20230403

日記82

 

半値で売られるゴールドクレスト

昨日

昼間に出かけて昼飯を食べる。駅隣接の中華料理屋は意外とリーズナブルかつ客もぼちぼちで、これからも使いやすそう。

歓迎という蒲田にある中華だが結局あまり使っていない。王将のほうがよく行くようになった。

酒を飲みながら帰る。ブルージャイアントシュプリームの10巻11巻を買って帰って読む。長めの昼寝をしてから読書会をする。たけのこの里を食べながらの読書会が終わったのは19時頃だったのだが、たけのこの里のせいでお腹が減らず、食べようとしていた昨日のカレーが食べられない。ほどではないにせよお腹空いて食べるほうがおいしいという意見が出たので夜の散歩をしにいく。薄着で出たところ寒すぎたので一度家に引き返し、二枚ほど追加で着て再度出かける。ブルージャイアントシュプリームの話をして盛り上がる。出かけたついでということでブルージャイアントエクスプローラーの1巻2巻を買う。


『21世紀の道徳』については、動物倫理にあらかじめ興味がある人間が議論で陥るとされているポイントの解説、議論の交通整理が主になっていて、なぜ動物倫理が必要なのかの説得部分がなかったという意見が出た。自分としては動物倫理の考え方にせよ寄付の考え方にせよ、理想としては推進するべき(現実に可能不可能は置いておいて)という意見を持っていてかつそれを疑うことがなかったので、動物食は維持したい(維持されるべき)という主張について考えたことはなかった。ヴィーガンに関心を持って出た意見だったと思うが、本書の中で直接ヴィーガンについて触れてはいないにせよ、それが支持している動物倫理上の考え方についても書かれていない。つまり動物倫理という社会が真剣に考えるべき要素があり…、と言いつつなぜそれを考えるべきかについては書かれていないということになる。

寄付については、それを「やる/やらない」について突き詰めると最終的には「理」ではなく「情」に依ると思う。それで「やる」となったらそこではじめて「理」の出番になって、「どこにどういう配分で」という問題に取り組むことになるのだと思うが、「私は一気通貫で「情」でやります」と宣言する「情」の人がいてしかも彼が強い影響力を持っていた場合、切り替えさせるのはそれなりの困難を伴うのではないかと思う。「「情」ではなく「理」で動いてください」というアドバイスに従った彼が考え直し、結果的に「やらない」に振れることも考えられるのではないか。何でもかんでも仮定できるし考えられるといえば考えられるので、程度問題にはなるだろうし、曖昧な言い方でしかないけれど「それなりになくはない話」ではないかと思う。「生兵法は怪我のもと」とは言わないけども、やっぱり注意して話をすすめるに越したことはない。影響力のある人について影響力があるという理由である程度は賢明だろうと考えるのは危うい。

主権者のことを理性的だろうと考えるのは間違いだ。理によって説こうとした多くの賢者たちは彼らの感情的な横暴によって首を刎ねられてきた。主権者が昔ながらの「ひとりで独裁(できるもん)」ではなく大勢の吹き上がりだったとしても起こることは同じだ、というのは粗雑すぎるストーリーだろうか。


ブルージャイアントシュプリームを久しぶりに読んだけどやっぱり良かった。作者の表情の描き方が素晴らしいというのは本当にそうだと思う。「俺は俺の音を一番に考えたい」という言葉に対して3人ともが「それは自分もそうだ」と言っていたのがよかった。

散歩から帰って食べたカレーがすごく美味しかった。思った以上に作戦がうまくいった。そのうえ比較的早めに寝ることにも成功した。昼寝もしたのに簡単に寝付けてよかった。

春の夜にする散歩は素晴らしいものになることが多いが、この日の散歩はとりわけ素晴らしかったように記憶している。


今日

在宅仕事。新年度のスタートは弛緩したものになる。仕事後すぐにスタバに出かける。『ピンチランナー調書』を読む。最初の一文から良い。重ね合わせについて書かれた以下の文章を読むと、実際に重ね合わせが起こる。読むときに起こる奇妙な事態について書かれてあることが重ねて奇妙に思える。


他人の言葉にちがいなく、それを他人が発した情況も覚えているのに、あれこそは自分の魂の深奥から出た言葉だと感じられる言葉。もっとも言葉がふたりの人間の関係の場に成立する以上、自分の存在こそ、他人の言葉の真の源泉たることを主張しえぬはずはない。

 

大江健三郎『ピンチランナー調書』



『へんなの』を読んで思ったことでもあるのだけどシンプルでいけるならシンプルで良い。シンプルでいけないときだけシンプルをちょっとのあいだ下げておいて色々やってみて、そこを越えたらまたシンプルに戻ればいい。つまり大事なのはシンプルを下げたり上げたりすることで、一貫性をもたせることではない。一貫して〇〇というやり方は一見シンプルなようだけど、無理も多いし、無理なのに無理に無理ではないようにする過程でどんどんシンプルではなくなっていく方法だと思う。人に何かを喚起したいときに一貫して〇〇というスタイルを選ぶと耳目を集めやすいのだろうけど、人に何かを喚起したいという考え方はあまりシンプルなものではないし、結局のところ持続しない考え方で、十分長いスパンで見れば「弱い」と言ってしまっていい。今より先の時代では「注目して!」と言うことの価値は下がっていく一方だろう。

とにかくできるかぎりシンプルに言うことを心がける。今までもシンプルに言おうとしてきたと思うからその調子で。でも「できればもっと」と思いつつ。それも思ってきたことだからやはりその調子。

誰かについて賢いと思うのは、書かれた何かについて賢いと思うことから始まっている。誰が喋っていても調子の良さから痛快に思うことはあっても賢いと思うことはない。正確には、その場では賢いなと思っても、それが自分が見聞きした賢いの一例として蓄積されていくほどにはならない。賢いという湖には、素晴らしい大量の水がすでに十分注ぎ込まれていて、よっぽどのことがないかぎりそこに滲み込んでいく余地がない。だが大江健三郎もそうだったように、ある一群の文章を読むと、こんなにもスペースがあったのかと驚くほどすいすいと湖に吸い込まれていく。


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