

5時に起きて5時45分には家を出る。早出出勤。15時半にハネてすぐに帰る。事務的な用事を済ませてからスーパーでカツ丼を買って帰る。大相撲、結びの一番で明生が照ノ富士に土をつけて座布団が少し飛ぶ。この日はゲスト解説に今場所で引退した栃ノ心がきていた。横綱照ノ富士が栃ノ心ほど強い力士はいなかったと言っていたようですとアナウンサーから告げられた栃ノ心が放送上絶句していたのが印象的でグッときた。

この金星を上げた明生を見て、たまらず明生を応援しようと思ったのだったか。しかしさっと名前が出ているところを見るとこれより以前に目をつけていたのは間違いない。栃ノ心の絶句場面は思い出しても感動する。力士にはお互い同士でしか掛け合うことのできない言葉があり、力士に特有の言葉少なな表現によってそれがぶっきらぼうに語られるとき、聞くものをとくに感動させるのだろう。栃ノ心の気持ちになって勝手に感動した。

雨が降り始めたのでどこにも出かけずに、pixelに満杯に溜まった写真の整理をしようとする。うまくMacbookと接続できずに時間を無駄にする。9時頃から映画を見る。『もゆる女の肖像』。面白かったがところどころ寝た。もとい、ところどころ寝たが面白かった。表情の揺れが、風が強い日の沖のように大きく揺れていたのが好みでいえば好みではないのだが、そこがハマるコンディションだったり精神状態であったりすれば最高の一本になったろうと思う。真正面から顔に取り組んでいるのは好感が持てる。肖像画をそのまま映画にしたようで、夢中になって見ていられた。

夢中の人になったとき、映画を見られていないはずなのに、そうなりながらも継続して見ているような感覚になっていた。うつらうつらしているときにだけ可能な見当識。


今日

在宅仕事。一生懸命仕事をする。大相撲、北青鵬が規格外の大きさを活かして明生を倒していた。この日も明生は強かったから北青鵬の化け物具合が露わになった。

弱い立場のものを虐めていたというホクセイホウのことを応援しようとは思えないからやはり引退は妥当な処分だと思う。

仕事後外に出てスタバに行く。読む本を忘れたのでその分も日記を書く時間に充てる。小説は書き進めるどころか、小説のことを考える時間さえほとんどなかった。もっと暇な時間で溢れさせたい。どうにか暇な時間を作らないとこのままでは日記ばっかり書くことになる。それでもいいといえばいいんだけど、他にも泳ぐためにプールにも行きたいし、音読もやりたいし、写真も撮りに行きたいし、街歩きもしないといけないし、とやってるうちに全然暇がなくなってしまう。仕事をする時間が半分程度にならないものか。

まったく同じことを今日も考えた。一年経っても同じ悩みがあるというのでは困る。本当にどうにかしないと。職場が変わって負担が減っても同じだというのが厳しい。職場が変わったのは結果的にすごく良かったが、そうだとしてもこのままではいられない。

20230518

日記111

 

バックスアート

昨日

スタバを出てから、軽くたまり場のようになっている階段に座って酒を飲む。詠んだ本のことを思い返したりしながら飲もうと思っていたが、いざ座って飲み始めると具体的な何かを考えるでもなくぼーっとして終わった。一杯だけ飲んで帰宅。以前買っておいたチータラでもう少しだけ飲ろうとしていたら、記憶違いで、すでに食べ尽くしてしまったあとだった。絶望して寝る。


今日

ここ3日連続で睡眠時間が8時間半を超えていることもあってすこぶる調子が良い。今朝方も夢を見たはずなのに今度はきれいさっぱり忘れてしまっている。覚えていられない夢はそれだけ刺激がないのかと言われると、当の夢に代わってそんなことはないと言い返したくなる。夢に現実感があるとそうなるのか、夢に違和感がないからそうなるのかわからないが、こうやってきれいさっぱり忘れてしまって痕跡も残らない夢のうちに真に傑作といえる夢があるはずだ。

在宅仕事。正午前に弁当屋に弁当を買いに出かけるとびっくりするほど暑かった。昼飯を食いながら100分で名著の新約聖書の3,4回を見る。「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ」といって死ぬ人は復活するとは思えない。少なくとも自分がのちに復活するとは思っていなかっただろう。

夕方過ぎから忙しくなって大相撲をろくに見られず。結びの一番で宇良が照ノ富士に挑戦しているところだけをかろうじて見られた。二日続けて決まり手が両腕を極めた状態での「きめ出し」で、強さを感じた。

ひげを剃ってシャワーを浴びてからスタバに出かける。昨日店内が暑かった反省を活かしてサンダル履きで出る。『同時代ゲーム』を読む。

20230517

日記110

 

IC専用出入り口

昨日

晴れていて外で飲むのに適した気候だったので、スタバから出たあと歩きまわったり座れるところに座ったりしながら酒を飲む。帰宅して料理しておいた玉ねぎと鶏肉の無水料理を食べる。新玉ねぎが売っていたからついどんなものだろうという好奇心で新玉ねぎを買ってきて作ったのだが、普通の玉ねぎよりも水っぽく、普通の玉ねぎで作るほうが美味しいという発見があった。他に何もせずわりとすぐ寝てしまう。


今日

用事があって地元に帰ると、MVを作り直すことになったという報告をバンドのメンバーから受ける。話を聞いているとそのまま撮影が始まる様子で、撮影スタッフも監督もちゃんといて規模感もあってすごいなと思っていると、知っている女優が出演するというサプライズまである。なるほどこっちの道だったのね、と答え合わせをされる感覚のままどんどん撮影は進んでいき、あっという間にクランクアップになる。これはもう仕方ないね、腹を決めますか、とミュージシャンになる覚悟を決めていたと思う。

という夢を見たという一言がどこにもない。わざとそうしているんだろうけど読んでいると心配になる。

在宅仕事。だらだら仕事をする。ラジオを聞いたりしないルールは続いているが短い動画なら良いやとザ・セカンドの番宣動画をTverで見てしまう。あとは録画していたテレビ番組の消化。言ってる場合じゃないけど、マツコ有吉の番組は面白い。

ザ・プロファイラーの最終回、正岡子規回を見る。松尾を批判する戦略は戦略として理解できるけど、鬱陶しさとちょっとのさもしさが感じられて気に入らない。しかし漱石に宛てた手紙の苦しさはやはり何度見ても苦しそうでつらくなる。漱石のことを「柿」とあだ名したのは初耳で面白かった。

柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺

の句が漱石の詠んだ

鐘つけば銀杏散るなり建長寺

の句のアンサーソングとして生まれたという説はもっともらしいうえに面白い。俳句のことは松尾ほどわからないが後者のほうが佳句だろうと思う。

そのほかでは、子規が宗匠のいる句会をあらためて、無記名でそれぞれの句を出してそれぞれ自由に品評するという仕組みを作ったという。これはいかにもエリートの思いつきそうな発想であるが、自分が句会に出るとすればもちろん宗匠など居ない方に出たいので、もし現在の句会の形式がそうなっているのであれば明らかな功績として認められるだろうと思う。

あとは移り気で自分勝手に振る舞う人柄などもその永遠に若い人物像と親和するところが大きい。彼に可愛げがあると感じられるのは若干34歳で生涯を閉じなければならなかったことが影響しているだろう。本人は俳句で名を残すことがなかったとしても、少なくとも50までは生きたかったのではないか。もちろん何もせずに50まで生きるようなタマではないだろうから、べつのかたちでその名を知っていたということになりそうだが。

今日も大相撲を見る。四日目。大相撲のなかにある価値観がなんとなくわかってきた。そうすると恐ろしいことに、力士の身体のほうが美的にもすぐれているのではないかと思う瞬間も短いながら存在し始めた。たとえば、力士に比べて普通の人間は頭でっかちなほど頭が大きすぎるし、性器の身体に占める割合もいたずらに大きすぎてわいせつなのではないかと思ったりした。今日のNHKのアナウンサーは前日に比べても正直あまり良くなかったのだが、解説の錣山親方が格好いい切り返しをしていたので引き立て役として考えるとそういう良さもありえるのかと考えさせられる一幕があった。貴景勝が怪我を押して出場していることについて話が及ぶと、「あまり怪我のことを言われたくないと思います。彼は相当の覚悟を持って場所に出ることを決めていると思うので」と穏やかにきっぱりと言い切っていたのがとにかく格好良くて痺れた。

関係ないが今週の呪術廻戦が面白かった。月曜日に読んだのだが昨日今日もそのことを考えた。この漫画は展開も面白いのだが、それ以上に登場人物のセリフが面白い。架空の登場人物で、架空の立場にいる人物なのだが、その立場を代表した考え方ができていると感心させられる台詞回しが秀逸だ。枠を設定してその枠をはみ出す表現が理にかなっているとそれだけで一定の面白さがある。設定が不変恒常なものだと自ら暗示をかけるというのは言い得て妙だと思った。

錣山親方は心臓の持病が悪化したとかで亡くなってしまった。これからももっと解説を聞きたかったのに残念だ。阿炎を見ると自動で頑張れと思うようになった。

定時に上がり、結びの一番を見てからスタバに出かける。半袖で来たにもかかわらずただ座ってコーヒーを飲んでいるだけで汗ばむぐらい暑くていやになる。いやになりながらも他にやることがないので『同時代ゲーム』を読む。第三の手紙を読み終えたところでようやく、歴史を語るということの全体を小説にしようとしていることに気がつき始めた。かつての指導者の血を引く演劇者を登場させ、彼に歴史を語りかけるという構造が面白い。演劇のパフォーマンスがもっとも発揮されるのは、「のう、去(い)のや!」という意味のある台詞ではなく「バハッ!」という表面的には意味を持たない台詞のほうであるというところに勘所がある。これは時代の流行といった話ではなく演劇の本質に関わるところだ。形式の話ではあるのだろうがジャンルの話ではないはずだ。何かを発しないといけないタイミングはある。何を言うかというのを考えていられないほど急を要するその瞬間に、間違ったことを言うまいとしつつ、何かを発さざるを得ないとき、魯迅のいう吶喊ではないが、動物的な咆哮にも似たただの発声があらわれるのだろう。

20230516

日記109

 

飲むべし打つべし

昨日

スタバで集中して読書したあと、予定外の外食をする。回転寿司が営業時間いっぱいだったので軽放浪したあげくステーキ屋にいってステーキを食う。サラダバーが売りの馴染みのステーキ屋で、サラダバーがもともとの料金に組み込まれていることもあり、貧乏性を全開にして大量のサラダを食う。

店を出てから酒を追加で入れることをせずに、そのまま歩いて帰宅し、わりとすぐ寝る。

明確な目的意識を持たないまま食べる店を探して放浪するとき、それで良い目が出ることは少ない。自分は食について蔑ろにしているところがあるから余計にそうなる。明らかなミスになってもべつに大したことではないと思えるのでわるいことばかりではないが、こういう食事の機会ばかりになるのはもしかすると勿体ないことなのかもしれない。こう思うようになったのがダンジョン飯の影響だとすればすごく単純な話。残念ながらその可能性は高い。


今日

昨夜に引き続き大量の夢を見る。ほとんど覚えていないが猫が出てくる夢を見た。現実世界でそうであるようにゲスト的な立ち位置での猫との交流ではなく、私の、と思い切って言っても良い猫が出てくる夢だったような気がする。夢にまで見た猫のいる生活、その生活でいっしょに暮らす猫を夢に見た。他にもすごい発明をしてしまったり、どこかの部族を滅亡させたような気がするが全然覚えていない。

夢の中での猫との暮らし。全然覚えていないのが残念だ。同時にそれはそのことをこうして書いておいた功(いさおし)でもある。

在宅仕事。昼まではのびのびしていられたから夕方は大相撲三日目を見ようと意気込んでいたのに夕方になってばたばたと仕事が降ってきたせいで主要な立ち会いのいくつかを見落としてしまった。そのうえ一時間ほどの残業になる。

過去の自分には申し訳ないが、こうして昔の職場で面倒だったという日記を読むと、今の自分はどれほど幸運なんだろうと嬉しくなる。

腹立ち紛れに家のドアをバタンと閉めて素早い足取りでスタバに向かう。スタバでも週末旅行のための交通チケットをネットで買うのにさらに30分ほどを費やしてしまう。20時になってようやく『同時代ゲーム』を読む。

疲れているようだ。このときの自分は頑張っていた。大体の頑張りと同じでナンセンスな頑張りだが……。頑張りたくないことはあんまり頑張らないほうがいい。頑張りたいことを探したり、頑張りたくなる要素を見つけたりすることを頑張るほうがよっぽどいい。たぶんそうしようとしていたのだろうけど。

20230515

夢には

夢には限界がある。

寝ているときに見る夢には、現実世界では起こりもしないことや現実世界では出来もしないことを、現実的な感触をいくらかなりと含んだ感覚とともに私の主観に立ち現すことができる。

しかし、現実世界で実際に想像するこの想像の及ぶ範囲の外に夢が出ていくことはできない。夢見ることというのは、現実世界からすれば途方も無いビジョンを見せてくれることであると感じられるのに反して、現実のこの脳が想像する範囲から一歩もでない映像であるにすぎない。たとえどれほど能力が高い人物であろうと、その想像力が群を抜いて高い特別な人物であろうと、彼が一万年前の人間であるなら「電子マネー」を夢にも見ることができないはずだ。しかし現実には電子マネーがある。そして一万年前には想像力が並外れて高い人物がいた。

夢を入れ子状にして夢の夢を見ようが、夢の夢の夢を見たと主張しようが、現実の外に出ていくことはできない。

現実には先がある。一万年後には一万年後の、百万年後には百万年後の現実がある。そして夢は、いとも簡単に想像できるそこにさえたどり着くことができないのだ。それなのに夢を現実より何でもできるもの、想像力の世界の上位に置くのは間違っている。現実こそが一万年後に接続される唯一のものであり、夢はそれを見る主観が消えればただちに消えるものであるにすぎない。

それでたくさんだ、現実に想像できるものや、それよりもはるかに少ないものであっても、夢を見ることができればそれで十分だと主張することはできる。しかし、それを主張することでさえ夢の中ではできない。あくまでも現実の世界のなかで、夢には大きな可能性があると主張することしかできないのだ。そもそも夢には夢の何たるかを把握する能力にも欠けている。一方、現実感の欠損を夢の充実として捉えて、夢の本質を現実感覚の部分的喪失に見出すことは可能である。現実感覚を手放すことで、ひどい現実を手放すことができるのであれば、それは夢の功績となるだろう。恐怖を和らげるために現実を現実として意識することの邪魔立てをする、明らかに意識する状態をいくらかなりと離れる、その役に立つのが夢である。しかし、それでもやはり夢には限界がある。

その役割を果たすだけのためにも、多くの助けがいることだろう。それは毎日の睡眠、アルコール等による酩酊、あるいは教条。思考すること、現実を意識しないために脳を疲れさせること全般。

現実には、今こうして考えている何事かを考えられなくなるということ、今感じている物事を感じ取れなくなるということが含まれる。それがどういうことなのか、夢に想像できるとは思えない。


日記108

標識「重力に逆らえ」

昨日

午前中にスタバに行く。昼ごはんにすた丼で倍々すた丼というものを食べる。ニンニク臭発生マシーンと化す。あとから調べたらにんにく量がすた丼の9倍らしい。そりゃだめだ。

大相撲夏場所初日を観戦する。

せっかくの初観戦の機会なので、同じく初観戦の友人を家に呼んで相撲観戦配信をしながら見る。見る前にはもううすうす気がついていたことだが、これが面白くて驚いた。しかし喜んで大相撲を見るようになったらもうジジイの仲間入りという気がする。昔ラジオを聞き始めたときにもちょっと思ったことだし、落語を聞き始めたときにも思ったことだが、相撲を見るようになったらこれはもうジジイの終点待ったなしだろう。現に子供の頃には何が面白いのか一切理解できなかった散歩が面白くてたまらないのだからとっくに終点にいたのかもしれないが、それにしてもいよいよ「いよいよ」だ。昔は太った人間同士が相手を押したり外に出したり転がしたりする競技の何が面白いのか本気で理解できなかったし、何だったらそんなに昔でもなくつい最近までその認識だったから、そのときの感情というか気分がしっかり残っていて、今相撲が見て面白い競技だと感じている自分とちょっと前の自分とが分裂していて変な感じがする。面白いと思う前とは決定的に違ってしまってもう戻れないのだけどそれが悲しいやら嬉しいやらよくわからない感情になってしまう。まさか自分がジジイになるとはとジジイは皆驚くものなのだろうと想像するが、それに近い気がする。

四股名がたんに格好良い漢字の名前にすぎなかったのが、取組前の面差しや取組の内容や取組後の悔しさのにじむ表情によって力士の名前として印象付けられるのが良い。「明生」「朝乃山」「北勝富士」がぱっと思い出せる名前だが、他にも印象的な人物がいた。

『サンクチュアリ』を一話から見始める。晩御飯は大葉生姜の豚肉巻き。ポン酢で食べると口の中が華やかになって美味しかった。自分の内側からくるにんにく臭に苦しめられているといっそうその華やぎが嬉しくなった。

彼女のドイツ留学時代の友人が毎月仲間と集まって読書会をやっているという話を聞く。直近ではスイスの劇作家フリードリヒ・デュレンマットの戯曲でやったらしい。正直うらやましい。デュレンマット。……正直知らんかった。

自分は「鶏口となるも牛後となるなかれ」を信条にしているわけではないが、ゲストよりもホストでいるほうが気がラクだし同人誌サークルにせよ演劇ユニットにせよ読書会にせよ主催するというのが自然と第一候補になるのだけど、本当にそういう活動をしたいのであればどこかに参加させてもらうというのを真剣に検討したほうがいい。この冬に得た演劇の経験にしても、ゲストとして乗っからせてもらうことで得難い経験ができたのだし、ホストとして運営するよりかなり低いコストでそれが得られるのだから、わざわざ探し回るということはしないでも、せめてチャンスがあったとき尻込みはしないようにだけ心の準備をしておかないといけない。

いや、本当は探し回るぐらいでちょうどいいんだと思う。読書会なんてあるところにはあるもんなんだろうし。


今日

在宅仕事。落ち着いた仕事量だが一日中働く。午後からは大相撲二日目を見ながら合間にちょこちょこと働く。

北勝富士と御嶽海の立ち会いには心底感動した。二日目でこれを見れるのは運が良いのか相撲にはこれだけ熱い取り組みが頻繁にあるものなのかわからないが、もし後者だとすると相撲観戦は一般的な娯楽として当初の想定以上の位置づけになるのは間違いない。決まり手が寄り切りにならずに寄り倒しになるのは寄られる方の抵抗が並大抵ではないのを表している。

相撲が終わってから家を出てスタバに行く。『同時代ゲーム』を読む。

20230514

イージー☆ライター

軽々しく何かを言うことを覚えた。

たとえばこのブログで書いている日記などもまったく内省することなく思ったことを書き付けている。だから読む側は何が書かれてあるのか全然わからない文章に定期的にぶち当たるだろうし、それでまともに読む気をなくすことだろうと思う。だけどまともに読まれなくてもいいからとりあえず読んでほしいという気持ちがある。できたら読んでほしい、読まれるかどうかを自分で決めれるのであれば読まれる方を選ぶというぐらいの積極性はある。ただし、読まれるためによくわからない文章を書かないようにするだとか、もっと要領を得た書き方をするだとか、そういうまともなことをするつもりはない。それをそこまでやるだけの積極性がないと取るか、書きぶりを改める気もなく読んでほしいと望むふてぶてしさをみて積極性があると取るかは人によって意見が分かれるところであるだろう。……というのも、意見が分かれてほしいという願望込みでそう思うに過ぎないけれど、とにかく自分としては積極性を持ってこういうことを言っているつもりだ。

昔は自分の意見というものが自分にとって大きな意味を持ちすぎていて、それを外に出すということに高いハードルがあった。胡乱な言い方をあえて選んで、それで理解されなくても問題ないという安易な道を行くことが多かった。今も昔も、文章によって何ごとかを伝える高い能力を持っているわけではないのだが、昔はとくに、自分が目にしたもののレベルがそのまま自分のレベルだと信じていられたから、自分の能力に自身を持っていられた。他人の褌で相撲を取るようなものだが、他人の褌をそれなりの真剣さをもって自分のものであると考えられるだけの無邪気な定見があった。じつはその考え方は今も続いている。

これは無根拠な自信というものに近いようだが遠い。自分でも掴んでいる根拠が正当のものではないということは認めているという意味で無根拠に近い。しかし、何かを掴んでいると、そのロープの先がどこにも結びついていないにせよ一定の安心が得られるもので、その安心を現実に利用し活用しているという意味ではまったくの無根拠というわけではないのだ。根拠のない自信の持ち主を見ると、つい仰ぎ見る心が発動しそうになるが、その実、彼自身にとってのみ利活用される、たんに一般的ではない、しかし彼にとって確かな根拠がどこかに埋まっているにすぎないのではないかと考えるようになった。それが目に見えるところに無造作に置いてあるか目に見えないところに隠してあるかの違いにすぎない。

たとえば自分の根拠とするものに読書があるのは間違いない。しかし自分のことを読書家だとは思っていない。ブクログというサービスを利用し、ある年以降に読んだ本をすべてインターネット上に公開している。ブクログの本棚を見ると読んだ本の数字が出るのだが、恥ずかしいほど少ない量しか読んでいないことが明白になる。どこまでのラインから自分のことを読書家だといえるのかというのは人それぞれ違うものだろうが、読めば読むほどそのラインが向こう側へ遠ざかっていくのだろうなという予感は現時点でもあるから、無理にそのラインを越えようという気は起きない。それでも読み終えた本を公開しているのは、自分の不足をすこしでも埋めようとする動機を得るためだ。

読む本は面白いに違いないというものを選んでいるので、感想を書くときにはつい慎重になってしまう。たんに面白かったで済ませればいいのだがそういうことをしたくないのでtwitterで感想を言うことをしなくなった。その代わりにこのブログを作って文字数制限を気にしないで感想を言うようにした。それで気づいたのは、twitterの文字数という制限は感想を言うにあたってそこまでの障壁にはなっていなかったという当然といえば当然のことだ。面白いと思ったものについて感想を言うのは簡単なことではない。

だからどの部分が印象に残ったかというのを日記の形式を借りて書くことにした。これは感想を書くことにくらべてかなりやりやすい。しかも書いたものはいくらかなりとも感想としての体裁を保つ。そもそも感想文などというのはそんなに大げさなものではないのだが、自分にとってはなぜか自分の感想がおおごとに感じられるので、こういう工夫によって書かれる感想の数が増えるのはのぞむところだ。小説・映画・漫画問わず面白い作品について言いたいことはもっとあるので、できるだけ印象に残ったところを書いていって、もう言いたいことはないというぐらいまで感想を言いたい。

そういうことをしていると、大したことを感じていないと冷静になるタイミングが出てくる。これは感想を書くことの一番の弊害だと思う。何かを見て感動したことを大したことではないと感じる意味はないからだ。しかし、書いている途中に書いている内容に押されて、記憶の中の感動が薄れていくとしても、それ自体はわるいことではない。反芻するというのは、必ずしも懐古的になってあれは良かったと再確認するだけのことではない。ただ、書いている途中に起きることとして、間違った意味づけを与えたり、感じていることを言葉の進む方向に間違って固めていくことがある。冷静になって考えるというときにはそうなっていないかというチェックをする必要がある。そういうことが起きないように、最初から感想を言うということを控えるというのも理解できる。軽々しく物を言わないという方向性だ。

この方向性を取るのは大学生の頃や20代前半の頃には有効だ。対象をまるごと受け止めて評価・判断をしないというスタンスをとることで下地を作る時期というのは、継続的に何かを楽しもうとする目的にとって重要だ。そうするときには権威に寄りかかってもいいと思う。具体的には賞を獲った映画を見るだとか、名作とされる小説を読むといったことだ。それをやっていくと、見終えるということや読み終えるということはありえないということが理解される。

面白いのか面白くないのかわからないと、そこが半信半疑だと、感想を言うのは不可能だ。面白くなかったという感想を言うこと自体は難しいことではないので、面白くなかったという内容の自分にとって大した意味のない感想は書けるかもしれないが、何が面白かったかということに触れる、意味ある感想を書くのは簡単なことではない。だから面白いと感じることについて、自分なりの根拠を構築するための期間を設けることは、とくに最初期においてはもっとも重要なことだ。

そうやって面白いものを見つけられるようになったあと、「たしかに面白かったのだが何が面白かったのかわからない」という作品の感想を言うことには意味が生まれやすい。面白さを言おうとするなかで全然面白さの核心に近づけないというフラストレーションがたまることばかりだと思うが、無理に掴もうとして変な箇所を取り上げて感想を言うことも多いはずだが、そのせいでいくら頓珍漢な文章になったとしても、その軌跡が示されること自体に感想を書くことの意味がある。ひとつには書かれたものは読み返すことができるからだ。それをきっかけや足がかりにして、再び感想を書くことができる。書かれてあることが「面白かった」だけだと広がらない。あとから見て間違っているように思えたとしても、何か具体的な部分について触れていたり、良くなかった箇所について残されていると、それに注釈をいれる形でも部分的に訂正する形でも、感想が前に進む。それによって理解が深まるのは、その作品についてと、その作品についての自分の感じ方・意見についてである。これは作品を見てその感動を大事にとっておくだけでは得られないものだ。

しかし「そもそもそんなもの必要ない、自分の得た感動はそれほど大きい」というのは実際にあることだ。没入感覚を失わないように感動に浸りきっていたいというのは否定できるものではない。ただ、いくら下手なことを言っても、無理に感想としてまとめようとして書いたり、出来合いの形容で済ませたりということを避けて進めるかぎり、感動というのは少しも毀損されるものではない。たとえば作品がどれほど繊細な部分から成り立っていようと、それはその作品が柔弱なものであるということを意味しない。むしろ感動を与える作品というのはすべからく剛毅だ。それは裏を返すと、得た感動に傷をつけられるような強いことを、感動を受けた当人が言えるはずがないということだ。だから安心して、何が良かったか/どこが良くなかったかを、ひとつでもふたつでも思いつくだけ書いてみればいいのだ。

……というようなことを思って、ブンブン槍を振り回す気分で感想を書いている。十分なスペースが確保されていれば安全だし、長い棒をいい加減にブンブン振り回すのは楽しい。

20230513

日記107

”The Breakfast”



昨日
タリーズから出て一旦帰宅。荷物をおいて再度出かける。夜の散歩目的で三軒茶屋まで歩く。暑くも寒くもなく晴れていて最高の気候だった。これで散歩が良くならないはずがない。三軒茶屋には面白そうな店がたくさんあるなという気づきがあった。そんなのは前から知っていたし当たり前のことだけど、金曜の夜に飲み屋のある通りをなんとなく歩いているとそのことを実感できるという意味での気づきだ。あと、茶沢通りが三茶と北沢と結ぶ道だから茶沢通りと呼ばれているということにも遅ればせながら気がついた。
道中、Tinderのキャッチコピー兼サウンドロゴを発明する。
「パン!パン!パン!パン! Tinder!」
楽しかった記憶がよみがえった。夜の散歩はどの店で飲むよりも最高の飲酒体験になる。散歩が最高のものになる気候条件は、気温のコンフォータブルゾーンの狭いわれわれにとってかなり厳しい条件にならざるをえないが、それを通過してくれる春の夜(秋の夜)が数えるほどだがあるにはあるので、それをできるかぎり逃さないように構えて、ふたりで散歩していきたいものだ。

今日
朝から雨。THE朝食という朝食。フライパンを使って食パンをバターで焼いてもらう。トースターがあるというのに。そんなことは思いつきもしなかった。読書会とそのための読書を午前中から昼過ぎにかけてやる。
この世において「朝食がおいしいこと」以上にリッチなことはない。ドン・ペリニヨンだとか、お遊戯もいいところ。
スーパーまで昼ごはんを買いに行く。帰り道に雨が降り始めたので悔しくて、悔しさを紛らわすために、いやむしろ悔しさによって気分を盛り上げるために、無糖氷結を飲みながら帰る。マイケル・ジョーダンラストダンスを見ながらご飯を食べて昼寝する。
嬉しくて酒を飲み、悔しくて酒を飲み、いい天気だからと酒を飲み、天気悪いからと酒を飲む。中毒者ではないかと言わないでいるのは難しかった。
いろいろな夢を見て目が覚めたら真っ暗になっていた。19時半という時刻を確認し、べつに用事もないが飛び起きる。『同時代ゲーム』を読む。
すかすかの一日! しかしそれを日記に書いていてえらい。
昼寝ではなく朝方に見た夢だと思うが、格闘技か何かのスポーツの優勝パレードのようなイベントで、鈴鹿サーキットの闘技場形式になっている広大なオフロードコースを貸し切って、レース車のフロントガラス側のボンネットに専用の器具を装着し、優勝メンバーがそこに直立した状態で場内をぐるぐる回るという催しに参加した。自分はレース場内にいたから優勝メンバーの一員だったのだと思うが、スター選手のひとりに目が釘付け状態になっていた。上下白の衣装を着て腕組みをしながら慣れたように車の上に仁王立ちになっていて格好良かった。他にもいろいろ見たが例によって例のごとく全部忘れてしまった。
この日も夢を見た。だいたいいつも単純なというか小中学生が見るような夢だ。いくら見栄を張りたくても中高生が見るようなとは言えない……。

20230512

日記106

下北沢駅南西口

昨日
スタバを出て酒を飲んで帰ろうとしたところ、同居人からMacbookとiPadを入れたカバンをどこかで落としたという連絡が入る。ほんの1ヶ月前にも同様の騒ぎを持ち来たし、そのときも蒼白になっていたのにまた同じことを繰り返し、同じように蒼白になっているのに笑ってしまう。

そのときは運良く見つかって事なきを得たのだが、今回はもうだめかもしれない。さらに話を聞いていると、PCバッグを紛失するのは今回で3回目だという。べつに信用どうこうと言うつもりはないが、自分の大事な荷物を預けてはおけない人間だとは思う。自分は貴重品は自分の手で持つ主義だから問題ないが。

二日間飲んでいなかったので、久しぶりの酒の味が余計な味付けで変わってしまったのが残念といえば残念だった。月といえば秋だと無意識に思っているけれど、五月の月も同じぐらい良いものだという当たり前のことに気がついた三日前の気分で酒を飲みたかったのに、降って湧いたおもしろ事件のおかげで、相手の不注意・無反省をやいのやいの言いながら飲む、わいわい楽しい酒になった。

出だしから結構辛辣な書きぶりで怒っていたのかと思ったが、読み進めていると分かる通り、書いている時点では全然怒っていない。ただただ驚き呆れるばかりだ。そういう古語があったよなと調べると「あさまし」という検索結果が出てきた。まさにあさましだ。


今日

在宅仕事。この一週間の忙しさは昨日で峠をこえたので、比較的落ち着いて時間を余らせて終えることができた。途中家事の洗濯をこなしたのだが、晴れの気候が気持ちよすぎてタスクという感じがゼロになっていて良かった。五月晴れをリーズナブルに味わえる機会としてちょうど最適だった。

晴れの気候というのはそれだけで良い気分をもたらすものだが、こうしてわかりやすいインセンティブがあると尚の事良い気分になれて、家事労働という感じがごく僅かになる。

結局、同居人が紛失騒ぎを起こしていたPCバッグは昨日立ち寄った店で無事見つかったとのことだった。一番スペックの高いMacbookと買ったばかりのiPadで合わせて60万円以上する落とし物だったので、逃さなかった魚は相当大きい。

これを機にリュックを使い始めたりして、うっかり置き忘れということが起こらないよう対策をしているからか、その後一年のあいだ紛失騒ぎを起こしていない。こういううっかりミスへの対応は「心がけ」なんていう心もとないものにするべきではなく、実際の行動に干渉できる実践的な働きかけこそが重要ということだ。

いつものスタバに行くも満席だったので新しくできたタリーズに行く。オープンのスタッフが初々しくもフレッシュで、昔四条烏丸のタリーズでオープニングスタッフとして働いたときの楽しい思い出が蘇った。とくに「コンアモーレ」という呼びかけあいが端折られずにきちんと行われているのが良かった。東京に出てきてから行くタリーズ、行くタリーズのほとんどすべてでコンアモーレは聞かれなかったし、そもそも元気のない店舗が多かったので、嬉しさもひとしおだった。自分はお客にとってそんな元気に働いていたわけでもないのに、客になるとえらそうに講評したりして良くないとは思うけど、手前味噌ながらわれわれチームはかなり良かった部類なんだと気がついた。もちろんあくまでタリーズにしては、だけど。

タリーズの人たちはスターバックスのことをバックス様と呼んで敬っていた。

『個人的な体験』を読む。超然として人生の達人じみてみえる火見子が、彼女の主観からは全然そうではなく動揺しているのだと明かされる描写によって、鳥(バード)のテンパり具合がわかるようになっていることや、火見子の好感度が上がるようになっているのは一石二鳥でよくできていると思う。火見子を通して鳥(バード)への共感も(もともと全然共感できないというようにはなっていないにしても)スムーズにできるので、相乗効果がある。

『個人的な体験』を読み終わる。オーラスのアスタリスクふたつ以降の文章を含む結末には感情が揺さぶられて実際に身体が震えた。これまで自分は小説の情景描写について興味を惹かれにくいというか情景描写について冷淡というか不感だと勘違いしてきたということに、この小説を読んでいる途中で気づいた。読んでいる文章が情景描写だと感じられるときの読書の体験は、小説のなかに入れていないときにしか起こらない。つまり、優れた情景描写は読者たる自分にとっては情景描写だと気づかれないまま小説を推進させる小説の一部分になるということだ。思い返してみても、情景描写を情景描写として感じるのは小説の冒頭部分にあるそれに集中していた。まだ小説の中に入り込めていないときに、自分の想像力がじゅうぶんな推進力を持っていないとき、車軸が回転していないときに、情景描写が情景描写として感じられるのにすぎない。どれだけ集中して読んでいても会話シーンは会話シーンとして頭がそれを捉えている。しかし、情景描写シーンは本当に透明なレンズとして目の前に現れるということが、小説を読むという体験においては起こっていることなのだ。

つまり情景描写であると意識されない描写が最良の描写だということで、この論点はわかりやすいしそれなりに重要なことを言っていると思う。しかし、描写然として感じられつつ、なおその威力に圧倒されるということも傑作小説における最良の場面では起こり得るだろうし、例外はあるなかでの大まかな原則ぐらいの意見だ。

20230511

逆走せよ人間

自分の常識にたよって生きていると、知らず識らずのうちに、頭に浮かんでくる選択肢が減っていく。自分なりの判断に自分なりの美学を用いて決定していくということは基本のきだが、それ一辺倒になると雁字搦めになる。雁字搦めになったらなんとか結び目を解こうとするので生じる結果としてはまだましなほうで、よりわるい場合、考えているつもりでいてその考えが及んでいる範囲が極狭(ごくせま)ということになってしまう。「考えた結果、わたしはこう行動する」ということの繰り返しが良い行動に結びつくというのは統計的に正しいだろうが、そこには罠がある。われわれは(私だけということはないだろう)、考えた結果の結果には固執しやすい。なぜ固執しやすいかといえば考えたという積極的行為がその前に挟まっているからだ。しかも考えた場合、考えた結果についてこだわることを固執したと感じ取りづらい。対立する意見を「考えていない結果」だと簡単に決めつけてしまうのだ。これは二重に間違っている。考えた結果と対立するからといってそれが考えていない意見とは限らないというのがひとつ。こちらはまだましなほうで、考えた結果だと比較的過ちを見つけやすい。考えれば考えるほどそれに気づけるチャンスが増えていくからだ。もう一方のミスはより見つけづらい。それは「考えられた意見がつねに正しいとは限らない」ということだ。オープンなやり取りができるような知的にめぐまれた環境であってもこれは盲点になりうる。たとえばピラミッドはひとつひとつの岩を積み上げた結果としてこの世界に屹立している構造物だが、じつはそういうふうにできていない構造物のほうが数多い。このことには簡単に納得できても、自分が置かれている立場で何を選択するべきかというようなことが俎上に載せられると、知的な判断がともなうといささかなりとも感じられる場面になると、あっさりしりぞけられる。

それがまったくだめだというわけではない。継続的に見たり、統計的に考えるのであれば、考えることに決め打ちするほうがいい結果に結びつきやすいとも思われる。ただ、自分の考えることに自信を持ち、それを恃みにしながらも、そこ以外にルーツを持つ流れを自らに引き込む回路を用意しておくのはかなり重要なことだと思われる。そのほうが冗長性があるだとか、バックアップを用意するためというのもそうだが、それ以上に、「外」は自分の考えそのものにとって重要な要素になりうるということだ。ただし、それとして用いるのに、自分ではない他人が考えた結果を持ち出すというのはあまりふさわしくないかもしれない。同じ時代の人間が考えることなどは似たりよったりの結果になるからだ。それが考えた結果であればあるほど外的要素とはなりえない。未来方向の合理性や過去方向の因習もたぶん外的要素というには外の空気がうすすぎる。全然考えないで、理に合わないことを喜々としてやっている、(自分から見て)逆走する人間というのがもっとも外的な存在だと思われる。動物や機械ではあまりに合理的すぎてその用を足すための役に立たない。合理的には考えない人間というのが、われわれの用途にもっともふさわしい他人の呼び方であると私には思われる。

われわれは自分自身にとってベストの考え方をする存在でありたい。そこに向かって存在していきたいというのは、誰もが確実に、おぼろげに感じていることだ。そうであるなら、お互いにとっての逆走人間をお互い排斥せず、むしろ大いに利用しようではないか。これが、私のやっていることを見て「ああこれは完全な逆走人間だ」と感じるあなたに対して私が提案できることだ。なお、「逆走してはいないけれどコースアウトしているね……」でも可。

日記105

現代の鏡磨き職人の手による仕事『新緑』


昨日

2日続けての出社。一昨日の反省を活かし睡眠時間を充分にとったため、調子が良かった。ただやはり普通に忙しく、その調子の良さを仕事に消費させないといけないのが口惜しい。ただ急いでペダルを漕ぎ続けることで残業は回避し、予定していた映画を見に行くことには成功する。『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー3』を見に行く。結論から言うと面白かったが期待ほどではなかった。

ガーディアンズ好きは例外なく全員ロケットが好きだが、ロケットの過去を掘り下げるか否かというのは難しい問題で、ロケット好きのあいだでも掘り下げられたくない派と掘り下げて欲しい派とに分かれる。今作は後者のための映画だった。

しかし、掘り下げられたくない派もロケットが好きなことには変わりないので、掘り下げられるということになれば、掘り下げることに対して期待もすれば楽しみにもする。

今回のロケットの掘り下げは、まあそうだろうなというもので、1,2で得たロケットの印象を変えるものではなかった。ロケットはあの身なりに反して凶暴で、その凶暴さに反して優しいところがある。だから皆ロケットのことが好きになるのだが、その優しさの原因を掘り下げて欲しいとは思わない。ロケットは、クイルに出会う前にはさぞ苦労したんだろうなと想像するけど、それを明らかにしたり、その想像を本人に直接訊くということをしないのが、われわれのあいだで交わされなかった約束もとい節度という気が勝手にしていた。

いわばBGMとしてロケットを聴いていて、そのときに聴こえる音が言いようもなく素晴らしいものだったのに、頼まれもしないのに勝手にライブをやって勝手にライブCDを制作したようなものだ。BGMを前面に出すのはガーディアンズ・オブ・ギャラクシーの流儀だからそれも良いだろう。ポストクレジットの無音楽の味気なさは良い演出だったとも思う。しかしこれまでは音楽が良いということを音楽は良いということを言わずに音楽そのもので表現していた。ロケットが優しいということをロケットが目立って優しい行動を取ることなく表現していた。

映画の最後を、キモくて害のある生物を前に「かわいそうだけど」と言いながらも容赦なく撃つロケットでしめるのは良かった。ひねくれていて見え方がくるくる裏返るのがロケットの魅力なのであのラストは必然だし、それを躊躇なく選べるのはさすがジェームズ・ガンだと感心するが、ロケットのその部分はそっとしておいてほしかったというのがロケットの過去を掘り下げられたくない派の意見、忌憚ない意見だ。

ガーディアンズが順調にMCUに組み込まれていく感じがあってそれへの反感もあるので、よけいにこの部分が嫌になるのかもしれない。MCUのキャラクターだというだけで、ウルトラマンがソフビの人形にさせられたかのような魅力の減退を感じて目の瞑りようがない。最初の”何者かわからない”ときにあったガーディアンズの出自不明の魅力がしぼんでいって、かわりに記号的な挨拶や目配せで観客に尻尾を振るただの気の良いアナグマに堕してしまった。結局、出自を掘り下げることで引き起こるのは、ただのMCUメンバーになるだけのことで、じつはこの登場人物はかくかくしかじかの理由を抱えているのではないかと知らないまでも感じているときにあったつながりに替わって、キャラクターグッズの売上に貢献する「良いヤツ」というスタンプが押されることだ。

そいつの過去を知らないでも、そいつの過去を感じているだけでそいつのことが好きになるというのは無責任な態度なのだろうか。普通に考えてそうではないということは、クイルがロケットの過去を知らないままでいながらふたりが切り離せないバディであったことからも明らかだ。クイルが無責任なやつではないとしての話だが。

これはガーディアンズギャラクシー3についての不満だが、一番盛り上がっているときのMCUにも感じてきた不満というか、彼らのスタンスに関する批判になっていると思う。すべてに光を当ててコントラストを最大限くっきりさせることでそういうフィルターがかかった加工写真のようになっている。すべてが線画になる。線画がだめというのではないが、すべてが線画で表現されているということに対して趣味が合わない。隈なくすべてがそうなっているというのもそうだし、それを適応できるテーマに絞り込んでいる枠組みのほうにも物足りなさを感じる。


今日

在宅仕事。19時過ぎまで残業。疲れ果てて出かけないと思ったけど、何も考えずに家を出て正解だった。スタバで『個人的な体験』を読む。

早朝4時頃に千葉で発生した自身の地震アラートで途中目覚めさせられたものの基本的によく寝たので調子が良かった。なのに仕事で消耗して疲れて出かけないのでは何のために今日一日があったのか意味不明になってしまうと思って出かけることにした。だから何も考えずに家を出たという言い草は実際ではない。あまり考えないで書かれた文章だった。しかしこの言い草にしても気分的には正で、疲れているときにじっくり考えて判断しようとすればつい休むほうに何もしない方に傾いていってしまう。適当に切り上げたり、いい加減なところで結論を出してそれに従うのが結果良かったりする。そういう意味で何も考えずに家を出るというのはあながち嘘八百というわけでもない。

自分の常識にたよって生きていると、知らず識らずのうちに浮かんでくる選択肢が減っていくということを考えた。自分なりの判断に自分なりの美学を用いて決定していくということは基本のきだが、それ一辺倒になると雁字搦めになる。雁字搦めになったらなんとか結び目を解こうとするので生じる結果としてはまだましなほうで、よりわるい場合、考えているつもりでいてその考えが及んでいる範囲が極狭ということになってしまう。考えた結果、わたしはこう行動するということの繰り返しが良い行動に結びつくというのは統計的に正しいだろうが、そこには罠がある。われわれは(私だけということはないだろう)、考えた結果の結果には固執しやすい。なぜ固執しやすいかといえば考えたという積極的行為がその前に挟まっているからだ。しかも考えた場合、考えた結果についてこだわることを固執したと感じ取りづらい。対立する意見を考えていない結果だと簡単に決めつけてしまうのだ。これは二重に間違っている。考えた結果と対立するからといってそれが考えていない意見とは限らないというのがひとつ。これは考えた結果だと比較的見つけやすい。考えれば考えるほどそれに気づけるチャンスが増えていくからだ。もう一方の過ちはより見つけづらい。それは考えられた意見がつねに正しいとは限らないということだ。オープンなやり取りができるような知的にめぐまれた環境であってもこれは盲点になりうる。たとえばピラミッドはひとつひとつの岩を積み上げた結果としてこの世界に屹立している構造物だが、そういうふうにできていない構造物のほうが数多い。このことには簡単に納得できるとしても、自分が置かれている立場で何を選択するべきかというようなことだと、知的な判断がともなうといささかなりとも感じられる場面だと、あっさりしりぞけられる。

それがだめだというわけではない。継続的に見たり、統計的に考えるのであれば、考えることに決め打ちするほうがいい結果に結びつきやすいとも思われる。ただ、自分の考えることに自信を持ち、それを恃みにしながらも、そこ以外にルーツを持つ流れを自らに引き込む回路を用意しておくのはかなり重要なことだと思われる。そのほうが冗長性があるだとか、バックアップを用意するためというのもそうだが、それ以上に自分の考えそのものにとって重要な要素になりうるということだ。ただし、それとして用いるのに、自分ではない他人が考えた結果を持ち出すというのはあまり適当ではないかもしれない。同じ時代の人間が考えることなどは全然似たりよったりの結果になるからだ。それは考えた結果であればあるほど外的要素とはなりえない。未来方向の合理性や過去方向の因習もたぶん外的要素というには外の空気がうすすぎる。全然考えないで、理に合わないことを喜々としてやっている、(自分から見て)逆走する人間というのがもっとも外的な存在だと思われる。動物や機械ではあまりに合理的すぎてその用を足すための役に立たない。合理的には考えない人間というのが、われわれの用途にもっともふさわしい他人の呼び方であると私には思われる。

自分や他人が思う「こういう人間」というイメージを裏切る行動を示せる人間というのが、逆走する人間ということになり、イメージの裏切り行為のことを逆走というのかもしれない。

たとえば音楽のイメージがない人が突然ラブパワー全開の歌を作ってきたりするなど。そこまで大それた営みではなくても、普段とはすこし違う服装を選んだり、髪型を変えてみたり。イメージを覆すということには面白い発見という結果が待っている。それは他人にとってもそうだし、おそらく当の自分自身にとっても、新しい自分を発見する契機になるはずだ。変化そのものはもともとゆっくりあるのだろうが、それが顕在化するのは他人の目を借りるほうがわかりやすい。自分自身の変化はアハ体験のゆっくり変わっていく絵のようになされていくものなので、時間的隔たりを自然に持てる他人のほうから見えやすい。

自分に不満があるから変化するというのも考えられるだろうが、不満などなく、今の自分に満足しきっていて、なお変化を求めるということもある。不満があるからその解消を目論むという単線的な「動機」の究明は、とにもかくにも答えが出る以上の効用があるわけではない。そうした一応の回答は、一夜の安寧にはじゅうぶん寄与するかもしれないが、最後まで続くようなものでもなければ長続きするものでもない。しかし、一夜の安寧というのも馬鹿にはできないもので、そうやって一夜一夜とやり過ごしていくというのもじゅうぶん実践的な方法だとも考えられる。幸福を目標とするものにとってまず何よりも大事にするべきなのは今この瞬間であるに違いなく、それと地続きの今日、今夜、明日が楽しく過ごせるのであればそれに越したことはない。明後日のことばかり考えているのでは本来大切なものであるはずの今がなおざりになってしまう。

いろいろな思惑やお互いの過去が瞬時に交錯するから、言いたいことを言えないこともあるし、聞きたいことを聞けないこともある。他人と話をするときには当然起こり得ることだし、その不可能と可能がせめぎ合うこと自体が、他人と話をするということだ。こちらの得たいものを無制限に得られる状況があるとすればそれは会話とは言わない。つまり会話である以上、こちらには掴みどころのない相手の印象が積み重なっていくことになる。その印象をまとめるのが外形的な雰囲気という視覚情報になるのも無理からぬことではある。それでもできるだけそこにまとまっていかないように、感情が一箇所に集約されていこうとするのを自ら引き止める必要がある。相手を簡単にひとつかふたつの単語でまとめようとするのは、せっかく目の前に実在してくれている存在を単なる記号のひとつにしてしまうも同然のことだ。しかし、そういった安い願望、印象をある一箇所に集約してしまいたいという感情が引き起こされるのもその存在の実在によってであり、その邪気のないシンプルな綱引き遊びがどういう流れでそうなったのか不明なまま、いつの間にか綱渡りになっているというのも、よくある光景ではありながらその状況に自分たちを追い込んだ当事者にとっては抜き差しならず切羽詰まって感じられる。綱渡りで渡る綱は綱引きのおかげでテンションがしっかりしているものの、足場として盤石という太さではまるでないし、間違って下を見下ろせばちょうど足がすくむほどの(間違って落ちれば無事では済まされないほどの)高さに張られている。そしてその危険こそがふたりで始めた綱引き遊びの結果であり、そこに実在する楽しみの大部分を占める要素ということになる。

ともあれ、つい言いそうになったことについて、そのまま言えばよかったと若干後悔し、同時に言わないでよかったとも思うというのは、本当にひとり遊びとして遊ぶ「ひとり綱引き」だし、自分の右手と左手で引っ張った綱に乗って「ひとり綱渡り」をするという具体的にどういう姿勢でやればいいのか想像もつかないアクロバットを自ら実演する好機に恵まれたということであって、自分のやったこと・やらなかったことについての高評価および自らの幸運を悦ぶ気持ちにつながっている。それが結果的に自分と崖上とを結ぶ命綱になっていたのだと思う。崖から跳んでいながら死なずに無傷で生還しているとすればそれは命綱が機能したからだ。そもそも死んでもいいなんてもちろん思っていないし、結局のところ、跳んでもいないというのがふたつめの答えだ。



20230509

日記104

 

商店街の出口

昨日

GWが終わった。在宅勤務で定時まで働く。LUUPを駆使して、GW4日目にも行った漫画喫茶に行く。道中買ったベビーカステラを食べながら漫画を読む。竹光侍8巻と鮫島最後の15日8〜20巻を読み、竹光侍とバチバチシリーズを読み終わる。ここは午前2時までいられる最高の漫画喫茶なのだが、この日はめあての漫画を読み終わったのと翌日に出勤日で若干早起きなのとで22時頃には帰宅する。油断してランジャタイの漫才を見ていたら寝るのがすこし遅れて24時ごろ就寝。

『鮫島最後の15日』の終わり方について、思っていたのと違った。急逝というのが気にかかる。どうしても続きを書きたいと切望しながらそれが叶わないというのではなさそうだと思えてしまう。

バチバチシリーズ(以下バチバチ)は白水というキャラクターがとても良かった。かっこいい、絵になる三枚目という漫画キャラの位置づけではゴールデンカムイの白井と並び立つ。彼は明らかなコメディリリーフだが、アンチクライマックス、アンチヒロイズムとしてのユーモアがあってバチバチを読ませる漫画にまで押し上げていた。「生き様」というような格好いいセリフを吐く若い主人公に足りない要素すべてを担っていた感さえあった。「横綱は神の依代と呼ばれる」みたいなことを言って見栄を切ったこの相撲漫画のおかげで相撲に興味を持ったが、この漫画の途切れ方で冷静さを取り戻した。生きるか死ぬかという線上をいくスリルを使うのでは物語としての魅力そのものはうすい。真剣・命懸けというのはあまりにもリニアな価値観で一本調子に落ちてしまう。『ちはやふる』を読んでいて途中までは熱かったけど、どんどん実力が上がってきて真剣味が増すにつれ、そもそもなんでこんなに真剣にやっているんだ・苦しむ理由はどこにあるという疑問が出来して熱が冷めていった感覚に近い。バチバチの場合はもっと極端で、火花のように燃え尽きた。一瞬で熱くなって一瞬で冷めた。こういうことを言うのをシニシズムに取られるのは仕方ないことかもしれないが、そうではなく、自分としてはむしろバチバチのほうにシニシズムを感じる。「面白くない人生は人生ではない」というのは頭を使わないで考えているとついそう思ってしまうたぐいの直截なテーゼだが、それを大真面目に扱い、地で行こうとしている。もちろんその姿勢には魅力がある。しかし退廃的な魅力だ。

横綱を見るために相撲を見ているのではない。そういう人もいるかもしれないが、そういう人ばかりではないと思う。

「面白いと感じるところに面白さがあり、客観的な面白さというものは存在し得ない」というところから目をそらしているというように見える。土俵の上にしか面白さがないというのは異常だが、それに共感できるものしか登場しない漫画なので、わるい意味で少年漫画だといえる。閉鎖的で外側がない、そしてそれが純粋な強さに変換される機構がある。純文学あるいは純粋培養という言葉遣いが持つ悪弊と同じものを共有している。

それに真剣勝負ということで何かを測ろうとするなら『竹光侍』には及ぶべくもない。土俵の上での真剣勝負という悠長なことは言わずもっと唐突に命が失われる。時代もあってのことだが、その真剣さを良しとするわけにいかない以上、真剣さやシリアスということについてそれがあればあるだけ良いとは言えない。

なぜそれが良いのかわからないものが良いと感じられることがあるとそれには感心させられる。それがユーモアということの意味だと思う。そういう意味で白水は良い。格好わるくてかっこいい。それに比べて鮫島鯉太郎はかっこよくて駄目だ。勝ち方に凄みも説得力もない。

一方は良くてもう一方は良くないというのは単純化してそう言えることにすぎないのだが、それでも自分の単純化の仕方、つまり自分のものの見方はこういうふうになっているということを示すことはできる。

ところで、2Fにある漫画喫茶にはカウンター席があり、窓から外を見ることができる。そして道を隔てた向こう側には居酒屋がある。その居酒屋にもカウンター席があって、窓に背を向けて飲んでいる人影がみえる。この日はたまたま二人組の若い女性が酒を飲んでいた。こちら側の窓の下半分は曇り加工になっていて、座った姿勢のままでは背中をピンと伸ばさないと居酒屋の様子は見えないようになっている。漫画喫茶にいるのだから漫画に集中しないといけないというのではないが当然漫画に集中してしかるべきところ、不自然なほどピンと背筋を伸ばしながら漫画を読んでしまった。べつにこれといった理由もないのだが、窓の外のことが気になるのだ。自分でもそれがなぜなのかわからないし、不合理だと感じるのに窓の外のことがとにかく気になる。なぜなのかわからない。しかしもちろん、これはユーモアとは関係がない。いつの間にか背筋を伸ばすのを忘れているうちに漫画を読み終わって、おもむろに窓の外を見たら別の男二人組が酒を飲んでいた。LUUPのチャリを漕いで家に帰った。


今日

大崎の引越し先オフィスに初出社する。以前のビルより縦長になったこと以外は全部以前の環境に劣る。WiFi飛んでるのは利点だけどそれを言うとこれまでWiFi飛んでなかったことが異常ということになるか。

定時で帰って渋谷のチャーハンがうまい店で高菜チャーハンを食べる。帰りがけに外で映画見れるイベントに通りがかり中身が『スパイダーマンFFH』だったこともあり階段に座って映画をみることにする。15分だけ見て離脱。最初の5分で見たかったNWHと勘違いしていたことに気づいたが、FFHも面白かったような記憶があるしと頑張ろうとしたが思っていたより気温が下がってきたので腰を上げた。階段部分の石が冷たいうえ固く我慢できなかった。

エクセルシオールで『個人的な体験』を読む。読みやすいのは読みやすいが、まだ『ピンチランナー調書』ほど面白くない。

小説とか漫画とかお笑いとかと何の関係もない楽しくない生活があると思うが、その生活が楽しくないまま続くことの意味がわからない。だからやっぱりなんだかんだ言って楽しいんだと思う。どこかの高度な一点を想像してそこから見たこの自分の生活が強烈に楽しいわけではないとしても楽しくないとは言えないのと同じことだ。楽しいと口に出して言うのは、ある意味で開き直りに近いことだと思う。人に言い聞かせないでも自分に言い聞かせないでも楽しいと言うことはできる。それこそものの見方というか決めの問題だと思う。いずれにせよ重大に考えるようなことではない。自分には想像しにくいことであるが楽しくないということも同様、まったく重大なことなどではない。楽しくないということはアイデンティティにはならない。楽しいということも同じ。ただ言ってみるだけのことで、念仏のようなものだ。

この一年、いや少なくともこの一ヶ月、この一週間、一日は本当に楽しくてしょうがない。日記にそういう所感を書けたらと思っているが、この一年の日記にその楽しくてしょうがない感慨がどれだけ写し取られているだろう。あまり自信がない。日記の記述は楽しかった事実に十分見合わないにちがいない。どうすればいいのか。だからせめて「面白い」とだけ書くのをやめろというのに。

20230505

句1

be動詞月isきれいとおぼえたり

日記103

 

近景:緑、遠景:人

昨日

午前中に緑道まで行って考え事をする。帰ってきてから昼寝。下北沢のもうやんカレーに行って遅めの昼食。新規開店の抹茶アイス屋でダブルのアイスクリームを食べる。各駅停車で井の頭公園駅まで移動。公園内を散歩しながら三鷹まで歩く。

17時過ぎから三鷹でBBQをする。文字通りの青天井で気分が良かった。9人ぐらいの人がいていっしょに飲むということの盛り上がりもそうだけど、この日の気分としては暑くも寒くもない季節にのんびりした気持ちで酒を飲めることが良さの中心にあった。それでいうと井の頭公園でパフォーマーのバイオリンを聞きながらぼーっとしたことが一番良かったかもしれない。身を乗り出すほど楽しいみたいなことは、何かをやっているとき以外に感じるのは難しい。微温的に参加者皆一様に楽しいというところを目指すBBQのようなイベントは、日々のちょっとした楽しみとして機能するけれども、それで期待を超えた満足を得るのは無理だと思う。昔は緊張の中、一瞬それがあったりなかったりしたと記憶しているが、今は緊張がないかわりに飛び抜けた一瞬もない。

とはいえチルするのは当然良いことだ。ただ自分は毎日毎日つねにリラックスしていて、普段緊張の中にいないわけで、そうすると求めるのは自然緊張のほうになる。演劇のWSだったり、インタビューだったり対談だったり。緊張しすぎてグダグダになったりぼろぼろになることがあっても、身を乗り出す以外の選択肢がないほどの楽しみがある。問題はチルするのが良いとされるBBQなどの場でも若干の緊張があって、場を流すために自分のお決まりのパターンや定形表現を手放せないところだ。全然ちがうやり方を試してみてもいいはずなんだけど、いつも同じようなことをやってしまう。

早めから飲み始めてしまうと乾杯時のピークが無くなってしまうというマイナスがある。それでもいい会であればそれでもいいが、このときのBBQなどはどうだったか。もう一度頑張るということもすでに酔っているせいでやろうとは思わないというのもある。


今日

朝8時過ぎに起きてスタバに行く。そのために昨日のBBQ夜の部を途中で抜けてきたんだからまあ当然なんだけど、朝からきちんとまだ混んでいないスタバに座っていられるのには満足感がある。

いいかげん小説を書かないといけないと思って、書かれるべき小説の骨組みを考えている。

題材がないのにそれを全部頭で生み出そうとするのは骨が折れるので、というか骨がいつまで経っても組み上がらないので、外から材を取ることにする。つまり取材をするということだが、ある程度、この年のこの場所ということを決めないと取材範囲も広すぎることになるので、ある程度の部分をどうするか考えている。自分が生活したことのある時代を、今の視点から振り返ってみようというのが動機の面でも自然かなと思う。あとは場所をどうするかだが、奈良・京都・大阪が自然といえば自然なのだけど、関西というのはどうも気が乗らない。

ローカルな内容というのは固有名詞を使わないことである程度は稀釈できるからそれでいいとして、いまの自分が、生まれた当時の時代を生きていたらというifを膨らませるのが自分がいま書きたいことであるように思える。今これを書きながら思えてきた。

一見題材になりそうなものはあふれている。興味深いと思えるもの、魅力的な人というのはテレビや動画を見ているととにかく数が多い。しかしそれらが題材になることはない。きれいに整えられたりカットされたりする過程で、小説の題材として必要な部分が失われているからだ。だから画面を通さない実物を知る機会があるという奇特な状況でもないかぎり、いくら面白そうな人でも画面越しの面白さを真に受けるわけにはいかない。

ただし、そう思って見ていてもその魅力が消えるというのでもないし、画面越しの整えられた魅力によって目の前の人物の魅力は自動的に相対化され、面白さが目減りする。だから画面を見ないというのが外から題材を取ろうとするときの唯一の正解だと思う。

一旦帰宅し、パーソナルチェアに座ってうたた寝につぐ転寝をする。

夕方前に家を出てNCP(中野セントラルパーク)まで出かける。強風で砂埃が舞う劣悪な環境だった。何よりも昼日中の暑さにあわせた服装だったことにより、寒さに耐え兼ねて中野ブロードウェイに避難する。しかし怪我の功名とはこの事、『竹光侍』の6,7巻を見つけゲットする。その後サンロードのドトールで『個人的な体験』を読む。近くのリンガーハットで野菜たっぷりちゃんぽんを食べて帰る。

このときから小説を書くということは進んでいるのか。目に見えて進んでいる部分はない。というよりそこは今止まってしまっている。構想はすすんでいるかといえばそんなこともない。構えの部分を試行錯誤している段階というのが正直なところで、たしかに重要な部分とはいえいつまでもそこに時間をかけられない。

20230502

『Sunny』について

今年の年始に友達とおそくまで飲んでいて、未来に3人だけ漫画家を残せるとしたら誰を残すかという話をした。
われわれは普段人類愛にあふれるというタイプではないが、それでも、できるだけ美しいもの面白いもの優れたものを遺したいと思うほどには人類を、あるいは文化を愛している。
自分には3人を選ぶ準備ができていなかった。だから個人的な趣味ではなくごく穏当な常識的判断になるが『ハンターハンター』の作者、『ピンポン』の作者として2人を選んだ。あとひとりは悩みに悩んだが答えは出なかった。あまり考えないでも2人の名前が言えたことにはさして驚きはなく、あとひとりがどうしても出ないことのほうに意識を取られた。
酔いにまかせての放談スタイルで、昔はもっとそんな破天荒ともいえるスタイルで全然すれ違いながらも全然すれ違いを気にせずにお互い好き勝手なことを喋り合っていたのだが、ここのところそういった放談の機会も順調に減ってきていて、久しぶりに楽しく好きな漫画のことを喋りあったのだった。
しかし酔っていない今となって、なぜそんなことを言えたのかと不思議なことがある。酔っていないときでもこの2人の名前はすぐ挙がるのでべつにそこは不思議ではないのだが、松本大洋の名前を『ピンポン』の作者として出したのは、どう考えてもおかしいと思う。3人だけの漫画家、そのひとりとして松本大洋の名前が挙がるのは『ピンポン』を読んだからでも『鉄コン筋クリート』を読んだからでも『東京ヒゴロ』を読んだからでもない。『Sunny』を読んだからにほかならないからだ。

『Sunny』の舞台は「星の子」という施設だ。この施設は何らかの理由で親といっしょに暮らせない子供を引き取って育てるという役割を果たす場所で、登場する子どもたちはみな孤児である。
彼らはできるだけ不自由のないようにと「星の子」の職員たちによって庇護されている。「星の子」では子供のためのルールが定められていて、そのひとつに「大人はSunnyに入ってはいけない」というものがある。Sunnyというのは古い車で、もう動かないかわりに、その車内を子供だけのためのスペースとして外界から区切るために残されている。この「大人はSunnyに入ってはいけない」というルールをいわば悪用してなかにエロ本を隠していたり、中学生ほどの大きい子はタバコを吸っていたりする。大人たちは当然それを知っているだろうが、それでもSunnyのなかのことには口出ししない。職員が「星の子」の子たちにできるだけ不自由を感じることがないようにとどれだけ努力しても、彼らが親と暮らす子供と同じだけの自由を享受することはできない。たとえば、子どもたちは集団生活をしているからほとんどひとりになることができない。泣きたいときにひとりでいられないということは大きな不自由だろう。しかも「星の子」の子どもたちは定期的に泣きたい気持ちになるはずで、それなのにひとりになれる場所がないというのは悲しいことだ。だから職員はSunnyのなかのことには口出ししない。大人が入ってこない場所を用意することを優先したのだろう。
すべての施設がそうだということはないだろうが、「星の子」は暖かい場所だ。ここに来ることになった子どもたちは別の施設にいくことになった子に比べて運が良いといえると思う。しかし、それでも主人公のひとり春男が言うようにそこは地獄でもある。親と暮らしたい子どもが集められてひとつところで暮らすというのは本人たちにとっては最低なことなんだろう。暖かい場所で、楽しいことやきれいな風景があって、優しい大人に囲まれていて、それでもなお地獄だというのはわからないようでいてわかることでもある。不足はあれど大抵のことを用意してくれるからこそ、一番欲しいものがないというのが浮き彫りになるということだと思う。純度の高い悲しいがそこにはあって、それらが響き合ったり、ただ一粒の涙になってどこかに消えていったりするさまは、本当に胸が苦しくなるほど美しい。
悲しいがあり、それがどうなっていくのかということに関心を持つのは自然なことだ。しかし、どうなっていくかということに関わりなく、ただそこに悲しいがある。それだけがすべてだと思わないとだめなときもある。ただ悲しいだけでどうにもならないということを認めないと、悲しいがあるということに思い至れないような悲しいがある。そういう悲しいだけが出口なんじゃないかと思えるときがある。それをなかったことにするのは無理だ。

日記102

 

布の服屋

昨日

仕事後スタバに行く前に中華料理屋に入って晩御飯を食べる。町中華みたいな味がしておいしかった。ビアボールというのを飲んでみる。これはもっと量があればいい選択肢になりそうだと思った。瓶が小ちゃくてケチケチしてんなという感想がまずあってそれを挽回するには至らなかったもののおいしいとは思った。アルコールが少なめで風味はビール、炭酸はパチパチいうほど強い、冷たさはたっぷりの氷でカバーという感じで、ビールを因数分解してそれぞれの要素を強めた感があった。しかしいかんせん瓶が小ちゃくて麦色の飲料の量が少ない。

これは下北沢駅付設の「歓迎」という中華料理屋。あまり立ち寄っていないがわるくない。小田急線の改札内にある権兵衛のおにぎりを買ってピクニックに行くときにはここのテイクアウトのでっかい鶏の唐揚げをお供にすることが多い。ビアボールは流行らないまま廃れてしまった。ここでも不満の表明をしているしそりゃそうだ。

摂取アルコールが低かったおかげでスタバにいくことに成功する。スタバ帰りに氷結を飲んで、帰宅してから『Sunny』を読む。

『Sunny』には胸を突かれる。前読んだときにもそうだったけど、これほど悲しいを喚起する作品をほかに知らない。爆発する感覚がある。破裂するではまだ弱い。

悲しい気持ちがなかったらこれほどまでに美しいものは描けないし味わえないんだろうから、それを味わうこと味わわせることによって悲しい気持ちに位置を与えている。この爆発する感覚を内燃機関にすることができたらということを思うようになったのは前回この作品に触れた時にはなかった新しい感覚だ。もしそれができたらかつてないほど遠くまでいけるだろう。

すぐ得をしようとする。外から得た悲しみで距離を稼ごうとするな。さもしいよ。でもSunnyは本当に良いよね。東京ヒゴロもすごく良かったけど、やっぱりSunnyは格別だ。


今日

在宅仕事。一生懸命に仕事できたのはGWのおかげに他ならない。17時半ちょいすぎに家を出てスタバにいく。

黄金週間とはよく言ったもので、これを記す者の胸にもほら、このようにしっかりと輝いております。お互い楽しもうな。

20230501

日記101

 

三角州

昨日

8時過ぎに目が覚める。大江健三郎『戦いの今日』を読んでいるうちに家を出る時間が迫ってくる。時間ギリギリになって慌てて家を出て、LUUPを駆使し近所の児童館まで演劇WS(2日目)に行く。

2日制WSの利点は初日よりは慣れた状態で挑める二日目があるということがある。そしてこの日の発見は、衆人環視の状況でガチガチ状態のときに身体を動かすよりも、さらにもう一段階進んで、声を出すのは難しいというのを身を以て知れたということだ。脚本を読むということを、明らかに負荷がかかりすぎている状態でするのは厳しいものがあった。慣らしていかないとどうにもならない。客観的にだけでなく、主観的にもかなりひどい体たらくだった。本当にもう懲り懲りだという感じだったが、何よりつらいのは、この惨状をどうにかこうにか通過したのに3日目がないことだ。一番つらいところを抜けたあと、まあ飲みに行けたのは楽しかったが、挽回の機会がないというのがどうにも残念だ。

頭が動かない状態で口を動かすと自分が自動機械になったような気がする。現実感がないというか、普段の生活においては普通に感じられるフィードバックに対して感覚がなくなり、ふわふわと宙を浮いているような気がする。

演劇のWSはただ参加すればそれでいいやと思って何も準備していかなかったが、できるだけセリフを入れていけばよかった。すくなくとも二日目にはそれができたのにやらなかったのは合理的ではない。全乗っかりでやるというのは基本方針だったが、自分のやり方でやるということをしないかぎりは楽しくならないという当たり前のことを知った。自分のやり方でやる・その準備をするということをやって、しかもそのやり方を捨てて全乗っかりにシフトするということをやって丁度いいのだと思う。経験のある俳優が彼らなりの準備をしてきて、経験のない自分が何の準備もしていかないのは、これはもう非合理を通り越してしまっている。

いや、よくよく考えれば必要な準備をやっていかないというところから経験のなさが始まっているというだけの話だ。

WS後の飲みでは俳優たちと話ができてたのしかった。憧れを持っている俳優を目の前にして、すごいと思った感想を言うというつまらないことをしてしまって言いながら後悔だったが、酔いもありつまらない口を利くのを全然止められなかった。慣性のようなものが働いて、もうどうにでもなれという破れかぶれの言をいたずらに重ねていった。そんなことをしたいわけではないのに、べつに阿ったつもりはないしまさかそう受け取られもしないだろうけど、何を楽しいと思うかとか、どんなお笑いが好きかとか最近読んだ本でなにが面白かったかとか、もっと話すべきことはあったのに、せっかくの機会を台無しにしてしまったと慚愧に堪えない。

そのときに思ったことを言っただけだと開き直っていいことなのだが、何かもっとうまくやれたはずだ、場に対して貢献することができたはずだ、あんな微妙な表情をさせずに済んだはずだという自恃心からくる後悔だ。もし同じ機会があればどうせまた同じことをするだろう。

自分のコミュニケーションのとり方を見直さないといけないと思うきっかけになった。まあ緊張していたからとか言い訳は立つのだが、テンポとか相互理解とかに重きを置きすぎている。どうでもいい相手であればそれでもかまわないが、どうでもよくない相手に対してもそれしかできないのであれば、どうでもいい相手であれば云々とか眠たいことを言っていてはいけない。

「どうでもいい相手/そうではない相手」と区別をつけるようなやり方は、どちらに向けても良い結果をもたらさないだろう。面白い小説と面白くない小説があるというふうに、評価して目前の人に向き合うのも、たんにそれが失礼だとか、どんな人にも面白いところがあるはずだという考え方とはべつの、もっと根本的な考えのあり方の面で自分にとって必要ない天井を設けるようなものだ。ラクしようとして簡単にトクしようとしても駄目だ。

たとえば文章を書くことをとっても、作品のための文章制作と日記のための作文と仕事のメールを書くときの文章作成とをそれぞれべつものと捉えて、仕事のメール文章をいいかげんに書くということをしていては全然駄目になってしまうのではないかということを最近思ったのだが、それと同じで、人によって対応を変えるということをしていてはくだらない時間が増え、結果くだらない人間そのものになってしまうということを思った。メール文もそれに記名しているということを重く見て、不完全な作文でもべつにいいやという舐めたことをやらないようにしないといけない。どうでもいい相手とかいないんだよ、ということを信じられるようになるのを待っている時間はないから、とりあえず、どうでもいい相手であったとしても、そうとしか思えない相手に対しても、もっと緊張感をもって接見する必要がある。慣性に逆らうのは難しいし、切り替えは簡単にできないという自分の性質を顧みて、少しずつでも変化していくよう舵を切る。

これはその通りだと思う。相手も自分も、とくに自分にとっては時間が限られているということを思って、ある程度緊張感を持って人と会うこと。そうでなければやっぱり本を読まないと。


今日

在宅仕事。わりと働き詰めて18時まで。途中週に一度のラジオ「サンデーナイトドリーマー」を聴きながら洗濯物を干したり昼ご飯を食べたりする。サンドリ以外のお笑いコンテンツ、ラジオ・テレビ・動画を断っているのもあってか面白くてしょうがない。お笑いを断っているのでこれはもう当たり前だが、ツイッターも見ていないしインスタグラムも投稿専用のアカウント以外開かないようにし始めたことの効果が出始めたような気がする。黙っているとき、受容のために頭を働かせていた分が脳内会話をする分に回され始めた。今のところ目覚ましい面白さはないが、この時間をとることのほうが面白さを受容するよりも自分にとって意義のあることだと感じられ始めてもいる。

最近はランジャタイのラジオが面白くてたまらない。「…ブタクソ!」と間をあけて怒鳴るところで吹き出してしまった。電車のなかで吹き出すと周囲に不安な気持ちを抱かせてしまうことになるので気をつけないといけないのに。

具体的には、最近起こった出来事、つまり昨日一昨日のWSを振り返る時間になっている。「あー」とか「うう」とか「ぬう」とか気がつかないうちに発声してしまうことも非常にしばしば起こったと思うが、得た経験を構築して塔状の物体をつくりあげようという試みにそれは欠かせないプロセスであるように思う。言葉にならない呻き声がほとんどだったが、意味のある言葉として一番聞かれたのは「恥ずかしい」だった。それを耳にして「恥ずかしい」と思うなんて恥ずかしいと思ったりもした。単純な相殺手順だが、この手のよくあるちょっとした苦痛に対しては有効なのだろうと思う。

神経質のため、皮膚のささくれなどを剥いてしまうのをやめられない。

『戦いの今日』を読み終わる。一気に読むべきところを一気に読まずに途切れさせたせいか、気持ちの流れについていけなかった。

もちろんどんな話だったか覚えていない。きれいさっぱり忘れてしまっている。梗概に触れればさすがに思い出すだっろうとは思うが、ちょっと心配でもあるし、わざわざ思い出さないでもいいやと思うのであえて触れないようにしておくが。

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