20230428
日記100
20230427
日記99
昨日
仕事終わりに家を飛び出して渋谷まで映画を見に行く。先にゆで太郎で腹ごしらえをする。昔ゆで太郎に感じていたうまい蕎麦の店という印象は思い出とともにひとり歩きしどんどん期待が膨らんでいったのか、今回の訪問の結果、また行きたいと思う店ではなくなったのが残念だった。
最近もゆで太郎が昔ほど美味しく感じられない話をした。
映画は、面白いらしいという噂を聞きつけて、当初はスルーするつもりだった『Air』を見た。
マット・デイモンとベン・アフレックのコンビがとにかく笑いながら映画を作ったんだろうなという製作時の雰囲気の良さが感じられるような映画で、昔テレビ番組であったようなNGテイク集を見てみたいと思わせられた。とくに監督も助演もつとめたベン・アフレックがシュードッグの役をやっているのがやりたい放題の感があって可笑しかった。とはいえ人物評価の微妙なニュアンスは海を超えてまで伝わってはいないので、必ずしも自分が感じた通りのキャスティングではないのかもしれないが、イメージでは反骨精神とか言いつつ基本的には陽気なアメリカン・ドリームを体現した成功者ぐらいのところで落ち着いているので、やっぱりベン・アフレックが合う。とくに黙っているときの、何か考えているようでいてじつは何も考えていないのでは?と感じさせる、絶妙にうっすらとだけ漂うアホ面が、決して下品にならない程度映されていて俳優ベン・アフレックの真骨頂を感じさせる。これを演出した監督は俳優のことがよくわかっていてすごい。
コーエン兄弟の映画も何が良いかといって、ふたりで楽しそうに映画を撮っている絵がこちらから見えて、それでより好ましく見られるというのがあったと思う。マット・デイモンとベン・アフレックのふたりはその関係に近い気がする。今度イーサンの映画があると予告で知ったが、都合か何かでジョエルはいっしょに撮らなかったのかと思って興味が”半減”している。
あと、マット・デイモンはトム・ハンクスのコースではなくフィリップ・シーモア・ホフマンのコースを歩き始めたように見えてとっても好ましい。もともとファンだったがさらに惚れ込んだ。これから全盛期がくるような予感がある。清潔感のある丸いフォルムの中年男が楽しそうに笑うのを見ると、それでしか補給されることのない栄養が補給されるような感覚がある。それをできる朗らかさをもった俳優は男版フランシス・マクドーマンドぐらい貴重な存在だ。
オッペンハイマーでも良かった。インターステラーでも映画をぐっと引き締めていたし、映画の中で効果的に使われる良い俳優だ。
スターについての映画だったのでスターについても考えた。スター性のある俳優というのは、何の役でもできるという技術面を越えて、いろんな役をこなすことでどんどんその人そのものになっていく、当人の本人度合いを深めていくということが共通してある。マット・デイモンがそれまでとはちがう役を演じる過程でどんどんマット・デイモンになっていくのをわれわれは目撃していて、彼がずっと表舞台にいることのありがたさを感じる。各々の時代に往年のスターというのがいるんだろうけど私世代の代表はひとまずマット・デイモンということで良いと思う。
マット・デイモン主演の映画だから見に行かないととまでは思わないところが、そう思わせないところがマット・デイモンの他を絶してえらいところだ。実際、ブラッド・ピットの映画でもレオナルド・ディカプリオの映画でも、それを見に行かないという選択肢はない。マット・デイモンの場合、まあ今回は見に行かないでもいいか、と自然に思えてしまう。道を歩いていてマット・デイモンを見つけたとしてもテンションは上がるけど何が何でも写真を撮ったりサインが欲しいということにはならないと思う。下手をすると「おっ、マット・デイモンだ!」と思いながら足を止めないまである。それでも絶対にテンションは上がるし、テンションが上りながらも足は止めないというのが両立してしまうところにスターとしての凄みがある。
いじってるんだか称賛しているんだかわからないことを書いたけど、画面越しに親密さを感じるというのがとにかくいちばん言いたかったことだ。それはフィリップ・シーモア・ホフマンと同じキャラクター。
映画を見終わって、駅までは我慢したけど駅から家までのあいだでいらない酒を飲んでしまう。完全にMJ熱に当てられてのことで、しかも帰宅後Netflixでラストダンスの一話を見てしまう。この件のように、本来スターにはこういう良くないことをさせるような魔性の力がある。それもスターの持つ力のひとつだと思うが、冷静に考えれば良いものだとは思わない。もちろん、その動作のいちいちに圧倒されるし、感心もするけど、MJには頭が下がらない。えらいものだとまでは感じない。まあ、頭が下がらないのはMDに対してもそうだけど、MDを見ているとどういうわけだかえらいものだという感じはする。
MDって誰だ? 五秒ほど考えた。マット・デイモンのことをMD呼びするのはあまり聞かない。
MJのせいで寝るのが遅れて寝不足になることが確定するなか12時半ごろに就寝。
今日
出勤。酒のせいで頭が痛いなか通勤する。なんでこんなことをしているんだという寒々しい気持ちになりながらの出勤で、相当前夜のMJにやられたのだろうとかろうじての客観視を試みるも捗々しくない。とても天気が良いのにそれにふさわしい爽快感が得られず残念だった。
しかし、早めに到着して朝ごはんを食べると回復した。お腹が空いていて心細い気持ちになることはあるし、食べることで心細さが解消することもある。不調の原因を心に求めないで消化器に求めるのが良い場合もある。自分はとくにそういうことが多いようだが。
それと出勤というのは仕事をするために会社に行くことだから当然嫌なものだがいざ出勤するとそこからは退勤に向けた動きに変わるので出社をピークに徐々に楽になっていく感がある。
仕事で必要だった作業の効率化方法を見つける。それを見つけることで進捗が一気に進んで嬉しい。それまでの作業が盲撃ちのようなものだったことが明らかになることでもそれはあるんだが、そこはそれ、結果オーライの精神とプラマイプラの現実とで冷静に勝ち星とする。
(そう遠くない)昔、エクセルを使えるということを普通にエクセルの操作ができることだと考えていた。
定時に会社を出る。これも今日の成果のひとつだ。通勤経路でもある渋谷でエクセルシオールカフェに入り、日記を書く。そして『不意の唖』を読む。
村の人間、外国兵、通訳が出てくる。意味のあることを小説内で喋るのは通訳だけで、外国兵は言葉が通じないことによって、村人は無口な性質によって、それぞれ「様子」や「動き」だけの表現に終止する。この短編では、言葉や喋りではなく、出来事に語らせることが試みられている。
大江健三郎が引き出しを増やしていったのは実作によってだということを短編から感じ取ることができる。最初から習作といってごまかすなんてナンセンスだ。傑作を書くつもりで書いてだめで、結果的に「これは習作です」というのでぎりぎり許容されるところだろう。
20230426
日記98
20230425
日記97
昨日
スタバからの帰りに酒を飲もうとすると、唇が荒れていたせいでアルコールがしみた。缶の飲み口から飲むのが苦痛だったので二本目を買ったスーパーではストローをもらう。
話には聞いていたスタイルをはじめてやってみたがアルコール摂取感があって気分が上がった。
帰ってから料理されたポトフをいただく。横着して猫まんまのスタイルにしたのを咎められる。作った手間を無にするとは言わないまでも無下にするような食べ方で怒るとしてももっともだと思うから申し訳なかった。
食文化から見た野蛮人ではないか。あらゆる文化からみて幼稚園児ではあっても野蛮人ではないようにしたい。
男は寂しくなることがあるという話をちょっとする。自分は寂しくならないほうだと思う。よく孤独耐性があるというような言葉遣いを耳にするし、とくに考えもなしに自分も耐性があることにしてきたが、考えてみるとそういう話でもなさそうだ。寂しいということがわからないという感覚に近い。たとえば仮定の話として家族がいなかったとしたらだとか恋人がいなかったとしたら友人がいなかったとしたらということを想像してみようとするが、それもうまくいかない。いないとしたら寂しいかもしれないが、でも実際にはいるわけで、良かった有り難いという考えがぴったり付いてくる。想像力がないというのが近いのかもしれない。実際の今ここ、この自分というものから離れることが難しいとも言えそうだ。
安易な想像を働かせて同情心を起こすのが失礼だという気がする。自分は人に同情心を起こしやすいほうなのでそのことで失礼にならないよう気を張っているところがある。
あと、自分にはかなり恵まれた幼年時代があって、その財産が今も太陽ほどの強さで自分のつま先から頭頂までを照らしつけているのだと思う。自分はここにいて安心なんだ、ここには楽しいことがたくさんあるという感覚は、思い出せるかぎりずっと、いや、思い出せないほど先までずっと続いている。それもあって、心配の解消というかたちでの喜びとは自分は無縁だという気がする。
それでも、爆発するほどの喜びというのはとんでもない不幸からそれが一気に逆転するようにしてもたらされるという考え方には説得力と魅力を感じてきた。山の高さを限界まで感じようと思うなら深海から出発するのが理にかなっているというのは単純な算数として理解しやすい。
でもそういうことではないのかもしれないとだんだん思うようになったし、海の底ちかくにいる人にはそれで限界があるということも見えるようになってきた。つまり一個めに見つけた山頂に固執して、一度それを降りてべつのもっと高い山頂を目指すことができないということだ。あるいはもうすこし残酷な言い方をすると山腹を山頂と勘違いするということだ。傍目にはその罠にかかっていることが明らかだったとしても指摘しようとは思えないというのも厳しいところだ。
よく知っている人がいるというのも自分が寂しくない理由だと思う。よく知っている人というのは家族や友人というのではなく、書かれたものによって知るようになったその書かれたものを書いた本人のことだ。これは自分がそれを読むことでしか立ち上がってこないという点で半分自分であるし、自分の外からもたらされるという点でまぎれもなく自分以外の他人でもある。その両方が同時に実現されているせいでかなり強いつながりがある。たとえば、自分のように「この自分の存在感が強い」感じ方をするタイプの人間には半分自分ということの強みもそのままダイレクトに響いてくる、というように。しかも、それのおかげで自分が強くなっていく面もあるから、ますます寂しくなくなっていくんだと思う。
その代償なのかわからないが、この方法を取るとドーピングに近いようなかたちで劇的に自分というものの輪郭が広がり、自分というものの奥行きが深まるので、それをすべて失うと考えたときの苦しみが増えていくようだ。
今日
在宅仕事。18時半まで残業してスタバに行く。エクセルを使いこなせればもっと早く終る作業を長々やっているというのがわかるからつらい。識者であれば一瞬で終わらせられる仕事を識者でないばかりに時間を多く費やさなければならないとすれば、やるべきことは地道な努力などではなく識者になることだ。
作業しながらラジオを聴いてしまう。なんといってもそれがラクだから。一応の終わりには確実に近づくし、手を動かしながら何も考えないでもいいし、耳に入ってくる話は面白いし。
ラクだけど認知資源を確実に食うので今は動画視聴を禁じているのだけど、週に一度のサンデーナイトドリーマーだけは聴くのを許すことにした。なし崩し的にダイアンの東京スタイルを再生しそうになったが、かろうじて10分間だけの再生で踏みとどまった。
今はもう全然やめられていない。イヤホンをして面白い人の面白い話を聞くことはやめられない。有吉、粗品、ダイアン、三四郎、ランジャタイ、金属バット、マヂカルラブリー、…あたりは何も考えずに再生してしまう。
スタバについてからは『個人的な体験』を読む。
20230424
日記96
一昨日
夜行バスで奈良に行く。確認不足でバスタ新宿に寄る便なのにわざわざ東京駅で乗車する。久しぶりの夜行バスは寝て起きたら到着というわけにはさすがに行かなかったけど意外と寝られた。京都駅で人が減った後、空いている席に移って小一時間寝たおかげでだいぶ回復した。
8時前にJR奈良駅に到着。三条通りを近鉄奈良駅方面に歩き、途中の珈琲館で朝食をとる。荷物を置きがてら実家に立ち寄る。奈良公園のほうまで散歩に行く。鹿と遊んだり博物館ミュージアムに行ってみたりする。興福寺、猿沢池、奈良町の順路で歩き、昼には子供の頃よく連れられていったうどん屋に足を伸ばし、きつねうどんといなりを食べる。その後JR奈良駅からバスに乗って平城宮跡の手前側まで。そこでちょっと寝転がって休んでから西大寺駅まで歩く。この日は結局、合計で2万5千歩以上歩いた。
うどん屋は「重の井」という店で、店舗が移転する前から通っていた。ジャンプやマガジンが置いてあってきつねうどんを注文してからうどんが出てくるまでの短いあいだでどれを読むかすばやく判断して読んでいた。小学生の時などは立ち読み文化もなかったのでジョジョを初めて読んで「うげえぇぇぇ!!!」と思ったのはこの店でだったかもしれない。五部の無駄無駄無駄無駄だけで一話まるまる費やされる回。いや、それはべつの機会だったか。忘れた。
家の近くの和食料理屋で日本酒を飲みながら晩御飯を食べる。ホタルイカの酢味噌和えに嫌な臭みがなく、今まで食べたホタルイカで一番美味しかった。奈良にもいろいろ日本酒があるということを知った。往馬がとくに気に入った。
いつも近鉄電車に乗って出かけるときには前を通っていた「梁山泊」という店で、父親がサラリーマンのとき先輩に連れていってもらっていたというエピソードを初めて聞いたりした。
今回の帰省では昔の写真を見せてくれるなどして面白かった。覚えていない写真がたくさん出てきて、懐かしいを越えた感覚になった。自分の過去でありながら他人事としか感じられないような断絶があった。それにも関わらず断片的映像のような記憶があるから不思議で面白かった。
人を実家に招くということでこれがそうなのかと自分でもはじめて気づく〈我が家らしさ〉を感じ取れて面白かった。おばあちゃんも元気でいっしょに晩ごはんを食べられて嬉しかった。
近鉄電車で京都まで出て、宿泊させてもらえるようあらかじめ話を通してくれていた京都の家にお邪魔する。ひとりの人間の嗜好に合う物品でだけ構成された室がいくつもあるリノベーションされた3階建てで、自分のなかにある住概念がくつがえされるというか、住居という概念の拡張が起こった。ただ、今回のステイですごい家だと思えたのはこの一年でゆっくり素地が形成されていたからで、いきなり行っても凄さがわからなかったかもしれない。……と思ったがやっぱりこうまで極端だとたとえわからないとしてもわからないなりに凄みは感じるだろう。なかでも階段ごしに見える本棚が素敵で、「本屋に泊まろう」みたいなコンセプト型宿屋の風情があった。住環境としては現実離れしておりフィクションに近いと思った。暮らしにもレベルがあるという当たり前のことをこれまで見たことも聞いたこともない知らないレベルから発見させられた。
居心地良くチューニングされていたりセンスの良いアイテムを並べる感覚等に気を遣われている空間にいることがまったく苦にならないタイプなのでただただ良い時間を過ごすことができた。お姉さんなのだからもうすこし恐縮したほうがいいのかもしれないがかなり寛いでしまった。しかもおみやげを持っていかなかった気がする。だいぶ遅いがこれからはそういうことをしていこう。
昨日
窓の外から祭りの掛け声が聞こえてきて目が覚める。朝食にサラダを作ってもらいウインナーとベーグル、クリームチーズを食べる。村上春樹も真っ青になってやれやれやれやれ連呼せざるを得ないであろう完璧な朝食だった。
かなり淡白に書いてあって驚くが、ものすごく旅のような、旅人が運良くできるような経験としての起床だった。鉦を叩くカンカンという音で目を覚まして、小説が書けそうな具合だったのに、さも普通そうな顔をしてそれらの体験を受け入れていた。普通に受け止めるということを意識し過ぎで、それだけ緊張していたということかもしれない。一応お礼を言って出ていったが、もっと激烈にお礼を言っていいほど良い滞在をさせてもらえた。
一度京都駅に戻り、コインロッカーに荷物を詰めてから地下鉄で四条まで。タリーズで飲み物を飲んでから四条大宮まで歩きシェアサイクルサービスを使って、途中千本今出川にある昔の下宿を経由しながら衣笠までペダルを漕ぐ。二条駅から平野神社までの緩いけれど確かに傾斜している上り坂も電動アシストがあれば全然苦ではなかった。
懐かしさの共有だが、俺が懐かしいと思うだけで京都旅行としては退屈なコースだったかもしれない。それでも今となっては二重に感じられる京都の懐かしさを共有しないわけにはいかなかった。
衣笠では目当ての喫茶店が休業していたので、大学内の学生会館をうろついてすぐ烏丸御池に引き返す。途中、サークルの先輩に教えてもらった丼料理屋「おの亭」に寄って遅めの昼食をとる。ふわふわ卵の親子丼が懐かしかった。昔、下宿でこの親子丼を再現しようとして100円均一の調理器具を駆使して湯煎する方法を試してみたものの大失敗したことを思い出した。まあ、大失敗というほどではなかったけど、全然うまくいかなかった。
下宿の間取りは1Kでアコーディオン式の仕切りでキッチンと居間が区分けされていた。
自転車を返す烏丸御池の近くの小さい筋で、ビルが顔になっている店を見つける。アーティスト志望のデザイナーが店番をしていて、ドイツかどこかにいる「店長」とリモートでやり取りし、商品の値段を確認していた。
オーストリアだかポーランドだかどこにいるのか知らないが、偉そうな態度でダルそうにしている嫌なタイプの経営者という感じだった。客商売なんだから愛想よくしろとはまったく思わないが普通に知らない人に接するように接してくれよ。なんで顎を突き出して傲然としている感じを出すんだ。声しか聞いていないけど完全に顎が突き出ているのが確実だったぞ。
そのあとマンガミュージアムにおもむき、芝生が青々としていること、気持ちよさそうに漫画を読んでいる人たちがいることを外から確認する。時間の都合で中には入らず、そのまま新風館に行く。東京でもあまり見ないぐらいめちゃくちゃオシャレにリニューアルされていて驚いた。館内で目に入る緑の量が本気度を伺わせた。
どうせ長く滞在できないのだからと入館しなかったが、短い時間だったら入館料がもったいないとか言っていないで入館するべきだった。いくらなんでも大学生の感覚のまま過ぎる。
アンティーク家具屋を2,3店舗物色しながら三条通りを寺町の方へ歩く。トルコの有名なファストフードで、クムピルとか言うバターチーズ芋の食べ物を食べる。MOVIXを通過して高瀬川沿いの立誠小学校跡地にある芝生で休憩しレモネードを飲む。警察が女子高生らしき人と数人の男に事情を聴いていてやや物々しかった。
これからくるに違いないとピンときて食べたクルピルだがこれ以来一度も食べていない。何だったら一度も見かけていないし、思い出しもしていない。たぶんこない。
アンジェという雑貨屋に寄ってから市役所前から地下鉄に乗る。烏丸御池でスムーズに乗り換えてふたたび四条へ。京都でのバイト時代によく飲んでいたニュー烏丸で飲み食いする。名物のポテトサラダはいかれたタワースタイルから普通のものに変わっていたし、会計時のしじみ汁サービスはなくなっていたしで、すこし残念だった。ただ二階の座敷に通してもらえて場所の懐かしさは存分に感じたし、あの頃にはまったく想像できなかった今があって同じようにビールを飲んでいるのが面白く感じられた。
値段のことを気にしないで京都にいるということをしたくなかったんだと思う。自分の行動を擁護するわけじゃないが、学生・フリーターとして京都に暮らしていて、そのときの感覚を更新するのがやっぱり嫌だったんだろう。社会人になって小金ができて彼女もできて、ウキウキとあたらしい京都を楽しんでいたという友人にくらべていかにもセンチメンタルだ。
京都駅でおみやげを買い、551で直前で売り切れた豚まんの代わりにシュウマイを買い、飲みながら新幹線で東京に戻った。名古屋あたりから睡魔がきて気づいたら品川だった。
シュウマイは新幹線で食べるには匂いがきついということを知った。知らないこととはいえ、乗り合わせた人たちには申し訳なかった。
家についたのが0時半ごろ。すぐ寝る準備をしてすぐ寝る。
最寄りの駅から自宅までの五分足らずの道のりで「帰ってきた」という感じがたっぷり味わえたので、もはや完全に東京人だと言っていいだろう。
今日
在宅仕事。PCを睨みつけているうちに一日が終わる。定時で切り上げてスタバに行く。『飼育』を読み終わる。ここで終わらせられるというところからさらにもう数歩すすもうとしている。短編でありながら短編から抜け出そうとしているように見えて、芥川龍之介のようなきれいな短編とは別種の良さがある。蓋からあふれ出てこようとしてくるようなエネルギー。
数歩が具体的に何を指すのかまったく思い出せない。こういう書き方をしても思い出せると思って書いているのだろうがそれは間違いだということをこうして気づくことができるだけでも日記を書いている価値がある。ただ、なんとなくの印象としてはおぼろげに思い出せる。それで良いと思って書いたのかもしれない。
岸田國士の『動員挿話』を読む。分量が少ないのもあって劇を感じさせる。暮らしに対置されるような劇で、分離されているようにみえる分だけかえって冷静になってしまう。だから効果として劇的ではないのだけどたしかに劇で、短いだけにうまくまとまっていないという印象を受ける。オチを井戸にするならもっと長く続けてからそうするほうが好みに合う。もしくは一幕だけで終わらせるか。
こちらはのちに演劇ワークショップにてセリフを読むという経験を伴ったのでわりとはっきり覚えている。シンプルで昔ながらのお芝居という印象。
自分の見たいものではないものがあざやかに見えるので文句を言いたくなるのかもしれない。いや、主張は意に沿うのだが、意に沿わない主張を見ているうちにいつの間にかそのとおりだと思わせるだけの力が劇にはあるはずだと思っていて、しかしその逆のことが起こっているから、立場上ちょっと気に入らないんだろう。自分とちかい主張があるように感じられながら、その表現方法が小器用なためにかえって弱く感じられるのが心許ない。
作者のメッセージに向けて立場は違えど協力している書割の人々。それの何が問題なのかということがまだ考えられていない時代の産物だ。それを考えたからといって面白い作品ができるわけでもなし、ただべつの流行のスタイルが隆盛するだけのことだから、書割だろうが自然体だろうがどちらでもいい。
20230421
日記95
20230420
日記94
昨日
スタバから出てから一缶だけファミマのレモンチューハイを買って飲みながら帰る。情報制限を始めるにあたって、スマホのランチャーをナイアガラランチャーに変更する。必要不可欠の機能だけに絞って、動画を見たり、SNSをチェックしたり、Googleから提供されるニュースをだらだら見たりという時間を消去するねらい。
と、ついナイアガラランチャーのかたちにこだわってしまい就寝が1時前になる。
今日
在宅勤務。いい天気なので朝から洗濯。昼間は弁当を買って公園で食う。普段ならラジオを流しながら作業するところを音楽もラジオも流さず、昼休みにもテレビをつけないで、ただPCに向かって仕事をする。頭が退屈になりすぎて、これなら良いだろということで大江健三郎の基調講演をYoutubeで再生する。あとはときどき天鳳のサンマ。これは以前から変わっていないけど、つい手が伸びてしまう。
なんだかんだ残業が発生。MACのOSアップデートをしながらシャワーを済ませ、スタバに着いたら19時前。情報制限は本当に今日はじまったばかりだが、ラジオで埋まってた隙間が今のところ一番大きい気がする。基調講演を聴いてしまっているから結局まだ隙間を空けられてないのだが。『同時代ゲーム』を読む。やっぱりのろくさ進む。
『個人的な体験』を読む。こちらは最初だからかかなり読み進めやすい。パンチングマシーンのくだりの恥辱感は見事な描写だった。そのあとの失地回復も緊張感があって良かった。
『飼育』を読んでから飲みに出る。
20230419
日記93
昨日
スタバから出て酒を飲みながら帰ろうとして歩いていると、近くにタリーズがオープンすることを知る。近所にタリーズとかそんなんなんぼあってもいいですからねということでテンションが上がる。
何度か足を運んだが、やっぱりスタバのほうが随分居心地よいのでもう全然使っていない。二時間制とレシートに書いてあるのもセコくて嫌な感じだった。あと東京・神奈川のタリーズは関西に比べて店の雰囲気が結構落ちる。関西のドトール相当だ。最近行っている虎ノ門のタリーズは良いタリーズなので店舗による差が大きいということかもしれない。しかしよくないとどうしてもそのイメージが目立つ。
今日
在宅仕事。今日は比較的ゆっくりできる回でちょうどよかった。勤務終了即出かけて中華料理屋でラーメンとチャーハンと餃子を食べる。その後古本屋で『個人的な体験』を見つけて220円で購入。スタバで『同時代ゲーム』を読む。忿怒と絶望の三十女が登場し、とうとう物語に引き込まれていくのを感じた。注意力が高まるのはやはりこういう強烈な印象を与える出来事なり事件があってからということがわかった。もともとわかっていたことではあるけど、こうもはっきり表に出るとは思っていなかった。
『同時代ゲーム』は覚えていないまではいかないがあまり印象にない。もうすぐ忘れてしまいそうな気がする。
ところで、新しい小説を書こうとしているのだけど全然始まらない。骨格部分が出来上がるまで相応の時間がかかるものだというのは理解しているつもりだけど、白紙状態からどういうふうに浮かび上がるものなのか見当がつかない。前はするっと書き始めたような気がするけどちゃんと覚えていない。登場人物が極端に少ない書簡体だったのでプロットというようなものもなかったのでそういうスタートが切れたんだと思う。今回はあらかじめプロットを考えるというのはやってみてもいいけど、前回以上にスモールスタートを意識したほうが良いのかもしれない。
結局書けないまま一年経っている。「構想を練る」というのをもっと真剣にすすめよう。
ただ、本当に書こうとするならその期間は小説を読むのを止めないといけない。ラジオも聞かない方がいいだろうし、テレビをつけたり動画を見るのも止めたほうがいい。音楽はショパンだけ聴いてYoutubeはサッカーだけ見るというふうに決めて一日一日を消化していくうちに、たぶん浮かび上がってくるはず。酒は飲んでもいいが、酒を飲んでお笑いを見たり歌を聴いたりするのはだめ。一旦書くと決めたらそうやって外堀から埋めていかないと全然始まってもいかない。今はとにかく大江健三郎を読まないといけない気になっているから『同時代ゲーム』『個人的な体験』『死者の奢り・飼育』の三冊だけは読み終えることにしてそれまでは猶予期間と考えよう。
結局『戦争と平和』を読み始めている。読まないでいられない小説がまだある。
自分が小説を書くためにはどうすればいいのかというのを考えることから小説を書くことは始まっている。昔、音楽を作ったときも音楽を聴くのを止める期間を設けるところからはじめて、かたちにするところまではいけた。坂本龍一はいくつか良いことを言っているけど、制作するときにはインプットを止めて意図的に飢餓状態を作り出すということを言っていて、そのやり方は合っていると思う。
読むべきものを読まないで小説を書くということができるわけないというのは譲れない意見なので読むべきものが出現した以上は黙ってそれを読み終わるしかない。だが読みながらでも構想は練れるはずだ。
20230418
都会生活のこと
先日、友人が関西から東京に遊びにきた。その友人は仕事を辞めたばかりで、これからの身の振り方に悩みを抱えているようだった。悩み相談に乗るという柄でもないし、物質的生活上のアドバイスなどは逆立ちしても出てこないので、最近のお笑いはどんなのをチェックしているか、動画はどんなのを見ているか、というわれわれには重要だがとくに中身のない会話に終始していた。それでも隙間を縫うようにして、俺だったらこうするという言い方で東京に引っ越すことをそれとなく勧めてみた。そのなかで都会生活は良いと思うんだよという話をした。
友人は人混みが嫌いだという通り一遍の反応を示しただけで、将来の東京行きをほのめかすということさえなかった。都会生活が良いという私の話は宙に浮いたかたちになり、友人が関西に帰ったあともその言葉の意味することは何だったろうと、かえって自分の意見を不審に思うような始末となった。
人のことや、いろんな問題をいちいち取り上げないでよくなるというのが都会生活の醍醐味だという気持ちはたしかにある。背負っている荷物が軽くなるような方向に働く力があってその恩恵に預かれるということだ。ようするにもっと不真面目になれという話で、とにかくリラックスしろというところにしかこの話のポイントはない。負担を軽くして本来自分が取り組むべき仕事に取りかかれということを言いたいのだが、一息でそこまで言おうとすると言い過ぎになる。誰しもが取り組むべき自分本来の仕事を持っているわけではないからだ。
人が多い場所には落ちている幸運の数も多いということは都会生活をすすめる大きな要素になる。幸運を拾った後どうするかは自由だが、幸運を拾えないままでいるとそれを追い求めるためにすべてが費やされることになる。自由を享受するためには自分が必要とするだけの幸運を拾いきらなければならない。それなら、それがたくさん落ちている場所を探したり、一時的にであれそういう場所に身を置いたりするという選択は正しいものであるはずだ。
幸運をつかめるかどうかというのははっきり言って運だが、それをつかみやすい場所に移動するということは比較的簡単にできる行動だ。難しいけれど効果的な行動は他にもたくさんあるかもしれない。しかし難しい行動というのは得てして実行することが難しい。とにかく自分にとって簡単なことから実行に移すのが幸運をつかむためのコツだ。
そういうわけで、東京行きをすすめるというのは自分の中では筋が通っているし、自分を離れて考えてみても理にかなったことだと思う。それでも、都会生活をすすめたときに自分自身に跳ね返ってきた宙ぶらりんの感覚はぬぐえない。むしろその存在感がどんどん大きくなっていくような気さえする。
人混みが嫌いだとか、忙しいようなイメージが合わない気がするというのは端的に慣れの問題なのでどうにかできる事柄だ。自然がたくさんあるところに住みたいという願望にしても、じつは地方都市より東京のほうがかえって緑豊かなぐらいだ。東京にはたくさんの公園があるというのは住んでいる人以外には知られていないことかもしれない。
人にせよ物にせよ、システマチックに流れていくことが都会生活のいちばんのメリットだといえるかもしれない。私自身、その部分にもっとも恩恵を受けている。煩わしいことや不快なものに向き合う必要がなく、そういったマイナス要素にいちいち思い煩うことなく、つねにリラックスできる環境が用意されている。いつでも雨風をしのげるし、耐えられないほどの長時間暑い思いや寒い思いをしなくても済む場所にいるということ自体、気持ちが楽になる。その気になれば快一色で暮らしていける環境にある。不快さだけでなく、痛みや苦しみから遠く離れて暮らしていけるというのは昔で言う極楽の概念に近いものだと思うが、まさにそういった環境が大した苦労なく手に入るというのが、私の置かれている状況である。これは私が特別な境遇にあるということを意味しない。たしかに私は幸運だが、このぐらいの幸運は自分をそこに方向づけるだけで難なく手に入るものだ。運には個人差があるので、不運な人からすれば心中穏やかでいられない悔しい意見かもしれないが、実際のところ、この意見というのは東京ではそこまで偏った考えではない。個人は各々が抱える問題を抱えているし、その問題を解消したり解消できないまでも対処したりすることが必要だから、こういうことはどんなときにも一概には言えないことではあるのだが、それでも、今世界中を見渡してみてここまでイージーな場所は他にない。いろいろな分野が斜陽になってきているということを加味しても、まだまだそれは覆らない。落ちるにしても、急激に衰退せず、ゆるやかな降下ラインを維持できている。どんな場所からでも歩いてすぐの場所にコンビニがあってそれが24時間営業しており、深夜に急に酒が飲みたくなったとしても大した危険もなく酒を買いに出られて飲みながら帰るということができるような場所はさすがに他にないだろうと思う。
自分が拾った幸運に味をしめていて、自分がいるこの場所がこれほどいい場所だと語る人間がいることひとつとっても、ここが良い場所だと示せるはずだ。
まったく言い訳の効かない環境に身を置きながら自分自身としてのピークを迎えられているのだから、何であれ最大限楽しまないではいられないし、何らかの活動を躊躇せずやっていく必要がある。私は、誰もがこの私のように生活できるようになればいいのにと考える芯からのオプティミストだが、それでも、それを支える土台というのは大勢のひとを収容するにはいかにも稀薄で薄氷のように薄っぺらく心もとないということも一応理解してはいる。今のこの私にとってベストであるとも考えられるシステマチックなこの環境は、儚い現実であるにすぎないのだろう。
ついこのあいだ、出勤するため早朝の渋谷を歩いていると鳩が二羽道路で潰れされているのを見た。足を止めずにそのまま横断歩道を渡って改札をくぐり乗り換えの電車に乗ったが、以降の通勤時間は気分がすぐれず、鉄道路線ではかなり頻繁に人身事故のアナウンスが流れていることなどを、さっき見た二羽の鳩といっしょに思い出したりもした。そういうときに受けた厭な印象というのは、その都度、大した労力を払わないでも流されていったことを考えた。いつまでもひとつの事故に固執しないでもいいということ、誰かによって処理され流れていくこと、それが都会生活のいちばんのメリットなのだということを考えないではいられない。しかし、それもすぐに考えないでも良くなる。潰された鳩を見て気分が落ち込んでも、会社に着く頃にはその出来事自体を忘れて気分は回復したし、そんなふうにすぐ調子を取り戻せるということは、実際に気分が悪かった電車内でも想定できるような「わかりきったこと」だった。
現実感を回避できる経路が豊富に用意されていたり、衛生的でないものを自動で排除できるような仕組みの上に立って、現実が持ち出す快を享受している。そうやって得られたものを私は代えがたいものだと感じるし、誰しもその快さを受け取るべきだと考えている。私がそう考えるのは無理のあることではないし、むしろ自然なことだと思うのだが、こうやって意識にのぼってくると不審にも思える。足元に地獄があることを知っていながら極楽状態でいられるのはおかしい、何かが変だという感覚に近いのかもしれない。だからといって「地獄にも目を向けろ」ということは口が裂けても言わないし、頭が割れても思わない。あのとき、あっと思った一瞬に、鳩が潰れている光景を見ようとしたのは間違いだった。
そういえば、この前スマートフォンの動画で、猿が蝶の羽根を咥えながら唇だけを器用に動かし蝶を弄んでいる様子をカメラで撮った映像を見た。器用に蝶を弄んでいる箇所だけを切り取った編集で、そこだけがループする動画になっていたため、そのあと蝶がどうなったのかはわからないが、遊んでいる猿が遊ばれている蝶にある種のシンパシーをおぼえている様子は見受けられなかった。咥えられているほうとは反対側の羽根は部分的に破られ、近くにその破片があったからだ。状況から察するに、猿の遊びの過程で羽根が千切れたものだと思われる。猿は猿の顔をしており、そこに悪意のようなものは見受けられなかった。それだけに醜い、猿そのものというような顔だった。なぜこんな見たくもない映像が流れてくるのかわからないが、これは明らかにシステムの不備だ。この手のイレギュラーな事態をおそれて都会生活を回避しようというのであればたしかにと納得する部分はある。
日記92
昨日
青山のスタバから歩いて渋谷まで戻る。目当ての蕎麦屋は閉店時間を過ぎていて行けなかった。代わりにもうやんカレーを食べにいくことにしたので来た道を引き返す。ねっとりと質量あるルーはもうやんカレーの特徴だ。調子に乗ってカレーが来る前にふかし芋を2個食べていた連れがもう食べれないと言うので余ったカレーも頂いたところ腹がぱんぱんになる。宮益坂を下るにもはあはあ言う始末。帰宅してからも、横になってからも、胃が、苦しかった。
おすすめの蕎麦屋というのは茹で太郎のことだった。富士そばとの比較でおすすめだったのだが、最近では柚子粉を置いていないこと、蕎麦の味が落ちた気がすること、嵯峨谷との比較では優位に立てないことから人にはすすめないで良いと思うようになった。良い思い出があるので自分ひとりでは今も行く。
今日
在宅仕事。サンドリでNHKの庵野ドキュメンタリーが面白いという話をしていたのでNHKプラスで視聴する。たしかに面白い。なんだったら『シン・仮面ライダー』よりもその制作ドキュメンタリーのほうが面白かった。人間のリアルな闘いがそこにはあった。腕っぷしで戦う人間のアクションなどはたかが知れているのにそれを中心に据えるというのは最初から間違っている。庵野は動物のドキュメント映像を見たことがあるのだろうか。どうしても人間が要るなら闘牛でもいい。冒頭でトマトが潰れるように頭が潰れて血が出るので、血が出る前の迫力がゼロになっている。そこからぶつ切りのアクションまがいの映像をえんえん見せられて、最後に俳優3人の「泥臭い闘い」というのではアクションを見るという点でも、コント的なユーモアの観点からも捗々しくない。
『シン・仮面ライダー』は失敗という評価で固まりそうだ。追い込んで結果を出そうとするというやり方がうまくいかないのはすでに常識の範疇だと思うが、この映画の失敗がそれを決定づけたと思う。
仕事後に期日前投票をやりに行き、そのままスタバに駆け込む。『同時代ゲーム』を読もうとするも読みすすめられず。まだ86ページまでだがここまでのところ全然文章に入っていけていない。
20230417
日記91
20230416
日記90
昨日
一日中雨の日だった。ブランチぐらいの時間にパンケーキを食べる。『ヒカルの碁』を全部読み終わる。読み通してすぐ気づくのはピークがクライマックスにないところで、ぎりぎり北斗杯編完としているところに作者の思いが表れていたように思うが、連載が続くということが当たり前ではない当時のジャンプの厳しさを感じた。ピークは藤原佐為消失とヒカルが伊角のために碁石を持つところまでの一連だった。それ以外にも彼を知らないはずの人たちが彼を見つける瞬間にはそれぞれグッときた。
藤原佐為の消失は彼の存在感を伝説にしたといえる。今でもおぼえていることがその証左だが、当時中学生だった幼馴染に与えた衝撃や記憶への刻み込まれというのは想像するしかないが相当なものだったろう。ぎりぎり際どいところで「はあ?」となっている可能性もある。両方の可能性を残すのもかえって本質的で良いと感じる。
それなりの強雨で外出するのに気力が必要だったが、昼過ぎに予約していた散髪に出かける。引っ越した友人の新居を見がてら赤羽で遊ぶ予定だったが、電車に乗る寸前で先方から体調不良の旨連絡があり無しになる。
翌日日曜に会う予定があった、東京に遊びに来ている友人に連絡したところ、雨でどこに行くこともできず橋本のショッピングセンターで暇しているとのことだったので予定を繰り上げて下北沢に来てもらうことにする。カフェでちょっと話した後、近くのピザ屋に入って持ち帰りピザを持って帰り、家で話の続きをする。とりとめもない話の中で、友人がわりとよく海外旅行に行っていることを知る。ブルガリアにも行ったことがあるとのこと。ブルガリアはそれなりに珍しい旅行先だと思うが、トルコの近くでヨーロッパ色は薄いため中途半端だったとばっさり切り捨てていたのが面白かった。話の流れで好きな都道府県ベスト4が決まった。1位から東京・北海道・神奈川・福岡。
友人はべつの東京の友達の家に泊まるということで去っていったんだと思う。なぜ書いていないのか謎だ。
今日
にわか雨があるものの晴れの予報で、できれば傘を持たないで出かけたい。が、家を出ようとする15分前に強雨の音が始まった。しかも面倒だなと思っているうちに音が変わった。窓を開けて確認してみると氷の粒が落ちてきているのが見えて、強い雨から強いみぞれに変化した。これでは外に出られないなと思っているうちにすぐ止んだので傘を持たないで外出することにした。
予定されていた外出の前に日記を書いておこうとして午前中にさらっと書き残したものと思われる。半端な日記でもまったく何も書かないより必ず良い。量的な比較を絶するので質的に良いと言わざるを得ない。比較にならないほど良い。やっぱり書かないと忘れてしまうから。
20230414
日記89
昨日
普段行かない猿田彦珈琲店に行ったところ、スタバのありがたさを身にしみて感じた。9時半まで粘るも結局あまり本を読めず。PCでの作文などもってのほかだった。やさぐれた気持ちで酒を飲みながら帰る。飲むとすぐに上機嫌。『ヒカルの碁』を読んで寝る。100話で藤原佐為が我を出そうとする展開に熱さを感じる。面白くなってきた。
今日
在宅仕事。仕事詰まってるのにべつの仕事が降ってきてダルいので人任せにする。定時すぐで上がってスタバに行く。『同時代ゲーム』をちょっと読んで酒を飲みに出かける。
20230413
日記88
20230411
日記87
20230410
日記86
昨日
午前中に『へんなの』の読書会をする。同世代特有の面白さがあるという話になりそれはそうだと思った。たまごっち、ヨーヨー、ミニ四駆と、同年代のひとたちが遊んだ遊びだと思うし懐かしかった。その懐かしさを入口にしてエッセイに入っていけた感がある。いつの間にか『へんなの』を脱線してランジャタイの漫才がなんで面白いのかという話になった。楽しいが前面に出ているからだと思う。「漫才ネタを一日に8回とか無理すぎる、狂気の沙汰だ」というようなことをラジオで言っていたが、たしかにそういう強い漫才をしている。ブルージャイアントの宮本大ぐらい強い、かどうかはわからないけど、少なくとも出し切っている漫才だ。
ザリガニ釣りのことを変わらずに言っている地元の友達まことくんをかっこいいというところに、変わらないことを良しとする価値観があるようにとれる文章があり、ボーイズはそういう純真さを評価する傾向があるよねという話になった。自分が思うのは、何かを好きだという気持ちの表現の仕方がストレートなところに格好良さがあるということで、対象が変わらないというところに価値があると思っているわけではない。まことくんが自分の好きなものに今でも驀進できているところが格好良いと思うので、たとえそれが変わっていっていたとしても同じように驀進できていれば、国崎も良いなあと思うだろうと思う。そしてそういうことを実際しているのが国崎だという気がするから、それを直接言うと自己言及的になって『へんなの』のへんなの部分が埋没してしまう感があるので、それなりの表現になったんじゃないかと忖度した。
あとは浜口浜村の解散後の浜村さんからのメールを「以下略」としてぶった切るところのチャキチャキ感は江戸っ子の粋でしかなく、それをいちいち言うのも野暮ってことになってしまうんだろうけど、あのあたりの手管はとにかく上品で上品で仕方ない。そのまま引用したり要約したりして言ってみても自分が受けたように伝わらないということを知悉していて、「諦めて逃げる」ではなく「積極的に言わない」へと昇華している。
ただ、自分が良いと思ったものを伝えたいという気持ちが強いのは間違いないと思うし、読書会で出た「自分が良いと思ったものを伝えようと果敢にチャレンジしているようにみえる」という意見はその通りだと、クロ・ラッキー・コトラの話を読んで思った。とにかく「全部をこえてやってくる」に集約する力が強い。集中線引きまくりだ。あと、「しょうがないちゃ、うんうんみたいなことを言った」というところを読むと、毎回、外向きエネルギーが溢れ出そうになる。
https://qjweb.jp/regular/57274/2/
あれから一年で国崎は片眉になった。ナンセンスなギャグに見せかけた何らかのメッセージではないのかとつい勘繰りたくなってしまうが、何らかのメッセージに見せかけたナンセンスなギャグといったほうがまだ彼の意に沿うのではないかという気がする。そういう小賢しい意図はなさそうだけど。本当のところはわからない。
前夜しこたま酒を飲んだせいで胃腸の調子がわるかった。それなのに昼間調子に乗ってすた丼を食べ胃を酷使したことで体力が低下したのか風邪のひきはじめのような症状が出た。バファリンを飲んだり温かい飲み物をのんだりしながらだましだまし歩いていたが10000歩ぐらいの歩行でへとへとになった。
千駄木の家具屋を見てから谷根千のいつものコースを歩く。このあたりを歩いているといつも文京区は最高、台東区になったら悲惨、という話を繰り返す癖がある。毎回その話をして毎回聞き流されている。適当に器の店などを物色してから千代田線に乗る。
我ながら文京区のネームバリューにはかなり騙されていると思う。当時の文人達だって当時の条件を踏まえて文京区に住まっていたわけで、今生きていたら文京区に住む謂れはほとんどないだろう。
明治神宮前駅まで行き、これまで入ったことのなかった建物に入ってHAYSを見る。ハイソなカルチャーファニチャーの店らしい。そういうのは好物なのだけど疲れていたのでフルで楽しめず。上階のMoMAストアにしてもなぜこんな長いこと滞在するのかを疑問に思う始末。ただ、HAYSはともかくMoMAのほうはとくに面白い商品はなかった。ただそれらしいものを置いているだけの土産物屋相当だった。
変なギミックの時計が面白かった。どんなギミックか思い出せないけど、LEDを使って良き時に点灯させたり消灯させて時間を表す感じだった気がする。
原宿は店に入るよりも通りを歩いているほうが面白い。胃を労る(いたわる)意味で飲むヨーグルトを飲んだところちょっと復調したので調子に乗って代々木公園に行こうとしたが、頭が痛くなりそうだったので止めにして下北まで帰る。
胃に優しい温かいトマトスープを飲んで早めに寝る。
今日
在宅勤務。あいかわらず忙しい。仕事の進め方について相談しないといけなくなった。打ち合わせでまた時間を食うが、認識合わせをきっちりやっておかないと余計な時間を費やすだけなのでおろそかにできない。
仕事後スタバに行く。いろいろの連絡を済ませてから『ピンチランナー調書』を読むことにする。
2章分読む。『遅れてきた青年』もそうだったがこの小説も、完璧なスムースさを持っていない。読んでいて引っかかりがあったり抵抗感がある。ページを繰る手を止めるほどではないが、止めようとする方向に働く力がある。流れる力と流れをせき止めようとする力の両方があって、物語の勢いを強めているような印象がある。演説の長広舌などはくだくだしく述べられていて(それはカタカナと漢字による読みにくい記述によって強化されている。その見た目奇妙な記述方法に書かれてある内容が翻訳文・宣告文であることを通知する意味があるにせよ)読み進めるのに抵抗を感じる。言われていること・書かれてあることが馬鹿らしく感じられたり、気持ちが論旨から(というよりは文章の流れから)離れていくように書かれてある。その極限とまでは言わないまでも、そろそろ章の残りページ数を確認したくなるような離脱のタイミングを見透かしたように「アホくさ」という文字で中断があるのを見ると、書き手が読み手を想定してそれをコントロール下に置こうとしているのがわかる。そしてそれが成功しているというのも、つい先頃実際に起こった自分の読み方を顧みると明らかになる。面白いというのを技巧がこえていっているといえる。初読だったりあるいはそれに気がつく再読によってその技巧が意識にのぼると感心はするけれど、それ以降に面白さがあるという感じはない。面白さは最前こえていったばかりだから技巧の先には空白しかない。ぽっかり何もない。したがって再読したいという気も起きない。再読したいという気が起きない小説というのは自分の考えでは一段落ちる小説なのでその基準によって考えると一段落ちる小説ということになる。ただ、その基準に照らし合わせるという行為自体が合っているのかというのを疑念も連れてくるように思われる。面白いのと空白との入れ替わりが今にも起きそうな予感がつねにあって、それがつねにあるとすれば(本当につねになのかは検討しなければならないし、もうすこし長いスパンで検討しないといけないように思われるからそういう条件付きになるにせよ)、新しい基準が出来上がってそれが自分の中で幅を利かせることにもなるかもしれない。面白ければそれでいいというのは自分が公然と採用する絶対の基準だとしても、やっぱり直接光を当てて照らしてみると本当にそうかと疑わずにはいられない種類の絶対基準なのだとあらためて思った。読んでいていつもとべつの方向からそう思わさせられた。宇宙に興味を持たないでいてしかも大きな野望を持つという人物の人物造形が理解できる。それはすごいことではないか。
物語ばかり読んでいると宇宙に興味がある人物のことばかり目にするから「宇宙に興味がある」というのがデフォルトになる。そこにきて宇宙に興味がないと言われると、「え? ないの?」とびっくりさせられるという仕組み。
20230407
【緩募】読書会のお知らせ【ゆる募】
◇ 読書会のお誘い ◇
今度、読書会をすることにしました。
ひとりでは読書会ができないのでインターネットの力を借りて広く参加者を募集することにします。誰でも参加してくださいという気持ちはあるのですが、来るもの拒まず式の読書会にしてしまうと参加する人にとっても参加する利点を見つけづらい読書会になるだけだと考えましたので、えらそうにも何点か参加条件をつけることにしました。
以下の条件に適合し、週末の数時間を読書会に割いてもいいという方がいましたら、気軽に連絡してもらえると嬉しいです。※1,2,3
開催する日程や課題本については、参加表明をもらってから考えるつもりです。
▼参加条件
・夏目漱石の全小説を読んでいてかつ漱石が好きであること
・チェーホフの全戯曲を読んでいてかつチェーホフが好きであること
・ピンチョンの全小説を読んでいてかつピンチョンが好きであること
・嫌いな作家がいてその理由を説明できること
・都内での読書会に参加可能であること
※1.「緩募」と書いてあるとおり、ゆるく募集しており、じっくり腰を据えて長期的に募集するつもりでいます
※2.この記事が掲示されているあいだはつねに募集状態です
※3.mttnyskあっとGメールまで※
※ないとは思いますが、連絡して1週間以上返信がない場合メールを見れていないことが考えられるので、再送してもらえると助かります
以上、よろしくおねがいします。
日記85
帰宅後わりとすぐに寝る。つもりが動画を見てしまい寝るのがちょっと遅れる。
今日
出勤日。雨降りを避けようと小田急を使っての新宿経由のコースを選んだが失敗だった。かかった時間の量という観点からも込み具合という観点からもまるで駄目だった。埼京線は新宿でもまだギュウギュウ、渋谷からだいぶ混雑緩和されるという知見を得た。仕事が忙しく目を回しているうちに定時間際になる。危うく残業しそうになったがスピード重視のやり方で仕事を終わらせて帰る。帰り道で雨が次第に強くなってくる。これはもう無理かというぎりぎりのところで駅について助かった。友人から電話がある。4月から始めた仕事を辞めたという報告だった。おかたい職場の事務職だったらしく、もし続けていたとしても職場のほうで持て余すに違いないほどの決断力だと思う。いい加減な気持ちで、ちゃんといい加減に聞こえるように「東京に来たら」と誘ってみた。
渋谷のスタバで『ピンチランナー調書』を1章分読む。仕事で認知資源を使いすぎたせいであまり集中できなかった。お腹空いていたのもあると思ったから途中でクッキーを買って食べる。
雨じゃなければ酒を飲みつつ歩いて帰りたいぐらいなのだけど雨なのでそれもできず。雨が憎い。思い返しても先週の金曜日は良かった。四ツ谷周辺を歩いたときより距離は2キロほど短かったのにより疲れたのはなんでかと思ったが、考えてみると四ツ谷散歩の頃は手ぶらで歩いたのに対し、目黒川遡行時には4,5キロの荷物を背負っていたからだと気づいた。太っている人がちょっと歩いてすぐ疲れているのをよく目にするような気がしていたが、その理由が自分の実感としてわかった気がする。しかし、実のところ、太っている人はちょっと歩いてすぐ疲れるということをしていないので架空の感慨ではある。ちょっと歩いて疲れているようなことをよくやる場合、その人は太っていないはずだから。
20230406
日記84
昨日
スタバ終わりに酒を飲んで帰る。気分だったのでビール(一番搾り)を飲んで歩くも350mlで胃が気持ち悪くなる。歩きながらビール飲むにはすこし年を取りすぎているということか。氷結だと問題ないので今後は氷結で歩くことにしよう。
この後氷結無糖がほぼ不変の答えとなっていったのだった。
帰宅後、藤子・F・不二雄のSF短編集を読んでから寝る。
内容覚えていない。面白さより資料という感じが勝ったんだと思う。たぶん自分は漫画に対しても感度が低いのだろう。
今日
在宅仕事。作業が終わらず一日中モニターをにらんでいた。仕事中にランジャタイのぽんぽこ
ラジオを聴く。国崎☆が『ヒカルの碁』を激推ししていたので近いうちに読もう。
仕事後スタバに出かける。昼食をカップヌードル(シーフード)で済ませたこともあって空腹を感じたのでソフトクッキーも注文する。『ピンチランナー調書』を1章分だけ読んだところで飲みの誘いがあったのでこれから飲みに出る。
読書会を主催するためにそろそろ動き出さなければいけない。まずは宣伝文を考えないと。条件を絞りに絞ってやるほうが意義のある読書会を作れる。意義のある読書会には需要があるにちがいない。
まだメンバーが集まらず一度も開催されていないが長い目で募集することが大事だ。
読書会の誘い
今度、読書会をすることにしました。
ひとりでは読書会ができないのでインターネットの力を借りて広く参加者を募集することにします。誰でも参加してくださいという気持ちはあるのですが、来るもの拒まず式の読書会にしてしまうと参加する人にとっても参加する利点を見つけづらい読書会になるだけだと考えましたので、えらそうにも何点か参加条件をつけることにしました。以下の条件に適合し、週末の数時間を読書会に割いてもいいという方がいらっしゃいましたら、お気軽にご連絡いただけますと嬉しいです。参加を表明していただいてから開催する日程・課題本を考えるつもりで、現時点ではいろいろなことが「未定」となっています。
▼参加条件
・夏目漱石の全小説を読んでいてかつ漱石が好きであること
・チェーホフの全戯曲を読んでいてかつチェーホフが好きであること
・ピンチョンの全小説を読んでいてかつピンチョンが好きであること
・都内での読書会に参加可能であること
・嫌いな作家がいてその理由を説明できること
以上
20230405
日記83
昨日
在宅仕事。忙しさが発生して少しだけ残業する。仕事後に夕飯を食べスクワットしたので外出せず。『ピンチランナー調書』を1章分だけ読みすすむ。
その後『ジョーズ』を見る。パーソナルチェアでくつろいだ姿勢で見ている最中、緊迫したシーンで大声での驚かしを喰らう。全然予期していなかったこともあり心臓が打たれたようになった。
ニーチェアという名前のどこか超人的な名前のパーソナルチェアだ。
ジョーズは冒頭でさっそく死人が出るわりに死者の数がそこまで多くないのが意外だった。緊張感を維持するために一番いい犠牲者の数なんだと思う。これより多すぎたら弛緩するだけだろうしこれより少なすぎたら中だるみする絶妙な数だったんだと思う。それでも途中、中だるみしていなくはなかった。オルカ号でのサメとの戦闘は『白鯨』のような雰囲気で面白かった。3人の船員に色があって言い合いするのも語り合うのも、会話がとくに面白い。
酒を飲まずに寝る。ブルージャイアントエクスプローラーを8巻まで読み終える。
今日
昨日に引き続いて小忙しい。が、残業はしないで済まし、仕事後にスタバに出かける。『ピンチランナー調書』を読む。面白い映画でも、それが面白いらしいと聞いているだけでは意味がないというのは、当然のことでありながら大きな字で注意書きされるべき事実だが、小説の場合はその度合いが映画にもまして大きい。あらすじや梗概を見ても意味がないというのは映画における予告よりもなお意味がない。たった2時間のことでなおかつボーッとしていても見終わるものについて予告で決めるのはそれなりに理にかなっていることだが、長編小説の場合はもし失敗すると退屈な時間をもっと多く抱え込むことになりかねないのだからなおのこと慎重に決めるべきだ。
その意味でいまの本屋は本屋の果たすべき役割を果たしているとはいえない。近所のオシャレ本屋に大江健三郎が一冊も置いていないのには閉口した。数多く講演会をひらいて思索的な雰囲気を醸し出すことに血道をあげているようで、俺が思う本好きの嫌なところをていねいに蒸留してその上澄みだけをスプレーして飾りつけたみたいな反・文学の極みのような店だ。メガネを掛けているから知的にちがいないという短慮は面白いし、反・文学はかっこいいと思うから理論的には好きな店のはずなんだけど。本屋に行って(俺の考えでは)当然置いてあるべき、欲しい本がなかったときの苛立ちはいかんともしがたい。
このおしゃれ本屋はB&Bという本屋だ。イベントばっかりやっている。商売だから仕方ないと思うが、本屋は本を商材にしているという当たり前の事実には目をつむりたいようなところがあるし、彼らは彼らでそこに目をつむらせたい意図がある。
昔、たとえば大学生の頃に大江健三郎を手にとっていたらどう思っただろう。今読んで面白いと思うけど昔だったらそうは思えないかも、というたぐいの小説ではないからもっと早くに開くべき扉が開いただけという気がする。
ただ今よりもっと真面目に読んだだろうなと思うから、読んでいても笑顔になれなかったかもしれないというのはある。陰惨な場面も多いけれど、それとバランスをとってというのではない自立した笑えるシーンがところどころあるのが良さだろうから、そういうのを読み飛ばし、勢い込んで真剣になって「感動」する危険はあると思う。
いや、今も当然「感動」しているんだけど、昔だったらもっと感動して、感動しているときに特有の麻痺から自由になれなかったはずだ。結局、べつの場所で麻痺していたからそれがわるいとは思わないけど。
当時読んで感動した小説にはこれ以上無理なほど感動させられたけど、今読み直そうとは思わない。そういうことがひょっとすると起こって、今やれているように笑っては読まないという結果になっていたかもしれない。
それにしても漱石は何度も読み直しているし、大江でもそういうことは起きる可能性はある。めちゃくちゃ面白いし絶対に読まないではいられないと思っているが、漱石のコースをたどるのは正直ちょっとなさそうな気もする。そもそも漱石、チェーホフ、カフカ以外でそんな位置につける作家はないのかもしれない。ドストエフスキーもカミュも夢中になったけどおそらく駄目。この場合、とくにカミュなんかは夢中になったから、と言ったほうが適切か。ピンチョンは笑えるしまた読み返すのは決まっているのでひょっとするとあるかも。大江健三郎はたとえば『芽むしり仔撃ち』『遅れてきた青年』は読み返すことはなさそう。たとえばとか言ってるがその二冊と『万延元年のフットボール』しか読んでないからまだまだ全然これからなんだけど、今の時点ではそのようなことを思っている。
一般に、何度も読み返す作者の数は3人が限度である。そのように読むときの読むレベルを下げれば数を増やせるかもしれないが、その場合、読書全体が台無しになるおそれがある。
読書にとってもっとも大切な部分を毀損するようなことをしてまで読書する理由などない。
そんなんじゃ台無しにならねえよ、という意見には耳を貸す余地はある。
最終的には何度も読み返す作者の人数をひとりにするのがそれぞれの目標なのに間違いない。
そうやって書くしかないというのがわかる文章は、どんなふうに書かれてあってもすっと読めるし、すっと入ってくる。
本を読むことでそれを書いた人を知り、書いた人を知ることでさらに進んで読むことができる。その過程でそうやって書くしかなかったんだということがはっきりわかるようになる。
20230403
【近い】について
近いと思えるかどうかにすべてが懸かっている。
何を近いと思うか、それは問題ではない。対象は何でも良い。そして誰が近いと思うか、それも問題ではない。近いということについて考えるとき、主語になるのはつねに自分だ。近いということについて考えるとき、登場人物は自分と対象しかなく、主語は省略できる。
自分というのはこの自分しかありえないわけだから、ここで対象について云々するのはナンセンスだ。自分があってはじめて対象があるのであってその逆ではありえないからだ。
しかし「近い」ということ、その状態については、自分というものにかかわらず、そして対象如何にかかわらず、取り上げることができる。その上で次のように言うことができる。近いと思えるかどうかにすべてが懸かっている。
もっとも近接することのできる何かにどこまで近接することができるかというところに価値のMaxがある。何かに接近するとき便宜的に使われる距離という概念は、じつのところ大して重要ではない。近接することを追求する過程で微差になり、結局は錯覚といえるほどの誤差になるからだ。
物理的な距離はまったく重要ではない。その距離の詰め方ではすぐに限界がくる。重要なのは、つまり重要といえる分だけ詰めていけるのは精神的な距離のほうである。そして精神的な距離というとき、その内実を正確に言い表そうとする意思そのものに距離という考え方は反していく。距離を小さくするというアプローチでは近いという状態にたどり着くことはできない。
近いということの価値はそうであるというところにはない。そう思うというところにある。しかし、このことを性急に「事実にはなく想像にある」とは言わないでおく。そういう問題ではないからだ。近いと思えるかどうかはそれぞれの主語にとって何よりも大きな事柄である。それを事実ではないと言うことは不可能だ。
本当は近いと思いたいだけなのに、近いと思うためには物理的に近づくしかないとしか思えない人がいるとすれば、その人はかなり低いところに限界を持っているということになる。物理的な距離を少なくするという働きかけをいくら重ねても、どこかの段階で近いと思わなければ近いということにはならない。そして物理的に近づくということは、多くの部分を偶然に左右されながらもかなり簡単にできてしまう。
大まかに見たときには、物理的に近いということは重要である。重要というよりは前提条件といってもいい。しかし、近いということについて「より近く」と追求する過程では条件に左右されない部分をも細かに見ていくことになる。
日記82
昨日
昼間に出かけて昼飯を食べる。駅隣接の中華料理屋は意外とリーズナブルかつ客もぼちぼちで、これからも使いやすそう。
歓迎という蒲田にある中華だが結局あまり使っていない。王将のほうがよく行くようになった。
酒を飲みながら帰る。ブルージャイアントシュプリームの10巻11巻を買って帰って読む。長めの昼寝をしてから読書会をする。たけのこの里を食べながらの読書会が終わったのは19時頃だったのだが、たけのこの里のせいでお腹が減らず、食べようとしていた昨日のカレーが食べられない。ほどではないにせよお腹空いて食べるほうがおいしいという意見が出たので夜の散歩をしにいく。薄着で出たところ寒すぎたので一度家に引き返し、二枚ほど追加で着て再度出かける。ブルージャイアントシュプリームの話をして盛り上がる。出かけたついでということでブルージャイアントエクスプローラーの1巻2巻を買う。
『21世紀の道徳』については、動物倫理にあらかじめ興味がある人間が議論で陥るとされているポイントの解説、議論の交通整理が主になっていて、なぜ動物倫理が必要なのかの説得部分がなかったという意見が出た。自分としては動物倫理の考え方にせよ寄付の考え方にせよ、理想としては推進するべき(現実に可能不可能は置いておいて)という意見を持っていてかつそれを疑うことがなかったので、動物食は維持したい(維持されるべき)という主張について考えたことはなかった。ヴィーガンに関心を持って出た意見だったと思うが、本書の中で直接ヴィーガンについて触れてはいないにせよ、それが支持している動物倫理上の考え方についても書かれていない。つまり動物倫理という社会が真剣に考えるべき要素があり…、と言いつつなぜそれを考えるべきかについては書かれていないということになる。
寄付については、それを「やる/やらない」について突き詰めると最終的には「理」ではなく「情」に依ると思う。それで「やる」となったらそこではじめて「理」の出番になって、「どこにどういう配分で」という問題に取り組むことになるのだと思うが、「私は一気通貫で「情」でやります」と宣言する「情」の人がいてしかも彼が強い影響力を持っていた場合、切り替えさせるのはそれなりの困難を伴うのではないかと思う。「「情」ではなく「理」で動いてください」というアドバイスに従った彼が考え直し、結果的に「やらない」に振れることも考えられるのではないか。何でもかんでも仮定できるし考えられるといえば考えられるので、程度問題にはなるだろうし、曖昧な言い方でしかないけれど「それなりになくはない話」ではないかと思う。「生兵法は怪我のもと」とは言わないけども、やっぱり注意して話をすすめるに越したことはない。影響力のある人について影響力があるという理由である程度は賢明だろうと考えるのは危うい。
主権者のことを理性的だろうと考えるのは間違いだ。理によって説こうとした多くの賢者たちは彼らの感情的な横暴によって首を刎ねられてきた。主権者が昔ながらの「ひとりで独裁(できるもん)」ではなく大勢の吹き上がりだったとしても起こることは同じだ、というのは粗雑すぎるストーリーだろうか。
ブルージャイアントシュプリームを久しぶりに読んだけどやっぱり良かった。作者の表情の描き方が素晴らしいというのは本当にそうだと思う。「俺は俺の音を一番に考えたい」という言葉に対して3人ともが「それは自分もそうだ」と言っていたのがよかった。
散歩から帰って食べたカレーがすごく美味しかった。思った以上に作戦がうまくいった。そのうえ比較的早めに寝ることにも成功した。昼寝もしたのに簡単に寝付けてよかった。
春の夜にする散歩は素晴らしいものになることが多いが、この日の散歩はとりわけ素晴らしかったように記憶している。
今日
在宅仕事。新年度のスタートは弛緩したものになる。仕事後すぐにスタバに出かける。『ピンチランナー調書』を読む。最初の一文から良い。重ね合わせについて書かれた以下の文章を読むと、実際に重ね合わせが起こる。読むときに起こる奇妙な事態について書かれてあることが重ねて奇妙に思える。
他人の言葉にちがいなく、それを他人が発した情況も覚えているのに、あれこそは自分の魂の深奥から出た言葉だと感じられる言葉。もっとも言葉がふたりの人間の関係の場に成立する以上、自分の存在こそ、他人の言葉の真の源泉たることを主張しえぬはずはない。
大江健三郎『ピンチランナー調書』
『へんなの』を読んで思ったことでもあるのだけどシンプルでいけるならシンプルで良い。シンプルでいけないときだけシンプルをちょっとのあいだ下げておいて色々やってみて、そこを越えたらまたシンプルに戻ればいい。つまり大事なのはシンプルを下げたり上げたりすることで、一貫性をもたせることではない。一貫して〇〇というやり方は一見シンプルなようだけど、無理も多いし、無理なのに無理に無理ではないようにする過程でどんどんシンプルではなくなっていく方法だと思う。人に何かを喚起したいときに一貫して〇〇というスタイルを選ぶと耳目を集めやすいのだろうけど、人に何かを喚起したいという考え方はあまりシンプルなものではないし、結局のところ持続しない考え方で、十分長いスパンで見れば「弱い」と言ってしまっていい。今より先の時代では「注目して!」と言うことの価値は下がっていく一方だろう。
とにかくできるかぎりシンプルに言うことを心がける。今までもシンプルに言おうとしてきたと思うからその調子で。でも「できればもっと」と思いつつ。それも思ってきたことだからやはりその調子。
誰かについて賢いと思うのは、書かれた何かについて賢いと思うことから始まっている。誰が喋っていても調子の良さから痛快に思うことはあっても賢いと思うことはない。正確には、その場では賢いなと思っても、それが自分が見聞きした賢いの一例として蓄積されていくほどにはならない。賢いという湖には、素晴らしい大量の水がすでに十分注ぎ込まれていて、よっぽどのことがないかぎりそこに滲み込んでいく余地がない。だが大江健三郎もそうだったように、ある一群の文章を読むと、こんなにもスペースがあったのかと驚くほどすいすいと湖に吸い込まれていく。
20230402
日記81
昨日
昼間から渋谷にいく。東急ハンズの横を抜けて代々木公園のほうに向かう。サンクス向かいの入口付近からますます人の量が多くなっていくのを確認し渋谷方面に引き返す。北谷公園でボサノバのライブが観覧無料でやっているのに出くわし、ファミマでビールを買って飲みながらボッサを聴いていく。宮下公園に登って芝生スペースでのんびりしたあと、下に降りてかるくウィンドウショッピング。渋谷駅で解散する。
海外の女性ボーカルが春に負けないぐらい爛漫としてきれいだった。
下北沢に戻りスタバで『芽むしり仔撃ち』を読む。最後3章を一気に読み終わった。展開が急というか受け入れるのに時間がかかる内容を畳み掛けられて考える暇がないうちに終わったのだけど、振り返ってみると「何もしなかった」ことによって、それをきっかけに転がり落ちていったということがわかり、二度恐ろしくなった。村人は悪人ではないのだろうと思うからそれも恐ろしい。悪人でなくともあそこまで悪辣なことができてしまうということ。秩序の維持という名目。
福田村事件に近いような出来事だが、描写が生々しくかつ一面的な見方になっていないのは芽むしりのほう。
ツイッターを見ると元コウテイの下田が「レオ」に改名していた。偶然とはいえわざとのようなタイミング。その名前はやめたほうがいい。
いつの間にかなかったことになっていた改名。もしかするとエイプリルフールだったのかもしれない。レオは芽むしり仔撃ちで撲殺される犬の名前だ。
帰宅後、国崎☆和也『へんなの』を読む。短いのと勢いがあるのとで一気に読めた。むちゃくちゃをやりつつも書きぶりに節度があって良い。全員に勧めたい。あとがきもとにかく馬鹿らしくて素晴らしい。これをいつまでも残すためだけにでも「note」というサービスはいつまでも残ってほしい。
スクロールするというかたちで書かれた文章に参加し、その馬鹿らしさを指からも味わうという文芸上の新しい遊びだった。
ブライトンの試合を見る。三笘はキーパーからのフィードに抜け出して華麗にループシュートを決めていた。対ブレントフォードでのチームの決め事だったんだろうけど確実に遂行できるのはやっぱりすごい。最終スコアは3-3。緊迫感がありつつもオープンな展開でプレミアリーグらしい良い試合だった。あとウェルベックがキレキレで嬉しかった。
20230401
日記80
ブログ移行のお知らせ
当ブログ だから結局 は、Wordpressに高い月額利用料を払い、以下のURLに移行することになった。 だから結局 ぜひブックマークして、日に何度もチェックをお願いしたい。