20230418

都会生活のこと


先日、友人が関西から東京に遊びにきた。その友人は仕事を辞めたばかりで、これからの身の振り方に悩みを抱えているようだった。悩み相談に乗るという柄でもないし、物質的生活上のアドバイスなどは逆立ちしても出てこないので、最近のお笑いはどんなのをチェックしているか、動画はどんなのを見ているか、というわれわれには重要だがとくに中身のない会話に終始していた。それでも隙間を縫うようにして、俺だったらこうするという言い方で東京に引っ越すことをそれとなく勧めてみた。そのなかで都会生活は良いと思うんだよという話をした。

友人は人混みが嫌いだという通り一遍の反応を示しただけで、将来の東京行きをほのめかすということさえなかった。都会生活が良いという私の話は宙に浮いたかたちになり、友人が関西に帰ったあともその言葉の意味することは何だったろうと、かえって自分の意見を不審に思うような始末となった。

人のことや、いろんな問題をいちいち取り上げないでよくなるというのが都会生活の醍醐味だという気持ちはたしかにある。背負っている荷物が軽くなるような方向に働く力があってその恩恵に預かれるということだ。ようするにもっと不真面目になれという話で、とにかくリラックスしろというところにしかこの話のポイントはない。負担を軽くして本来自分が取り組むべき仕事に取りかかれということを言いたいのだが、一息でそこまで言おうとすると言い過ぎになる。誰しもが取り組むべき自分本来の仕事を持っているわけではないからだ。

人が多い場所には落ちている幸運の数も多いということは都会生活をすすめる大きな要素になる。幸運を拾った後どうするかは自由だが、幸運を拾えないままでいるとそれを追い求めるためにすべてが費やされることになる。自由を享受するためには自分が必要とするだけの幸運を拾いきらなければならない。それなら、それがたくさん落ちている場所を探したり、一時的にであれそういう場所に身を置いたりするという選択は正しいものであるはずだ。

幸運をつかめるかどうかというのははっきり言って運だが、それをつかみやすい場所に移動するということは比較的簡単にできる行動だ。難しいけれど効果的な行動は他にもたくさんあるかもしれない。しかし難しい行動というのは得てして実行することが難しい。とにかく自分にとって簡単なことから実行に移すのが幸運をつかむためのコツだ。

そういうわけで、東京行きをすすめるというのは自分の中では筋が通っているし、自分を離れて考えてみても理にかなったことだと思う。それでも、都会生活をすすめたときに自分自身に跳ね返ってきた宙ぶらりんの感覚はぬぐえない。むしろその存在感がどんどん大きくなっていくような気さえする。

人混みが嫌いだとか、忙しいようなイメージが合わない気がするというのは端的に慣れの問題なのでどうにかできる事柄だ。自然がたくさんあるところに住みたいという願望にしても、じつは地方都市より東京のほうがかえって緑豊かなぐらいだ。東京にはたくさんの公園があるというのは住んでいる人以外には知られていないことかもしれない。

人にせよ物にせよ、システマチックに流れていくことが都会生活のいちばんのメリットだといえるかもしれない。私自身、その部分にもっとも恩恵を受けている。煩わしいことや不快なものに向き合う必要がなく、そういったマイナス要素にいちいち思い煩うことなく、つねにリラックスできる環境が用意されている。いつでも雨風をしのげるし、耐えられないほどの長時間暑い思いや寒い思いをしなくても済む場所にいるということ自体、気持ちが楽になる。その気になれば快一色で暮らしていける環境にある。不快さだけでなく、痛みや苦しみから遠く離れて暮らしていけるというのは昔で言う極楽の概念に近いものだと思うが、まさにそういった環境が大した苦労なく手に入るというのが、私の置かれている状況である。これは私が特別な境遇にあるということを意味しない。たしかに私は幸運だが、このぐらいの幸運は自分をそこに方向づけるだけで難なく手に入るものだ。運には個人差があるので、不運な人からすれば心中穏やかでいられない悔しい意見かもしれないが、実際のところ、この意見というのは東京ではそこまで偏った考えではない。個人は各々が抱える問題を抱えているし、その問題を解消したり解消できないまでも対処したりすることが必要だから、こういうことはどんなときにも一概には言えないことではあるのだが、それでも、今世界中を見渡してみてここまでイージーな場所は他にない。いろいろな分野が斜陽になってきているということを加味しても、まだまだそれは覆らない。落ちるにしても、急激に衰退せず、ゆるやかな降下ラインを維持できている。どんな場所からでも歩いてすぐの場所にコンビニがあってそれが24時間営業しており、深夜に急に酒が飲みたくなったとしても大した危険もなく酒を買いに出られて飲みながら帰るということができるような場所はさすがに他にないだろうと思う。

自分が拾った幸運に味をしめていて、自分がいるこの場所がこれほどいい場所だと語る人間がいることひとつとっても、ここが良い場所だと示せるはずだ。

まったく言い訳の効かない環境に身を置きながら自分自身としてのピークを迎えられているのだから、何であれ最大限楽しまないではいられないし、何らかの活動を躊躇せずやっていく必要がある。私は、誰もがこの私のように生活できるようになればいいのにと考える芯からのオプティミストだが、それでも、それを支える土台というのは大勢のひとを収容するにはいかにも稀薄で薄氷のように薄っぺらく心もとないということも一応理解してはいる。今のこの私にとってベストであるとも考えられるシステマチックなこの環境は、儚い現実であるにすぎないのだろう。

ついこのあいだ、出勤するため早朝の渋谷を歩いていると鳩が二羽道路で潰れされているのを見た。足を止めずにそのまま横断歩道を渡って改札をくぐり乗り換えの電車に乗ったが、以降の通勤時間は気分がすぐれず、鉄道路線ではかなり頻繁に人身事故のアナウンスが流れていることなどを、さっき見た二羽の鳩といっしょに思い出したりもした。そういうときに受けた厭な印象というのは、その都度、大した労力を払わないでも流されていったことを考えた。いつまでもひとつの事故に固執しないでもいいということ、誰かによって処理され流れていくこと、それが都会生活のいちばんのメリットなのだということを考えないではいられない。しかし、それもすぐに考えないでも良くなる。潰された鳩を見て気分が落ち込んでも、会社に着く頃にはその出来事自体を忘れて気分は回復したし、そんなふうにすぐ調子を取り戻せるということは、実際に気分が悪かった電車内でも想定できるような「わかりきったこと」だった。

現実感を回避できる経路が豊富に用意されていたり、衛生的でないものを自動で排除できるような仕組みの上に立って、現実が持ち出す快を享受している。そうやって得られたものを私は代えがたいものだと感じるし、誰しもその快さを受け取るべきだと考えている。私がそう考えるのは無理のあることではないし、むしろ自然なことだと思うのだが、こうやって意識にのぼってくると不審にも思える。足元に地獄があることを知っていながら極楽状態でいられるのはおかしい、何かが変だという感覚に近いのかもしれない。だからといって「地獄にも目を向けろ」ということは口が裂けても言わないし、頭が割れても思わない。あのとき、あっと思った一瞬に、鳩が潰れている光景を見ようとしたのは間違いだった。


そういえば、この前スマートフォンの動画で、猿が蝶の羽根を咥えながら唇だけを器用に動かし蝶を弄んでいる様子をカメラで撮った映像を見た。器用に蝶を弄んでいる箇所だけを切り取った編集で、そこだけがループする動画になっていたため、そのあと蝶がどうなったのかはわからないが、遊んでいる猿が遊ばれている蝶にある種のシンパシーをおぼえている様子は見受けられなかった。咥えられているほうとは反対側の羽根は部分的に破られ、近くにその破片があったからだ。状況から察するに、猿の遊びの過程で羽根が千切れたものだと思われる。猿は猿の顔をしており、そこに悪意のようなものは見受けられなかった。それだけに醜い、猿そのものというような顔だった。なぜこんな見たくもない映像が流れてくるのかわからないが、これは明らかにシステムの不備だ。この手のイレギュラーな事態をおそれて都会生活を回避しようというのであればたしかにと納得する部分はある。

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