昨日
午前中に『へんなの』の読書会をする。同世代特有の面白さがあるという話になりそれはそうだと思った。たまごっち、ヨーヨー、ミニ四駆と、同年代のひとたちが遊んだ遊びだと思うし懐かしかった。その懐かしさを入口にしてエッセイに入っていけた感がある。いつの間にか『へんなの』を脱線してランジャタイの漫才がなんで面白いのかという話になった。楽しいが前面に出ているからだと思う。「漫才ネタを一日に8回とか無理すぎる、狂気の沙汰だ」というようなことをラジオで言っていたが、たしかにそういう強い漫才をしている。ブルージャイアントの宮本大ぐらい強い、かどうかはわからないけど、少なくとも出し切っている漫才だ。
ザリガニ釣りのことを変わらずに言っている地元の友達まことくんをかっこいいというところに、変わらないことを良しとする価値観があるようにとれる文章があり、ボーイズはそういう純真さを評価する傾向があるよねという話になった。自分が思うのは、何かを好きだという気持ちの表現の仕方がストレートなところに格好良さがあるということで、対象が変わらないというところに価値があると思っているわけではない。まことくんが自分の好きなものに今でも驀進できているところが格好良いと思うので、たとえそれが変わっていっていたとしても同じように驀進できていれば、国崎も良いなあと思うだろうと思う。そしてそういうことを実際しているのが国崎だという気がするから、それを直接言うと自己言及的になって『へんなの』のへんなの部分が埋没してしまう感があるので、それなりの表現になったんじゃないかと忖度した。
あとは浜口浜村の解散後の浜村さんからのメールを「以下略」としてぶった切るところのチャキチャキ感は江戸っ子の粋でしかなく、それをいちいち言うのも野暮ってことになってしまうんだろうけど、あのあたりの手管はとにかく上品で上品で仕方ない。そのまま引用したり要約したりして言ってみても自分が受けたように伝わらないということを知悉していて、「諦めて逃げる」ではなく「積極的に言わない」へと昇華している。
ただ、自分が良いと思ったものを伝えたいという気持ちが強いのは間違いないと思うし、読書会で出た「自分が良いと思ったものを伝えようと果敢にチャレンジしているようにみえる」という意見はその通りだと、クロ・ラッキー・コトラの話を読んで思った。とにかく「全部をこえてやってくる」に集約する力が強い。集中線引きまくりだ。あと、「しょうがないちゃ、うんうんみたいなことを言った」というところを読むと、毎回、外向きエネルギーが溢れ出そうになる。
https://qjweb.jp/regular/57274/2/
あれから一年で国崎は片眉になった。ナンセンスなギャグに見せかけた何らかのメッセージではないのかとつい勘繰りたくなってしまうが、何らかのメッセージに見せかけたナンセンスなギャグといったほうがまだ彼の意に沿うのではないかという気がする。そういう小賢しい意図はなさそうだけど。本当のところはわからない。
前夜しこたま酒を飲んだせいで胃腸の調子がわるかった。それなのに昼間調子に乗ってすた丼を食べ胃を酷使したことで体力が低下したのか風邪のひきはじめのような症状が出た。バファリンを飲んだり温かい飲み物をのんだりしながらだましだまし歩いていたが10000歩ぐらいの歩行でへとへとになった。
千駄木の家具屋を見てから谷根千のいつものコースを歩く。このあたりを歩いているといつも文京区は最高、台東区になったら悲惨、という話を繰り返す癖がある。毎回その話をして毎回聞き流されている。適当に器の店などを物色してから千代田線に乗る。
我ながら文京区のネームバリューにはかなり騙されていると思う。当時の文人達だって当時の条件を踏まえて文京区に住まっていたわけで、今生きていたら文京区に住む謂れはほとんどないだろう。
明治神宮前駅まで行き、これまで入ったことのなかった建物に入ってHAYSを見る。ハイソなカルチャーファニチャーの店らしい。そういうのは好物なのだけど疲れていたのでフルで楽しめず。上階のMoMAストアにしてもなぜこんな長いこと滞在するのかを疑問に思う始末。ただ、HAYSはともかくMoMAのほうはとくに面白い商品はなかった。ただそれらしいものを置いているだけの土産物屋相当だった。
変なギミックの時計が面白かった。どんなギミックか思い出せないけど、LEDを使って良き時に点灯させたり消灯させて時間を表す感じだった気がする。
原宿は店に入るよりも通りを歩いているほうが面白い。胃を労る(いたわる)意味で飲むヨーグルトを飲んだところちょっと復調したので調子に乗って代々木公園に行こうとしたが、頭が痛くなりそうだったので止めにして下北まで帰る。
胃に優しい温かいトマトスープを飲んで早めに寝る。
今日
在宅勤務。あいかわらず忙しい。仕事の進め方について相談しないといけなくなった。打ち合わせでまた時間を食うが、認識合わせをきっちりやっておかないと余計な時間を費やすだけなのでおろそかにできない。
仕事後スタバに行く。いろいろの連絡を済ませてから『ピンチランナー調書』を読むことにする。
2章分読む。『遅れてきた青年』もそうだったがこの小説も、完璧なスムースさを持っていない。読んでいて引っかかりがあったり抵抗感がある。ページを繰る手を止めるほどではないが、止めようとする方向に働く力がある。流れる力と流れをせき止めようとする力の両方があって、物語の勢いを強めているような印象がある。演説の長広舌などはくだくだしく述べられていて(それはカタカナと漢字による読みにくい記述によって強化されている。その見た目奇妙な記述方法に書かれてある内容が翻訳文・宣告文であることを通知する意味があるにせよ)読み進めるのに抵抗を感じる。言われていること・書かれてあることが馬鹿らしく感じられたり、気持ちが論旨から(というよりは文章の流れから)離れていくように書かれてある。その極限とまでは言わないまでも、そろそろ章の残りページ数を確認したくなるような離脱のタイミングを見透かしたように「アホくさ」という文字で中断があるのを見ると、書き手が読み手を想定してそれをコントロール下に置こうとしているのがわかる。そしてそれが成功しているというのも、つい先頃実際に起こった自分の読み方を顧みると明らかになる。面白いというのを技巧がこえていっているといえる。初読だったりあるいはそれに気がつく再読によってその技巧が意識にのぼると感心はするけれど、それ以降に面白さがあるという感じはない。面白さは最前こえていったばかりだから技巧の先には空白しかない。ぽっかり何もない。したがって再読したいという気も起きない。再読したいという気が起きない小説というのは自分の考えでは一段落ちる小説なのでその基準によって考えると一段落ちる小説ということになる。ただ、その基準に照らし合わせるという行為自体が合っているのかというのを疑念も連れてくるように思われる。面白いのと空白との入れ替わりが今にも起きそうな予感がつねにあって、それがつねにあるとすれば(本当につねになのかは検討しなければならないし、もうすこし長いスパンで検討しないといけないように思われるからそういう条件付きになるにせよ)、新しい基準が出来上がってそれが自分の中で幅を利かせることにもなるかもしれない。面白ければそれでいいというのは自分が公然と採用する絶対の基準だとしても、やっぱり直接光を当てて照らしてみると本当にそうかと疑わずにはいられない種類の絶対基準なのだとあらためて思った。読んでいていつもとべつの方向からそう思わさせられた。宇宙に興味を持たないでいてしかも大きな野望を持つという人物の人物造形が理解できる。それはすごいことではないか。
物語ばかり読んでいると宇宙に興味がある人物のことばかり目にするから「宇宙に興味がある」というのがデフォルトになる。そこにきて宇宙に興味がないと言われると、「え? ないの?」とびっくりさせられるという仕組み。