20230405

日記83

日々、 これが本当でない生活だと意識しながら生きてだね、 
もっともそれを意識しているんだから、
自分の本質がそれにおかされることはないと自己弁解しながら、
永くその生活を生きていると、
やはり人間は宙ぶらりんの状態におちいるよ。
おれはそれを経験に立っていうんだ。
もちろんこんなことに経験豊かでも誇ることはできないがな。


昨日

在宅仕事。忙しさが発生して少しだけ残業する。仕事後に夕飯を食べスクワットしたので外出せず。『ピンチランナー調書』を1章分だけ読みすすむ。

その後『ジョーズ』を見る。パーソナルチェアでくつろいだ姿勢で見ている最中、緊迫したシーンで大声での驚かしを喰らう。全然予期していなかったこともあり心臓が打たれたようになった。

ニーチェアという名前のどこか超人的な名前のパーソナルチェアだ。

ジョーズは冒頭でさっそく死人が出るわりに死者の数がそこまで多くないのが意外だった。緊張感を維持するために一番いい犠牲者の数なんだと思う。これより多すぎたら弛緩するだけだろうしこれより少なすぎたら中だるみする絶妙な数だったんだと思う。それでも途中、中だるみしていなくはなかった。オルカ号でのサメとの戦闘は『白鯨』のような雰囲気で面白かった。3人の船員に色があって言い合いするのも語り合うのも、会話がとくに面白い。

酒を飲まずに寝る。ブルージャイアントエクスプローラーを8巻まで読み終える。


今日

昨日に引き続いて小忙しい。が、残業はしないで済まし、仕事後にスタバに出かける。『ピンチランナー調書』を読む。面白い映画でも、それが面白いらしいと聞いているだけでは意味がないというのは、当然のことでありながら大きな字で注意書きされるべき事実だが、小説の場合はその度合いが映画にもまして大きい。あらすじや梗概を見ても意味がないというのは映画における予告よりもなお意味がない。たった2時間のことでなおかつボーッとしていても見終わるものについて予告で決めるのはそれなりに理にかなっていることだが、長編小説の場合はもし失敗すると退屈な時間をもっと多く抱え込むことになりかねないのだからなおのこと慎重に決めるべきだ。

その意味でいまの本屋は本屋の果たすべき役割を果たしているとはいえない。近所のオシャレ本屋に大江健三郎が一冊も置いていないのには閉口した。数多く講演会をひらいて思索的な雰囲気を醸し出すことに血道をあげているようで、俺が思う本好きの嫌なところをていねいに蒸留してその上澄みだけをスプレーして飾りつけたみたいな反・文学の極みのような店だ。メガネを掛けているから知的にちがいないという短慮は面白いし、反・文学はかっこいいと思うから理論的には好きな店のはずなんだけど。本屋に行って(俺の考えでは)当然置いてあるべき、欲しい本がなかったときの苛立ちはいかんともしがたい。

このおしゃれ本屋はB&Bという本屋だ。イベントばっかりやっている。商売だから仕方ないと思うが、本屋は本を商材にしているという当たり前の事実には目をつむりたいようなところがあるし、彼らは彼らでそこに目をつむらせたい意図がある。


昔、たとえば大学生の頃に大江健三郎を手にとっていたらどう思っただろう。今読んで面白いと思うけど昔だったらそうは思えないかも、というたぐいの小説ではないからもっと早くに開くべき扉が開いただけという気がする。

ただ今よりもっと真面目に読んだだろうなと思うから、読んでいても笑顔になれなかったかもしれないというのはある。陰惨な場面も多いけれど、それとバランスをとってというのではない自立した笑えるシーンがところどころあるのが良さだろうから、そういうのを読み飛ばし、勢い込んで真剣になって「感動」する危険はあると思う。

いや、今も当然「感動」しているんだけど、昔だったらもっと感動して、感動しているときに特有の麻痺から自由になれなかったはずだ。結局、べつの場所で麻痺していたからそれがわるいとは思わないけど。

当時読んで感動した小説にはこれ以上無理なほど感動させられたけど、今読み直そうとは思わない。そういうことがひょっとすると起こって、今やれているように笑っては読まないという結果になっていたかもしれない。

それにしても漱石は何度も読み直しているし、大江でもそういうことは起きる可能性はある。めちゃくちゃ面白いし絶対に読まないではいられないと思っているが、漱石のコースをたどるのは正直ちょっとなさそうな気もする。そもそも漱石、チェーホフ、カフカ以外でそんな位置につける作家はないのかもしれない。ドストエフスキーもカミュも夢中になったけどおそらく駄目。この場合、とくにカミュなんかは夢中になったから、と言ったほうが適切か。ピンチョンは笑えるしまた読み返すのは決まっているのでひょっとするとあるかも。大江健三郎はたとえば『芽むしり仔撃ち』『遅れてきた青年』は読み返すことはなさそう。たとえばとか言ってるがその二冊と『万延元年のフットボール』しか読んでないからまだまだ全然これからなんだけど、今の時点ではそのようなことを思っている。

一般に、何度も読み返す作者の数は3人が限度である。そのように読むときの読むレベルを下げれば数を増やせるかもしれないが、その場合、読書全体が台無しになるおそれがある。

読書にとってもっとも大切な部分を毀損するようなことをしてまで読書する理由などない。

そんなんじゃ台無しにならねえよ、という意見には耳を貸す余地はある。

最終的には何度も読み返す作者の人数をひとりにするのがそれぞれの目標なのに間違いない。


そうやって書くしかないというのがわかる文章は、どんなふうに書かれてあってもすっと読めるし、すっと入ってくる。

本を読むことでそれを書いた人を知り、書いた人を知ることでさらに進んで読むことができる。その過程でそうやって書くしかなかったんだということがはっきりわかるようになる。

ブログ移行のお知らせ

当ブログ だから結局 は、Wordpressに高い月額利用料を払い、以下のURLに移行することになった。 だから結局 ぜひブックマークして、日に何度もチェックをお願いしたい。