昨日
仕事終わりに家を飛び出して渋谷まで映画を見に行く。先にゆで太郎で腹ごしらえをする。昔ゆで太郎に感じていたうまい蕎麦の店という印象は思い出とともにひとり歩きしどんどん期待が膨らんでいったのか、今回の訪問の結果、また行きたいと思う店ではなくなったのが残念だった。
最近もゆで太郎が昔ほど美味しく感じられない話をした。
映画は、面白いらしいという噂を聞きつけて、当初はスルーするつもりだった『Air』を見た。
マット・デイモンとベン・アフレックのコンビがとにかく笑いながら映画を作ったんだろうなという製作時の雰囲気の良さが感じられるような映画で、昔テレビ番組であったようなNGテイク集を見てみたいと思わせられた。とくに監督も助演もつとめたベン・アフレックがシュードッグの役をやっているのがやりたい放題の感があって可笑しかった。とはいえ人物評価の微妙なニュアンスは海を超えてまで伝わってはいないので、必ずしも自分が感じた通りのキャスティングではないのかもしれないが、イメージでは反骨精神とか言いつつ基本的には陽気なアメリカン・ドリームを体現した成功者ぐらいのところで落ち着いているので、やっぱりベン・アフレックが合う。とくに黙っているときの、何か考えているようでいてじつは何も考えていないのでは?と感じさせる、絶妙にうっすらとだけ漂うアホ面が、決して下品にならない程度映されていて俳優ベン・アフレックの真骨頂を感じさせる。これを演出した監督は俳優のことがよくわかっていてすごい。
コーエン兄弟の映画も何が良いかといって、ふたりで楽しそうに映画を撮っている絵がこちらから見えて、それでより好ましく見られるというのがあったと思う。マット・デイモンとベン・アフレックのふたりはその関係に近い気がする。今度イーサンの映画があると予告で知ったが、都合か何かでジョエルはいっしょに撮らなかったのかと思って興味が”半減”している。
あと、マット・デイモンはトム・ハンクスのコースではなくフィリップ・シーモア・ホフマンのコースを歩き始めたように見えてとっても好ましい。もともとファンだったがさらに惚れ込んだ。これから全盛期がくるような予感がある。清潔感のある丸いフォルムの中年男が楽しそうに笑うのを見ると、それでしか補給されることのない栄養が補給されるような感覚がある。それをできる朗らかさをもった俳優は男版フランシス・マクドーマンドぐらい貴重な存在だ。
オッペンハイマーでも良かった。インターステラーでも映画をぐっと引き締めていたし、映画の中で効果的に使われる良い俳優だ。
スターについての映画だったのでスターについても考えた。スター性のある俳優というのは、何の役でもできるという技術面を越えて、いろんな役をこなすことでどんどんその人そのものになっていく、当人の本人度合いを深めていくということが共通してある。マット・デイモンがそれまでとはちがう役を演じる過程でどんどんマット・デイモンになっていくのをわれわれは目撃していて、彼がずっと表舞台にいることのありがたさを感じる。各々の時代に往年のスターというのがいるんだろうけど私世代の代表はひとまずマット・デイモンということで良いと思う。
マット・デイモン主演の映画だから見に行かないととまでは思わないところが、そう思わせないところがマット・デイモンの他を絶してえらいところだ。実際、ブラッド・ピットの映画でもレオナルド・ディカプリオの映画でも、それを見に行かないという選択肢はない。マット・デイモンの場合、まあ今回は見に行かないでもいいか、と自然に思えてしまう。道を歩いていてマット・デイモンを見つけたとしてもテンションは上がるけど何が何でも写真を撮ったりサインが欲しいということにはならないと思う。下手をすると「おっ、マット・デイモンだ!」と思いながら足を止めないまである。それでも絶対にテンションは上がるし、テンションが上りながらも足は止めないというのが両立してしまうところにスターとしての凄みがある。
いじってるんだか称賛しているんだかわからないことを書いたけど、画面越しに親密さを感じるというのがとにかくいちばん言いたかったことだ。それはフィリップ・シーモア・ホフマンと同じキャラクター。
映画を見終わって、駅までは我慢したけど駅から家までのあいだでいらない酒を飲んでしまう。完全にMJ熱に当てられてのことで、しかも帰宅後Netflixでラストダンスの一話を見てしまう。この件のように、本来スターにはこういう良くないことをさせるような魔性の力がある。それもスターの持つ力のひとつだと思うが、冷静に考えれば良いものだとは思わない。もちろん、その動作のいちいちに圧倒されるし、感心もするけど、MJには頭が下がらない。えらいものだとまでは感じない。まあ、頭が下がらないのはMDに対してもそうだけど、MDを見ているとどういうわけだかえらいものだという感じはする。
MDって誰だ? 五秒ほど考えた。マット・デイモンのことをMD呼びするのはあまり聞かない。
MJのせいで寝るのが遅れて寝不足になることが確定するなか12時半ごろに就寝。
今日
出勤。酒のせいで頭が痛いなか通勤する。なんでこんなことをしているんだという寒々しい気持ちになりながらの出勤で、相当前夜のMJにやられたのだろうとかろうじての客観視を試みるも捗々しくない。とても天気が良いのにそれにふさわしい爽快感が得られず残念だった。
しかし、早めに到着して朝ごはんを食べると回復した。お腹が空いていて心細い気持ちになることはあるし、食べることで心細さが解消することもある。不調の原因を心に求めないで消化器に求めるのが良い場合もある。自分はとくにそういうことが多いようだが。
それと出勤というのは仕事をするために会社に行くことだから当然嫌なものだがいざ出勤するとそこからは退勤に向けた動きに変わるので出社をピークに徐々に楽になっていく感がある。
仕事で必要だった作業の効率化方法を見つける。それを見つけることで進捗が一気に進んで嬉しい。それまでの作業が盲撃ちのようなものだったことが明らかになることでもそれはあるんだが、そこはそれ、結果オーライの精神とプラマイプラの現実とで冷静に勝ち星とする。
(そう遠くない)昔、エクセルを使えるということを普通にエクセルの操作ができることだと考えていた。
定時に会社を出る。これも今日の成果のひとつだ。通勤経路でもある渋谷でエクセルシオールカフェに入り、日記を書く。そして『不意の唖』を読む。
村の人間、外国兵、通訳が出てくる。意味のあることを小説内で喋るのは通訳だけで、外国兵は言葉が通じないことによって、村人は無口な性質によって、それぞれ「様子」や「動き」だけの表現に終止する。この短編では、言葉や喋りではなく、出来事に語らせることが試みられている。
大江健三郎が引き出しを増やしていったのは実作によってだということを短編から感じ取ることができる。最初から習作といってごまかすなんてナンセンスだ。傑作を書くつもりで書いてだめで、結果的に「これは習作です」というのでぎりぎり許容されるところだろう。