20230403

【近い】について

近いと思えるかどうかにすべてが懸かっている。

何を近いと思うか、それは問題ではない。対象は何でも良い。そして誰が近いと思うか、それも問題ではない。近いということについて考えるとき、主語になるのはつねに自分だ。近いということについて考えるとき、登場人物は自分と対象しかなく、主語は省略できる。

自分というのはこの自分しかありえないわけだから、ここで対象について云々するのはナンセンスだ。自分があってはじめて対象があるのであってその逆ではありえないからだ。

しかし「近い」ということ、その状態については、自分というものにかかわらず、そして対象如何にかかわらず、取り上げることができる。その上で次のように言うことができる。近いと思えるかどうかにすべてが懸かっている。

もっとも近接することのできる何かにどこまで近接することができるかというところに価値のMaxがある。何かに接近するとき便宜的に使われる距離という概念は、じつのところ大して重要ではない。近接することを追求する過程で微差になり、結局は錯覚といえるほどの誤差になるからだ。

物理的な距離はまったく重要ではない。その距離の詰め方ではすぐに限界がくる。重要なのは、つまり重要といえる分だけ詰めていけるのは精神的な距離のほうである。そして精神的な距離というとき、その内実を正確に言い表そうとする意思そのものに距離という考え方は反していく。距離を小さくするというアプローチでは近いという状態にたどり着くことはできない。

近いということの価値はそうであるというところにはない。そう思うというところにある。しかし、このことを性急に「事実にはなく想像にある」とは言わないでおく。そういう問題ではないからだ。近いと思えるかどうかはそれぞれの主語にとって何よりも大きな事柄である。それを事実ではないと言うことは不可能だ。

本当は近いと思いたいだけなのに、近いと思うためには物理的に近づくしかないとしか思えない人がいるとすれば、その人はかなり低いところに限界を持っているということになる。物理的な距離を少なくするという働きかけをいくら重ねても、どこかの段階で近いと思わなければ近いということにはならない。そして物理的に近づくということは、多くの部分を偶然に左右されながらもかなり簡単にできてしまう。

大まかに見たときには、物理的に近いということは重要である。重要というよりは前提条件といってもいい。しかし、近いということについて「より近く」と追求する過程では条件に左右されない部分をも細かに見ていくことになる。


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