一昨日
夜行バスで奈良に行く。確認不足でバスタ新宿に寄る便なのにわざわざ東京駅で乗車する。久しぶりの夜行バスは寝て起きたら到着というわけにはさすがに行かなかったけど意外と寝られた。京都駅で人が減った後、空いている席に移って小一時間寝たおかげでだいぶ回復した。
8時前にJR奈良駅に到着。三条通りを近鉄奈良駅方面に歩き、途中の珈琲館で朝食をとる。荷物を置きがてら実家に立ち寄る。奈良公園のほうまで散歩に行く。鹿と遊んだり博物館ミュージアムに行ってみたりする。興福寺、猿沢池、奈良町の順路で歩き、昼には子供の頃よく連れられていったうどん屋に足を伸ばし、きつねうどんといなりを食べる。その後JR奈良駅からバスに乗って平城宮跡の手前側まで。そこでちょっと寝転がって休んでから西大寺駅まで歩く。この日は結局、合計で2万5千歩以上歩いた。
うどん屋は「重の井」という店で、店舗が移転する前から通っていた。ジャンプやマガジンが置いてあってきつねうどんを注文してからうどんが出てくるまでの短いあいだでどれを読むかすばやく判断して読んでいた。小学生の時などは立ち読み文化もなかったのでジョジョを初めて読んで「うげえぇぇぇ!!!」と思ったのはこの店でだったかもしれない。五部の無駄無駄無駄無駄だけで一話まるまる費やされる回。いや、それはべつの機会だったか。忘れた。
家の近くの和食料理屋で日本酒を飲みながら晩御飯を食べる。ホタルイカの酢味噌和えに嫌な臭みがなく、今まで食べたホタルイカで一番美味しかった。奈良にもいろいろ日本酒があるということを知った。往馬がとくに気に入った。
いつも近鉄電車に乗って出かけるときには前を通っていた「梁山泊」という店で、父親がサラリーマンのとき先輩に連れていってもらっていたというエピソードを初めて聞いたりした。
今回の帰省では昔の写真を見せてくれるなどして面白かった。覚えていない写真がたくさん出てきて、懐かしいを越えた感覚になった。自分の過去でありながら他人事としか感じられないような断絶があった。それにも関わらず断片的映像のような記憶があるから不思議で面白かった。
人を実家に招くということでこれがそうなのかと自分でもはじめて気づく〈我が家らしさ〉を感じ取れて面白かった。おばあちゃんも元気でいっしょに晩ごはんを食べられて嬉しかった。
近鉄電車で京都まで出て、宿泊させてもらえるようあらかじめ話を通してくれていた京都の家にお邪魔する。ひとりの人間の嗜好に合う物品でだけ構成された室がいくつもあるリノベーションされた3階建てで、自分のなかにある住概念がくつがえされるというか、住居という概念の拡張が起こった。ただ、今回のステイですごい家だと思えたのはこの一年でゆっくり素地が形成されていたからで、いきなり行っても凄さがわからなかったかもしれない。……と思ったがやっぱりこうまで極端だとたとえわからないとしてもわからないなりに凄みは感じるだろう。なかでも階段ごしに見える本棚が素敵で、「本屋に泊まろう」みたいなコンセプト型宿屋の風情があった。住環境としては現実離れしておりフィクションに近いと思った。暮らしにもレベルがあるという当たり前のことをこれまで見たことも聞いたこともない知らないレベルから発見させられた。
居心地良くチューニングされていたりセンスの良いアイテムを並べる感覚等に気を遣われている空間にいることがまったく苦にならないタイプなのでただただ良い時間を過ごすことができた。お姉さんなのだからもうすこし恐縮したほうがいいのかもしれないがかなり寛いでしまった。しかもおみやげを持っていかなかった気がする。だいぶ遅いがこれからはそういうことをしていこう。
昨日
窓の外から祭りの掛け声が聞こえてきて目が覚める。朝食にサラダを作ってもらいウインナーとベーグル、クリームチーズを食べる。村上春樹も真っ青になってやれやれやれやれ連呼せざるを得ないであろう完璧な朝食だった。
かなり淡白に書いてあって驚くが、ものすごく旅のような、旅人が運良くできるような経験としての起床だった。鉦を叩くカンカンという音で目を覚まして、小説が書けそうな具合だったのに、さも普通そうな顔をしてそれらの体験を受け入れていた。普通に受け止めるということを意識し過ぎで、それだけ緊張していたということかもしれない。一応お礼を言って出ていったが、もっと激烈にお礼を言っていいほど良い滞在をさせてもらえた。
一度京都駅に戻り、コインロッカーに荷物を詰めてから地下鉄で四条まで。タリーズで飲み物を飲んでから四条大宮まで歩きシェアサイクルサービスを使って、途中千本今出川にある昔の下宿を経由しながら衣笠までペダルを漕ぐ。二条駅から平野神社までの緩いけれど確かに傾斜している上り坂も電動アシストがあれば全然苦ではなかった。
懐かしさの共有だが、俺が懐かしいと思うだけで京都旅行としては退屈なコースだったかもしれない。それでも今となっては二重に感じられる京都の懐かしさを共有しないわけにはいかなかった。
衣笠では目当ての喫茶店が休業していたので、大学内の学生会館をうろついてすぐ烏丸御池に引き返す。途中、サークルの先輩に教えてもらった丼料理屋「おの亭」に寄って遅めの昼食をとる。ふわふわ卵の親子丼が懐かしかった。昔、下宿でこの親子丼を再現しようとして100円均一の調理器具を駆使して湯煎する方法を試してみたものの大失敗したことを思い出した。まあ、大失敗というほどではなかったけど、全然うまくいかなかった。
下宿の間取りは1Kでアコーディオン式の仕切りでキッチンと居間が区分けされていた。
自転車を返す烏丸御池の近くの小さい筋で、ビルが顔になっている店を見つける。アーティスト志望のデザイナーが店番をしていて、ドイツかどこかにいる「店長」とリモートでやり取りし、商品の値段を確認していた。
オーストリアだかポーランドだかどこにいるのか知らないが、偉そうな態度でダルそうにしている嫌なタイプの経営者という感じだった。客商売なんだから愛想よくしろとはまったく思わないが普通に知らない人に接するように接してくれよ。なんで顎を突き出して傲然としている感じを出すんだ。声しか聞いていないけど完全に顎が突き出ているのが確実だったぞ。
そのあとマンガミュージアムにおもむき、芝生が青々としていること、気持ちよさそうに漫画を読んでいる人たちがいることを外から確認する。時間の都合で中には入らず、そのまま新風館に行く。東京でもあまり見ないぐらいめちゃくちゃオシャレにリニューアルされていて驚いた。館内で目に入る緑の量が本気度を伺わせた。
どうせ長く滞在できないのだからと入館しなかったが、短い時間だったら入館料がもったいないとか言っていないで入館するべきだった。いくらなんでも大学生の感覚のまま過ぎる。
アンティーク家具屋を2,3店舗物色しながら三条通りを寺町の方へ歩く。トルコの有名なファストフードで、クムピルとか言うバターチーズ芋の食べ物を食べる。MOVIXを通過して高瀬川沿いの立誠小学校跡地にある芝生で休憩しレモネードを飲む。警察が女子高生らしき人と数人の男に事情を聴いていてやや物々しかった。
これからくるに違いないとピンときて食べたクルピルだがこれ以来一度も食べていない。何だったら一度も見かけていないし、思い出しもしていない。たぶんこない。
アンジェという雑貨屋に寄ってから市役所前から地下鉄に乗る。烏丸御池でスムーズに乗り換えてふたたび四条へ。京都でのバイト時代によく飲んでいたニュー烏丸で飲み食いする。名物のポテトサラダはいかれたタワースタイルから普通のものに変わっていたし、会計時のしじみ汁サービスはなくなっていたしで、すこし残念だった。ただ二階の座敷に通してもらえて場所の懐かしさは存分に感じたし、あの頃にはまったく想像できなかった今があって同じようにビールを飲んでいるのが面白く感じられた。
値段のことを気にしないで京都にいるということをしたくなかったんだと思う。自分の行動を擁護するわけじゃないが、学生・フリーターとして京都に暮らしていて、そのときの感覚を更新するのがやっぱり嫌だったんだろう。社会人になって小金ができて彼女もできて、ウキウキとあたらしい京都を楽しんでいたという友人にくらべていかにもセンチメンタルだ。
京都駅でおみやげを買い、551で直前で売り切れた豚まんの代わりにシュウマイを買い、飲みながら新幹線で東京に戻った。名古屋あたりから睡魔がきて気づいたら品川だった。
シュウマイは新幹線で食べるには匂いがきついということを知った。知らないこととはいえ、乗り合わせた人たちには申し訳なかった。
家についたのが0時半ごろ。すぐ寝る準備をしてすぐ寝る。
最寄りの駅から自宅までの五分足らずの道のりで「帰ってきた」という感じがたっぷり味わえたので、もはや完全に東京人だと言っていいだろう。
今日
在宅仕事。PCを睨みつけているうちに一日が終わる。定時で切り上げてスタバに行く。『飼育』を読み終わる。ここで終わらせられるというところからさらにもう数歩すすもうとしている。短編でありながら短編から抜け出そうとしているように見えて、芥川龍之介のようなきれいな短編とは別種の良さがある。蓋からあふれ出てこようとしてくるようなエネルギー。
数歩が具体的に何を指すのかまったく思い出せない。こういう書き方をしても思い出せると思って書いているのだろうがそれは間違いだということをこうして気づくことができるだけでも日記を書いている価値がある。ただ、なんとなくの印象としてはおぼろげに思い出せる。それで良いと思って書いたのかもしれない。
岸田國士の『動員挿話』を読む。分量が少ないのもあって劇を感じさせる。暮らしに対置されるような劇で、分離されているようにみえる分だけかえって冷静になってしまう。だから効果として劇的ではないのだけどたしかに劇で、短いだけにうまくまとまっていないという印象を受ける。オチを井戸にするならもっと長く続けてからそうするほうが好みに合う。もしくは一幕だけで終わらせるか。
こちらはのちに演劇ワークショップにてセリフを読むという経験を伴ったのでわりとはっきり覚えている。シンプルで昔ながらのお芝居という印象。
自分の見たいものではないものがあざやかに見えるので文句を言いたくなるのかもしれない。いや、主張は意に沿うのだが、意に沿わない主張を見ているうちにいつの間にかそのとおりだと思わせるだけの力が劇にはあるはずだと思っていて、しかしその逆のことが起こっているから、立場上ちょっと気に入らないんだろう。自分とちかい主張があるように感じられながら、その表現方法が小器用なためにかえって弱く感じられるのが心許ない。
作者のメッセージに向けて立場は違えど協力している書割の人々。それの何が問題なのかということがまだ考えられていない時代の産物だ。それを考えたからといって面白い作品ができるわけでもなし、ただべつの流行のスタイルが隆盛するだけのことだから、書割だろうが自然体だろうがどちらでもいい。